第5話 胸が苦しくて……
怒りの持続時間は2時間。悲しみの持続時間は120時間だそうだ。
深夜1時。
ベッドに体を沈めたが、中井の泣きさけぶ声が耳についていてなかなか寝付けずにいた。
女の子を泣かすというのは、決して気分のいいものではない。
もう、涙は止まっただろうか?
番号を通知してかけさせればよかったと、今さらながら後悔している。
こちらから連絡する術がない。
とっくに怒りがおさまった僕は、中井がまだ泣いているような気がして、胸がチクチクと痛んだ。
潔癖な空間に汚物が広がっていくような不安感が襲う。
あお向けのままスマホを顔の前に持ち上げ、電源を入れた。
サファリを開き、検索窓に【中井
該当すると思われるSNSが一件。
タップしてプロフィールを見ると、年齢、職業が一致。
間違いなさそうだ。居住地は世田谷区か。プロフ写真は中井本人だろうか?
黒髪のボブヘアー。ぎこちなく笑っている顔は高校生にも見える。
くるっとした黒目がちな瞳は、小学生の時、学校で飼育していたうさぎを彷彿させた。
ツイッターのリンク有り。
それをタップしたら、中井の様子がわかるだろうか?
僕は体をうつ伏せにひっくり返し、リンクをタップした。
出て来たアカウントのアイコンを見て、驚きを隠せなかった。
流行りのスマホアプリで中井がうさぎになっている。
そして、浴衣がよく似合っていた。
しかし、鍵が付いている。中身は一切見る事ができない。
ゲームオーバーを食らった子供のように舌打ちをして、再びあお向けに寝転がった。
再び視界を暗闇が支配した。
秒針の音が、僕を責める。
・・・・・・・・・
眠れないまま迎えた朝は、全然新しくなっていなくて、昨日の延長線上にあった。
女の子を泣かせてしまったという事実は上書きされる事なく、ただ無意味に時間が経過したに過ぎない。
壁掛けのアナログ時計は短針が10を指している。
スマホに通知は無し。
淀んだため息を吐き出しながらベッドから起き上がり、シャワーに向かう。
その足を止めるかのように、着信音が鳴った。
スクリーンには、懐かしい名前が表示されている。
【
和田さんは以前、僕が勤めていた会社の直属の上司に当たる。とてもお世話になった恩人である。
僕は慌てて通話を繋いだ。
「和田さん。お久しぶりです」
『小池君、久しぶりね! 2年ぶりかしら? 元気してた?』
和田さんは僕が会社を辞める1年前に自主退社した。あれ以来、一度も連絡し合っていなかった。
「ええ、まぁなんとか」
『仕事はどう? 独立したんだよね。上手く行ってる?』
「まぁ……どうにか。どうして知ってるんですか?」
『先週、社長に会ったのよ。フリーランスも大変でしょう?』
「え、ええ、まぁ……」
和田さんに嘘は吐けない。何もかも見透かされてしまう。見栄も意地も、強がりも。
今の僕の胸の痛みも――。
『今、神楽坂まで来てるのよ。お茶でもしない?』
神楽坂は僕の自宅兼事務所の所在地だ。仕事でたまたま来たのだろうか? それともわざわざ僕に会いに?
和田さんは確か、現在は大手化粧品メーカーの営業部で活躍していると風の便りで聞いていたが……。
「いいですよ。さっき起きたばっかりなんで、今からシャワー浴びて、出かけられるのは1時間後ぐらいになるかと思いますけど、いいですか?」
その問いに和田さんはぷふっと笑った。
『相変わらずね。シャワー浴びて髪の毛セットして、念入りにお化粧でもするつもり? 意識高い系OLじゃあるまいし』
「いや、ヒゲぐらい剃ろうかと……」
『そんなの気にしなくていいから、そのまま歯磨きして、ばしゃっと顔だけ洗って出ておいで』
元々サバサバした人だったが、更に男前になってる。
「ふふ。わかりました。現在地送ってください」
そう言って、一旦電話を切り、言われた通り歯磨きをして、顔を洗い、ついでに水で髪を撫でつけ寝ぐせを直した。
玄関を出ると湿気を帯びた不快な熱気がもわっとまとわりつき、自室がいかに快適だったかを思い知らされる。顎を撫でればザラザラとした無精ひげが更に憂鬱をもたらす。
和田さんが指定した場所は、自宅から徒歩で5分ほどの場所にある、老舗の喫茶店だった。
チェーン店のようにはしゃいだ感じがなく、静かでゆっくりと自家焙煎のコーヒーを楽しむ事ができる。サイフォンで淹れたコーヒーが飲めるのは、この辺りではこの店だけだ。
ダークチョコレートのような木造りの格子が嵌まったガラス戸をゆっくり押すと、ドアベルがカランコロンと乾いた音を鳴らした。
音に反応して、マスターより早くカウンタ―席の女性がこちらを見た。和田さんだ。
30歳手前とは思えないほど可憐で涼し気なワンピースから、装飾の殆どない細い腕が伸びている。
脚を組み、しゃんと伸ばした背筋は、あの頃よりも幾分ほっそりとしたように思う。
目が合った瞬間、2年間のブランクは全くなかったかのように消え失せ、あの日の出来事が昨日の事のように重くのしかかる。
急に足がすくみ、笑顔は引っ込み、入口で立ち止まったまま僕は項垂れた。
心臓がキリキリと切り刻まれるような感覚に、膝から崩れ落ちそうになる。
そんな事はお構いなしと言った感じで和田さんは楽し気にこう言った。
「小池君、こっちこっち」
その声に気圧され、僕は深く頭を下げて和田さんの方へと歩みを進めた。
「朝ごはんまだでしょ? 野菜サンド注文しといた」
カウンタ―テーブルには彩りよく並べたらサンドイッチが、手つかずのまま白い皿に盛られ鎮座している。
和田さんは小さめの小洒落たカップを手にしたまま、隣に座るよう僕に促した。
「和田さん、その節は――」
立ったまま深々と頭を下げた僕の肩をポンと軽く叩き、和田さんはこう言った。
「そんな事させるために呼び出したんじゃないわよ。ほら、早く座って」
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