第6話 妄想
「これ、皆さんで召し上がってください」
両手いっぱいに抱えられた腕から、ドサリと机の上に並べられた銘菓、漬物、飲み物といった土産の数々。
「きゃ~嬉しい!こんなにたくさん、いいの~?」
美味しいものに目がない葵の先輩看護師、森山絵里。瞳を輝かせながら忙しなく種々のものに目が移り変わる。
「いつも皆さんにお世話になっていますから」
ペコリと頭を下げる葵。
「あ~これ美味しいのよね~ってことは、京都に行ってきた?」
お土産をあれこれ手に取り気色満面の色を浮かべると、眼鏡越しに葵を見やる救急外来看護師長、安曇薫子。
「はい、先生たちの分も買ってきましたからどうぞ」
救急医たちがわらわらと集まり始めた。
「ああ、ありがとう。早速皆でいただくよ」
救急救命センターのトップを務める医師、葛城隼人はパソコンを打つ手を止め皆の会話に混じる。
「連休だったから観光地は混雑していたんじゃないか?」
「はい、そう思って躊躇したのですが、何だか無性に京都に行きたくなって」
「そうだ、京都行こうってやつだろ?」
「はい」
「家族旅行か~暫く行ってないな~東雲さんのお子さんたち喜んだでしょ」
安曇看護師長はにこにこと語る。
「それが、子供たちは私の実家に泊まりたいと言い出したので、急遽夫と二人で・・・・・・」
「え~!?旦那さんと二人きりで?嘘でしょ、ありえない!旦那と旅行だなんて想像しただけでない。ない、ない。第一、会話がもたないし、傍に居られるだけでイラつくし、息がつまるわ!」
彼女のプライベートに何があったのだろう。拳を握りしめ、どこか虚空を見つめながら力説する安曇看護師長。
「や~結婚生活が長くなると、妻はこんなになっちゃうの?俺大丈夫かな・・・・・・」
力説する師長を横目に、葛城医師は自分の将来の不安を覚える。
そのやり取りに思わず笑いが溢れ出す。
「熱々だね~東雲さん」
「そうでしょうか・・・・・・」
「で、どうだったぁ?」
にやけた顔して語る森山の、どうにでも聞こえるアバウトな質問に皆が注目した。
「以前から見たかった雲龍図を、あちこち見てまわることができてよかったです。美味しいスイーツの店も巡り、たくさんいただきました。夜は飲み屋を梯子して酔いつぶれてしまいましたが・・・・・・」
「それ、いいよな~。京都は夜も楽しいんだよな~」
葛城医師が京都に想いを馳せながら語る。
そこへ救急外来に出勤した医師・看護師たちも加わり賑わい始めた。
救急センターの一角にある医師の部屋から、京都旅の話で盛り上がる楽しげな声がフロアーまで響き渡っていた。
「何だ、何だ、何事だ?」
夜勤明けの桐生が、ひょっこり顔を覗かせた。
「あ、桐生先生、夜勤お疲れさまです。先生もおひとついかがですか」
葛城は葵の土産を桐生にすすめた。
「凄い量の土産じゃないか。誰か旅行に行ってきたのか」
「東雲さんが、旦那さんと二人で京都旅行に行ったお土産です」
――なんだって?東雲さんが旦那と二人きりで旅行だと?
このとき桐生は、胸の奥で渦巻く黒いものを感じた。
「ふ~ん。旦那さんと二人きりでね・・・・・・で、どうだったの?」
桐生はあえて冷静を装い、何気に質問を投げかけた。
「凄くよかったです」
――なんだって?凄くよかっただと?よかったのはどっちだ?旅か?それとも旦那か?東雲さん、確か君たち夫婦は・・・・・・
桐生は、前回夜勤の葵と患者の会話を思い出した。
『私たち夫婦はセックスレスなんです』
――京都旅行で夫婦愛が深まったか?・・・・・・東雲さん、そういえばこんなこと言ってたな・・・・・・
『通販で超セクシーなランジェリーを購入して身に着けて見たものの、そこに至るシチュエーションがないのだから。思い切って甘えてみたけれど・・・・・・』
――ってことは、超セクシーランジェリーを身につけたというのか?ああ~普段の彼女からは想像もつかない・・・・・・!
桐生は葵の顔をまじまじと見つめた。
「?」
そんな桐生を見て小首を傾げる葵。
桐生の妄想が止まらない。
――東雲さんのいう、超セクシーランジェリーってどんなのだ?エロ可愛い的な?生地が薄くてスケスケなベビードールといわれるあれか?それとも、極端に布の面積が少なくて胸も尻も零れ出てしまいそうなやつだろうか。いや、サディスティックな仕様ということも考えられる・・・・・・
「・・・・・・」
真剣な眼差しで虚空を見つめたまま何も語らない桐生。彼は完全に妄想の世界に浸っていた。
――控えめな彼女が、一体どうやって旦那をその気にさせたんだ?やっぱり誘惑したのか?うわぁ~どんなだ?どんな感じに・・・・・・?東雲さんが旦那の目の前で服を一枚一枚脱いでいったとか?それとも『あなた・・・・・・』妖艶に甘く囁く彼女は夫をリードし、夫が何も言えなくなるように唇を奪い押し倒し騎乗する・・・・・・うわぁ~!し、東雲さん!エ、エロ過ぎる・・・・・・!
その時、葵と目が合った桐生は、わかり易いくらい頬を紅潮させた。
桐生の思い描く勝手な妄想の世界を知らずして、桐生に微笑む葵。
「そうなのか!?東雲さん!?」
桐生は勝手な妄想に対する質問を投げかけた。
「はい」
そんな妄想が含まれた質問とは知らず、明るく返答する葵。
――そんな笑顔ではっきり返事されたら凹むじゃないか・・・・・・君は一体どんな感じに乱れるんだ?甘い吐息を漏らすのか?喘ぎ啼くのか?あ~そんな東雲さんが見てみたい!東雲さんの夫が羨ましい!あ~人妻はなんてエロいんだ~!
桐生は頭を抱え身悶えし始めた。
「あの・・・・・・桐生先生?先程から様子が変ですが、どうかされましたか」
葵の言葉に、妄想の世界から現実にハッと意識が戻された桐生。
気づけば、その場にいたスタッフ全員が桐生に注目していた。
――しまった!これでは、昨夜の患者じゃないか・・・・・・!俺としたことが・・・・・・
「いや~どうもこうも・・・・・・昨夜の夜勤で・・・・・・疲れたようだ・・・・・・」
間延びしたボソッとした口調で「ふぅ」と深いため息を零す桐生。
昨夜の当直もなかなかキャラの濃い患者がやってきた。
深夜受診した患者は三十代男性。主訴は腹痛。
ハアハアと苦しげな表情で桐生を見つめながら質問に答える患者。
「いつから痛いですか。昨夜食べた食事内容を教えてください」
桐生は患者からアナムネ(患者の入院歴、病歴、生活状況を聞くこと)をとり診察する。
「では、ベルトを緩めて・・・・・・」
患者の男は額に汗を滲ませ、浅く速い呼吸に変わっていった。
患者の腹部にステートをあて腹鳴を聴診し始めた桐生。
「っ・・・・・・!?」
その異様な光景に思わず息を呑み、診察の手が止まる。
なんとその男がズボンの下に身に着けていたものは、真っ赤な女性用のレースのパンティにガーターベルトと網タイツだった。
剛毛なその男は、女性用の下着には収まりきれない陰毛がわさわさとはみ出でいる。
「・・・・・・」
桐生は、思わず泣きたいような笑いたいような複雑な心境に陥った。
医療の現場は時としてこのような患者に遭遇する。
件の患者といったら、先程よりもハァハァと呼吸が速くなり、羞恥に駆られ頬を赤く染めあげ身を震わせていた。
――興奮してるというのか!?まずい・・・・・・!この手の患者はあまり刺激してはいけない・・・・・・だからといって患者の診察を放棄するわけにもいかない・・・・・・
桐生は表情ひとつ変えることなく、患者に対応した。
「先生、肛門が痛いんです・・・・・・!診ていただけませんか!」
――まじか・・・・・・!
桐生は患者の訴えに肛門の観察をする破目に。
男性患者を左側臥位にして、肛門周囲を観察する。
さっと診て終わりにするつもりだった桐生は、次の瞬間うな垂れた。
なんと、肛門が赤くただれていたからだ。
――はぁ、仕方ない・・・・・・一応やっておくか・・・・・・
「これから、肛門に指を入れて直腸を診察します」
「はい、力を抜いて、口で息をしてください」
介助についた看護師が、笑いそうになるのを口の中を奥歯で噛むように耐えている。
桐生はグローブをつけると、潤滑ゼリーを塗った人差指を肛門へ押し入れ直腸診を行った。
「ひゃっ・・・・・・うっ、あっ・・・・・・んあっ・・・・・・」
肛門の痛み刺激に声を上げる男性患者。
通常行われる直腸診の際に、苦痛の声を上げるそれとは明らかに違う声だった。
それはまるで、快感に溺れる淫らで喜悦の声に聞こえた。
「・・・・・・」
介助についた看護師は、困惑の表情で桐生医師を一瞥するが、彼は顔色ひとつ変えることなく淡々と診察を終了した。
後は採血と画像診断の結果待ちとなる。
結果が揃ったところで、桐生は観察室で休む患者のところを訪れ説明した。
「異常はなかったです。一応肛門周囲のただれに対する薬を処方しました」
「そんなはずない。僕は末期の直腸癌で今日明日にも死んでしまうんだ!」
患者は桐生に訴えた。
診察、画像診断、ラボデータからも全く異常所見は見当たらなかった。
「先生、死にゆく僕の最期の願いを聞いてください!先生に浣腸して欲しいんです!」
患者は真剣に訴えた。
――はぁ?何だって!?
さすがに動揺する桐生医師。
対応した看護師は、噴き出してしまいそうになるのを必死に堪えていたが、耐えようにも耐えきれず笑みが口角に浮かぶ。
――この俺に浣腸しろというのか!?俺は何のプレーにつき合わされる?死にゆくって、何を言っている?簡便してくれ・・・・・・
頭を悩ます桐生。
それでも、毅然とした態度で浣腸の必要性はないこと、死ぬような病気にもかかっていないことを説明した。
だが、患者の妄想は膨らむばかりだった。
途方に暮れた桐生。
患者は酷い妄想型の精神疾患を患っており、埒が明かないと思った桐生は、付き添いの家族に説明すると帰院してもらった。
やれやれと思った頃、次なる患者がやってきた。
一件、品のいい高齢の男性患者だった。
「君は私のことを見覚えないか?」
患者は開口一番にそういった。
桐生は、カタカタとキーボードを打つ手を止め患者の顔を見た。
「すみません。覚えがありません・・・・・・今一番辛い症状はなんですか?」
「腹が痛くて、頭も痛い。歯も痛いし、肩腰も痛いよ」
辛い表情ひとつせずニコニコと語る患者の男。
「・・・・・・」
桐生はキーボードを打つ手を止めた。
明らかな不定愁訴だった。
「こんなだから、仕事がはかどらなくて困っているんだ」
「今お仕事されているんですか」
「はい」
「どんなお仕事ですか」
「私は新聞に載ったことがあるんだよ」
「へぇ、新聞に・・・・・・」
「そう、新聞だ。表彰されたんだ」
「それは凄い。ちなみに何で表彰されましたか?」
「君は本当に私のことを知らないのか?世界中の人が僕のことを知っているというのに」
桐生はそう言われて、患者の顔をマジマジと眺めるが全く見覚えがない。
「・・・・・・失礼ながら、存じ上げません」
「君は、ノーベル賞をとったこの私のことを知らないのかね」
「・・・・・・」
桐生は絶句した。
――またか・・・・・・
本日二人目の妄想患者だった。消化器内科医の桐生は専門外だった。
門田一茂。身寄りのない生活保護を受ける70歳男性。
桐生は、アナムネを取りながら患者の妄想を助長させ症状を悪化させてしまった。
言動から、いわゆるプシコ(精神科)患者の典型的な妄想性症状だった。
当院に新規受診した患者のため情報はなく、症状から病状を理解した。
その直後、患者の様子がおかしくなった。
耳に手をあてパタパタと手を動かし、うつろな目をしてどこか遠い虚空を見つめ始めた。
「うん、わかったよ・・・・・・母さん、そうだね・・・・・・そうするよ・・・・・・」
患者は、誰かと会話をしているようだった。
――幻聴か?
「門田さん、今どこか調子悪いところはありますか?」
「・・・・・・」
先程と打って変わって反応がなかった。
患者の意識はどこかを彷徨っているように思えた。
このまま患者を返すわけにもいかず、必要最低限の検査を行い紹介状に情報を添えて精神科専門医のいる病院へ患者を転院させた。
桐生は思った。
人はなぜ妄想するのだろう。妄想のその先には一体何がある?
現実逃避か?確かに人は辛い現実から逃げ出したい気持ちになることがある。
ストレス解消のためか?心のモヤモヤを解消したくなる時がある。そんな時妄想することで、誰にも邪魔されることなく気分がリフレッシュする。
癒しのためか?脳内に自分の好きな世界観を想い描き妄想することで、幸福感に包まれる。最高の癒しである。
実現へのシミュレーションか?夢を現実のものにするためのイメージをすることがある。
特別な存在になりたいから?好きな人の特別な存在でいたいと思うし、社会から認められ賞賛されたいという願望は誰でもあるだろう。
桐生は考える。
捉え方によっては、妄想も案外悪いものではないのかも知れない。
たとえネガティブな思考に陥ったとしても、自己防衛本能が弱い心を守ろうと都合よく働きかけ、ポジティブな思考に変えてくれるのだから。
そうか・・・・・・人はこうして心というものを守っているのか、と感慨に浸る。
だが、妄想の世界から戻れない人々がいる。
現実と妄想の違いが分からなくなると人は生きることが困難である。
社会は病気としてその人を扱うことになる。
本人に自覚症状が無い場合、ただ辛い現実に身を置かなければならない。
その時、人は更なる現実逃避の妄想を描きその世界に浸るのかも知れない。
その結果、妄想世界に生き続けることになるのだろうか。
そう考えると、妄想患者たちは特別でもなんでもない。
自分と昨夜の妄想患者たちは表裏一体であることを自覚した桐生。
桐生は感慨深い表情でふふっと小さく笑った。
――まぁ、女装の浣腸プレーだけは勘弁してもらいたいところだが・・・・・・
「桐生先生、今日はゆっくり休んでくださいね」
葵の労いの言葉に癒される桐生。
「ああ、そうするよ。東雲さん、まあ、楽しい旅でよかったな・・・・・・」
桐生は葵の土産をひとつ手にすると、ふわりと微笑んだ。
「桐生先生、お疲れさまでした」
皆で桐生を見送った。
桐生は、振り返ることなく片手をパタパタと振りながら、救急外来を去っていった。
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