六法が恋人

ますだかずき

第1話 夢は、弁護士になって困ってる人を援けたい!

 城北大学のキャンパスの落葉樹が、すっかり葉を落とした初冬の昼下がり。

 法学部3年の村木むらき明日香あすかは、図書館で夕方から始まる自主ゼミに備えて予習をしていた。

 図書館は、キャンパスを二分する道路の南側、東の隅にひっそりと建てられている。夏には、鬱蒼うっそうと茂った木々がとり囲み、遠くからは、建物があるとは思えない森の中に。

 鉄筋コンクリート造り地上4階地下1階の新館に隣接して、木造2階建ての旧館がとり残されたように佇んでいる。築100年以上経っている建物は、東京都から重要文化財にも指定されている。

 新館は、全面ガラスばり。効果的な採光がほどこされてとても明るく、最新の情報機器が配備され、閲覧机や椅子は真新しいスチール製。

 これに対して、旧館は、古い蔵書が多く配架されているだけで、これといった設備もなく、椅子だけは可動式のものにとり替えられているが、机は古い木製のままである。


 大半の学生は、設備の新しい新館を利用しているが、明日香は、旧館の方が気に入っている。壁面という壁面に書架が配置されている旧館は、採光が乏しいため薄暗く、昼間でも蛍光灯をつけないと、本を読むことさえできない。しかし、その方が集中できるのと、利用者が少ないため静かに勉強することができる。

 明日香は、図書館で勉強するときは、いつも旧館を利用している。


 明日香の将来の夢は、弁護士になること。

 弁護士になって、困っている人たちをたすけたい。

 そのために学部を卒業したあとは、法科大学院に進学するつもりで、大学に入学した当初から、『法律研究部』というに所属して、法律の勉強に励んでいる。

 わが国では、法曹、すなわち裁判官や検察官、弁護士になるには、司法試験という国家試験に合格しなければならない。司法試験に合格したあと、司法修習を終え、いわゆる『二回試験』――司法修習生考試のことで、俗に司法試験を1回目の試験と数えると、2回目にあたることから、このように呼ばれている――に合格すると、法曹の資格が与えられる。

 弁護士になるには、そのまま弁護士会に登録すればなれるが、裁判官や検察官になるには、任用されなければならず、希望したからといって、なれるものではない。司法修習生時代の成績がものをいうのである。


 司法試験制度が大きく変わった。

 これまでの司法試験は、資格試験ゆえに誰でも受験できたが、専門職大学院である『法科大学院』が設置され、これを修了することが、新司法試験の受験資格になった。

 旧司法試験時代には、合格率僅か数パーセントの超難関に、何年もかかってトライする、いわゆる『司法浪人』を数多く輩出し、人的にも経済的にも無駄が多いことから、制度が一新されたのである。

 法科大学院制度の発足に伴い、司法試験の合格者数が大幅に増やされたことは歓迎すべきであるが、法曹を目指す者は、法科大学院の学費を負担しなければならず、これが馬鹿にならない。外車1台分に匹敵するとまでいわれ、国公立大学ではまだしも、私立大学では極めて高額で、財力のない者を法曹界から遠ざけているとの批判も少なくない。


 普通のサラリーマン家庭に生まれ育った明日香も、ご多分に漏れず、法科大学院に進学した際の学費負担が悩みの種。実際にいくらかかるのかを計算したことはなく、親にも相談していない。きっと驚くだろうと思うが、そもそも法科大学院に合格できるとは限らないのだから、今から悩んでも仕方がないと、思うことにしている。


 今日の自主ゼミのテーマ事例を頭に入れ、関連する教科書と参考書の該当するところを読み終えた明日香は、身支度をして図書館の旧館をあとにした。



 キャンパスを二分する道路を渡り、5号館の入口の前で、「明日香!」と後ろから呼びかけられた。

 振り返ると、北原きたはら麻衣子まいこが小走りに近づいてきた。

 今日の麻衣子は、フリルのついた臙脂えんじのスカートにピンクのセーター、その上に大人っぽい黒の毛皮のついたコートを羽織り、足元はブーツをいている。

 紺のジーンズにグリーンのトレーナー、ベージュのダウンジャケットを着こみ、靴はスニーカーの明日香とは、対照的な姿。並んで歩くと、異様なコントラストで同じ大学生には見えない。ふたりの背丈はほぼ同じで、麻衣子も、どちらかといえば小柄な方である。

 麻衣子とは、1年次の語学のクラスで顔をあわせるようになって以来、いろいろなことを相談できる親友としてつきあい、ともに法律研究部に所属している。


「今日の民訴みんその授業、どうしたの?」

 いつも一緒に受けている3時限の民事訴訟法の授業に麻衣子が姿を見せなかったのだ。

「ごめん。エルコバにお茶、さそわれちゃってね」

「またおごらせたの?」

「当然じゃない。ルーブルでチョコパ、食べちゃった」麻衣子が満足そうに答えた。

 エルコバとは、ふたりが所属する法律研究部の3年生小林こばやし光明みつあきのこと。同じ3年生に小林こばやしさとしという同姓がいるので、区別するためメタボでLサイズの小林光明を『エルコバ』、小柄で背が低くミニサイズの小林聡を『ミニコバ』と呼んでいる。

 エルコバは、附属高校の出身で、お金持ちのひとり息子。女の子には、気前よく奢ってくれる。


「ちゃんと予習してきた?」明日香は、これから始まる自主ゼミのことを心配して尋ねると、

「まあね」麻衣子は曖昧あいまいに頷いた。

 入学当初は、麻衣子も法曹を目指して燃えていたが、半年も経たないうちに、その熱はすっかり冷めてしまった。いや、冷めたというより、自分の能力を見極めたといった方が、正確かもしれない。

 今では、自分が判事や弁護士になることを諦め、妻の座を狙っているようだ。彼女にとっては、自分が勉強するよりも、司法試験にストレートに合格できそうなエリートを見つける方が大事らしい。



 明日香と麻衣子が5号館のゼミ室に入ると、すでに法律研究部の片瀬かたせ信介しんすけ、エルコバ、ミニコバの3人が席についていた。3年生のメンバーは、このほかに3人いるのだが、彼らは進路を就職に転向したため、自主ゼミには参加していない。

 ゼミ室には、もうひとり法科大学院2年の杉浦すぎうら功一こういちが、片隅で本を読んでいた。


「杉浦先輩、お久し振りです。今日は、どうしたんですか?」エリートのひとりとして杉浦をリストアップしている麻衣子が声をかけた。

「偶然5時限が休講になっちゃってね。タイミングよく片瀬君から声がかかってさぁ。

 君たちの自主ゼミには、すっかりご無沙汰しちゃってたから、たまにはつきあおうと思って……」

「ついさっき、うたばかりやけど、無理にお願いしたんや」片瀬が、申しわけなさそうにつけ加えた。

 片瀬は、大阪の岸和田市の出身。相変わらず言葉に関西弁がざる。法律研究部の部長を務めている。

 法律研究部では、4年生になると、大学院進学の準備や就職活動で忙しくなるので、3年生が部長を務めるのが慣例。部のOBである杉浦も、3年前に部長を務めていた。


 法律研究部では、学年ごとに自主ゼミが開催されている。

 自主ゼミとは、法律研究部の学生たちだけで自主的に開く勉強会。主な論点ごとに担当を決め、担当者は、学説や判例を整理したレジュメを作成し、発表する。それに基づいて全員で討論して、不確かな知識を正確にし、互いの理解を深めようとするのが狙いだ。

 1年生の自主ゼミには3年生が、2年生には4年生が指導者としてつくことになっているが、3年生以上になると、決まった指導者はなく、必要に応じて部のOB・OGで、法科大学院に在籍している先輩に頼むことになる。

 この日は、たまたま片瀬が杉浦にコーディネーターとして参加してくれるよう頼んだのだった。


 今日のテーマは、民法の『二重譲渡にじゅうじょうと』。

 片瀬の担当で、レジュメを配布して説明を始めた。

 二重譲渡とは、すでに一度譲渡された同一物を第三者に譲渡した場合の法律関係をいう。『譲渡』とは、意思に基づく特定の財産権の移転。有償・無償を問わない。

 典型的な例を示すと、AがBに特定物Xを売却したあと、AがCにもXを売却してしまった場合。こんなことが許されるのかと、思うかもしれないが、もちろん二重譲渡した本人は、詐欺罪や横領罪で訴えられることになる。

 ここでは、民法上の法律関係、すなわちBとC、どちらが所有権を有するのかを論ずる。


 わが国の民法では、動産と不動産とでは、とり扱いが異なる。

 不動産――土地や建物では、譲受人が、売買等により所有権を取得したことを第三者に主張するためには、対抗要件として当該不動産の所有権移転登記が必要とされる(民法177条)。従って、BでもCでも、先に所有権移転登記をした者が、相手方に対抗できるのである。つまり登記が優先される。


 これに対して、動産――不動産でないものの場合、『即時取得そくじしゅとく』と呼ばれる制度があり、例え無権利者から買い受けた場合でも、善意・無過失であれば、その動産の所有権を取得するとされる(民法192条)。

善意取得ぜんいしゅとく』とも呼ばれ、『善意』とは、無権利者であることを知らなかったこと。『無過失』とは、無権利者を真の権利者と信じたことに過失がなかったことである。

 このように法律用語は、通常の用法とは異なり、特殊な意味をもつ場合がある。普通『善意』といえば、よい感情や見方、好意という意味であるが、ここでは、『知らないこと』を意味する。反対に、『知っていること』は『悪意』という。

 前述のケースでは、Cは、Aが無権利者であることにつき、善意・無過失であれば、当該動産の所有権を取得することになる。


 すでに気づいた人もいるかと思われるが、不動産の場合、例え相手が無権利者であることを知っていても、先に移転登記をしてしまえば、所有権を主張できるのである。

 なぜか? 不動産の場合、一般に公示方法として登記制度が存在する。この制度により、所有者は、登記をもって自分が所有者であることを世間に知らしめなければならない。

 前述のケースで、すでに売却された不動産Xを、CがAから譲り受けたということは、登記がまだAのままになっているからできることで、AからBに移転登記が済んでしまっていれば、もはやCはAから買い受けることはできない。

 登記をそのままにしていたBにも落ち度があるという理由で、市場競争の原理で処理しようとするのである。


 しかし、これには例外がある。例えば、Bの商売上のライバルであるCが、登記をそのままにしてあることにつけこみ、Bに高く売りつける目的で、Aから譲り受けた場合などである。

 判例は、このように二重譲渡と知り、かつ信義則しんぎそくに反する動機・態様で譲り受けた者を『背信的悪意者はいしんてきあくいしゃ』として、登記がなくても対抗できるとしている。


 他方、動産には、登記のような公示制度がない。

 所持している者(法律用語で『占有者せんゆうしゃ』という)が所持しているものに行使する権利は、適法なものと推定される(民法188条)。つまり占有者が、適法な権利者であると推定されるのである。

 そうであるならば、それを信じた者を保護してあげないと、安心して商取引ができない。このような事情から、例え占有者が無権利者であっても、そのことについて善意・無過失であれば、権利を取得するという即時取得の制度ができたのである。


 説明を終えた片瀬に対して、コーディネーターの杉浦は、確認するように質問を始めた。

「片瀬君。即時取得の要件を整理していってみて」

「まず、対象が動産であること。

 次に、前主が無権利者であること。

 3つ目は、取引行為により占有を継承したこと。

 4つ目は、占有を開始したこと。

 最後の要件は、占有開始の際、平穏かつ公然の占有で、前主が無権利であることについて、取得者が善意・無過失であること。

 以上だと思いますわ」

「今、片瀬君が説明した要件の中で、最後の要件は、民法186条で平穏、公然、善意が、188条で無過失が推定され、結果的に要件すべてが推定されるので、相手方が、悪意または有過失を証明しなければならないこと。

 これが、即時取得の重要なポイントなので、よく覚えておくように!」


「ところで、片瀬君」杉浦は、改めて片瀬に目をやった。

「単なる悪意者と背信的悪意者とを、どのようにして区別する?」

「えっーと……、単なる悪意者は、譲渡人が無権利者であることを知っておった者で、背信的悪意者というんは、知ってた上で信義則に反する動機や態様をもっておった者と、ちゃいますか?」

「信義則に反する動機や態様とは、具体的にどんな場合?」杉浦は、すかさず質問を重ねた。

 これには片瀬もたじろぎ、自分のノートをめくり始めた。ようやく該当のページを見つけ、ノートを見ながら答えた。

「判例は、買主が山林を買い受けて長期間占有している事実を知っておった者が、買主が所有権移転登記をしてないのに乗じて、買主に高値で売りつける目的で、その山林を売主から買い受けて移転登記をした者を、背信的悪意者としちゃってますわ」

「それは有名な判例だね。皆も、事例として覚えた方がいいよ」


「ところで、民法177条との関係で、なぜ背信的悪意者には、登記なくして対抗できるのかな?」

「そっ、それは……」片瀬は、再び自分のノートを捲り始めた。

「それは、背信的悪意者が登記の欠缺けんけつを主張する正当な利益を有しない者なので、民法177条にいう第三者には、あたらないからです」ちょうどついさっき図書館で該当する部分を読んでいた明日香は、ここぞとばかりに答えた。

「そのとおり。これも判例だね。

 要するに、背信的悪意者とする判断基準は、登記の欠缺、つまり移転登記がされていないことを主張することが、信義則に反するかどうか、が基準になるのだよ。具体的にどの場合が信義則に反するかは、定義するのは難しいから、判例が認めた事例などを覚えておくほかはないけどね」


 今日の自主ゼミは、主に杉浦が質問し、片瀬たちがそれに答えるという形式で進められた。

 さすがなのは杉浦で、法律研究部のエースといわれただけあって、要所要所のポイントを的確に押さえており、それをくだいて説明してくれた。質問する相手も、担当の片瀬にかたよることなく、5人を満遍まんべんなく指導してくれた。

 細身で長身の杉浦は、見かけは優男やさおとこのように頼りなく見えるが、こと法律の議論になると、とても頼もしくなる。学部時代から司法試験の合格は間違いないといわれ、明日香たちのあこがれの的である。

 最近ほとんど勉強に身が入らない麻衣子は、将来は判事を目指している杉浦にターゲットを絞り、会えば必ずモーションをかけているが、杉浦は一向に振り向こうともしない。杉浦の頭の中は、法律の勉強のことしかなく、仲間内では、『六法が恋人』なのだとうわさされている。


 明日香は、法律の勉強を始めて2年余り経つが、こんなに面倒な学問とは思わなかった。

 入学当初は、ただ単純に法律を覚えればいいのだと思っていた。六法全書を丸ごと暗記できれば、司法試験に合格できると思っていたが、決してそうではなかった。

 もちろん最低限の条文や法律知識を記憶しなければならないが、知識をたくさん蓄えたからといって、法律問題を解けるものではないことを知った。法律は、さまざまなことを想定して抽象的にしか書かれていない。ある事件が起こったからといって、そのまま法律の条文があてまることは珍しく、法律を解釈しながら、妥当性のある結論を導き出さなければならない。このような法的思考や考え方(『リーガルマインド』と呼ばれている)を身につけるのが法律の勉強である。

 明日香がこのことにようやく気づいたのは、つい最近になってからである。


 司法試験は、短答式と論文式の2種類の試験が課せられる。

 旧試験では、短答式に合格しないと、論文式を受験できなかったが、新試験では、短答式と論文式を同時に受験する。もちろん短答式が合格ラインを超えない限り、論文式が採点されることはない。

 短答式は、5つの選択肢の中から正解をひとつ選ぶ方式。法律の条文を含めた法律知識が必要となり、正確に覚えておかないと合格できない。

 もうひとつの論文式は、『司法試験用法文』と呼ばれる最小限の条文が記載された小型六法が貸与される試験で、通常は事例形式で出題される。合格するには、論点を的確にとらえた上で、論理を展開させ、妥当な結論を導き出し、それを答案用紙に簡潔明瞭に記述しなければならない。

 単なる法律知識の丸覚えでは、解けないことはいうまでもない。新試験に変わって出題される事例が、年々詳細かつ複雑になってきているともいわれている。


 自主ゼミを始めて2時間近くが経過した。

 今日のテーマである『二重譲渡』に関するすべての論点の議論が、尽きたタイミングを見計らって、片瀬がゼミの終了を告げた。

「この辺で、今日は、おしまいにしようか?」

「賛成!」一同が賛同した。

「杉浦先輩、今日は、どうもおおきに」片瀬が代表して杉浦にお礼をいうと、ほかの4人も、「ありがとうございました」と口を揃えた。

「じゃあ、僕はこれで失敬するよ。院生室に戻って、もう少し勉強したいから……」といって出て行った杉浦の後ろ姿にうっとりしながら麻衣子が呟く。

「さすがだよね、杉浦先輩。ますますれ直しちゃった」

「麻衣子がいくら惚れ直しても、ダメなものはダメなのよ!」明日香が突き放すようにさとした。



 明日香たち5人が5号館をあとにして北正門を出ようしたとき、道路の反対側にある11号館前に停車中の救急車とパトカーの赤色灯が目に飛びこんできた。すでに辺りは暗闇に包まれ、回転している赤色灯が周囲の校舎のガラスに反射して真っ赤な色を際立たせていた。

 なにか事件が起こったのではないかと、気になった5人組は道路を渡り、11号館に向かった。すでに警察の立ち入り禁止のテープがはり巡らされ、数人の野次馬がとり囲んでいた。エルコバが背の高い眼鏡の学生をつかまえて尋ねた。

「どうかしたの?」

「誰かが転落したみたいだよ。そこの11号館の地下のドライエリアに」

「死んじゃったの?」

「はっきりとは、わからないけど……。さっきから救急車が停まったままだから、もしかすると、死んでるかもしれないよ」

「えっー」という奇声を発するとともに、明日香と麻衣子が顔を見あわせた。

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