魔王統譚レオサーガ・マルセロ伝 ~反撃の新大陸~

鳳洋

第1話 サンルビーニョの惨壊(1)

「あれがエスティムの街か……。とうとうやって来たんだなあ」


 アレクシオス帝暦一四八六年・五月一日。港に到着した船を降り、十歳にして生まれて初めてラハブジェリア大陸の地を踏んだジョレンティア王国のマルセロ・ルイス・ナルヴァエス王子は、荒涼とした平原の向こうに霞む聖なる都市の姿を見て感動に目を輝かせた。


「久しぶりね。マルス。聖地エスティムへようこそ!」


 金髪に碧眼、そして雪のように白い肌。アレクジェリア大陸人の中でも典型的な北方系の身体的特徴を持つ同い年の少女が、溌剌とした声でマルセロを出迎える。彼女は聖地エスティムの守護を使命とするトマス騎士団の騎士団長ニクラス・ローゼングレーンの一人娘で、父親と同じフィリーゼ王国生まれのリスベツ・ローゼングレーンである。


「久しぶり。リース。今回はよろしくね」


 アレクジェリア大陸の西端に位置するジョレンティアの王族であるマルセロは、リスベツとは対照的に肌の色はやや濃く、黒髪に栗色の瞳という大陸南部の住民に多く見られる外見をしている。まだあどけない少年の彼がはるばる海を越えてこの地へやって来たのは、ジョレンティアを初めとするアレクジェリア大陸諸国の国教であるロギエル教の信徒として聖地への巡礼をするためであった。


「任せといて。マルス。聖地はとっても素敵な所だから、私が色々案内してあげるわ」


 およそ二百七十年前、聖地エスティムはジュシエル教を奉じるアラジニア王国の支配下にあり、ジョレンティアやフィリーゼを含むアレクジェリア大陸の諸国はこれを武力で奪回しようと大軍を率いて攻め込み血で血を洗う熾烈な宗教戦争が繰り広げられた。しかし戦乱が収まった現在ではエスティムは全ての宗教が共存する平和な状態にあり、こうして遠国おんごくから身分の貴賤を問わずロギエル教徒の人々が巡礼に来ることも珍しくなくなっている。


「うん。頼むよリース。でも色々って、例えばどんな場所があるの?」


 マルセロに質問されたリスベツは、利発で勝気そうな眩しい輝きを帯びた瞳を遠くのエスティムの街に向けながら少し考えて答える。


「えっとね。まずは東の三番街にあるパン屋さんの焼きたての蜂蜜パンが甘くて美味しいのよね。あとは西の六番街にある屋台の焼鳥とか、十番街の外れにある茶店の紅茶、それから……」


「食べ物屋ばっかりじゃないか……。今回は食い倒れの旅じゃなくて、ロギエル教の信徒として神殿や教会や昔の聖人たちの所縁ゆかりの場所に巡礼に行くんだよ」


 お忍びの下町巡りで見つけたいち押しの飲食店ばかりを次々と列挙するリスベツに、呆れたマルセロが溜息をつく。


「分かってるわよ。相変わらず生真面目ね。聖地巡礼ももちろん大事だけど、せっかく遠い異国に来たんだからそこにしかない地元の味を楽しむのも一興ってだけだって」


 アレクジェリア大陸の各地から集った騎士たちが結成したトマス騎士団の任務の一つは、聖地エスティムへ旅する巡礼者らの警護である。今回はジョレンティアの王族であるマルセロが巡礼に赴くに際し、その父である国王セルヒオ六世の依頼を受けて彼らが護衛と案内役を務めることになっていた。ジョレンティア国内にも支部を置くトマス騎士団に対してセルヒオ王は以前から手厚い保護と援助を続けており、その縁で国王の息子であるマルセロと騎士団長の娘のリスベツは幼い頃から何度も顔を合わせて親しくなっていたのだ。


「それに、国王陛下があなたをわざわざ今回の旅に出すようにされたのも、ただ単にロギエル教徒として聖地で祈りを捧げて徳を積ませるためだけじゃないわ。はっきり言って、マルスは昔から気弱で頼りないもの。可愛い子には旅をさせよ、って奴で、見知らぬ異国で色々と経験してもっと逞しくなるのを陛下は期待しておられるのよ。それにはただ大勢の家来に付き添われて城館と巡礼地を行き来するだけじゃなくて、自分たちだけであちこち探検してみなきゃね」


「そんな……参ったな」


 お忍びで城下に出ることを父王から内密に許可どころか推奨さえされているのだと、悪戯っ子のような笑みを浮かべながらリスベツは言った。大人しい性格で何事にも物怖じしてしまいがちなマルセロにとっては、そんな欠点を克服して成長するための父親の粋な計らいは非情の宣告でしかない。


「昔の聖戦で名を馳せたあの獅子王レオナルド公も、子供の頃はマルスと同じで物静かで内気な性格だったらしいわ。それと重なるのもあって、陛下はかえってあなたに期待せずにはいられないのかもね」


「僕はどう見ても、あそこまでの英傑になるような柄じゃないと思うけどなあ」


「人の才能なんて、当の本人にだってなかなか分からないものよ。さあ、興奮を誘う聖地への冒険にいざ出発!」


「ええーっ。勘弁してよ……」


 憂鬱そうにうなだれるマルセロの手を引きながら、リスベツは元気あふれる張り切った声を乾いた初夏の青空に響かせた。




「あれからもう五年か……。時が経つのは早いものよね」


 幼い頃の楽しい思い出を聖地に刻んだあの日から五年後の、アレクシオス帝暦一四九一年・五月一日。あの時と同じ日、同じ場所で、リスベツはマルセロを乗せた船が港に到着するのを待っていた。


「マルスと会うのも二年ぶりだわ。少しは逞しくなってるのかしら」


 十五歳になり成人したマルセロの二度目となる聖地巡礼。王家の嫡男で唯一の男子でもあるマルセロにとっては、既に内定している将来の王位継承に神の祝福を祈り求めるための旅でもある。内陸の砂漠から吹いてくる乾燥した熱風に金色の髪をなびかせながら、エスティムの街を間近に望むネルヘレムの港に佇むリスベツは子供の頃を思い出してあの時のようにはしゃいだ。


「セルヒオ王の鶴の一声で、随分と急に決まった巡礼でしたが……。何とか準備万端、整えてお迎えすることができましたな」


 リスベツの副官を務めるテオノア人の老騎士ニキフォロス・ホレバスが、今日まで準備のために奔走してきた苦労を思い出しながらそう言って溜息をつく。王族、しかも王の一人息子で将来の王位継承者でもある要人の警護ともなると綿密かつ大がかりな計画を要する案件で、急に要請されてもできるものでは本来ないのだが、今回そんな無茶な話を唐突に言い出したセルヒオ王の存念がどこにあるのかは円熟した経験豊富なニキフォロスにも分からない。


「でもこの大変な時に、父上も何をしてるのかしら。冬からずっとチェザーナの館に籠もりっきりで、騎士団長なのに全然こっちに顔を出さないんだから困ったものだわ」


 ニクラスは近頃何かの研究に没頭しているらしく、今年に入ってからずっとリオルディア王国のチェザーナにある城館に引き篭もったまま戻って来ない。王子の護衛という重大極まる任務があるというのに総指揮官たる騎士団長が不在というのは困った事態で、それが現場に残されたリスベツやニキフォロスらをより忙殺する原因になっていた。


「あっ! 船が来たわ!」


 一隻の帆船が港に入ってくるのを見て、リスベツは待ち焦がれていたように声を上げた。だが想像していたのとは大きく異なるその船の様子に、二人はすぐに気づくことになる。


「妙ですな。王太子であられるマルセロ殿下の渡海に、あんな小さな船が一隻だけで来るとは……」


「それにジョレンティア王家の紋章も掲げてないわ。ほら、あれは教皇庁の神旗よ」


 やって来たのはジョレンティアを治めるナルヴァエス王家ではなく、ロギエル教の総本山である教皇庁が所有している船だった。港に接岸して錨を下ろしたその船から、やがて黒いカソックを纏った一人の男が降りてくる。


「トマス騎士団のリスベツ・ローゼングレーン殿ですな。騎士団長ニクラス殿のご令嬢の」


「ええ。その通りよ」


 想定外の相手を迎えることになり戸惑いを隠せないでいるリスベツに、年老いたその聖職者の男は眉間に皴を寄せて冷たく睨むような視線を送り、それから衝撃的なことを告げた。


「ご神妙に願います。……反逆者リスベツ・ローゼングレーン。ジョレンティア国王セルヒオ六世公、並びに王子マルセロ・ルイス公の暗殺に加担した罪により、教皇猊下のご命令であなたを逮捕します」

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