5
テーブルの上に置いていた毒薬の小瓶が、転びそうになった時にぶつかった衝撃で横になってしまったんだろう。小瓶の中からこぼれ出した水はテーブルの上だけでは収まらず、床にまで滴り落ちていた。
毒薬を飲ませられないとロミオを殺せない。ロミオが死ねなかったら幕は下ろせない。手が、全身が震え出す。
どうにかしないと。でも、どうやって。オレはジュリエットだけど、魔法使いじゃない。過ぎた時間は戻せない。こぼれた水を小瓶の中に戻せない。だけど、どうにかしないと。劇が、お芝居が終わらない、終わらせられない。
どうしよう——。
頭の中が真っ白になる。白のペンキをぶっかけたみたいに。ペンキが己の重さに耐え切れず、ドロドロとしずくみたいに縦の線を描きながら流れ落ちていく。
一瞬の内に、白に侵食される。なにも考えられない。オレは、誰だっけ? なにをしてたんだっけ。分からない。床の木目しか目に入らない。
けれど突然ふわりとした温もりに包まれる。ほうけているオレのことを先輩が、ぎゅっと抱きしめていた。先輩はオレの耳元でそっとささやく、「大丈夫、なにも怖がることはない」
と。
先輩……?
「いつだって君は、こうもたやすく僕を向こう側へと連れて行ってくれるのだから——……」
先輩の体が離れていき、一人その場に立ち上がる。
先輩は客席に向けていた視線をオレへと直し、
「ジュリエット、今まで済まなかった。私のわがままに散々振り回してしまって。でも、これからは君の好きなように生きればいい」
そう言うと先輩は胸元に手を入れ、なにかを取り出した。それは小瓶で、中には液体が入っているようだ。先輩がその小瓶を軽く振ると、ちゃぷちゃぷと音がした。
「最期に一つだけ、君に伝えたいことがある。ジュリエット、僕はそんな君が、ありのままの君が、世界で一番、誰よりも愛おしい——」
そう告げると先輩は小瓶のフタを開け、一瞬も迷うことなく縁に口を付けた。刹那、かつんっ……! と甲高い音が、清閑としたその場に刻み込むように、鮮明に響き渡った。
小瓶に続き、先輩の体が床に向かって倒れていく。先輩……? 一体なにが起来ているんだ。
先輩は、床に突っ伏したまま微塵も動かない。そんな先輩の姿に、ふと昨日のシューイチの言葉が蘇る。「部長、最後は舞台の上で死にたがってるからなあ」って。演劇体質の先輩のことだ。さっきの小瓶の中身は、もしかして。本物の毒薬を……。ああ、先輩のことだ、考えられる。
だけど。
せんぱい……? 先輩、先輩、先輩。ウソだ……。ウソだ、ウソだ。こんなの、ウソだ! だってオレのこと、散々振り回して無理矢理舞台に上げたくせに、勝手に一人死んじゃうなんて。そんなことっ……!
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