第2章『たゆたう蕾』

1話

 懐かしい気配に、シャムはスッと目を細めた。

 子どもの頃は人懐っこく、誰にでも笑顔を振りまくその姿は動くぬいぐるみのように可愛らしかったというのに、思春期を迎えたことですっかり反抗期に入った弟分の不機嫌を隠そうともしない顔に思わず頬が緩んだ。


「見ない間にすっかり男前に磨きがかかったんじゃないか?」


 笑いを含ませたシャムの声音に、シュラの眉間に刻まれた皺がさらに深くなる。


「ししょ――シャムさん」


 ぎろ、と睨みを効かせた目元は、シアンを諌めているときの桔梗と瓜二つだ。


「ごめんごめん。冗談だよ」


 両手を上げて降参の意を示したシャムに、シュラの表情が僅かばかりに和らぐ。

 レオンから託された書類を渡すと、穏やかだったシャムの雰囲気が一変した。

 座っていた椅子が倒れることも気にしない勢いで立ち上がる。


「すまない。少し席を外すね――桜花」


 シャムの呼び声に、奥の部屋にいただろう桜髪がひょっこりと顔を覗かせた。


「あら、どうしたの? そんなに怖い顔をして」

「じいちゃんと話したいことができた。少しの間、彼らのことを頼むよ」

「……分かったわ」


 シャムはもう一度小さな声で「すまない」と言い残すと、突風のような俊敏さで部屋を飛び出していった。

 残された一同はといえば、あまりの速さに目で追うことも叶わず、テーブルの上に散乱した書類と、にこにこと朗らかな笑みを浮かべた女性とを見比べることしかできない。


「あ、あの、桜花さん。師匠は一体どこへ?」

「サパン様のところよ。このあとの方針を相談しにね」

「そう、ですか」

「あの様子だと、暫くは戻ってこないと思うわ。――みんな、お昼はまだでしょう? 良かったら食べてちょうだい」


 桜花はそう言うと、奥の部屋へ一旦戻り、大きなお盆にこれでもかと豪華な料理を乗せて戻ってきた。


「あ、手伝います」

「ありがとう。でも、平気よ。少しくらい動いた方がお腹の子にも良いとユタ様に言われているの」


 ラエルが腰を浮かせようとしたのを、桜花が笑顔で制する。

 彼女のお腹はまろい曲線を描いて、大きく膨らんでいた。

 愛おしそうにお腹を撫でる彼女の眼には、人とは違う縦に鋭い瞳孔が走っている。


「予定日は今週末でしたっけ?」

「ええ」

「楽しみですね」


 湖畔のような緑を含んだ濃い青色の瞳が、桜花のお腹を真っ直ぐ射抜く。

 その優しい視線が、シアンと桔梗にそっくりで、桜花は思わず口元を綻ばせた。


「ありがとう。頑張って元気な子を産むわね」

「はい! あ、でも、お産って大変だと聞いたので、落ち着いた頃に伺わせてもらいます!」

 

 シュラがにっこりと笑って言う。

 その笑顔に桔梗のそれが重なって、桜花はますます笑みを深くした。


「そのときは、ぜひ抱っこさせてください!」

 

 ジェットがシュラの肩を叩きながらに言えば、そのすぐ後ろで「やだ~~~!」と黄色い悲鳴が上がる。


「桜花さん、これすっごい美味しいです!」

「おいしい」


 振り返ったシュラの視界に飛び込んできたのは、桜花が持ってきた料理を口いっぱいに頬張ったエルヴィとラエルの姿だった。

 普通こういうことは女子の方が興味があるのではないのか、とシュラとジェットが顔を引き攣らせている隣で、桜花は瞬きを繰り返した。

 次いで、堪えられないと、立派な牙を晒しながら鈴の音が転がるような笑い声を上げる。


「ふふっ。嬉しいわ。たくさん作ったから、お腹いっぱいになるまで食べていって」

「はい!!」

「お前らなぁ~~! ちょっとは遠慮しろよ! それでも女子か!」


 久しぶりに賑やかな食卓を囲むことになった桜花は、大きなお腹を優しく撫でると、飛び出していった己の夫(つがい)のことを思い返した。

 額に滲ませた汗、それから激しく脈打つ心臓の音。

『血の契約』で繋がっているシャムと桜花は、互いの全てを共有している。

 冷たい何かが頸を張っていく感触に、咄嗟に手を伸ばすも、そこには何もない。

 自分が流したものではない――それはつまり、シャムが冷や汗を流すほどの何かがあったということだ。

 胸中を占める嫌な予感に彼女が顔を顰めた姿を、シュラだけが視界の端に捉えていた。



◇ ◇ ◇


 サパンとの話し合いを終えたシャムが戻ってきたのは、それから二時間後のことである。


 少し疲れた様子で戻ってきたシャムに桜花が駆け寄ると、彼は彼女の耳元に顔を寄せてぼそりと何事かを囁いた。


「……祠守の様子が思っていたよりも良くない」

「そう」

「だから、じいちゃんたちと一緒に避難してくれ」

「シャム」

「頼むよ、桜花。君の身に何かあったら、僕はきっと耐えられない」


 困ったように眉根を寄せたその顔は、子どもの頃から何一つ変わっていない。

 桜花はグッと歯を食いしばると、弱々しく首を横に振った。


「貴方がここに残ると言うのであれば、私もここに残ります」

「桜花!」

「……約束したじゃない。何があっても、もう二度と離れたりしないって」


 シャムの息を呑む音が部屋の中で小さく反響を繰り返した。


「忘れてしまったの?」


『血の契約』を結んだとき、互いの感情が流れてきた。


――ずっと側に。

――離れたくない。


 二人の想いが一つになったことで、今こうして命を繋ぐことができているのを思い出し、今度はシャムが歯軋りする番だった。


「分かった。それなら、彼らにも手伝ってもらおう」

「ええ。それが良いわ。――そのために、レオン様もここに彼らを送ってくれたのだろうし」


 メガネの奥で光る青い瞳を思い出し、シャムが小さく笑い声を漏らす。

 そんな夫の様子に、桜花は思わず彼の頬へと手を伸ばした。


「やっと笑顔になった」

「え?」

「ずっと怖い顔をしていたから……。ねえ、みんな?」


 奥の台所から聞こえなくなっていた水音に、桜花は早々に気が付いていた。

 バツの悪そうな表情で柱に隠れていたらしい子どもたちが、次々に顔を見せる。


「す、すみません。覗くつもりはなかったんですけど、」

「声を掛けるタイミングを見失ってしまって……」


 異口同音で唱えられた謝罪の言に、シャムはカッと頬に血が昇るのを感じた。

 

「んんっ……。それでは、これより君たちに任務を与える」


 下手な咳払いで無理やり誤魔化すと、レオンから預かってきた書類とは別に先ほどサパンの家で記入したばかりの真新しい調査報告書をシュラに与えた。


「本来であれば、僕と祠守の二人で調査に出る予定だったが、祠守が体調を崩してしまったため、君たちには周辺の調査を頼みたい」

「分かりました」

「僕と桜花、それから国境巡回隊の騎士で森の民の避難誘導を行う。異変を感じたり、何か見つけたりした場合には必ず通信を入れること」

「分かりました!」

「では、これより十分後、任務を開始する――以上解散!」

「はっ!!」


 数年前までは自分が指示を出す側になろうとは夢にも思っていなかった。

 それが今では、桔梗の跡を継いで第二小隊の隊長を務めている。

 彼女と団長であるシアンの息子シュラのことは、生まれる前から知っている上に、一時期は魔法の指南も務めたことがあった。それ故に、未だにシャムのことを「師匠」と呼び、慕ってくれている。その少年が、かつての自分と同じように騎士を目指している姿を見ると、胸の奥がじんと熱くなった。


「……シャム」


 桜花がシャムの袖口を引っ張る。

 すっかり肌に馴染んだ赤色の軍服は、恩人から譲り受けたそれから随分と形を変え、大きくなっていた。


「大丈夫。君も、この森も、絶対守ってみせるよ」


 抱きしめた桜花の身体から伝わってきた熱に、シャムはぎゅうっと瞼を強く閉じる。

 脳裏に浮かんだのは、あの日――自分と桜花を助けてくれた二人の騎士の後ろ姿だった。



◇ ◇ ◇


 シャムと別れたシュラたちは、かつて桜花が住処としていた祠守の木の周辺を調査していた。


「この辺りが一番、魔力の枯渇が激しいな。見ろよ、これ」


 そう言ってジェットが示したのは、葉が落ちて、カラカラに干上がった木の枝である。


「それだけじゃないわよ。ほら」


 次にラエルが見つけたのは、息苦しそうに横たわる小さな動物たちだった。

 今にも息絶えてしまいそうなそれを見ていたシュラの背に悪寒が走る。


「……全員ゆっくりと後ろに下がれ。絶対こっちを振り返るなよ」


 ジェットとラエルはシュラに背を向ける形で辺りを散策していた。従って、その異変に気が付いたのは彼と、その隣で辺りを見渡していたエルヴィだけだ。


「シュラ」

「大丈夫だ。俺の傍から離れるな」


 心配そうにシュラの腕を掴んだエルヴィに弱々しく微笑むと、シュラは深く息を吐き出した。


「ちょっと、二人して何なのよ!? 後ろに何かいるの?」

「――ああ。ナーガの大群がそこに」


 不穏な空気を感じ取ったラエルが、シュラの言葉を聞いて「はあ!?」とこれまた悲鳴に近い奇声を上げる。


「落ち着け。アイツらは視野が狭い。このまま静かに移動すれば、襲ってくることはない、はずだ」


 言葉尻が小さくなっていくシュラを振り返らずに、ラエルが唇を強く噛み締めながら地団駄を踏んだ。


「学年主席のくせに、どうしてそこは自信がないのよ!」

「ラエル、落ち着け。シュラの話を聞いていなかったのか? 音を立てるな。人の声だと分かった途端に襲われるぞ」

「う、ぐ……」


 ジェットが機転を利かせて、彼女の口を手で塞ぐも、これだけ騒いだあとだ。気付かれないなんて都合の良いことがあるはずもなく、一匹のナーガがシュラたちの方を見て首を傾げている。


「……気付かれたな」

「だよなぁ」


 呆れたようにジェットと視線を合わせると、シュラは背負っていた長刀をゆっくりと引き抜いた。


「エルヴィを頼む」

「ああ。無茶するなよ」

「分かっているよ」


 利き手で柄を持ち、もう片方を刃に添える――東の国に古くから伝わる構え『八咫烏』を取ったシュラの隣で、エルヴィが身動き一つ取らずに迫りくるナーガを凝視している。


「エルヴィ、ジェットたちの所へ行け」

「でも、」

「いいから」

「……やだ!!」


 先程までのおとなしかった様子が嘘のように駄々っ子が復活した彼女に、シュラの額に青筋が浮かぶ。


「良い子だから、言うことを聞け! お前に構っている余裕はないんだ!」

「やーだー!!」


 エルヴィの髪に不自然な風が纏わりつく。

 思わず、後退ったシュラの背後にはナーガが音もなく迫っていた。


「エルヴィ、シュラのつがい! 離れない!」

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