記念式典の日2
目を覚ます。喉の痛みにニグレドは顔をしかめた。頭にもやがかかったようにぼうっとする。
(ここはどこだろう。さっきまで何をしていたんだっけか……)
起き上がろうと体をよじる。固い床だ。自分のベッドではない。
辺りは薄暗く、目を凝らしても周りがよく見えない。空気もどこかよどんでいるようだ。その空気の中をよろよろと立ち上がる。立ち上がっても尚頭の働かないままに、数歩足を進めた。
何か壁のようなものが薄ぼんやりと見える。訝しみつつ目を細め、更に数歩進んだ。
鉄の格子。
それが目に映るや否や、ニグレドはわずか数歩にも満たない残りの距離を駆け出し、ガバッとその格子を掴んだ。冷たく堅牢な鉄の格子。その向こうに見える石の壁とすすけた蝋燭の明かり。
(ここは……城の地下牢だ!)
カツン、カツン……と響く足音が不意に耳に入った。次第にこちらに近付いてくる。ニグレドは弾かれたようにその方を向いた。
サムエルだ。長マントをひるがえさせ、サムエルがこちらに向かって歩いてくる。
「母さんは?」
サムエルの姿を目にした途端、そう言葉が口をついて出た。無意識のうちだった。その放った言葉の示す意味。自分の声に、ニグレドはハッとした。
思い出した。思い出したのだ。あの恐ろしい瞬間を。あの悪夢のような出来事を。
(あれから、何がいったい、どうなって――)
サムエルはニグレドの目の前までやってきた。足を止め、格子越しに正面に立つ。
「……〝母さんは〟?」
そうぽつりとつぶやいたサムエル。背後に蝋燭の明かりを受け、その表情は陰になってよく見えない。その目がキラと光ったことだけは分かった。
サムエルはスッと手を上げた。その手には鍵が握られている。そのまま手が伸びる。カチリと音を立てて、牢の錠が外された。
「あ……」
『ありがとう〝父さん〟……』
未だ頭は回らず、依然として状況は飲み込めていない。だが。
(……どうやらサムエルは、この人は、閉じ込められた自分を解放してくれるらしい。式典で穏やかな表情を見せたこの人は。ならばそう言って然るべきなのではないか)
ニグレドはぼうっとする頭をどうにか巡らせて、とりあえずそう口にしようとした。しようとしたが、それは上手く言葉にはならなかった。
「あれは、お前を狙った矢だった」
そう口にしながらサムエルが一歩足を踏み込んだ。
カツン、と地下牢に足音が響く。そのつま先が一歩分、地下牢の薄暗い闇の中に沈んだ。ニグレドはなぜか思わず一歩後退りした。
サムエルの目がひたとニグレドを見据える。
「エナリアは、それを庇って、そのまま命を落としたのだ……」
ニグレドは頭を殴られたような衝撃を覚えた。
(そんな。なぜ。やっぱり。どうして――)
その目が愕然と見開かれる。言葉が、感情が、ないまぜになって浮かんでは消えた。
(――じゃあ、母さんは、本当に……)
「まだ、公表はしていない」
サムエルは低い声で淡々と、そのまま言葉を続けた。
「王宮内でも、それを知る者はわずか数名しかいない」
一つ言葉を零す度に。
「誰も知らないことなのだ」
一つ足を進めて。
「そしてお前がここにいることもまた、誰も知らないことなのだ……」
一つ暗がりに飲まれていく。
押し戻されるように後退を重ね、ニグレドは牢の只中にまで戻り着いた。その場に立ち尽くす。なぜだか息が詰まる。浅く息を吐きながら、己の目の前に立ちはだかるサムエルを凝視する。
息を吸って吐くニグレドの、自ずと上下する肩の動きによってだろうか。彼の髪が揺れて、その黒が孕んだ紫色が暗がりの中で煌めいて光った。
サムエルの目に、何かの感情が走った。サムエルは息を吸う。
「お前、いや、貴様さえいなければ、彼女は、エナリアは、死ぬことはなかった……!」
一語一語、沸々と綴られる言葉。まるで岩礁に打ちつける度に激しさを増す満ち潮のように、その語気が次第に荒くなっていく。
サムエルの眼光がニグレドを射貫く。
ニグレドは思い知った。玉座の間で向けられたあの視線など、取るに足りないものだったのだと。
こわばった表情。怒りと憎しみと、後は到底計り知れないないまぜの感情をまとった、暗い褐色を湛えたその目。
「貴様のその髪……」
サムエルが唸った。その突き刺し穿つような視線の先で、紫色が闇に煌めく。
「忌々しい、悪魔の色だ。災いしかもたらさない、あの忌まわしき……」
サムエルの手が、剣の柄に伸びる。
「もっと早くに殺しておけば良かった、殺しておくべきだった。……いや、貴様など、生まれてこなければ良かったのだ……!」
重い音を上げながら剣が抜かれる。儀式用の宝剣ではない。鈍く光る本物の剣が。
「貴様は悪魔だ。魔王の、息子め……!」
その切っ先が、ニグレド、黒い髪の少年の喉元へと突きつけられる。
自分でも、分かっていたことだった。自分は生まれてこなければ良かったのだと。自分は、魔王の血の流れる忌まわしき存在なのだと。
だがそれを、そのことを、よりにもよってこの男に言われるなどと。
義理の父親。母エナリアの夫。この国の王。伝説の勇者。サムエル……!
ニグレドの全身が震える。憎い。あまりに憎い。
(そうか、この男は、ずっと自分のことを、そう……!)
「ぅ……、ぐ……!」
食いしばった歯の奥から呻き声が漏れ、黒い髪が風もないのにざわざわと揺れる。
心が凍りつくように冷えて、体は燃えさかるように熱かった。
「悪魔の息子がここで殺されることは、誰も知らない」
うつむいて立ち尽くすニグレドを前に、サムエルは剣を突きつけたまま、独り言のように低い声でぶつぶつと続けた。
「この国の王子は、母親の死で気が触れてそのまま狂死したのだ」
その剣を握る手に、ぐっと力が込められる。
「貴様は〝王子〟のまま死なせてやる。感謝などいらぬ、疾く死ぬが良い……!」
サムエルが吼えた。
歯を食いしばり立ち尽くすニグレド。その黒髪が妖しく紫色に光る。
少年の腕がスッと上がり、剣の刃にその指先を這わせた。まるで小枝にでも触れるかように、躊躇する様子など一切なく。
少年のその思いもよらぬ行動に、反対にサムエルは一瞬動きが止まった。
うつむいていたニグレドの顔が持ち上がる。それと同時に黒髪がうねるように揺れる。サムエルはハッとし剣を振り上げようとした。
しかし。
「な……っ!」
ニグレドが触れたところから、剣が見る見るうちに朽ちて、赤茶けた砂粒となって崩れていく。
錆が剣の柄、己の手元まで広がり迫るのを見て、サムエルは思わず剣を、その剣だった物を取り落した。柄だけが石の床に落ち、妙に軽い音が響く。その音とほぼ同時に、サムエルは同じ石の床にへたり込んだ。
「その力……」
ニグレドはサムエルを黙って見下ろした。今は分かる。その暗褐色の目にありありと恐怖の色が浮かんでいるのが。
「…………」
ニグレドは足を一歩踏み出す。蒼白となったサムエルの顔の中でその目が揺れる。それを一瞥し、ニグレドは無言のまま地下牢を後にした。
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