26 聖女は窮地に立たされる

「!」

 鋭い痛みが肩に走った。

 高所から放たれた弓矢が掠めたのだ。


(矢⁉ いったい、どこから――)


「ぁぐ……ッ」


 そして背中に痛みが走る。

 見ると、短剣の切っ先が腹を突き破って出ていた。勢いよく引き抜かれ、地面が一気に真っ赤に染まる。


「っ、ノク、ト」


 膝をつくフェリスをノクトは能面のような顔で見ていた。


「……なんの、つもり?」


 フェリスは腹に手をかざす。

 癒しの光はフェリスの傷を塞いだが、額からは脂汗が大量に流れた。

 ここにいるのはノクトだけではない。何者かがフェリスを射たのだ。ノクトの仲間がいる。


「殺すつもりならちゃんと心臓を狙わないと、わたしなら治せてしまうわよ?」


 ぜいぜいと乱れた息を上げながらノクトを睨む。


「知ってる。一発で殺してやったほうが慈悲があるよな」

「わたしを殺すの?」

「――殺すつもりだったが、まだ利用価値があるから殺すなという命令でな」

「命令?」


 ノクトに命令を下せるのはヨハンだけだ。

 じゃあ、ヨハンがフェリスを傷つけるように命令を出したのか。


 屋根の上に一人、木立の影から複数人。

 小屋の周囲を取り囲むように武器を持った男たちが現れ、徐々に包囲網を狭めていく。男たちの顔に見覚えはない。


(ヨハン様付きの者たちではない?)


 そしてもう一人。遅れて姿を現したものがいた。

 金の髪は薄暗くなってきた森の中でも良く映える。だから一瞬どきりとしてしまった。ここにいるはずのない「彼」なのではないかと……。

 悠々と歩いてきた男は予想外の人物だった。


「アレックス殿下⁉」


 ヴィクトールの兄で、フェリスを軟禁していた第一皇子が――……。


(どうして? 死んだんじゃなかったの?)


 フェリスの手を後ろ手にねじり上げたノクトが耳元で囁いた。


「……ヴィクトールよりもアレックスに皇帝位について欲しいとヨハン様がお望みなんだよ。だからお前はもう、いらない」

「いっ……、ああああっ!」


 ゴキッと変な音を立てて右肩の関節を外されたフェリスは地面に倒れ伏した。

 ノクトがアレックスに向けて膝をつく。


「アレックス様。聖女を捕らえました」

「……ハッ。妹に対して無慈悲だな」

「妹はヴィクトール殿下を誑かした大罪人ですから」


 どういうこと?

 ヨハンはアレックスを皇帝位につけたい。

 ノクトはフェリスをアレックスに売った。


(わたしにスパイとしての役割はもう期待していないということ……)


 聖女としてアレックスに媚びを売れというのなら、移動中にいくらでも説明できたはずだ。ノクトはフェリスに何も言わなかった。それに、「ヴィクトールを誑かした大罪人」って……。


「あああっ!」


 アレックスに肩を踏まれたフェリスは声を上げた。


「聖女は傷は治せるが脱臼は治せないのか。無様だな」


「……っ……、ど、して……、生きて……」


「なぜ俺が生きているのか不思議そうだな。可哀想な聖女に教えてやろう。死んだのは俺の替え玉だ。馬鹿な弟は俺が死んだと思って油断しているだろうが、俺はそんなに簡単に殺されるような男じゃない。――誰か、この娘に縄をかけろ!」


「ハッ!」


 アレックスの部下に引っ立てられたフェリスに縄がかけられた。

 脱臼させられた右肩はだらんと下がり、縄でぐるぐると巻かれるたびに呻き声を上げてしまう。猿轡まで噛まされる。うーうーと喚くフェリスを、ノクトも、アレックスも嘲笑うように見ていた。


(わたし、殺されるんだ……。生かされたとしても、多分、一生、アレックスに飼い殺される……)


 お前はもういらない。

 ノクトの言葉が刺さる。ヨハンも同じように言ったのだろうか。

 ……役立たずフェリスはいらないと。


 馬鹿なわたし。必要とされたことなんてなかったじゃない。ヨハンにとってのフェリスはただの手駒でしかないんだから――……


 フェリスはアレックスが部下たちに目配せし合っていることに気が付かなかった。


「やれ」


 短く命じたアレックスの言葉に、誰かがフェリスの背中を突き飛ばし、大きく転倒する。大剣の切っ先がフェリスに向けられていた。


 縄までかけられたのだから城に連れていかれるかと思ったが――この場で殺されるの?


(もう、どうだっていいけど)


 だって帰る場所はない。ヨハンの元にもヴィクトールの元にも帰れないのだ。

 投げやりな気持ちですべてを受け入れようとしていたフェリスだったが、


「っち!」


 フェリスを殺そうとしていた男の顔に、ガツッ! と何かが当たった。


 石?

 誰が投げて――



‼」



 ――聞き間違うはずのない声が。

 ここにいるはずのない人の声が聞こえた。


(ヴィクトール様)


 たった一人で飛び出してきたヴィクトールがフェリスに駆け寄ったかと思うと、素早く噛まされていた猿轡を押し下げて外し、短剣で縄を切り出す。


 にやりと笑っているアレックス、そして周囲を囲む男達。


(アレックスの目的はわたしを殺すことじゃない!)


「っ、ヴィクトール様逃げて!」


 フェリスを助けるために飛び出してしまったヴィクトールを殺すことだ。


「きみを見殺しにはできない!」

「馬鹿な弟だ――殺せ‼」


 襲い掛かってきた男たちに短剣を投げたヴィクトールはユーフェの手を掴んで走り出した。


 無理だ。逃げ切れるわけがない。


「置いて行ってください!」


 だらりと垂れさがる腕が邪魔で仕方ない。歯を食いしばってフェリスは叫ぶ。


「絶対に嫌だ!」


 ヴィクトールも叫び返した。


 追っ手はぐんぐんと背後に迫り、振り上げられた剣がヴィクトールの背を大きく傷つけた。ヴィクトールは足を止めず、フェリスの腕を強く引き、

 ――崖から飛び降りる。

「!」

 ガッ、ザザザザッと激しい砂埃を上げ、フェリスを抱きかかえたままで斜面ともいえぬ斜面を滑り落ち、建物の二階ほどの高さの辺りで二人は放り出されるように宙を舞った。


 頭だけは守ったフェリスだが地面に叩きつけられた身体は激しく痛み、息が止まりそうになる。それでも満身創痍で身体を引きずると、倒れたままぴくりとも動かないヴィクトールの元に這い寄った。


「ヴィクトール様……っ」


 うつ伏せの背中は真っ赤に染まっている。

 フェリスはその背に左手を添えると傷を癒した。


 胸は上下している。息はある。

 内臓が傷ついてる? わからない。もう手当たり次第にヴィクトールの身体を癒した。


「ヴィクトール様、……ヴィクトール様っ……」


 なんで助けにきたんですか。

 こんな危険な目に合ってまでわざわざ……。


 ぴく、とヴィクトールの瞼が動く。フェリスは身体にしがみついた。


「ヴィクトール様!」

「ありがとう。ユーフェが治してくれたんだね」

「……っ……、逃げましょう。追っ手が来る前に……」

「うん、そうだね。ここからだと……、ええと……、東に小川がなかったかな。下流に村があったはずだ。走れるなら、ユーフェはそこに向かって、馬を調達しなさい」

「ヴィクトール様……、動けないんですか? 痛いところがあれば治します! 支えますから、だから……」


 こんなところに置いていけない。

 落ちるところをアレックスの部下が見ているのだから、迂回してここまで追いつかれるのも時間の問題だ。


 ヴィクトールの身体を起こそうとしたフェリスはハッとした。

 彼の身体は震えている。

 顔だけは笑顔を保っているが、顔色は青く、筋肉が突っ張るように痙攣しているのだ。


 怪我の失血が原因で?

 違う。


「……毒……?」

「……剣に塗られていたみたいだね」


 元気だったら肩を竦めていただろう口調で、ヴィクトールは東を指した。


「俺のことは大丈夫。後からロバートが来るから。だからユーフェ、きみは逃げるんだ」

「い、やです、置いていけません」

「逃げなさい」

「いやっ!」

「好きだよ、ユーフェ。きみには生きていて欲しいんだ。だから……」


 ヴィクトールが最後の力を振り絞ってフェリスを突き飛ばした。

 尻もちをついたフェリスに名残惜しそうに笑いかけると、ヴィクトールはそのまま力尽きたように意識を失ってしまう。


「いやっ、ヴィクトール様! ヴィクトール様っ!」


 ヴィクトールに縋りついたフェリスは必死に治癒魔法を使った。


 生き残るためには逃げるべきだ。

 だけど、ヴィクトールを見殺しにしてまで生きる価値は自分にはない。


 青い顔。血に染まった服。

 闇の中でもわかる。そして袖口から覗くのは、フェリスとお揃いで買った安っぽいブレスレット。


 この人を助けられないのなら本当の本当にわたしなんて無価値だ。


 フェリスはひたすらに力を使い続けた。


 ――頭の中でイメージするのです、フェリス。

 ――あなたはそれでも聖女ですか、情けない。


 これまでされてきた罵倒の数々。


 ――痛えなあ! アンタ本当に聖女かよ!

 ――この役立たずがどうしてヨハン様に目をかけられているの?


 わたしの持っている力の全部を使うから。


 ――聖女なんだから治せて当たり前でしょう。

 ――持って生まれた素質の違いはあれど、治癒魔法は使えば使うほど磨かれるのだから。


 だからお願い、この人を助けて。


 ――傷口を塞ぐだけじゃ根本の解決にならないだろ。

 ――解毒の仕方? 毒ってのは大体、血を巡って全身に回るから……。


 走馬灯に流れゆく記憶の中、フェリスは解決策の端っこを掴んだ。

 血は心臓に巡る。だから散漫に癒しの力を使うのではなく――


「ヴィクトール様……っ!」


 彼の胸に手を当てたフェリスはありったけの治癒の力を注いだ。

 ぶわっと身体の穴と言う穴が開き、脂汗がだらだらと流れる。


(どうしよう、解毒できなかったら)


 ヴィクトールは、死んでしまう……?


(ううん! 解毒する。できる! わたしは、)

「――っ、わたしはっ、役立たずなんかじゃない……っ!」


 そう言い続けてくれたヴィクトールの言葉を信じる。

 そしてフェリスは精も根も尽き果て、崩れるようにヴィクトールの側に倒れ込んだ。


 ヴィクトールは目を開けてくれない。

 だけど、息はまだしている。


 遠くから聞こえる足音。


「……いたぞ、あそこに……」


 敵? それとも味方?

 それすらも判別できないまま、フェリスの意識は暗転した。


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