第2話複製と移植
戦後まもなく、ある国が脳内の一部にある情報を複製する技術を開発した。複製したとしてもそれが完璧なものであるかは確認のしようがない。そんな技術であったため、研究者たちには当時見向きもされることなくあえなくお蔵入りとなった。
それが何十年も昔の話である。
医療の発達した現代では、当時の使いどころのないその技術が見直されている。
複製された脳内情報が別個体の脳へ移植することが可能である。ある学者によってそれが証明された。
複製されたのは人間の脳のほんの一部、記憶を貯蔵しておく部分であった。複製を移植された個体、この場合は人間である、彼は自分の記憶と複製された記憶を混同していた。 しかし、はっきりと他者の記憶を認識していた。
複製された記憶は殺人事件の犯人の記憶だった。
犯人は長い期間逃亡を続けていたが、事故によって警察に捕まることとなった。捕まってしまえば身元確認は逃れられない。犯人は指名手配されていた。
殺人事件を起こした犯人を警察は躍起になって探していた。だから、事故によって犯人が確保されたことで事件も終息されるかと思われていた。残すは被害者の遺体の場所のみとなった時であった。
犯人が死亡した。死亡原因はもちろん事故での怪我である。
打ち所が悪かった犯人には一片の同情もされなかった。しかし被害者の遺族は激怒した。被害者の遺体はまだ見つかっていなかった。
遺体を遺棄した場所を知っていたのは犯人だけだったのだ。
時間だけが過ぎていった。これ以上事件は進展しない。そう思われていた時だった。
複製記憶の移植実験が許可された。
犯人は死亡前に複製実験の検体として処置を施されていた。その複製記憶を他者に移植し、遺体の場所を特定することとなった。
結果として、複製され更に移植された記憶は数時間で消えた。移植された脳内で複製記憶は消滅したのであった。
しかし限られたこの数時間の間に、警察は犯人と全く無関係であった人間から遺体の場所を聞き出すことに成功した。
これが数十年前の話である。
近年、この記憶を複製し他者へ移植するという技術は飛躍的に進化した。主に良い方と悪い方の両極端の犯罪関係で重宝されているようではあった。
しかし一般人にとってはやはり使いどころのない技術である。簡易的に利用できるものでもないということもあって、今回も廃れていくかのように思われた。
この時点では移植された方の負担が大きすぎた。そのため記憶を複製することは認められていたが、移植する、移植されることは例外を除いて認められていなかった。
個人情報を扱うことと同様に、個人記憶を扱うことは繊細で重要なことだった。特に国の王族や政治家、芸能人などの記憶複製は厳重に取り締まられた。
これは複製技術の向上と共に保存技術が向上したためでもあった。今後何らかの形で記憶が複製され、公開されるかもしれないという可能性を危惧した結果である。
一部の好き者は金を注ぎ込んで自分の現在の記憶を複製した。
いつか、誰かが自分の亡き後に記憶を見つけてくれる。そんな期待を彼らはしていた。
記憶というものは、それを見てきた者の物である。単純な事実だけではなく、見た者の視点と感情で印象が変わる。
誰かの視点で誰かの記憶を見る。それは、第三者が別の誰かになるということなのだろうか。それとも、本を読むように意識を誰かと同一視しているだけなのだろうか。
とにかく、高額な資金を払ってまで複製された記憶を残そうとした人たちには共通した想いがあった。
自分は確かにここにいた。存在していた。それをどこかに、誰かの中に残したかった。
彼らはみんな、自分のことを忘れ去られたくなかったのである。
さて、更に時が経ち現在の話となる。
世界では相変わらず戦争が起こっている。人は物として扱われ、一瞬前には笑っていたのに一瞬後にはただの肉塊となる。
「自由のために!」「安全な世界のために!」「人としての権利を!」
声高に叫びながら、人は同じように叫ぶ目の前の人という物を壊そうとする。
叫ぶ言葉はその人の本意なのだろうか。それはわからない。顔が笑っていても、泣いていても、怒っていても、本当の意味で目の前の人が何を考えているかなんて誰にも解らないのだ。
人の価値とは何なのだろうか。人の価値とはどれくらいのものなのだろうか。いったいいくらで人の命を買えるのだろう。
人をはかろうとすること自体が間違っているのではないだろうか。
命と何かを天秤に乗せて計ることそのものが間違っているのではないだろうか。それに気づけないのなら、命の重さはどんなものとでも釣り合ってしまう。
大抵の生き物はみんな、自分の命が大切だ。自分の命と釣り合う、もしくは自分のものより重い存在と出会ったとき、人は自分の命を簡単に投げ出せるものなのだろうか。
とにかく、知っているように「命を大切に」と言いながら簡単に死を選ばせるような世の中は続いていた。
そんな世界に生きる人たちの心の中がどんな風なのか、それは誰にもわからない。そこに生きる本人たちでさえもだ。
世界はこのようにどこにでもある形で存在していた。
ところで、最近こんな謳い文句でとある広告が流れる時がある。
『人生でやり残したことはありませんか?』
あなたの記憶を誰かに引き継ぎ、成せなかったことを代わりにしてもらいましょう!
その広告には連絡先と企画の名称が載っている。
プロジェクト、レンタル・ドール。
それが企画の名前だった。
その広告の番号に連絡をすると、詳しい内容が記載されたメールが送信されてくる。同じ名前でいかがわしいビジネスもあるにはあるが、連絡後に送られてくるメールの詳細で間違いかは判断できる。間違った場合は諦めて勧誘を断るしかない。
メールにはいくつかのコースと料金が設定されていることと、企画の大まかな流れがざっくりと記載されている。
この企画で利用されている技術こそ、あの記憶の複製と移植である。
最近になると複製すること自体は簡単に行える。いくつかの料金コースがあるのは記憶を保存する期間の違いであるらしい。
記憶を複製すること自体は簡単でも、長期間保存するには相応の設備が必要になる。つまり、高い金を払えばそれだけ長い期間記憶を保存できますよ、ということなのである。
余談ではあるが、記憶の更新自体は技術の進歩によって可能である。
記憶は瞬間的に塗り替えられている。古いものから新しいものへ。困難であるのは一つの記憶を保持し続けること。それは頭の中にあっても、頭の外に出しても変わらないことだ。
それを利用して、比較的安価な装置で記憶を保存はするが、何度か更新するという作業を経ることで記憶自体の劣化を抑えるということも可能である。
また、一括払いだけでなく積み立て払いという支払いが可能ということもこの企画の特徴ではあった。この場合は引き落としである。
そんな企画はなかなかに高価な「サービス」ではあった。高価ではあったが一番安いサービスだと学生でも手が出せる程度の価格設定。積み立て払いの場合も同じ程度の金額である。
好き者はいつの時代であっても「おもしろそう」な商品を試そうとする。
レンタル・ドールの企画は好評であった。
さて、ここまでの話であったらこの企画はただの夢物語となる。
いつか誰かに自分の記憶を移植して、それを共感してもらう。そんな話で終わる絵空事だ。消費者はただの話で終わるそれに汗水流しながら働いて稼いだ金を注ぎ込んだりはしない。
この企画には続きがあるのだ。
保存された複製記憶は「ドール」と呼ばれる検体へと移植される。このままでは検体の意識の方が優ってしまうため、複製記憶は徐々に消失されていく。
これではぼったくりではないか。
そんなことを言う人はそもそもこの企画に金を払ったりはしない。
ドールは最終的に顧客の願いを叶えるように動かなくてはならない。そのために記憶を移植するのだ。では、誰がドールをそのように動かすのか。誰が願いを叶えるのか。
それは複製される元の記憶の持ち主。つまり、金を払った顧客そのものである。
金を払ってまでわざわざドールに願いを叶えてもらうなら、始めから本人が叶えればいいではないか。そう思うだろう。
しかし、このビジネスの売りは「人生を終えた後でやり残したことを叶える」というものである。ドールに複製記憶を移植するのも、移植されたドールが行動するのも、全て顧客が亡くなった後なのだ。
むしろ、亡くなった後でなければ複製記憶を移植する意味がない。
ドールには複製記憶を移植するのと同時に、あるものを移植する。それは自我である。
自我は生きている間にしか機能しない。逆に言えば生きている体に繋げれば機能するのだ。
自我はそれだけがあっても意味がない。記憶に基づいて自我は機能し、行動するのだ。
複製記憶と自我を移植されたドールは顧客そのもののように動き出す。
保存状態によって複製記憶と自我の消失までの時間は変化した。ドールが「顧客」となっていられる時間は本来なら一日ももたない。
ドールを「顧客」の状態で安定させるために数種類の薬を投与する場合もあるが、それもまた料金の中に含まれる。これによって長くて数年の期間を、複製記憶と自我を所持したままドールは「顧客」として生活することになる。
後は自然と複製記憶と自我が消失するまでの時間を自由に過ごせばいい。
これがレンタル・ドールというサービスである。
記憶を複製するタイミングも、支払いをするタイミングも顧客の自由である。しかし、これはあくまで「死んだ後の」サービスだということを忘れてはいけない。
自我は顧客が亡くなった時に直接取り出さなくてはならないからだ。
記憶はいくらでも複製できる。
しかし、「私」も「あなた」も完璧な複製はできない。クローンもコピーも、それぞれ「私」でも「あなた」でもない、独立した別の自我を持っているのだ。
だから、たとえこのプロジェクトを聞いて、そんなのおかしいと少しでも思うのなら、精一杯生きて思い残すことが無いように生きてほしい。
このレンタル・ドールという企画は、あなたの亡くなった後にあなたを継いだあなたのようなものに人生の残った僅かなおまけの時間を託す。そんなサービスなのだ。
さあ、今日も一体のドールが「誰か」として目覚めるようだ。
ちゃんと複製記憶に基づいて自我が働いているか、確認しようではないか。
では、この質問に答えてください。
「あなたの名前は?」
最近、どこかでこんな噂が流れている。なかなかに報酬がいいバイトがあるそうだ、と。そのバイトの名前はこう呼ばれた。
「ドール」
プロジェクト、レンタル・ドールの「ドール」の検体になってみませんか?
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