第19話


 ……脳が、ぷつんと音を立てた気がした。

 いや、聞こえた。確かに「ぷつん」と。

 俺の理性、終焉。静かに、そして潔く。

 たった一言で全てを置いていった。


 「ここでしてください」


 この地獄に似た日常(非日常)で、もはや俺の中の「普通」も「常識」も、音を立てて崩れ去っていくのを感じる。気がつけば視界が滲んでいた。涙か、はたまた精神の汗か。


 佐奈ちゃんはと言えば、例のステッキをくるくると回しながら、どこかうっとりした目で俺を見ている。


 「お兄さんって、そういうとこも我慢強くて…素敵です…」

 「やめろ」

 「はい?」

 「その目をするな。人をなんだと思ってる。……ていうかサブも人の拭くの嫌だろ!!」

 「全然大丈夫です。サブは」

 「お、おぉ。……前から気になってはいたが、サブは、その家来なのか?」

 「違いますよ。ある意味……家族です。サブは。お兄さんも……そのうち」

 「やめろその含みのある言い方は」


 逃げ場がない。俺の身体も、精神も。もはやトイレという概念すら消え失せつつあるこの状況で、俺にできる選択肢は、そう、多くない。


 ① ここで理性を保ち続け、内臓の限界を迎える

 ② プライドを捨てて、ギャルの前ですべてを解き放つ

 ③ 現実逃避し、ここを異世界だと思い込む(新章突入)


 ――選べと? この三択から? いや選べるわけがないだろうが!!!


 「……ねえ、どうしてそんなに我慢するんですか?」


 ぽつりと、佐奈ちゃんが言った。その声には、今までにない静けさがあった。


 「お兄さんって……昔から、そうやって頑張ってたんでしょう?」

 「はい?」

 「学校でも、バイトでも、友達の前でも。迷惑かけたくなくて、自分を殺して、空気読んで、黙って我慢してきたんですよね?」


 急に、空気が変わった。


 「……やめろ。お前、なんでそんなこと――」

 「わかるんですよ。うち、そういう人、見てられないんです」


 佐奈ちゃんの手が、そっと俺の腕に触れる。


 「もう我慢しなくていいですよ。ここは、解放してもいい場所ですから」


 ……違う、そうじゃない。


 トイレの話をしてたんだ。これはそういう、泣ける感じの場面じゃない。


 でも。


 なぜか、言葉が出なかった。

 膀胱の危機よりも、俺の奥底にある“何か”が、今、ずるりと這い上がってきた気がした。


 ――俺は、もしかして、泣きたかったのかもしれない。


 「……いいんだな」

 「はい。全部、出していいんですよ」

 「じゃあ……トイレに行かせてください」

 「え、あ、やっぱりそっち……」

 「そこは譲らん!! 尊厳がある!!!」


 そして俺は、涙も鼻水も何もかも垂らしながら、ようやく佐奈ちゃんの手によって拘束具を外された。


 感動の再会、便器編


 ――幕開けである。

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