タウ・デプス ぬばたまのたらちね

伏潮朱遺

第1章 顕(は)れ塞げ

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 あの雨の日から1ヶ月後。

 同じ不動産会社の管理している別の事故物件を探して住んでみたが。

 待てど暮らせどあの人は来ず。

 日に日に体調が悪くなってくるだけ。

 とうとう耐えかねて家を飛び出した。

 物件を斡旋した営業所で事故物件処理の専門家について尋ねたが。

 知らないの一点張り。

 管理会社のサポートセンターに電話したが答えは同じ。

 そんなものは知らないと。

 おかしい。

 僕は確かにあの人と会っているし、あの人は確かに事故物件の処理をした。

 その証拠に以前住んでいた物件は翌月から家賃が相場通りに戻った。

 それよりなにより、僕の体調が完全に回復した。

 しかし、状況証拠を並べても所詮は状況証拠。

 不動産会社の本社に出向いた。

 受付であの人のことを聞いたが。

 やはり知らないと言う。

 社員全員に知られているわけではないのかもしれない。

 あまりしつこくするとブラックリストに載りかねないので、早々に退散した。

 とすると、やはり大人しく事故物件で待つしかないのか。

 いや、身体的にも精神的にも限界が来ている。

 なにか、他の方法はないものか。

 あの人に会う手がかりが何かないものか。

 あの人を探したいのもあるが、そんなことよりなにより。

 カネがない。

 てっとり早くまとまったカネが手に入る方法はないものか。

 気になるバイトが眼に留まった。

 男性のみ。

 童貞に限る。

 眠っていてもらうだけの簡単なお仕事です。

 成功報酬5万。

 失敗した場合のことが書かれていないのが気になるが、すぐに担当者に連絡した。

 履歴書は要らないから、時間になったら指定の場所に来てほしいとだけ案内があった。

 担当者は、アテナと名乗った。

 呼び出されたのは、とあるアパートの一室。

 照明はつかない。電気は止めてあるようだった。

 明らかにここで何かがあった重々しい空気が立ちこめている。

 ビンゴか?

「そこで眠って?」アテナさんがドアの陰から指示する。顔は見えないが、若そうな女性の声だった。

 床が一部剥がされている。

 天井に気味の悪い染みが目立つ。

 背中が痛そうだったが、言う通りにした。しばらくゆっくり眠れていなかったのですぐに眠気はやってきた。

 寝たふりをしようかと思ったが、眠っていないと成功報酬がもらえないので。

 カバンにレコーダを忍ばせて、ぐっすり眠ることにした。

「おい、起きろ」

 身体を強く揺すられた。

「君、嘘はいけないなあ」アテナさんが顔をのぞきこんでいた。「募集要項になんてあったか、憶えてる?」

 後方で盛大にリバースする女性がいた。シンクの中に吐いている。

「ちょっと、水道止めてるんだから」アテナさんが迷惑そうに言う。

「ひどい臭いで死にそうだ」

「これでどう?」アテナさんが窓を開けた。「もう、しっかりしてよね。今回は出直すからいいけど」

 いまは夜。

 顔はよく見えないが、おそらくあのときのあの人が。

 すぐ後ろに立っている。

「失敗てことですか」そんな気がして確認した。

「君、童貞じゃないじゃん」アテナさんが言った。「顔と名前のリストをね、こっちで控えてるの。1ヶ月前に触媒になったばっかの、小張オワリ黎影レイヱくん。1回だけと思って見逃してたけど、甘かったかなあ」

「オワリ? ああ、あの趣味の悪い彫刻の。お前、あのおっさんの血縁か?」

 僕は振り返る。

 あの人が、

 壁にもたれていた。

 白襦袢がぼんやりと浮かび上がり、幽霊みたいだった。

「帰るぞ。気持ち悪くて敵わん」

「そだね。君も、これに懲りたら、もうこうゆうことはしないように。はい、これ、参加賞ね」アテナさんに握らされたのは、薄い茶封筒。

 中身は、一万円札が二枚。

「それ、口止め料も入ってるから。1ケ月前と今日のことは他言無用ね」

「先月の分と、今日の分てことですか」

「悪い、また吐く」あの人がシンクに顔を突っ込む。

 酸いにおいが微かに漂ってきた。

「なんか変なもの食べた? ううん、違うなあ。むしろ最近食欲ないよね?」

「ううう、早く帰らせてくれ」

「あの、差し出がましいことを言うんですが」僕は。

 なんとなくそう思ったので、そう言っただけ。

 ノウ水封儀みふぎは、

 妊娠している。




















 タウ・デプス 

 ぬばたまのたらちね










 第1章 顕(は)れ塞げ





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 中二の夏休み。

 支部の仕事も軌道に乗って、会長である祖父からも一定の評価を得ている。

 中高一貫なので、よほどのことがなければエスカレータで高校に上がれる。つまり受験勉強は必要ない。

 それでも学業との両立も忘れていない。夏休み明けの試験に向けて、課題や勉強も怠らない。

 我ながら完璧だった。

 しかし、完璧すぎたせいで足元をすくわれることになる。

「は? 婚約者?」

 祖父は最低限のことだけ告げて、一方的に電話を切ってしまった。

 俺の周りの大人はいつもそうだ。

 勝手なことばっかりしやがって。

 昼過ぎに駅に着くから迎えに行けと言う。

 なんで、俺が。

 というか、誰の婚約者だって?

 冗談じゃない。

「若、大丈夫ですか?」事務員の伊舞イマイがモニタから眼を離して声をかけてくれた。

「大丈夫に見えるか?」

「会長が決めたということなんでしょうか」

「社長じゃないことは確かだな。あっちは俺の血を絶やしたいだろうし」

「若」伊舞が複雑な表情になる。

 事実には違いないが、敢えて言わなくていい事実というものが多すぎる。

 半分くらい自虐ネタと化している気もしないでもないが。

「悪かった」

「わかっていただければそれで」伊舞は満足そうに口角を上げる。「でもこのタイミングは妙ですね。私のほうからもそれとなく探りを入れてみます」

「ほどほどでいいからな」

 伊舞は本社のメインプログラムを書いた張本人なので、彼がそれとなく探りを入れるというのは。

 本社へのハッキングに他ならない。

「大丈夫ですよ。ユキみたいなことにはなりませんから」

「いや、あいつは自業自得だろう」

 ユキというのは、俺の従兄。俺の母親の姉の息子。

 しょっちゅう社内の機密データをのぞこうとするので、遂に会長である祖父から直々に雷が落ちた。それで懲りるような奴ではないが、駄目押しで、伊舞によってセキュリティが強化されたので、いまのところ侵入できた形跡はないらしい。

「ご自分の才能を正しいことに使えるようになれば、将来とても有望な方なんですけどね」

「でもお前の言うことなら聞くだろ?」

「聞いているフリをして、腹の底を探ってるんですよ。私が本当に信用に足る人物なのかどうか。あの方も若と同じで警戒心がとてもお強いので」

 11時半。

 適当に昼食を摂って、しぶしぶ駅まで出向いた。今日の仕事は場合によっては延期もあり得るか。

 いやいや、どうして俺がわけのわからない政略結婚?なんかに屈しないといけないんだ。

 政略結婚に決まっている。

 一応、俺は次期社長に内定しているから。

 企業か。政治家か。宗教か。

 改札がよく見える柱の陰に立つ。いや、陰でなくてもいいのか。曲りなりも迎えに来てるんだから。

 迎えに?

 いや、祖父には悪いが、向こうが嫌がることをして嫌われよう。そうすれば破談になるだろうし。向こうから断ってくれれば、相手方のメンツは潰れないだろうし。

 あ、そうか。祖父のメンツが潰れるのか。

「あっくんは、あなた?」オフホワイトのワンピースを着た少女が、俺を見上げていた。

 誰だ?

「これ持って?」少女は背負っていたリュックを俺に押し付けてきた。

 重い。

 リュックは中身がぎゅうぎゅうに詰められているせいで、あり得ないほどに膨らんでいた。

「ふしぎそうなお顔」少女が首を傾げる。「わたしの写真、見てない?」

 まさか。

「あの、ええと。俺は祖父から、婚約者とやらを迎えに行けと言われたんだが」

「うん、わたしがそのフィアンセ」

 嘘だろう。

 どう見積もっても10歳に満たない。

「いくつだ?」

「女性に年を聞くの?」

「おいくつですか?」

「7つ」

「小学生?」

「一年生」

 世も末だ。

 なんで中二の俺に小一の婚約者がいるんだろう。

 意味がわからなすぎて、こめかみがずきずきと痛む。

「このたびはお母さんがたいへんお世話になりました」少女がぺこんと頭を下げる。

「ええ、と?」

「知らない?」

 知らないというか、聞かされていないというか。

「わたしのお母さん、ノウ・みふぎてゆうの」

 ひっくり返りそうになった。

 そういえば、どことなく似ていなくもないような。

 虚無を映している眼とか。

「お母さんがみふぎだから、わたしもみふぎがいい。みふぎちゃんて呼んで?」

「紛らわしいんだが」

「もう死んでるもん。だいじょうぶ」

 死んだことを、

 知っているのか。

「お母さんのサイゴて知ってる?」

 場所を変えよう。

 灼熱が降り注ぐ炎天下を歩いて、支部に戻った。

 伊舞が少女を見るなり口をぱくぱくしていたが、あとで、と制止して2階に上がった。

 支部の2階は、キッチンとリビングに宛てている。

 少女――みふぎちゃんは、ソファにちょこんと座って足をぶらぶらさせた。

 暑い。

 クーラーの設定温度を下げた。サーキュレータを強にして顔の前で回す。

 少女がいなかったらシャワーを浴びたかった。汗ふきシートで誤魔化せるだろうか。

 いま気づいた。

 自室に他人を招くのは、初めてだ。

 そうだ。お茶を出さなければ。

「麦茶と紅茶、どっちがいい?」

「リンゴジュース」みふぎちゃんが手を上げて答える。

「悪いが、選択肢の中から選んでくれるか」

「じゃあお水に氷をたくさん入れて?」

 反論するのが面倒だったので、望み通りの物を出した。ストローも付けて。

「どうぞ」

「いただきまーす」みふぎちゃんはストローから勢いよく飲み干した。「冷たくておいしい」

「それはどうも」

 みふぎさんも、水ばっか飲んでいたような覚えがある。いや、頭からかぶるほうが多かったか。

 娘が。

 いたのか。

「しんしてきなお兄さん、お名前は?」みふぎちゃんがグラスを置いてから言う。

「知ってるんじゃないのか」

「自己紹介はだいじ」

 観念して名前を言った。

「ありがとう。わたしは」

 少女も本名を言った。

 てっきり教えてくれないものと。

 なにせ、みふぎさんの本名を俺は知らない。

「あっくんは、見える?」みふぎちゃんがストローで氷をいじめながら言う。

 黒。

 建物にこびりついている負の残滓。

 みふぎさんは、それを祓う専門家だった。

「見えていたこともある」

「いまは? 他に見えてる人はいる?」

「みふぎさんが亡くなってから見えなくなった。他は知らん」

 実は、従兄は見えているが、口外法度なので黙っていることにする。

 しかし、俺の場合正しくは、見える能力を一時的に付与されていただけで。

 付与した張本人が、この世からいなくなっただけの話。

 いまは亡き伯母。母の姉。

「ふうん。わたし、見える」みふぎちゃんの黒眼がこちらを射る。「追い払うのもできる」

 へえ、それは。

「すごい」

 なるほど。

 ついに、見えて、かつ祓える最強の専門家が“完成”したのか。

 それで、次期社長の俺とつがいにさせようとしているのだろう。

 おそらく、祖父の意志じゃない。

 こんなことを考えるのは、あの世にただ一人。

時寧トキネさんて、会ったことあるか」

「トキネおばちゃん? うん、小さいときに」

 いまも充分小さい気もするが。

「おばちゃんも死んじゃったんでしょ? みんな死んじゃうね」

 内線が鳴った。

 階下の事務所の伊舞が余計な気を回してくれている。

「悪い、ちょっと」

「どうぞ」みふぎちゃんが頷く。

 聞かれて困る話はしないつもりだが、子機を持って移動する。一番遠い壁に向き合った。

「大丈夫なんですか?」伊舞は小声だった。

「大丈夫じゃなかったら連れて来ない。悪いが、今日の仕事を延期にしておいてくれ。謝罪と再調整も頼む」

「ご心配なく。さっき連絡したところです」

「助かる」

 みふぎちゃんの様子を横目で確認したが、リュックの中身をテーブルに並べ始めた。

「もういいか。ちょっと立てこんだ話をしなきゃならん」

「あとできっちり説明していただけるのなら」

「わかった。来客対応も頼む」

「了解しました。ごゆっくり。あと、ご無事で」電話はすんなり切れた。

「待たせてすまない」席に戻る。

「優秀な人なんでしょ?」みふぎちゃんはリュックの中身を透明なバッグに移し替えていた。「お噂はかねがね」

「お節介すぎるところが玉に瑕だが」

 あの重かったリュックの中身は。

 数日分の着替え。

 スケッチブックと絵の具と色鉛筆とクレヨン。夏休みの宿題に絵日記でも出されているのだろう。

 そして、透明なバッグに移し替え終わった中身は。

「あの、プールか海にでもお出掛けで?」

「海水浴行きたい」

「徒歩だとちょっと距離があるが、行けないことはない」

「一緒に行く」

「誰と?」

 みふぎちゃんが黙って指をさす。

 気のせいでなければ、俺の鼻に命中している。

「なんで?」

「汗だく」

「汗臭いならちょっと下で待っててもらえたら」シャワーを浴びて着替えもするのに。

「お母さんのサイゴ、見た?」

 話がポンポンと飛ぶのは、母譲りなのか。

「見てはない。話はした」ソファに座り直す。

「失敗して死んだ?」

「そうじゃない」と思う。が自信がない。

 祓いそびれると黒に呑み込まれる、というのは、何もおかしくはない。

「お母さんがいなくなったから、わたしが呼ばれた」

 仕事をするために?

 俺と結婚させるために?

「トキネおばちゃんがね、おいでってゆった」

「祖父さん、いや、会長じゃないのか?」

「だあれ?」

 知らないのか?

 じゃあやっぱりこれは。

 時寧さんの遺志。

「そっちはいいのか?」

 仕事をさせられて。

 俺と結婚させられて。

「だってそのために生まれた」

 なんでそんな。

 曇りなき眼で迷いなく言えるんだ?

「おかしくないか?」

「どうして?」

 どうしてって、そんな。

「時寧さんに利用されてるだけだろ?」

「おばちゃんがいなかったらわたし、死んじゃってたんだ。だからいいの。恩を返すの」

 時寧さんから何を吹きこまれてる?

「騙されてるんじゃないのか」

「なにを?」

「時寧さんは」

 そんな殊勝な人じゃない。

「いいの。わたしにしかできないんだから、わたしがする」

 よくない。

「どうしてあっくんが止める?」

 だって。

「みふぎさんが、どうやって黒を祓ってたか、知ってるのか?」

「うん」

 うん。じゃないだろ。

 俺のフィアンセだとか言う前に、そんなことよりなにより。

「せめてもうちょっと大人になってからじゃ駄目なのか」

「どうして?」

 どうしてもこうしてもない。

 たかが7歳の少女にさせることじゃない。

「俺が抗議する。時寧さんに言われて来たんだな? 祖父さんじゃなくて」

 あれ?

 なんで。

 とっくに死んだはずの時寧さんがそんなメッセージを。

 黒は。

 消滅していないのか。

「おばちゃんはもういないよ。ずっと会ってない。黒が見えるようになったら教えてってゆわれてたの。それで、これ」テーブルに置かれたのは。

 時寧さんから、みふぎちゃんに宛てた手紙。シンプルな水色の封筒に同じ色の便せん。

 消印が、時寧さんが生きていた頃のだった。

「見てもいいか」

「どうぞ?」

 筆圧の強い、それでいて跳ねたような字が時寧さんぽかった。


  もし黒が見えるなら、もし黒が祓えるなら。

  きみは、私たちの会社のために働く義務がある。

  これが私の遺言。

  小学校に上がった最初の夏休みに、神奈川県の鎌倉駅に行ってごらん。

  迎えに来てくれた男の子が、きみの婚約者。

  生き別れたお母さんのことも、その子が教えてくれる。


 生前にこれを書いてみふぎさんの娘に送っていたのか。

 とすると、自分が死ぬことを予想していたことになる。予想できていたからこそ、遺言として送ることができたのか。

「理不尽だと思わなかったのか」

「あっくんは、トキネおばちゃんが嫌いなの?」みふぎちゃんがひどく悲しそうな顔をする。

 そうじゃない。

 そうじゃないんだ。

 でも、

 どうすれば正しく伝わるのかわからない。

「あのね、お母さんや、そのまたお母さんがやってた方法と違う」

 ??

「どーていのしょくばいも要らない」

 それは、どうゆう?

 詳細を聞こうとしたが、また内線が鳴った。

 頼む、伊舞。ちょっと静かにしてくれ。

 内線と入れ替わりで俺の私用のケータイが鳴った。

「どうぞ」みふぎちゃんが目配せする。

「すまない」

 再び壁際へ。

「いま立てこんでるんだが」

「ちょっと降りて来れますか?」伊舞の声が妙に真剣だった。「組合長が」

 みふぎちゃんに中座を断って事務所に戻る。

 カウンタにもたれかかる大柄の男。極彩色のアロハシャツが直視を妨げる。

「おう、景気いいね。支部の孫さん」真っ黒に日焼けした野太い腕を振る。「時間とアポを崩さんのがモットーじゃなかったかあ? 生っちろい顔して、夏バテでもしてんじゃないかって、ツラぁ見に来たぜ」

「申し訳ないんですが、急用が入りまして。この埋め合わせは必ずさせていただきますので」

 最もややこしい客が、よりにもよって今日の仕事先だったとは。

 我ながら運が悪すぎて眼も当てられない。

 悪い人じゃないんだが、少々自分勝手な所が強かったりする。

「そうは言いなさんな。俺っちだって困ってんだからよぉ。力貸してくれると有難いんだがなぁ」

「恐れ入りますが、そのご依頼はどうしても本日中に解決しなければいけない内容でしたか?」

「おうよ。今日こそなんとかなると見込んで、明日っからのシフト、みっちり組んじまってんだから」

 ええと、確か用件は。

 すぐに思い出せなかったので、こっそり伊舞のカンペを盗み見た。

「海の家の怪奇現象を?なんとかしてほしい、てことでしたね?」

「俺っちもよっぽど気のせいだと思ってよぉ、騙しだましやってたんだが、どうにもなぁ、店側がどうこうなるのはいいとしても、客側に迷惑かかっちまったり、悪い噂流れるのは、今後やってけなくなっちまう。死活問題だ。そこんとこ支部の孫さんとこは、えらく詳しいって聞いたぜ?」

「申し訳ないですが、それは私じゃなく、亡き伯母がやってただけで」

「ユーレイ出る?」みふぎちゃんが、俺と組合長の間に入って見上げている。

「おお、これまた可愛い嬢ちゃんだな」組合長が顔を皺くちゃにして目線を合わせる。「はじめまして、こんちは。俺っちは午頭馬ゴトバだ。海の家の組合長をやってる。お嬢ちゃんは支部の孫さんの親戚かなにかかい?」

「しぶのまごさん?」みふぎちゃんが俺の顔を見る。

「俺のことだ」

「じゃあ、わたしね、しぶのまごさんのフィアンセ」

「すみません、話がややこしくなるので、彼女のことは無視していただいて」

「がはは。そりゃあいい!」組合長がカウンタを叩いて大笑いする。「ますます景気がいいこって。怖いモンなしじゃねえか」

 たぶん、本気にしていない。それが多少なりとも救いだったりする。

「とりあえず来てくれねぇかな。百聞は一見になんとやらだ。連れてくぜ」

「海の家行く? わたしも行っていい?」

「おうおう。来い来い。フィアンセちゃんも未来の旦那の仕事ぶりは気になるだろ?」

 組合長の車はオープンカーだった。海まで歩いたらそこそこ距離があるので我慢するしかない。暑いのと目立つのと、いろいろ散々な気もするが。

 結果的にみふぎちゃんの思い通りになった。俺と違って強運の持ち主なのだろう。

 海水浴セットの他に、トートバックも持ってきているのが気になった。顔よりも大きなスケッチブックがのぞいている。

 透き通るような蒼い空。風がちょっと強いが、このくらいなら気持ちがよい。人がうようよいなければもっといい。

 みふぎちゃんは「うみー!!」と叫びながら一目散に走って行ってしまった。追いかけようにも、俺は海水浴に来たわけではない。

「元気いいねえ。ちーと幼いしな、監視のバイト連中に情報だけ流しとくわ。危ない目に遭わねえように」

「お手を煩わせます」

 サンダルで来なかったことを後悔する。靴を脱いでもいいが、砂浜は案外危険物が落ちているので裸足はあまり推奨されない。

 組合長に案内されたのは、ロッカーやシャワーを貸してくれる施設。いわば更衣室。

 ロープ張り巡らして物々しく封鎖してあるおかげで、誰も寄りつかない。

「ほいよ、俺っちが管理してるとこだ。堂々としてていいぜ」組合長が立ち入り禁止の看板を小突いてロープを持ち上げる。

 電球は切れかけている。ジジジと嫌な音を立てて断続的に点滅する。

「これもこないだ換えたばっかなんだがなあ」

「具体的に、どんなことが起こってるんですか?」

 ずん、と首の後ろに重い冷気が圧し掛かった感覚がした。

 振り返ったが、誰もいない。

「組合長は、なにか感じますか」冷えるので肩をさする。

「いんや。俺っちにはなーんも。だが、実際に起こっちまってるのは確かでな」組合長が蛇口を捻る。「これが赤いような茶色いような変な色になって、挙句生臭い異臭がしてくるんだと。他にも、開かずのロッカーだとか、トイレからヒソヒソ話し声だとか、ええと、あとは、シャワーから長い髪の毛が出てきたりだとか。とにかく夏のテレビでやってるような怪談染みたことがテンコ盛りだ」

「お祓いとかしたんですか」

「やれることはなんでもやったさ。ケーサツにも相談した。しっかしなあ、俺っちが組合長じゃなきゃ笑い飛ばされて終わりだったわな。熱心なケーサツの兄ちゃんが写真撮ったり、証拠映像撮ったりはしてくれたがよお、その兄ちゃんも結局うんともすんとも。一応調べたってゆう実績だけ必要だったんだろうなぁ」

 まずいな。間違いなくみふぎさんの専門なんだが、生憎とみふぎさんはもう。

「あの、大変申し訳ないんですが」正直に言うしかない。

「ほんとだ。いる」みふぎちゃんが水着姿で立っていた。「くみあいちょーさん、危ないから離れてて。あっくんは、一緒に来て」

 白いワンピースタイプの水着。薄手のパーカーを羽織っている。

 そして、大きなスケッチブックを抱えて。

「離れてろって、お嬢ちゃん。さすがに、そりゃあ、薄情ってもんじゃ」

「だいじょうぶ。わたし専門家だから。お母さんの仕事はわたしに任せて」

 組合長が不安そうに俺の顔を見る。

「俺がついてます。危なくなったら逃げますので、どうか外にいてもらえますか」

「わかった。支部の孫さんがそこまで言うんなら。ただし、ヤバかったらさっさと出てこいよな」

 組合長がロープの外に出たのを見届けてから、みふぎちゃんと中に踏み込む。

 ぐん、と空気が冷えて重くなった。

 じりじりと嫌な音が、ずっと耳の外で鳴っている。

「みふぎさんとは違う方法って」視覚と聴覚を誤魔化したくて、自分から声を発した。

「下がって」みふぎちゃんがスケッチブックを開いた。「おてなみはいけん、させたげる」

 水道とトイレを背に、右が男性用、左が女性用。

 それぞれ違う速さでドアが開いた。

 すでに充分怪奇現象だった。

「けっこう大きい」みふぎちゃんは、視線を宙空に固定したまま、パーカーのポケットから取り出した絵の具を慣れた手つきでスケッチブックに直に絞った。

 黒い。

 色を指で拡げる。

「み」ふぎちゃん、と言いかけた口を自分で塞ぐ。

 ぶつぶつと、呟いている。

 相変わらず何を言っているのかは聞き取れないが、それは。

 みふぎさんが、黒を祓うときにやってたのと同じ。

 ということは。

 祓える?

 みふぎちゃんは、絵の具で真っ黒になった指を、白いスケッチブックの上で走らせて。

 真っ黒になった頃合いで、勢いよくスケッチブックから破ると。

 そのままぐちゃぐちゃに丸めて。

 ビリビリに引き裂いた。

 黒が。

 飛び散る。

 はあ、とみふぎちゃんが息を吐いたことで、こっちの世界に帰って来れた。

「終わった」みふぎちゃんが振り返ってこっちを見ていた。

 俺も呼吸を思い出した。

 吸って、吐く。

 肩の重みも、寒気もすっかり引いていた。

 組合長には全部解決したとだけ伝えた。俺がよほど呆けていたせいか、組合長も根掘り葉掘り聞いては来なかった。

 みふぎちゃんは、俺にスケッチブックとパーカ(ポケットにごろごろと絵の具が入っている)を預けて海のほうへ駈け出して行った。その背中をぼうっと見つめていた。

 あの子は。

 みふぎさんの子だ。














     2


 みふぎちゃんは、引き続き海と砂浜で一人遊びをしている。

 俺があまりにぼんやり立ち尽くしていたのを不憫に思ったのか、組合長の店の人が、テラス席に俺を座らせて、飲み物まで持ってきてくれた。

 味がしない。

 この透明な液体は、一体何なんだろう。

「ビックリして、茫然自失て感じかな」向かいに座っていた髪の長い女性が言う。「なかなかすごいよね。みっふーみたいに触媒も要らないし、スケッチブックと画材さえあれば、たった一人で追い払えるんだからさ」

 いや、女性じゃないな。

 袖も裾も丈の長い真っ黒のドレス。真夏の海辺というより、会員制の夜の集まり。

 攻撃力の高そうなアイメイク。分厚い唇は艶々と湿り気を帯びている。

「シャオレーさん?」

「やあ、久しぶり。だいぶショック受けてるぽいけど、大丈夫?」

 なんで?

 シャオレーさんがいるんだ?

「僕の説明からする? みっふーの子は、僕の子でもあるんだ。そこそこ危なっかしいからね。心配で見に来ちゃった」

「見に来れるんですね」

「そうだね。見に来れちゃってるね。それに、あっくん、僕のこと見えてるね」

 あ。

 そういえば。

「見えてたことあるんだから、もう一回見えたとしてもおかしくないよね?」

「あの、みふぎさんは」

「いないよ。みっふーはいない。だから僕が来たんじゃないかな」

「消えたのかと思ってました」

「僕もそう思ってたよ」

 テラス席で宙空を見つめながらぶつぶつやっていたら目立つし、今後の支部の信用にも関わる。シャオレーさんに積もる話もあるが、まずはここから立ち去らなければ。

 透明の液体はサイダーだった。飲み干してグラスを返却する。お礼と挨拶もしっかりした。組合長にも挨拶したかったが、更衣室の怪異が解決したので、建物の整備に忙しいらしい。また日を改めよう。

「あっくん、元気なった?」みふぎちゃんが俺の姿を見つけて走ってきた。

「みーちゃん、海来れて良かったね」シャオレーさんが言う。

「あ、お父さん。やっぱり付いてきてた」

 みふぎちゃんにも見えている。

 俺と、みふぎちゃんにしか見えていない。

「あんまり沖に行っちゃ駄目だよ? 知らない人に声掛けられたとき、どうすればいいか憶えてる?」

「きんてき」

「わかってるならいいよ」シャオレーさんが満足げに頷く。

「わかってないですよ?」

 ゴザをレンタルしてそこに座る。すぐ近くでみふぎちゃんが砂の城を作り始めた。

「あっくんは泳がない?」シャオレーさんが横に座った。スカートの裾を砂につけないように。

「水着持ってきてないんで」

「仕事に来てたんだっけ?」

「いつから見てましたか」

「みーちゃんが仕事するあたりかな。ちょっと黒が集まりすぎてたからね。黒は黒を呼び寄せるみたいでね。だから僕も呼ばれたのかな」

「よくわかってないんですね」

「そうだね。何もわかってないんだよね」

 シャオレーさんに再び会えたのは、嬉しいはずなんだけど。

「君ってさ、石橋叩きすぎるタイプでしょ。みーちゃんが、みっふーみたいにならないかって心配?」

 波が砂浜の色を変えるのを見ていた。

 何本かの足が俺の前を横切った。

「僕らのみーちゃんが君の婚約者てのは本当?」

時寧トキネさんが勝手に決めて、祖父さんが適当に騙されてるだけです」

「だよね。もしそうなったら、僕とみっふーは君の義理の親になっちゃうもんね」

「嫌な関係ですね」

「同感だよ。みっふーに合わせる顔がない」

「見てみて、お父さん。お城できた」みふぎちゃんが万歳する。

「ほんとだ。みーちゃんは器用だね。その芸術センスは隔世遺伝だろうね」シャオレーさんがみふぎちゃんの頭を撫でる。

「かくせいいでん?」

「僕じゃなくて、僕の父親から遺伝したってこと」

「お父さんのお父さんはげいじゅつか?」

「売れない彫刻家だよ。作風がちょっと一般向けじゃなくてね。いまもやってるんだろうけど」

「いっぱんむけ?」

「美術館で飾られてもみんな見に来ないってこと」

「わたし見に行く」

「みふぎちゃん、悪いがそろそろ戻らなきゃいけないんだが」

 あっという間に夕刻。

「先に帰る?」

「そうゆうわけにいかない。泊まるところもないんだろ?」

「ばーべきゅー?」

「事務所に庭がない」

「花火したい」

「だから、庭がないんだ」

 みふぎちゃんをなんとか宥めて着替えに行かせた。夕飯好きなものを食べに行くという約束を餌に。

「わがままでごめんね」シャオレーさんが申し訳なさそうに言う。

「誰が育てたんですか」

「僕じゃなくて、みっふーでもないよ」

「誰も残ってないんですが」

「ほんとだ。勝手に大きくなったのかな」

 みふぎさんと話しているときと違う意味で疲れる。

 たぶんこの人は、みふぎさんのこと以外何も考えていない。

「さっきの質問だけど、時寧氏だよ」シャオレーさんが思い出したように言う。「僕は接近禁止にさせられてたからよく知らないんだけど、僕でもみっふーでもなければ一人しかいないよね」

 なるほど。手塩にかけて育てていた秘密兵器ということなんだろう。

 17時。

 夕食にしてはちょっと早いが、みふぎちゃんのリクエストで、海の見えるレストランに行った。予約でいっぱいだったが、得意先ということで無理繰り席を都合してもらった。組合長の依頼を速攻で解決したことも功を奏しており、すでに臨海で店を構えている関係者には、支部の評判が広まっているらしい。有難いことだった。

 しかし、解決したのは俺じゃない。功労者には褒美があっていいと思うので、結果オーライということで。みふぎちゃんは、さっそくご所望のリンゴジュースにありついて満面の笑顔だ。

「海が好きなのか?」

「海なし県から来た」みふぎちゃんが答える。

「どこ?」

「ながの」

 長野に俺の親戚はいないはず。俺の知らない親戚がいるという可能性もないわけではないが。

「育ての親がいるのか?」

「あっくん、わたしのことばっかり。あっくんのことも言って」

 そう言われても。

 俺が話せることなんか特にない。

「ホテル予約してるのか」

「あっくんの話して」

「さすがに俺の家に泊めるわけにいかないから、予約してないならこっちで探すぞ?」

「7歳って一人でホテルに泊まれるかな」シャオレーさんが言う。みふぎちゃんの隣に座っている。

 テーブルの8割がオープンテラスにある。さすがにそちらは満席だが、ここからでも窓の外がすぐ海なので眺めはなかなか。フツーはデートで使うのだろう。客層は、ほぼカップルか夫婦だ。

 とすると、俺たちはかなり浮いている気がするが、他のテーブルはそれぞれ自分のパートナに夢中なのでそうでもなさそうだった。

「懇意にしているホテルに頼んでみます」

「フィアンセは一緒」みふぎちゃんが口を尖らせる。

「やめたほうがいい」

「どうして?」

 頼む。想像力を働かせてくれ。

「お父さんからも何か言ってやってください」

「あっくんならいいんじゃない?」シャオレーさんが言う。

「お父さんがいいって」みふぎちゃんが言う。

「いや、心配して下さいよ。7歳の娘ですよ?」

 料理が運ばれて来たので一旦中断になった。みふぎちゃんは食べることに集中しており、会話自体も特になかった。俺は早めに食べ終えて、トイレに行くふりをして懇意のホテルに連絡した。が、シャオレーさんが予想した通り、7歳の少女をたった一人で泊めることに難色を示されてしまった。俺が付き添いなら、とそれとなく条件を出されたが、それでは俺の家に泊めるのと何も変わらない。

 駄目か。

 会計を終えて外に出る。涼しい風が気持ちよかった。

「おいしかったー!」みふぎちゃんは上機嫌。「ありがとう」

「それはどうも」

「泊める?」

「父親の許可があるなら仕方ない」

 いろいろ考えたが、3階のベッドを譲って、俺が2階のソファで眠ればギリギリなんとか。

「僕もいるし、いいんじゃない?」シャオレーさんが言う。

 ああ、そうか。父親同伴なのを忘れていた。

 それなら何の問題もないのか?

 タクシーで事務所に戻る。定時は過ぎているが、伊舞イマイが満面の笑みで待ちかまえていた。

「お帰りなさいませ」伊舞がカウンタから身を乗り出す。「さあ、全部説明してもらいますからね」

 みふぎちゃんとシャオレーさん(シャオレーさんのことは伊舞に見えていないが)に3階で待機してもらって、ここまでの流れを話した。適当に省略しようと小細工を施したが、伊舞には嘘や誤魔化しが一切通用しない。自分としてはそんなに表情に出しているつもりもないのだが、付き合いの長さが物を言っているのだろうか。

 解放されたのは、およそ1時間後。

 19時半。

 疲れた。滅茶苦茶長い一日だった。

「大変でしたね。ではお疲れ様です」事務所の戸締りをして、伊舞は帰宅した。

 きちんと事情を説明をすれば、伊舞は必ず味方になってくれる。

 俺がみふぎちゃんと海に行っている間に、伊舞は伊舞で探りを入れていた。わざわざ本社のハッキングをせずとも、会長である俺の祖父に直接聞いたところによると、やはり時寧さんが一枚どころか全面的に噛んでおり、時寧さんの遺言がいまになって見つかり、祖父はそれに従っているだけなんだとか。

 本当に、死んでも尚迷惑な人だ。

 とすると、きちんとこちらの意思を訴えれば、祖父も説得できるかもしれない。いや、説得しないと俺だけが困る。祖父も俺を苦しめようとは思っていないだろうから、話してみる余地はありそうだ。

 あ、しまった。

 恐る恐る3階に上がる。

 みふぎちゃんは、俺のベッドですやすや寝息を立てていた。その脇にシャオレーさんが、いつぞやにみふぎさんを見守っていたときと同じ顔をして座っていた。

「疲れたけど、楽しかったと思うよ。ありがとね」シャオレーさんが言う。みふぎちゃんの髪を優しく撫でながら。

「何日くらい滞在する気なんですかね」

「夏休み中はいるんじゃないかな」

「嘘でしょう」

「どうだろう」

 シャワーを浴びて出ると、みふぎちゃんが寝ぼけ眼でベッドに座っており。

「わたしもおふろいく」と言いながら、するすると服を脱ぎ出してしまった。

「え、ちょっと、あの」眼を逸らして壁を見る。

 浴室のドアが閉まった音を聞いてから、シャオレーさんを睨む。

「僕のせいじゃないよ」

「娘をもう少しだいじに扱ったほうがよいのではないでしょうか」

「もしかして、なんか勘違いしてる? ご飯のときも言ってたけど」

 ?

「僕がこんなカッコしてるから、みーちゃんも勘違いしてるのかな」

 ??

「あっくん、バスタオルかしてー」みふぎちゃんが浴室から呼んでいる。

「ほら、あっくん。バスタオル持ってってあげてくれるかな」シャオレーさんが俺の背中を押す。

 バスタオルは脱衣場にあるんだが。

 行けと言われているので、自分の眼で確かめろということなんだろう。

 ドアを開けるとぼたぼたと全身から水滴を垂らしたみふぎちゃんが立っていた。

 湯気でよく見えないが、シャオレーさんが言っていた勘違いの内容がすぐにわかった。

「ありがとう」みふぎちゃんは、バスタオルを受け取ると丁寧に身体を拭き始めた。

 立ち去るタイミングを完全に失った。

「えっと、みふぎちゃん。俺の婚約者てのは」

「フィアンセ」

「フィアンセてのは?」

 どういう意味だ?

「あっくん、一緒に入りたかった?」

「それはないです」

 結局、みふぎちゃんが服を着るまでそこにいてしまった。

 時寧さんは、どっちの意味で俺の婚約者にみふぎちゃんを宛がったのだろう。

 みふぎちゃんは、シャオレーさんに髪の毛を乾かしてもらったあと、ころんとベッドに横になり、そのまま眠ってしまった。

「だって、あっくん、女の子好きじゃないよね?」シャオレーさんが言う。

 なんで。

 バレてるんだ?

「みっふーの触媒失敗したって」

 あの、それ。

「知らなかったことにしておいてもらえると」














     01


「男は要らないなー」アテナさん、もとい時寧トキネ氏は、廊下で待っていた僕にも聞こえる声で言った。

 僕らの子の性別が確定したわけだが。

 時寧氏は女を期待していたのだろう。ノウ水封儀みふぎの跡を継がせる気だったのだから。

 定期検診を終えて納水封儀の家に戻ってきた。

「どうする? 産む?」時寧氏が言う。

「産まない選択肢なんかあるのか」納水封儀はいつも通りベッドに寝転がる。お腹が大きくなってきたので動きにくそうだった。

「女の子だったら私が育ててあげようと思ってたんだけどね」

「男だったから勝手にしろってことか」

「機嫌悪いね。ほら、イライラすると胎教に悪いよ? ところで」時寧氏はようやく僕のほうに視線を遣った。「なんで君は当然のように通って来てるわけ?」

「あなたが僕を邪険にするのは、だいじな商売道具を穢された怨みですか? それか僕の父親の悪趣味な作風のせいですか?」

「わかってるならさっさといなくなってほしいんだけどなあ」

「僕の子でもあるんですけど」

「精子の出処は確かに君かもしれない」時寧氏が言う。「でもね、みふぎはうちの会社の従業員だから。つまりね、みふぎの子は、うちの会社のものでもあるわけ。君がどうこうする権利は一切ないんだよね」

 なんて傲慢で勝手な言い分だろう。

 納水封儀も何か言い返せばいいのに。

 いつも何も言わないのは、時寧氏に弱みを握られているのだろうか。

「あんまりしつこくすると接近禁止にするよ?」

 納水封儀に異論がないのなら、従うしかないか。それこそ胎教に悪いし。いまは彼女の心身にストレスを与えるべきでない。

 それからしばらくして、男の子が生まれたことを知った。

 他ならぬ、納水封儀が連絡をくれた。

「実はこっそりかけてるんだ。事後報告になってすまない」

 彼女が、時寧氏に見つかるリスクを冒してまで、僕に電話をくれたことが嬉しすぎて。

 まともな返答ができない。

「もうすぐ退院できる。そうしたら会いに来てくれるとありがたい」

「行っていいの?」

「実は状況が変わってな」

 生まれたのは男だが、時寧氏が育てることにしたらしい。

「なんで?」

を仕込む気なんだろうな」

 そうじゃない。

 僕が聞きたいのは。

「なんで、あげちゃったの?」

「わたしに育てられると思うか?」

「僕も一緒に育てるよ?」

「悪い。時間切れだ。詳しい話は退院後にな」

 彼女が入院している病院も、退院日も知らなかったので、それから毎日、家の前で待った。何日か後に、帰って来たばかりのところを出迎えることができた。

 だいぶ、やつれていた。

「大丈夫? じゃなさそうだね」

 ふらつく足取りの彼女を支えて、家の中に入った。

 この家は、いつも散らかっている。とりあえず足の踏み場を作って、布団に寝かせた。

「悪いな。迷惑ばかりかけて」

「お腹空いてたりする? 食べたい物とかあれば買ってくるよ?」

「いまはいい。冷蔵庫に水があったはずだから、それを持ってきてくれ」

 ペットボトルを手渡して、庭につながる窓を開け放った。

 4月。

 桜が散り始めていた。

 納水封儀は、布団に座って水を飲んだ。時間をかけて半分ほど飲み干した。

「子どものこと、聞きたいんだろ?」

「聞いてもいいなら」

「あの子を生かすには、それしかなかったんだ。責めるならわたしを責めてくれていい」

 男では祓えない。

 なら、女として育てれば、祓えるかもしれない。

 時寧氏の妄想は、そこまで行き着くとただの災害だ。

「たぶん、うまくいかない。いかなかった場合、あの子は殺される。虫けらみたいに殺して捨てられる。それが怖い。怖くて仕方ないんだ」彼女の肩が震えている。

 肩に手をのせようとして。

 あまりに冷たくて一旦引っ込めてしまった。

 すぐに思い直して、後ろから抱き締めた。

 なんて、

 冷たい身体。

 人間大の氷に抱きついているようだった。

「わたしのせいだ」

「僕のせいだよ。君のせいじゃない。ごめん、一番つらいときに何もできなかった」

 氷が溶けるまでそうしていた。

 せめて表面が水になるまでは。

「ねえ、みっふーて呼んでもいい?」

「口がバツになってるウサギで似た名前の奴がいなかったか」

「僕のことも好きに呼んでいいよ」

「お前の名前なんだったか」

「え、ひどい。子どもまで作ってるのに?」

「冗談だ。レイエだろ? 言いにくいな。うーん、そうだな」

 レー。

 みっふーが呼んでくれるなら何でもよかった。


 それから3ヶ月後。

 時寧氏が。

 あの子を死なせてしまったと知った。

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