第6話 特別になりたい

 試合終了の笛を、遠江空はベンチで聞いた。


 ピッチでは仲間たちが崩れ落ちて涙を流し、監督を含めたベンチに残るメンバーも拳を握り奥歯を噛みしめた。勝利したチームは笑顔で応援席に駆けて行き、喜びを分かち合う。


 磐袋高校のイレブンが戻ってくると、監督が何か声をかけていた。選手たちは最初こそ悔しさを見せるも、次第に敗北を認めてやり切った表情に変わる。


 三年間の青春がここに閉幕。悔いのない満ち足りた姿を見るに、彼らの長い人生においても特別な日として思い出に刻まれたことだろう。


 部長がチームを鼓舞すると、それに乗ったムードメーカーが何かを言ってくすりと笑いが起きた。その笑いは伝播していき、チームの雰囲気は明るくなる。


 俺たちはよくやった。今までありがとう。お前ら最高だ──

 そんな雰囲気に当てられても、空の心は虚無だった。

 悔しさも達成感も無く、「ああ明日からは部活ないんだ」という感想しかなかった。

 自分は一つの高校の部活の中ですら特別ではないのだから仕方ない。

 仕方ない。仕方ない。仕方ない──


 磐袋高校も観客席に挨拶をしに行った。

 チームの足取りは軽くなり、ジョギングしながらスタンドに手を振る仲間たち。それに応えて拍手を送る保護者。そしてもらい泣きしたり彼氏の名前を叫んだりするダンス部。


 そこでようやく空の中に感情が芽生えた。

 決して目立たない一人の女の子に目を奪われた。

 誰も空の事を見ていない。数いる部員の一人としか映っていない。

 それでも、舞阪海帆だけはじっと空を見つめていた。


「……」


 目が合ったが、すぐに空は逸らす。

 気づけば部長が支えてくれた方々に感謝を言って、後に続いて仲間が礼をしていた。慌てて空も頭を下げて顔を上げると、海帆は他のダンス部に泣きつかれて背中をさすっていた。


 空はグラウンドを去る仲間の後ろをついていく。

 空にとっては無駄なストレッチを全員でやって、着替えてバスに乗るとみんなが騒いでいるのをイヤホンでこっそり塞いだ。


 学校に着くと軽く後輩への引継ぎを行って解散となる。みんな疲れているということでこの日は特に打ち上げも無く、また後日みんなで集まろうということになった。


 なんとなくまだ帰りたい気分ではなく、公園に寄ることにする。

 意味もなくベンチに座って天を見上げた。黄昏を迎えた空模様は、どこか儚くも綺麗だった。

 夕日が沈み、やがて闇に侵食される。街灯が点滅し、空の顔を眩い光が襲う。

 鬱陶しく思って目を細めると、体を横に向けて光を遮った。


「あ、こっち見た」

「ままま、舞阪さん⁉」

「ふふ、そんなに驚いてくれるとは思わなかったなー」


 街灯に照らされた海帆はいたずらっぽく笑い、


「はい、これ差し入れ。今日はお疲れ様」


 経口補水液のペットボトルを空の首筋に当てた。


「つめたっ! 何するんだ」


 まだ買ったばかりなのか冷えている。


「え~、サービスしてあげたのに嬉しそうじゃないね。女の子からのドリンクだよ?」

「いや普通に嬉しいけど……でも別に疲れてないから」


 貰えるほどのことは何もしていない。

 塩分は失っていないし喉も乾いていないのだ。


「てかいつからいたの?」

「え、酷い。あたし一応女の子だよ?」

「ごめん、ちょっとボーっとしてたからさ。それに舞阪さんが気遣うなって言ったじゃん」

「気を遣うのとデリカシーは別だよ。あたし五分ぐらい横にいたのに気づかれなくて泣きそうだったからね?」

「じゃあもうちょっと気づかない方が良かったかな」


 乾いた笑い声を漏らし、冗談めかして言うと、


「へぇー、空くんは私の泣き顔を見てウハウハしたいんだ」


 海帆も対抗するように挑発した。


「これっぽっちも思ってなかった。ウハウハとかよく浮かぶね」


 思考回路が女子高生らしくない。それより、


「……ていうか名前」

「遠江くんって長いし読みにくいから。いいよね?」

「読みにくさは関係なくないかな? まあいいけど」


 空が許可すると、何故か海帆は物足りなそうに口を尖らせた。気にせず話を進める。


「それで、舞阪さんはなんでいるの?」

「え、そんなにあたしと一緒にいるの嫌? なんか怒ってる?」

「この前ボール投げたまま先に帰ったからさ。探すの超大変だったよ」

「あっ、忘れてた。ごめんね」

「まあそれはもういいんだけど……もしかして俺に会いに来たの?」


 先にいたのは空だ。ダンス部の方が数時間は先に解散しているだろうし、わざわざ隣に座ってくるなんて偶然ではない。勘違いではないだろう。


「うん、空くんに会いに来たよ」

「……」

「あ、ドキッとした? 五番目の女の子にバクバクしちゃってるんだぁ」


 海帆は強調して言うと、空の胸をつんつんした。

 自分を一番可愛く見せる角度で上目遣いまでしてくる。


「う……それやっぱ気にしてたんだ。からかわないでよ」

「ふふっ、でも会いに来たのは本当だよ」


 空の反応に満足したのか、海帆はベンチに深く座った。躊躇いもなく足を組むから、制服のスカートがめくれて中が見えてしまう。黒のレース生地で気合が入った奴だった。


「……ねぇ、あんまりわざとそういうことしないで」


 咄嗟に顔を背ける。辺りは暗くなりつつあるのにがっつり見えた。そりゃもちろん見たくないわけなかったが、海帆にはわざと男を誘うような真似をして欲しくない。


「ん? そういうのって?」

「いや、だから……下着が」

「……はっ⁉」


 まるで今気づいたように組んだ足を直すと、スカートの裾をぎゅっと握ってベンチに押さえつけた。すると、してやられたような顔でジト目を向けてくる。


「……早く言ってよ。これじゃ痴女みたいじゃん」

「見せてるのかなって思った。舞阪さんは自分に自信があって凄いなーって」

「そ、そんな子じゃないから! ただちょっと空くんといると警戒心が薄くなっちゃうっていうか……男の子と話すのもあんまり慣れてないから張りきっちゃったっていうか……ほんとに油断してただけであってめっちゃ恥ずかしい」


 堂々としていた海帆が顔を赤らめて縮こまってしまう。そよ風に乗ってシャンプーの匂いが鼻孔を抜け、よからぬことを想像してしまった。


「そ、そうなんだ。俺もけしかけるようなこと言ってごめん」


 突然の反応についドキッとしてしまう。今のは普通に可愛いと思ってしまった。

 海帆は自分の水筒を取り出すと飲み口に唇をつける。

 そんな姿を見て空は喉仏にフェチズムを感じるも、気を取り直して海帆の隣に腰かけた。


「えっと、それで。舞阪さんは俺に何か用かな?」

「そうだった用があって来たんだよ。あたしが辱められるためじゃないよ」


 いつもの調子を取り戻した海帆は、


「何か悩んでるかなって思って。どう? 気持ちに変化はあった?」


 具体的なことは言わず、試すような視線を向けてくる。空はそんな見透かされたような、自分のことを理解したような口ぶりに若干の苛立ちを覚える。


「別に何もないよ。悩みとか無いし、舞阪さんに関係ないし」


 最近話すようになったばかりのクラスメート。素っ気なく言うと海帆は「はぁ、まだ嘘つくんだ」と呆れ気味に嘆息し、


「あたしにとっては関係あるもん。だからあたしが納得するまで一方的に関わるから」

「そんなに期待されても困るんだけど。俺何かした?」


 過去に接点は無いし比奈のように好意を向けられているわけでもない。最近までは特に印象にも残っておらず、数いる女子生徒の中の一人という認識だった。


「これからしてもらうの。そろそろ本当のこと言ってよ」

「いや、だから一体何の話──」

「このままでいいの?」


 海帆は、最低限の言葉で的確に傷口をついてくる。


「……いいよ。舞阪さんも言ってたじゃん。俺は特別になれないから」


 自分はそちら側の人間ではない。誰かを引き立てるための踏み台でしかなく、誰かの物語の脇役でしかない。昔からずっと誰かの背中を数歩後ろから眺めることしかできなかった。


 今日もそうだ。自分は負けたチームの控え。勝ったチームもどこかで負けるし、全国に行けばもっと凄い奴らがうじゃうじゃいる。その中のひと握りがプロになり、プロの世界で成功するのはごく僅か。別にプロになりたいと思ったことは無いが、自分は何のためにやっているのかわからなくなる。ただ何となく続けただけで、思い出にすら昇華されていない。


 昔からそうだ。勉強も運動も中途半端で成功を収めたことがない。


 いつしか諦めることに慣れ、負けることが当たり前になった。無意味に足掻くのが馬鹿らしくなり、周りからの見られ方だけを気にするようになり、空気を読んで場を濁さないように徹するようになった。ただのモブになる生き方を選んだ。


 何も願わなければ苦しくない。

 最初から割り切れば辛くない。

 自分は特別ではないのだから仕方ない。

 仕方ない。仕方ない。仕方ない──



「この嘘つきいいいいいいいいいいい!」



 突如耳元で爆音がした。鼓膜を殴るような叫び声。


「びっくりした……急になに」


 耳を抑えて横を向くと、


「悔しくないの⁉ 今の生き方で本当にいいの⁉」


 海帆が空の肩を掴んで激しく揺すった。

 この女は何を言っているんだ。勝手に理解した気になって、同情して、本当に迷惑だ。勝手に土足で踏み込んできて人の考えに口出ししないでほしい。しないでほしいのに……。


 そんな風に自分のために怒ってくれたら、嫌でも心が揺らいでしまう。

 心の奥底に押し込んで閉じ込めていた気持ちが爆発してしまう。


「……当たり前じゃん」


 一度口にしてしまえば止まらない。

 決壊した想いは涙と一緒に溢れ出す。


「悔しいに決まってる! 俺だってみんなみたいになりたい!」


 今日の試合の事だけではない。

 学校生活の中でも何でもいいから自分が誇れる何かが欲しい。


 テストの結果でも、部活のレギュラーでも、友達関係でも何でもいい。

 何でもいいから、自分が自分を認められるような何かが欲しかった。


 何者かになりたかった!


 周りに輝いている奴が多いと自分も特別になれるのではないかと錯覚する。リア充でもボッチでもない、物語の主人公にしても冴えないような凡人だけが抱く葛藤。


 直射日光に当たり続けた凡人は、理想との差に打ちのめされる。

 ピッチに立つ仲間を見て嫉妬する。教室の中心にいる友達を見て嫉妬する。

 自分もあんな風になれたら。せめてその隣に立って同じ景色を見られたら。

 何度も何度も何度も何度も夢を見て、現実を知る。

 それでもやっぱり、本当は……本当は……



「俺も、特別になりだい!」



 自分でも気づかないようにしていた本音。でも自分が一番望んでいた本音。

 何をもって特別というのか。笑われるかもしれない正解のない曖昧な夢。

 それでも空にとっては特別な悩みで、心の底から吐き出したい想いだった。


「やっと言ってくれた」


 海帆は納得したように微笑んで、


「やっぱりこれ必要だったでしょ?」


 ペットボトルのキャップを外して空に差し出す。空は失った塩分を取り戻すために経口補水液を一気に半分飲んだ。


「──ぷはぁ。なんか、スッキリした。こんな気分初めてだ」

「気持ちいいでしょ。あたしの前では我慢しなくていいんだよ?」

「なんかうまく乗せられたみたいだけど……ありがと」


 ただ口に出しただけなのに、同じ悩みを抱える海帆に聞いてもらうことで心が軽くなった。


「でもなんで俺に接触しようと思ったの?」


 放っておいたって海帆の人生に影響はない。

 同情にしては踏み込み過ぎている。


「んー、無害そうだからかな? 空くんなら変な勘違いしなそうだし。同類だと分かったけど求められても困るじゃん? 空くんは線引いてくれるかなって」


 褒めているのか貶しているのか分からない。


「一番は自分のためだよ」


 海帆はハッキリと言い切った。そういえば、空にしてもらうことがあると言っていた。


「俺が役に立つの? そうとは思えないけど」

「大丈夫。空くんはあたしの言う事に従うだけでいいから」

「俺に恩を売って奴隷にしようって算段?」

「近いかな?」

「……」


 冗談で言ったのに海帆は真顔で返す。奴隷というと、あんなことやこんなことを命令されてしまうのだろうかと頭をよぎる。


「うわー空くんってばやらしい。意外とムッツリだね」

「それは舞阪さんでしょ。際どい発言するし……パンツ見せてくるし」

「っ! それは忘れてって言ったでしょ。性格悪いなぁ」


 からかい返すと赤くなって拗ねてしまう海帆。自分がからかうのはいいが、からかわれるのは恥ずかしいらしい。こんなやり取りは新鮮で、少し楽しく思った。


「俺は何をしたらいいの?」

「あたしの手伝いをして。大丈夫、責任は取ってあげるから」

「責任って。またそうやって舞阪さんは……!」


 からかって言っているわけではなかった。その瞳にはメラメラと込み上げる想いが宿っていて、舞阪海帆の本気が伝わって来た。


「特別になろ。二人で、誰にも負けない特別に」


 開いた手を差し伸べてくる。空の目にはとっくに特別な存在として映っているが、海帆はまだ自分で納得していない。彼女が納得した姿を、空は隣で見てみたいと思った。


「わかった。協力する」


 海帆の手を握って契約を交わす。

 この瞬間、特別ではないと自己評価する二人の、秘密の関係がスタートした。

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