砂の上の1DK【増量試し読み】

枯野瑛/角川スニーカー文庫

プロローグ/舞台装置の前口上

 今年もまた、夏が来た。


    ◇


 梅雨は明けた。

 けれど、湿度も不快指数もいっこうに下がろうとしない。肌にまとわりつくような濃密な空気。その中を泳ぐようにして行き交う人の群れ。

 も、その中の一人。

 身にまとうは白いワンピースに淡い色のカーディガン、いかにも上品なお嬢さんといった感じ。ふだんはあまりしない格好だ。似合う似合わないで言えばまあ似合うほうだとは思うのだけど、単純に、あまりわたしの趣味じゃない。そして、趣味ではない服をわざわざ着る理由も──つまりはその格好を見せたくなるような相手が、いまは特にいない。

 日傘越しとはいえ、強い陽光の下を行けば、ただそれだけで体力が削れていく。慣れない服装であればなおのことだ。何度も日陰で足を止めながら、歩いた。

 色々な種類の蝉が、それぞれに力一杯の大音声で鳴いている。

 それが、わたしをわらっているように聞こえてくる。

 こんな暑い中、どこへ行こうというのだか。おまえの向かう先に、あの場所はもはやない。あの人ももういない。あの時間は返ってこない。夏という季節だけを重ね合わせて、ただ思い出に浸りたいだけなのか、と。

 もちろん、そんなはずはない。

 蝉は蝉だ。彼らは彼らの理屈で大声を張り上げていて、わたしのことなど気にしてもいるまい。ゆがんで聞こえているのは、すべて、わたし自身のせい。この心の中にある、おびえのせいだ。

 ──ええ、そうよ、その通りよ。

 妄想でしかない蝉のちようしように対して、わたしは心中で胸を張る。

 言い訳はするまい。確かにわたしはこれから、過ぎ去った時間に未練がましく手を伸ばしながら、ただ思い出に浸りにいくのだ。

 誰に急かされることもなく、それでも少しだけ速足で。


 白い石造りの階段を上る。

 名前も知らない街路樹が強く香り、少しむせそうになる。

 古びたタイルが敷き詰められた坂道を行く。

 日焼けした小学生の集団とすれ違う。緑の香りに、一瞬、塩素の刺激臭が混ざる。

 やたらと古びたタバコ屋の角を曲がって、そしてその先に。

 ──ああ、

 それは、なんてことのないマンションだ。

 一階あたりの世帯数は四。八階建て。建てられてからけっこうな年月が経っているはずだが、妙に真新しく見える白い壁。一階にはオープンテラスの小さなカフェが開いているが、駅から距離のある立地のせいか、あまり客は入っていない。

 熱に浮かされたような足取りで、わたしはそこへと入っていく。

 共用エントランスにかぎはかかっていない。階段へ直行。『共用スペースは静かに使いましょう』の貼り紙を横目に駆け上る。疲れる、ちょっと休憩。また上る。

 508号室の扉の前に立つ。

 この扉の向こうの空間を、わたしは知っている。調度の少ない部屋。薄緑色のカーテンに覆われた大きな窓。その向こう側に広がるみね市の街並み。さらにその向こうには海が見える。壁際には背の低い戸棚がひとつ。その上には丸い金魚鉢。ゆらゆらと揺れる水草と、二匹の赤い金魚。陽のあたる場所にが座っていて、ゆらゆらと水草のように身を揺らしながら、の背中を見ている。

 息を吸って。吐く。ドアベルへと指を伸ばしかけて──

 やめる。

 指を引っ込める。

 扉から、少し距離をとる。


 この扉の向こうには、行けない。

 わたしには、その資格がない。


 蝉が鳴いている。あざけっているように聞こえる。

 あんたたちの指摘は正しい。わたしの向かった先に、あの場所はもうない。あの人もいない。あの時間も返ってこない。このわたしが再び取り戻せるのは、幾度でも巡ってくる、夏というこの季節ただひとつだけ。

「……あーあ」

 嘆息をひとつ。

 この場所に立って、わたしが部外者であるという事実を改めて突きつけられた。

 そうだ。わたしは彼らを知っている。あの夏を知っている。けれどそれは一方的な関係。彼らは、わたしが彼らを知るようには、わたしのことを知らない。

 彼らにとってのわたしは、超至近距離の部外者だ。彼らの物語におけるわたしは、登場人物などではなく、純粋な舞台装置というか、書き割りのようなものだった。彼らが苦しかったときも、笑っていたときも、悲しんでいたときも、二人だけで通じ合っていた時も。ずっとそばにいた。そして、なにもできなかった。


    ◇


 プロローグという言葉がある。

 もともと、演劇の前口上のことを指す言葉であったらしい。物語の本編が始まる前に、口上役の人間が観客に向かって、「これから始まる物語の舞台はこういう場所で、こういう登場人物が出てきて」と説明をするアレだ。

 そして、作中において狂言回しのポジションにある人物が、その役を務めることが多いらしい。物語の本筋には直接関わらず、それでいてその中心の近くで多くを見てきた誰かが、解説にはふさわしい……といったところか。

 そして、思うのだ。

 あの日々のことを、ひとつの物語としてくくるのならば。一人の不器用な青年と、一匹の賢い白ネズミもどき。あの一人と一匹が、金魚鉢のようなあの部屋で過ごした夏のことを、回想しようとするのならば。

 そこにおいてプロローグ役を務める資格があるのは、きっと、わたしだけだろうと。

 だからこそ、いま、この場所で──

 一人と一匹が去ったこの場所で、回想を始めようと思う。

 観客などいなくても構わない。一人で、思い出に浸ろうと思う。


 あれは、一昨年の八月。

 暑い、夏の夜のことだった──

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