ベイカー ベイカー パラドクス 弍
自宅の最寄駅の近くにあるデパートの屋上は、夏になると期間限定でビアガーデンが開設される。
お祭りにある様な屋台も出店されている為、近所のファミリー層も多い、地域密着型のビアガーデンだ。
毎年席の確保が難しいため、ビアガーデン開設告知と共に出される席予約に申し込む。
毎年おひとり人様で楽しむので、1人がけか2人がけを予約する。
夕飯も屋台の物で済ませるため、なるべく屋台に近い席を確保した。
うん、今年はまずなずな位置だ。
席に通され、早速ビールを注文する。
辺りを見回すと例年通りの賑わいで、あちこちで大人は乾杯をし、子供は屋台で嬉々とし戯むれている。
私が毎年このビアガーデンを訪れるのは、お酒を飲みながら、この光景を眺めることが好きだからだ。
きっとこの中には、あのクラッシュ上司の様な大人も、仕事に来なくなってしまった彼の様な人もいて。
そんな相対する2人が偶々隣同士の席に腰を掛け、職種も働いている場所も違い、同郷でも何でもない2人が、お酒の力で会話が弾んじゃっている。
かも知れない。
だから好き。
仕事や学校を挟むことで役割を与えられ、その役割に雁字搦めになっちゃって。
自分が人をクラッシュしていることも、心が疲弊していることも気付かず役割を遂行していく。
ここには
役割という鎧を脱ぎ捨てた大人は闊達になり、他人の愚痴さえも受け止めてしまう度量が生まれる。
クラッシュが疲弊の話しを聞いてやるなんて事もある。
かも知れない。
だからこの場所が好きなのだ。
運ばれたビールを喉を鳴らしながら飲む。
またこの1杯目も堪らない。
ジョッキグラスの半分まで飲んだ後、屋台で焼きそばと円盤型のお焼きを買った。
ジョッキ片手にグゥと鳴る小腹を満たしていく。
そう言えば、ストリートピアノならぬ、ビアガーデンピアノが会場中央を陣取っているが、先程から乾杯の音頭しか聞こえてこない。
ストリートピアノでよく見かける、奇抜な着色が施されたアップライトピアノである。
お洒落な歩行者天国や広場に設置されているが、ここはビアガーデンだ。百歩譲っても、雰囲気のある夜景が一望できる場所では無い。
“例年通り”を払拭しようとした企画者の努力は伺える。
ただ置いただけじゃ無い、その奇抜な着色に払拭したい気持ちが表れている。
未だに誰も触れようとしないピアノを眺めていると、何かが倒れる音がした。
自身の席から右側を振り向くと、3席目にいる男が倒れた椅子を起こし、千鳥足で歩く姿が伺えた。
何杯飲んだのだろう。
酒に呑まれていると思しきその歩調で、あのピアノへと男は向かう。
「ん?」
私は目を細め、懐疑的な声を思わず上げた。
あの背格好と横顔に覚えがあるが、まだ半信半疑である。
「おっ、兄ちゃん弾くのか」という声が上がると、皆の視線は会場中央に注がれた。
高揚している男は皆に手を振る。そしてその手をピンと斜め上に伸ばし、お腹の辺りまで振り下ろしながらお辞儀をした。
コンサートや舞台で使われるあのお辞儀だ。
そして、お辞儀を上げた時に見せたその顔は、やはり、見覚えのあるものであった。
つい最近会社に来れなくなった、
上手く椅子に座れず、ずり落ちそうになる姿は見ていられない。
視線を焼きそばに落とし、箸で突ついてみる。
指先にまで酒が回っていそうな状態だ。
鍵盤を弾く余力がその指先に残っているとは思えない。いや逆か?酒の勢いで鍵盤を叩き壊すかも知れない。
それは止めないと!と、顔を上げる。
刹那、流れてきたのは、優しい音色であった。
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