第8話 僕の傍にいてほしい

 中井から電話がかかって来たのは、夕刻6時だった。


 10分ほど電車に揺られ、中井が指定した待ち合わせ場所、新宿駅東口の交番横へと向かった。

 体が触れ合う距離で通り過ぎて行く人波をかき分けながら、ちゃんと会えるかどうか心配になる。

 僕は、この人混みの中で、中井を見つける事ができるだろうか?


 新宿駅東口には待ち合わせとおぼしき男女が数人、スマホに落とした視線を時々周囲に泳がせている。

 その中に、中井は……いない。

 その集団に同化して、僕もしばし周囲に視線を泳がせた。

 午後から降り始めた雨は全然止む気配がなく、色とりどりの傘と土砂降りの雨に阻まれ、通り過ぎる人の顔さえはっきりと見えない。

 僕は雨に濡れないよう、屋根のある場所へと身を寄せた。

 中井は、僕を絶対に見つけられると言っていた。

 だから、白いシャツにベージュのハーフパンツといういで立ちまでは告げていない。

 本当に見つけられるのだろうか?


「小池さん!」

 透明感のある声が甘く僕の名を呼んだ。

 慌てて声の方に振り向くと、僕のイメージより少しだけ大人っぽい中井が笑って立っていた。

 どこからやってきたのか、ずぶ濡れだ。そのせいで白いブラウスからは、はっきりと下着が透けて見える。


「傘は?」

「ない」

「どうして?」

「今朝、持たずに家を出たから」

「ああ、朝は降ってなかったもんね」


 僕はポケットからハンカチを取り出し差し出した。

 中井は何のためらいも見せず「ありがとう」と、それを受け取ると、頬や髪、服を雑に拭って僕に返した。


「君ってやっぱり変わってるね」

 率直な感想を述べると、小動物のように頬をぷくっと膨らませて、ぷははははーっと笑った。


「ごはんでも行きますか?」

 そう訊ねると、中井は飛び跳ねるようにして頷いた。

 僕は紺色の傘を広げ、「どうぞ」と中井を招き入れる。

「どうも」と斜めにお辞儀をして中井が隣に立った瞬間、ニベアのような甘い香りが鼻先をくすぐった。


「どこ行こうか? 何が食べたい?」

「何でもいい」

「じゃあ、歩きながらよさげなお店に入ろうか?」

「はい」


「ところでさぁ、なんで僕の事すぐわかったの?」


「ネットで検索したから。コイケケイスケ。そしたらサイトが出て来た。ウェブ広告デザイナー? フリーターみたいな」


 フリーターじゃねぇよ。フリーランスだよ。


「代表っていうやつが出てきて、そこに写真があった」


 フリーター代表はまずいだろ。

 苦笑いをかみ殺す。

 しかし、同じ事をしていたのかと思うとちょっとだけ笑える。

 どういう印象だったかを聞くのはやめておこう。まだ撃沈はしたくない。


「思ったよりおっさんだなって思った」


 おい! 聞いてないのに言うなよー。


「まぁ、君よりはおっさんだな」


「うそ」

「え?」

「ちょっとだけタイプかもって思ったよ」

「ほんとそれ?」


「本当。だから、会ってもいっかなーって」


「そんな簡単に? 僕が悪い男だったらどうすんだよっ」


「それは絶対ないって思ってる」


「どうして?」


「まじめだから」


「まぁ、まじめだけが取り柄だからね」


「そんな事ないよ。やさしくしてくれたじゃん。クレーマーもやめてくれたんでしょ?」


「う、うん」

 元々クレーマーではないけどね。


「あ、雨やんだ」

 中井はそう言って、急に立ち止まり、傘からぴょんと飛び出した。

 僕の前に体を向けて立つと、両手を空に向かって広げ、クルクル回って見せた。しかも満面の笑みで。


 全くもって初めて対峙する人種である。


 傘をたたんでいると、中井は急に走り出した。「こっちこっち」と手招きしながら。後ろ姿を、見失わないように僕は必死で追いかける。


「ちょっと待って、早い早い! ちょっとストップ。話がある」


 その声に気付いた様子で、中井は立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。


「あのさ、先に言っておきたい事があるんですけど。いいですか?」


 二人の距離、およそ1メートル。


「はい、なんですか?」


 距離を保ったまま、向き合うように中井が直立した。


「昨日は言い過ぎました。ごめんなさい」


「はい。私も取り乱し過ぎました。ごめんなさい」


「僕は今日、心から変わりたいと思いました」


「変わりたい? どうしてそう思ったんですか?」


「君に出会ったからです。君を悲しませるような事を、僕はもうしたくないと思いました。だから……」


「……だから?」


「傍にいてほしい。どんな形でもいい。友達でも知り合いでも、どんな形でもいいから、僕の傍にいてくれないかな」


 中井が傍にいてくれたら、僕のこの決意は揺るがない。もっと世界は色づいて、違う景色が見える気がした。


 しばしの沈黙の後……


 中井は大きく頭を前後に振った。まるでロックスターのヘッドバンキングみたいに。


「そ、それは、イエスって事で、いいですか?」


 もう一度、今度は頭が吹っ飛ぶのではないか、と思うほどのヘドバンを見せた。

 雨に濡れた髪から飛沫が飛んで来て、とばっちりを受けた通行人が舌打ちしてこちらをチラ見した。


 その人に「すいません」と、軽く頭を下げ、興奮気味の中井を取り押さえる。


「行こうか。ゆっくり歩いて行こうか。人に迷惑がかかるから」


 そして、互い違いの肩を並べ、晩御飯を求めて歩き出す。


「ラーメンは?」

「いや」

「うどんとか」

「いや」

「焼き鳥」

「やだ」

「パスタ」

「やだ」


「何でもよくないじゃん。何が食べたいの?」


「焼肉」


 気が付けば歌舞伎町。

 韓国焼き肉屋の前にいた。


 中井はくるっと体の向きを変えたかと思ったら、僕の前に躍り出て親指を立てた。

 立てた親指を焼き肉屋の方に向け、急にペコちゃんみたいに舌を出し、こう言った。


「焼きの方法、語れ! 思う存分語れ!」


 焼きの方法?

 もしかして、薬機法?

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