第20話 2人の絆
恋をするということは、つまり若葉と距離を置くということで、若葉と今まで通りの関係を続けるのなら、俺は恋ができないということになる。恋をすることは俺の人生の悲願とも言える。しかし、俺のこれまでやこれからの人生において、若葉という存在は欠かせないピースのように感じる。究極の選択のようにも思えたが、意外にもすぐに答えは出た。
夜、電車に乗る俺は、気づけば貧乏ゆすりをしていた。このままでは何もなく失ってしまう、そんな居ても立っても居られない気持ちが俺に自然とそうさせる。急行列車に手ぶらで乗り込んだ俺は、高ぶる焦りを抑えるのに必死だった。
電車が駅に着くと、俺はサンダルで住宅街を駆け抜ける。30メートルおきに置かれたオレンジ色の街灯は、順番に俺の足元をほのかに照らす。目的のアパートに着いた時には、すでにサンダルの片方は行方不明だった。
エレベーターで3階に上がって、彼女の部屋のドアチャイムを鳴らした。
「はーい」
と、中から彼女が返事をするのが聞こえてくる。
「どちらさま?」
ドアチェーンをかけたまま、彼女は少しドアを開けた。
「よ。急に押しかけてごめん」
「悠真?何しに来たの?」
若葉は俺の顔を見ると、目を丸くした。
「俺はやっぱり、若葉と距離を置くなんて……」
「帰って」
俺はその場で硬直した。耳に飛び込んできた一言に、俺は体の自由を奪われたような感覚だった。
「悠真、もう帰って」
「いや、でも……」
「悠真は私と関わるべきじゃないの。だから早く行ってよ」
「俺は若葉のことを迷惑だなんて思ったことはないんだ。だから……」
彼女は俺の反論を聞くこともなく、勢いよくドアを閉めた。アパートの廊下には、途方に暮れる俺と静寂だけが残された。
「そっか……。そうだよな……」
独り言だけが虚しく廊下に響く。俺は自分に呆れた。俺はなんて馬鹿なんだ。少し冷静になれば、こんな時間に彼女の部屋を訪れるなんて、迷惑なのは俺の方だ。
いや、それはもしかしたら日頃のことでも言えるかもしれない。俺にとって彼女は大事な存在でも、彼女にとって俺は、存在自体が迷惑なのかもしれない。普通じゃない俺と関わるのなんて、きっと彼女は望んでいない。
俺はその考えに、一つの着地点を見出した気がした。若葉が俺と仲良くすることを望んでいない。そう考えると、こうやって無駄に悩む必要もなくなる。苦しむ必要もなくなるのだ。
俺は大きくため息をついた。だがその瞬間、突然目まいがして、その後間もなく激しい頭痛が俺を襲った。
「……!」
体を支えることができず、彼女の部屋のドアにドンとぶつかって、そのまま廊下に倒れ込んでしまった。勢いだけで家を出た結果、薬さえも持っていないことに気づいたのはこの時だった。
「悠真!?」
廊下での異変に気がついた若葉は、ドアを開けて苦しむ俺を発見してくれた。
「悠真、薬は?」
俺が鞄を持っていないことに気づいたのか、彼女はそう聞いた。俺は首を振った。
「待ってて。前にウチに来た時のやつが残ってるかも」
鮮明に聞こえていたはずの彼女の声が、段々遠くなる。意識が薄くなっている証拠だろう。
「あった!」
彼女は俺の口に無理やり薬をねじ込んでくれた。俺は最後の力を振り絞って、それを強引に唾で流し込んだ。
「大丈夫?」
若葉の言葉はしっかりと耳に入った。そうこうしているうちに、頭痛が少しずつ引いていく感覚を覚えた。ただ、自分の力では上手く立ち上がることができそうになかった。
「こんなところで寝られても困るから……」
若葉はそう言うと、俺の手を自分の肩に回し、俺の体を持ち上げてくれた。
「……ごめん」
「いいから。早く入って」
「え?いやでも……」
「そんなんじゃ帰れないでしょ?」
若葉はドアを開けると、俺を部屋に入れてくれた。
「布団敷くから待ってて」
「大丈夫。座ってた方が楽」
「そっか」
まだ頭がズキズキと痛み、体がフワフワとして上手く操れない。俺は彼女の部屋でゆっくりと腰を下ろすと、込み上げてくる色々な感情を抑えきれなくなり、突然涙が流れてきた。
彼女は俺の横に座ると、黙ったまま俺をずっと見ていた。何を考えているかなどわからない。ただ視線を一寸も動かさぬまま、俺のことを見ていた。
5分もすれば、俺の体も心も落ち着いてくる。一言も口を交わさない、そんな不思議なこう着状態を破ったのは、俺の一言だった。
「……俺、帰るわ」
彼女は静かに頷いた。俺はゆっくりと立ち上がった。体調はかなり良くなったように思う。
「ねえ悠真、今日はなんでウチに来たの?」
「わかんない……。でもなんか、若葉が遠くに行っちゃう気がして」
玄関のドアの前で、俺は立ち止まった。
「……」
「若葉さ、この前俺に言ったでしょ?俺の恋にとって若葉は迷惑な存在だ、って」
「うん。言った」
「でも俺は伝えたかったんだ。たしかに若葉がいると、俺は恋ができないかもしれない。でも俺にとって若葉は、恋なんかどうでもいいぐらい、大事な存在なんだ、って。迷惑だなんて微塵も思ったことない、って」
「……悠真」
俺はドアノブを握った。俺はこの時点でもう既に、心を決めていたのかもしれない。
「でも、俺は同時に気付いたんだ。俺は若葉のことを迷惑だなんて思ってなくても、若葉は俺のことが迷惑だと思ってるんじゃないかなって」
「いや、ちょっと待ってよ悠真……」
「だってそうでしょ?俺が倒れた時はいつも若葉が面倒を見てくれていたし、病院にもついてきてくれるし、買い物も一緒に行ってくれる。迷惑をかけてるのは、絶対に俺の方だったんだよ」
「そんなことないよ!私は悠真のこと……」
「ごめんね若葉。だから若葉は俺と距離を置きたかったんでしょ?」
「な、なによそれ……」
「だから若葉、俺はもうここには来ない。連絡もしない。学校でも会いに行かない。もうそういうことにしよう」
若葉は何も言わない。ただ俺のことを泣きそうな目でじーっと見上げているだけだ。俺はそんな彼女を見ていられず、咄嗟に目を逸らした。
「……」
俺は歯を食いしばった。このまま黙って部屋を出ていけば、どれほど楽なことなのだろう。だが、直前まではそうしようと決めていた心が、今になって揺れているのだ。
「ねえ、悠真。私たちは2人ともお互いのせいにしすぎだよ」
「……え?」
「私たちは2人とも、ずっと仲良くしていたいんだよ。でもそれがお互いの大事なものを奪ってしまう気がして弱気になって、結局相手が自分のことを迷惑だと思ってる、っていう勝手な理由で自分を納得させようとしている。そうでしょ?」
それは、事の核心を突いた言葉に思えた。俺は若葉を悪者に仕立て上げ、それを若葉と距離を置く理由に使おうとしていた。そんなことは全く望んでいないのに。
「そう、だね……」
俺は素直になることを学んだ。強く握っていたドアノブを離して、彼女の方にしっかりと向き合った。
「私もそうだった。この前の電話で、悠真に似たようなこと言っちゃった」
「お互い様、だね」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「あのさ、これからはいつも通り、仲良くしてもいい?」
改めてこんなことを聞くのは、21にもなればやはり気恥ずかしいものだ。
「うん。もちろん」
彼女は少し照れながらもそう言うと、シャツの袖で溢れた涙を拭いた。
「今日泊まってく?」
「うーん、いや、今日は帰るわ。明日学校なのに何も持ってきてないし」
俺がそう言うと、彼女は玄関の棚から家の鍵を出してきた。
「じゃあ駅まで送るよ」
「ありがとう」
付き合いが長くなるにつれて、お互いのことを理解したかのような錯覚に陥る。でも、実際はそうではなかった。俺も若葉も、相手にとっての優しさとは何かを履き違え、関係性が壊れる手間にまでいってしまった。だが、今回のこの件で俺たちの絆はもっと深く強くなった。俺は胸を張ってそう言える。
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