第17話

お盆の東京駅は予想通りの賑わいを見せていた。彼がホームへ上ると、そこには新幹線の到着を待つ乗客たちが既に長い列を作っていた。

彼は新幹線に乗り込むと窓側の席へ腰を下ろした。東京の次の上野駅で席はほとんど埋まり、車内は家族連れのはしゃいだ声に包まれた。彼はその様子を横目に見ながら、買っておいた駅弁の蓋を開けた。その中身は彼が決まって買う牛肉弁当だった。彼はそれを頬張りながら、流れ行く東京のビル群を眺めていた。


駅弁を食べ終わると、彼はカバンから小説を取り出して読み始めた。その小説は、既に何回か読んだことのある三島由紀夫の潮騒だった。潮騒は難解な三島文学の中にあって異色とも言える作品だったが、彼はむしろその単純な美しさが好きだった。

新幹線が小田原を通り過ぎた頃、彼は食後の眠気に襲われ始めた。座席から伝わってくる小刻みな振動と窓からの暖かい日差しが、彼の眠気を段々と増幅させた。


彼はまどろみの中で、潮騒に描かれた美しい島に思いを馳せた。その美しい島で何も考えず無心で生きていたら、今の彼のように思い悩む必要なんてないかも知れない。彼の中にはそんな期待があった。そしていつの間にか、彼は大自然の中で生きる夢を見ていた。


ふと彼が目を覚ますと、新幹線の車内は先ほどよりずっと空いていた。天井からのアナウンスが米原駅が近づいている事を彼に告げていた。彼は半分寝ぼけた頭のまま、慌てて棚から荷物を下ろした。


敦賀駅で特急しらさぎを降りてホームに立つと、東京よりも幾分か涼しい風が彼の頬に当たった。

彼は駅前でタクシーを拾い運転手に叔父の家の住所を告げた。窓の外に見える商店街は一年前と変わらず、不思議な安心感を彼に与えてくれた。


家に着くと、叔父夫婦が彼を温かく迎えてくれた。

「よく来たな。まあ、ゆっくりしていってくれ。」と言って、叔父が彼の肩を叩いた。

「はい、お邪魔しますー。」と答えて、彼が何気なく叔父を見ると、去年よりもさらに薄くなってバーコード感が増した頭に目がとまった。

「どうかしたか?」と怪訝そうな顔で叔父が聞いてきたので、

「いや、何でもないです。」と答えて、彼は荷物を調べるふりをした。

横で叔母が笑いをこらえていた。


他の親戚は次の日に来ることになっていたので、家はがらんとしてとても広く見えた。畳や柱の傷み具合が、この家が刻んできた歴史を静かに示していた。庭からは遠くの方に日本海が見えて、彼の中にも田舎へ帰ってきたんだなという実感が改めて湧いてきた。


「これ、覚えてる?タクが昔身長を測った時の。」と言って、叔母が居間の柱に刻まれた傷を指さした。

「そんなことあったっけ?」と言って、彼は柱の前に立った。

その傷は今では彼の胸のあたりの高さしかなく、時間と共に消え去りそうになっていた。

「タクもだいぶ背が伸びたわよねえ。」

「まあ、確かに伸びたみたいだね。」と彼は答えた。身長は、でも心は成長したんだろうか?と彼は自分自身に問いかけた。


その時、神宮球場で松岡さんと話した時のことを彼は思い出した。

自分が大人になるなんて信じられない、と松岡さんは言っていた。

本当にその通りだ、と彼も思った。いつの間にか時間が経って体は大人になったけれど、心はまだ全然自立できてなんかいない。

みんなそんな思いを抱えたまま年を重ねて行くものなんだろうか?


夜になると彼の両親が叔父の家に到着した。

建築業をしている父は相変わらず健康的に日に焼けていた。色白の彼とは正反対だ。母は普段はかけていない眼鏡をかけていた。恐らく本を読んでいるときにつけたままになっているのだろう。


父は彼を見るなり、

「久しぶりだし風呂でも行くか。」と声をかけた。

浅黒い肌から白い歯がのぞいていた。

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