芒種【partⅤ】

 海斗は三年生の部員たちを置いて靴を履き替えて、足早て駐輪場へ向かった。自転車にまたがった。おぼつかない気持ちの中、自転車を漕ぐ。

 この気持ちでもやもやしたまま家に帰りたくない。そう思った海斗は家の近くの土手に向かう。海斗はいつもより重く感じる自転車のペダルを思い切り漕ぐ。海斗が土手に着いた時の時間は午後三時だった。まだ、日は高く強い日差しが海斗に降り注ぐ。海斗は自動販売機で炭酸飲料を買い、高架下に自転車を止めて手すりにつかまりながら何も考えず川を眺めていた。

 高架下の影に揺れる川は穏やかに流れる。お世辞にも綺麗とは言えない濁水だったが、時折魚が水面を突き抜けて跳ねる。海斗が流れる川の先を見ると、太陽の下に晒された汚水はさんざめく光を浴びてきらきらと輝きを放ちながら進んでいく。

 海斗は目の前に広がる影に肩を落とす。ただの一部員で顧問とただ先生としての付き合いだけであれば顧問が生徒に何かちょっかいを出していようがただの噂話やスクープで終わる。三年生の部員たちのように耳に入る噂話を吹聴して一緒に面白がっても構わない。だが、海斗に取とって顧問は恩人だ。貧乏で金のない俺から学生の楽しみを享受させようと、身を切ってくれた大恩がある。

 海斗は貧乏であるがゆえに金の重さを理解していた。人生、金が全てだとは思わないが金によって救われる人や前に進める人がいる。それは事実だ。海斗は恩師の抱える闇を垣間見た気がしてどうも落ち着かない。

 海斗が川を眺めていると

「海斗。久しぶり」と声をかけてきた男がいた。

 海斗の中学の同級生、真司だった。

 一八〇センチの長身に長い金髪を後ろにまとめて結び、細く整えた眉毛は厳つい雰囲気を醸し出し、黒いロングTシャツにからし色のベストとニッカポッカ、靴の形をした黒いサンダルを履いていた。

 その風貌は高校三年生と同じ歳とは思えないほどの貫禄を放っていた。

真司は「川なんか眺めて、嫌なことでもあったか」と真剣な眼差しで海斗の隣に立った。

「なんでもねえよ。なんか懐かしくなってここに戻ってきちまったんだよ」

「今日は学校か?」

「そう。水泳部はプール掃除しなきゃいけねぇんだ」

 真司は腹を抱えて笑った。

「中学の時、むかつく先輩ぶん殴って池に突き落としたやつがプール掃除かよ。お前も変わったな」

 真司が海斗をおちょくった。

 海斗は懐かしい親友との再会に気持ちが高まり、笑みが漏れる。

「うるせぇよ。これでもちゃんと高校行ってんだから。ほっとけ」

 海斗も笑いながら言葉を返す。

 海斗と真司は中学の時、札付きの悪だった。海斗は喧嘩っ早く決して大きくない一七〇センチの身長で気に入らない先輩や同学年を見境なくのしてきた。気づけば地元で名前を知らない人はいないレベルの喧嘩自慢になっていた。片や真司も仲間思いの性格から海斗や同級生の身に何か起きようものなら、すぐに駆けつけて必要があればやり返すようなヤクザな男だった。

 東海中学の二人組といえば知らないものはいない。だから、海斗が高校に入学した時は先輩や同級生たちが海斗の教室に押し寄せた。名を馳せた喧嘩自慢はどんな男かと皆、興味津々だったようだ。でも、今ではそんなことを気にする生徒はいなかった。

 海斗はもともと進学する気など毛頭なかったが、中学二年生の冬、父と高校進学を約束した。


 海斗の家族は裕福で父は大手の会社役員、母は専業主婦だった。海斗の兄弟は四人いて、兄二人、弟二人の五人兄弟で男兄弟しかいない。

 兄弟は父のことが好きだった。休みの日にはよく一緒に出掛けていたし、勉強も教えてくれた。仕事が終わり夜遅くに家に帰ってきても、兄弟の寝室を回って小声で「おやすみ」と言ってくれる。

 時には厳しい一面もあり、海斗が友達と喧嘩をして家に帰るとこっぴどく叱られたものだ。本気で怒っている父の眼差しは熱く、感情的になっているというよりも、真剣に向き合ってくれているという感謝の方が大きい。

 そんな父に育てられた海斗は父に強い憧れを持っていた。

 しかし海斗が小学校五年生の時、海斗の家族は離婚した。きっかけは父の浮気だった。

 仕事も私生活も熱心で器量のある父親のことだ。きっと父に寄り付く女はたくさんいる。浮気の一つあったところで海斗は驚きもしない。

 兄弟たちもさして気にしている様子でもなかったが、母だけは違った。父の浮気を目の敵にし、謝罪する父に取り合うこともなく、母は離婚届と毎月養育費や生活費を払うといったことを細かく記載された紙切れにサインをさせ離婚した。

 離婚してからというもの母は壊れていった。働きもせず、たんまりもらった養育費をブランド物に使い込み、夜はふらふらと遊び回っていた。きっとホストクラブにでもつぎ込んでいたのだろう。子どもの面倒など全く見ない。

 海斗が高校生になり、五十代後半になった今もほとんど家にはおらず子どもたちにはわずかばかりの金を机に置いて出てゆく。父は学費を直接学校に振り込んでいるから、兄二人は高校を出て大学へ進学。家には帰ってこない。アルバイトの給料と奨学金で一人暮らしをしているようだ。

 海斗が競泳水着を買う金やジャージを買う金がないほど貧乏のは母が生活費を使い込むせいだった。早く家を出て大学へ行きたいと思っている海斗だったが、二人の弟はまだ小学三年生と四年生。大学など行って二人きりにしてしまうのは流石に不安すぎる。

 ある時、海斗は母に隠れて父に会っていた。離婚した時に渡されたメモに電話番号が書かれていてそれを大事に持っていたのだ。海斗が携帯電話を持ち始めた中学二年の冬に恐る恐るメモに書かれた電話番号に連絡したのが始まりだった。

 海斗が電話をすると「もしもし」と父の太く深い声が聞こえた。

「俺だよ。海斗だよ」

「そうか。海斗かっ……」

 電話越しに父の涙声が聞こえてきた。鼻を啜りながら

「家族みんな元気か?」と心配する父の声に海斗は安心し ―まだ父は家族のことを想ってくれていたんだ―

 父は高額な金を払わされて本当は俺たちを恨んでるんじゃないのかと海斗は勘ぐっていた。しかし、その猜疑心を晴らす父の一言で海斗の涙腺は一気に崩れた。

 

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