第19話 エマージェンシー

 今朝、いつもより早く目覚めた葵は、手際よく弁当作りに勤しんでいた。


「ん~いい感じ~。出来た――!」


 朝食は、作り置きしたほんのり甘いほっこりかぼちゃのスープとこんがり香ばしいトーストにベーコンエッグ。どれも子供たちの大好物だ。


 きつね色した熱々トーストの上を滑り下りる蕩けるバターと、琥珀色した蜂蜜の甘い香りが漂い子供たちの鼻腔をくすぐった。


「うわ~いい匂い!いただきます!」


 いつもより早く支度を終えた子供たちがダイニングテーブルに集まり、それらを美味しそうに頬張った。

 

 突如、何かを思い出したかのように手を止め顔を曇らせる長女はぽつりと呟いた。


「お母さん、この間の話なんだけど。私、どっちも一緒じゃなきゃ嫌・・・・・・」


 数日前、葵は長女彩香に質問を投げかけていた。「暮らすならば父と母どちらがいいか」と。葵は、感がよく聡い長女の顔を見て、なんて酷な質問をしてしまったのだろうと今更になって酷く後悔した。


「そうよね。例えばの話よ。それでも、どちらか決めなければいけないといったら?」

「・・・・・・じゃあ、お父さん・・・・・・」

「え!?どうして?お母さんじゃダメなの?」

「それは・・・・・・また今度でもいい?」


 葵は彩香の予想外の返答にショックを隠せなかった。




「行ってきまーす!」

「忘れものはない?」

「うん。あ、今日ね。お母さんの病院の前を通るから気づいたら手を振ってね」

「そうね。タイミングがあったらね。じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」


 その日、長女は社会科の課外授業で地下街の商業施設に出かけることになっていた。

 何時にない爽やかな朝を迎えたというのに、何故だか胸騒ぎを覚えた葵だった。




 今朝の救急外来は、救急搬送されてくる患者もなく平和な時間ときを過ごしていた。

 

 ふと救急の入り口のガラス扉から外を眺めると、反対側の歩道を列をなして歩く生徒たちが目に映った。課外授業で街にやってきた子供たちだ。


 葵は、救急外来の外に出て遠巻きに子供たちを眺めていると、母親に気づいた娘の彩香が大きく手を振って寄越したため葵も同じく応えた。


「東雲さんのお子さん?」

 葵の後ろからひょっこり顔を覗かせたのは、救急外来看護師長の安曇だ。


「はい。今日は地下街の商業施設で課外授業だそうです」

「なんだか楽しそうね」

 二人は、はしゃぐ子供たちを微笑ましく見送った。




 柱の時計が十一時をまわろうとする頃、それは起こった。


 ――ん?めまい・・・・・・?

 突如、葵はクラリとした感覚を覚えた。


 次の瞬間、遠くから「どどう」と大地の怒りのような地鳴りが響き、地を波立てるほどの大きな揺れに襲われた。


「地震――!!」

「キャー!」

 誰が発したか分からない切羽詰まった金切声が耳をつんざく。あちらこちらから悲鳴が上がり、処置室の広いフロアーはこれまでにない程騒然となる。


 棚に収納されていた物品は、まるで自ら意思を宿したかのように飛び跳ね、天井から吊るされたモニターは今にも落ちると言わんばかりにキシキシと大きく揺れ動く。


 壁や天井がメキメキと音をたて軋み、立っていられない程の強い揺れにその場でしゃがむが、頭をかかえることもままならない程その身は右に左に揺さぶられ身動きがとれない。


――はっ・・・・・・!?子供たち、どうか無事でいて・・・・・・!


 葵は、揺れる最中子供たちの身を案じ一心に無事を祈った。

 数分後、強い揺れが治まると上司から指示が飛び交う。


「皆無事!?これより、災害時マニュアルに従い、患者、スタッフの安否確認を!それと同時に、救急外来の被害状況の報告を急いで!」

「はい!」


 スタッフは動揺が鎮まらぬまま、上司の指示に従い一斉に被害状況の確認に走りまわった。


「スタッフ全員無事です!」

「救急待合室に患者ゼロ!建物の目立った被害なし!」

「報告します!処置室、観察室、トイレに患者ゼロ。観察室の壁に一部亀裂が生じています。処置室の棚から物品が飛散し足の踏み場がありません!」

「各診察室に患者ゼロ。建物内部の被害なしです」

「報告です!一般外来に向かう通路の窓ガラスが割れ破片で通行不可能です。怪我人はいません!」


 スタッフは息を切らせながら被害状況の情報収集に駆け回り、安曇看護師長に次々と報告する。報告を受けた安曇は、スタッフに次なる指示を云い渡す。


「あなたたちは、ガラスの破片を片付けて!」


「あなたとあなたは容器にありったけの水の確保を!」


「あなたたちは、散乱した物品を素早く片付け、救急の受け入れ態勢を整えて!」

「それから!間もなく患者が救急搬送され、被災した多くの患者が病院に押し寄せることが想定されます。ここは修羅場となるでしょう。さあ皆、これからが正念場よ!一人でも多くの人たちを救いましょう!」


 葵の働く病院は街の中心部に位置しているため、地震の被害者が多く運ばれてくることが予測された。


「これより、災害時非常事態マニュアルを発動する。病院入り口を一か所に絞り、医師は患者のトリアージを行うものと治療するものとに別れよう。さあ、患者が押し寄せるぞ!皆、防護服の着用を!」


 救急外来センター長、葛城医師はエマージェンシーを宣言した。地方自治体より、災害時非常事態宣言が発令され、それに伴い当院も緊急時医療体制が敷かれた。


 その時、けたたましい警報アラートが鳴り響いた。


「緊急事態宣言発令!只今、地震の影響により地下街でガス漏れが発生!警戒レベル5と発表されました!命の危険が迫っています!地下街にいるすべての人々は直ちに非難してください!繰り返しお伝えします――」


 その刹那、皆の動きは止まり顔を見合わせ凍り付く。


「地下街でガス漏れ――!?」


 葵は怖気立ち、血の気が引いていくのを感じた。子供たちは街の地下街の商業施設で課外授業の最中だった。

 何十人もの生徒たちが地下街にいる。さすがに、引率の教師たちが地上に避難誘導させたと願いたい。


 だが、今朝から泡立つような胸騒ぎが止まらない――


「師長さん!子供たちが・・・・・・!地下に取り残されているかもしれません!」

「え?なんだって!?」


 葵は救急外来から歩道に飛び出し、ずっと先に見える地下道への入り口を見つめ

た。そこからは、地下から非難してくる人たちの姿が見られた。

 

 再び外来に戻った葵は、看護師長に懇願した。


「師長さん!こんな時に申し訳ありません!少しだけ職場を離れる許可をください!子供が地下街にいるんです!直ぐそこの地下道入口まで様子を見に行く許可をください!」

「う~ん、困ったわね・・・・・・まだ救急搬送の連絡がこないから、すぐに戻るならば許可します」

「ああ、ありがとうございます!子供の安否を確認したらすぐ戻ります!」


 葵は一心不乱に地下道入口に向かって駆け出した。




 地下道入口に到着すると、ハンカチで鼻と口を覆った人たちが地上に駆けあがってきた。


「あの、すみません。地下街で子供たちを見かけませんでしたか!?」

「ああ、子供たちなら見かけたよ」

「どのあたりで!?」

「最近できたばかりのデパートの地下辺りだ」


 葵は、地下街に続く階段を駆け下りようとしたその時、行く手を阻まれた。


「中には入らない方がいい!ガスが充満していて危険だ!」


 地上から地下街に続く階段を見つめる葵は、一刻を争う状況に気が焦る。

 こうしてもいられないと、はやる気持ちに背中を押され地上からデパート付近

の地下通路入り口を目指した。


 ――うっ――!この匂い――


 商店街に近づくにつれ地下街からの異臭が濃く感じられた。

 目的の地下通路付近にたどり着くと、そこにはコンコンとせき込む子供たちと引率の教師たちの姿が見られひとまず安堵する。

 だが、子供たちの中に自分の子供の姿をみつけることが出来なかった。

 担任教師に駆け寄り声を掛けると、葵の顔を見るなり血相を変え謝り出した。


「はっ!お母さん!ごめんなさい!彩香ちゃんが・・・・・・!まだ地下街に取り残されています!」

「え!?どうしてうちの子だけが・・・・・・!?」


 葵は、はじけるように地下通路に駆け出すと既に規制線が張られ侵入できなくなっていた。それでも規制線をかい潜り地下に侵入しようとすると、警察に制止された。


「お願いです!行かせてください!うちの子が!まだこの中に取り残されているんです!早くしないと!」

「ダメです!今にも爆発の恐れがあり危険です!中には入れません!」

「爆発――!?ならば、余計に急がなければ!子供が死んでしまいます!」

「お気持ちはわかります。今消防のものが避難誘導に向かっていますから」


 葵はどうすることもできないどかしさに地団太を踏んだ。


「あれ?東雲さん!?東雲さんじゃありませんか。僕です。谷崎です!」

「谷崎さん?お願い!うちの子が地下に取り残されているんです!助けてくだ

さい!」

「それは大変だ!地下は地震の影響で都市ガスの供給ラインが破損しガスが充満して危険な状態なんだ!」

「その中に、うちの子が取り残されているんです!早く助け出してあげなければ!」

「落ち着いてください!今、消防隊が中に侵入して避難誘導していますから!」


 と、その時。地下から消防士たちが次々に血相を変え一斉に戻り始めた。


「おい!何があったんだ!?」

「撤退命令だ!爆発する!今すぐここから皆離れるんだ!」


 凍り付いた谷崎は、無言で葵を見つめた。

 どうやら、地下に充満したガスがいつ爆発してもおかしくない状態となり、二次災害を防ぐため消防士たちに撤退命令が下されたのだ。


「うちの子は――!?子供は見かけませんでしたか!?」


 葵は、すがるように消防士に娘の安否を確認してまわった。


「地下街にいる人は地上に避難誘導しました。中は停電で真っ暗だったが・・・・・・

 ヘッドライトで見てまわった限り、子供の姿は見かけなかったなぁ・・・・・・」

「誰かー!地下で子供を見かけたものはいないかー!?」


 谷崎が消防士に聞いてまわってくれたが、誰一人見かけたものはいなかった。


「うちの子は、まだこの地下のどこかに取り残されている・・・・・・早く探し出してあげなくては・・・・・・」

「ダメだ!一人では行っては危険だ――!」


 葵は、谷崎の制止の声を振りほどき、デパートに向かって駆けだした。


 ――あそこからならば、侵入できるかもしれない!




「あ、そこの方!どこに行く気ですか!?この先は入れません!」


 デパートの警備員に止められた葵は、警備員にキッと強い視線を送り詰め寄った。


「ここを小学生の女の子が通らなかったですか!?」

「子供は見なかったな・・・・・・もう皆避難して地上に出ているはずだ。もうここを離れなければ危険だ!」

 

葵の耳には警備員の声は届かなかった。

葵は、臆することなく地下道へ進み、死と隣り合わせの危険な闇の中に吸い込まれるように姿を消した。


「ダメだ――!この先には行ってはいけない!死にたいのか――!」


 ――彩香!彩香!彩香――!どこ?どこにいるの!?どうか無事でいて――!


 葵は祈るように駆けだした。




『お父さんがね、お母さんは困っている人を助ける白衣の戦士だって言ってたよ。戦士って物語のヒーローでしょ。だから、お母さんは強いんだね。私もお母さんのようになりたいな・・・・・・』


 ふと、娘とした会話が思い出された。


 ――こんな時に、思い出すなんて・・・・・・


「彩香――!どこにいるの――!?返事をして――!!」


 先程の地震で停電となった地下は真っ暗だったが、暗順応した目はおぼろげに地下の様子を視覚で捉えられるようになっていた。

 だが、ガスの濃度は高まり息苦しさに咳き込んだ。

 暫くすると、遠くからパタパタと近づく足音をとらえた。


「はっ――!彩香!?」


 目の前に現れたのは逃げ遅れた男性だった。


「ああ、よかった~。あなたも逃げ遅れですか?一緒に逃げませんか!」

「この先、五十メートルほど行った左手にデパートへの入り口があります。そこから地上へ上がれます!」


 そう言って、反対方向に進もうとする葵の行動に不審感を覚えた男性は立ち止まった。


「あなたは逃げないのですか!?」

「私は、娘を探しに来たんです。小学生くらいの女の子を見かけませんでしたか!?」

「あっ。そう言えばさっき、女性に寄りそう女の子を見かけたな・・・・・・」

「その女の子!どこに向かったか分かりますか!?」

「駅の方に向かって歩いていたよ。一緒にいた盲導犬が弱って歩くのが大変そうだったけど・・・・・・」


 ――盲導犬・・・・・・!?彩香、絶体助け出してあげるから!。それまで待ってて!!


 葵は確信した。その女の子は我が子の彩香だと――


 葵は、以前彩香と交わした約束を思い出した。


『今日ね、電車の中で盲導犬を連れた女性に遭遇したの。その人『私に扉のすぐ傍の席を譲ってください』って声をあげていたの。とても勇気のいることよね。皆席を譲ったけど誰も彼女を誘導してあげないものだから、お母さんがその人の手を引いて座らせたの。これは自慢でもなんでもない話。人として当たり前の行動の話』


『う~皆、意地悪じゃん』


『ううん、それは違うと思う。困っている人を助けてあげたいと誰しもが思っているはず。だけどね、皆勇気がないだけ。行動に移す勇気がないの。だから、あなたは困っている人に手を刺し伸べられる勇敢な人に育って欲しいと思う』


『うん!わたし、お母さんみたいに勇敢な人になる。約束する!』


『いい子ね』



 ――私だった。あの子を危険な目に合わせたのは、他でもないこの私だった


 葵は、自虐的な笑みを口元に浮かべた。


「彩香――!彩香――!」


 地下街はガス濃度が高まり息をするのも苦しい。

 それは、いつ爆発してもおかしくない危機迫る状態を意味していた。

 娘がまだ見つからない――最悪なシナリオを想像してしまった葵。

 焦りに突き動かされ、声を張り上げる葵の心臓の鼓動が激しさを増していく。


「彩香――!何処にいるの――!」


 ――ああ、どうか、無事でいて――!

 

 願わずにはいられなかった。

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