第十一話 精霊のお姫様

「マリアさん、ここの問題を解いてみて」


 ビクビクしながら古典の授業を受けていたが、教師に指名されて「はい」と言って立ち上がり黒板に向かう。

 しかしマリーは首をひねってばかりだった。なぜなら──。


(あら? この問題って、予習してきたところだわ。いや、でもヴァーレンの授業がこんなに簡単なはずないわよね……もしや引っかけ問題かしら?)


 そう悩みつつも答えを書いたら、クラスメイト達がどよめく。


「あら……正解よ、マリアさん。よくできたわね」


 教師もまさかマリアに解けるとは思っていなかったらしく、目を丸くしていた。


「あいつが正解するだなんて……」

「俺だってわからなかったのに」

「まぐれだよ、まぐれ」


 生徒達のヒソヒソ話はマリーの耳にも届いて、マリーは席につくと赤くなった頬をうつむいて隠していた。


(目立つのは嫌……!)


 学年最低点のマリアが正解したというだけで、生徒達には驚愕だったのだろう。


(ま、間違えた方が良かったかしら……?)


 しかし、落第だけは絶対に避けたいところなのだ。

 マリアの評判がこれ以上落ちるのはシュトレイン伯爵家にとっても恥だし、姉のエマや婚約者のカルロの名誉も傷つけてしまうだろう。それを思うと、マリーにわざと間違えることはできなかった。

 そして、その日はなぜか示し合わせたように毎回授業のたびに指名されてしまう。

 算術の授業で複雑な計算をマリーが暗算で答えた時には、もはや唖然と言っても良いくらいにあんぐりと口を開けているクラスメイトすらいた。


(あ、あれ……? これも正解してしまったわ……)


 マリーは幼い頃からお店で帳簿付けや支払いの計算も行ってきた。娼館のお会計でお客を待たせてはいけないという焦りと気の弱さから、いつの間にか算術は下働きの中で一番素早くできるようになっていたのだ。


「正解よ、マリアさん。休暇の間もちゃんと勉強しておいたのね。えらいわ」


 そう教壇でマリーを褒めたたえたのは、寮監で担任のプリシラ先生だった。


「マリアさん、今日はとても素晴らしいわね。他の先生達からもお褒めの言葉をいただいているわよ」


 そう怪訝そうに問われてしまい、マリーは焦った。


(も、もしかして、やりすぎた……!?)


 そう気付くが、後の祭りだ。今さらどうにもできない。とりあえず、言い訳を必死に考える。


「その……休み中にこれまでの行いを反省し、猛勉強したんです。これからは寮長にふさわしくありたいと心を入れ替えまして……」


 そのマリーの言葉にどよめいた生徒は、一人や二人ではなかった。エセルや、ギルアン、カルロすらも瞠目している。誰かの口から「嘘だろ……あのゴリラ女が?」「ゴリラも勉強できたんだな……」と呆然とした言葉が漏れた。

 プリシラ先生は感動で目を潤ませている。


「ようやく、私の気持ちがマリアさんにも伝わったのですね……! 嬉しいわ……っ! 私は……マリアさんは、ちゃんとやればできる子だって信じていましたよ。そう、他の先生達が何とおっしゃろうと、私だけはね!」


 よほどマリアに苦労させられてきたのか、嗚咽をこぼしているプリシラ先生にマリーは困惑した。


(マリア様……いったいどれだけ先生に迷惑をかけていたのですか……?)


 ふと視線を感じて見れば、カルロと目が合う。すぐに彼は普段と変わらない感情の読めない笑みを浮かべていた。






 そういう訳で、その日の授業が終わりを迎える頃にはマリーの疲労は限界にまできていた。


(早く授業が終わってほしいわ……)


 教壇に立っているプリシラ先生が生徒達に向かって言う。


「それでは、皆さん。本日の最後に、再来月に学内で行われる催し物のお話をしましょうか。──では、カルロさん、続きはお願いね」


 指名されて、カルロが「はい」と立ち上がって教壇に向かった。彼は生徒会長と寮長とクラス委員長を兼任しているのだ。


(カルロ様……多忙すぎるのではないかしら)


 つい、マリーは心配してしまう。


「再来月に行われる聖霊降臨祭で、クラスでやりたいイベントはありますか?」


 カルロはそう皆に向かって言った。

 聖霊降臨祭──それは帝国内で行われる大きなお祭りだ。その期間に三日かけて校内で行われるイベントをヴァーレン祭というらしい。学内外から多くの人々が来訪するのだと聞いている。

 カルロが「何かアイデアはありますか?」と微笑みを向けると、女生徒達が「きゃあ!」と色めき立った。


(……まあ、当然よね……)


 カルロは端正な容姿の持ち主だし、婚約者がいても仲が良くないことは知れ渡っている。彼に気に入られれば自分が婚約者に選ばれるのではないか、と思ってしまう女生徒も多いらしい。

 マリーがモヤモヤした感情を抱えていると、女生徒の一人が手を上げて、「『精霊のお姫様』のオペラをやるのはどうでしょう」と言った。


(精霊のお姫様……?)


 それはこの国の者ならば誰もが知る有名な物語だ。

 マリーにとっては、八年前にカルロと行った聖霊降臨祭の夜に見た思い出のオペラでもある。それを懐かしく思い出していると、カルロは「良いですね」とうなずいて、黒板に『オペラ・精霊のお姫様』と書く。

 他にもパンや串焼きを売るというアイデアも出たが、火を扱うのは危険だということで先生から却下されてしまった。そして異論も出なかったので、オペラで演目は『精霊のお姫様』に決まった。


「それでは『精霊のお姫様』をやるとして、皆さんの役回りを決めましょうか。主演の双子の王女ライラとリオン。それにヒーロー役の隣国の王子と……小道具係、音楽隊など……」


 黒板にどんどん役名が書かれていく。

 クラスメイト達から「ヒーロー役はカルロ様が良いんじゃないでしょうか!」という意見が挙がったが、カルロはにっこりと微笑んで首を振る。


「僕は総監督をやりますので、他の方が良いと思います」


 そんな訳で、ヒーロー役はカルロの次にクラスで人気の男子で枠が埋まった。

 そして主演の男装の王女リオン役には、エセルが「私がやりますのよ!」と名乗りを上げる。


「では、もう一人の主演の王女ライラ役をやりたい方は──」


 カルロがそう一同を見回した時、マリーはサッと顔を伏せた。


(極力目立ちたくない……できれば裏方……小道具係や雑用係みたいなのが良いのだけれど……)


 マリーは自分が日陰の住人であることを自覚していた。できれば存在に気付かれないくらい地味にしている方が心の安寧には良いのだ。マリアというだけで目立ってしまうのだから。

 どの役が良いか悩んでいると、前の席に座っていた快活そうな少女が勢いよく手を上げる。


「私がライラ役をやります!」


 彼女は特待生のミッシェル・ダンだ。淡い金色の髪を後ろにひっつめ、そばかすの浮いた垢ぬけない容姿をしている。


「ライラ役はミッシェル・ダンですね。他に希望者はいませんか?」


 カルロがそう教室内を見回すと、教室の端にいた女生徒達がクスクスと嫌な笑い声を立てた。


「カルロ様、ミッシェルは演劇部で演技はお上手ですけれど、主演には不適合だと思いますわ」


「なぜですか?」


 カルロの問いかけに、女生徒は口紅を塗った口元をゆがめた。


「だって、演者の衣装って自前でしょう? 彼女は庶民ですもの。ライラのようなお姫様役をやりたくても、ドレスの用意をするのは経済的に難しいのではありませんか? だから演劇部でも庶民役しかやってこなかったのですから」


 それを聞いて、ミッシェルは背を丸くしてうなだれてしまった。

 貴族ならともかく、庶民がドレスを用意するのは難しい。

 ヴァーレン祭の最終日にはダンスパーティがあるが、貴族の大半がドレスや礼服をまとっている中、平民出の生徒達は制服で参加するのが常だった。


「わ……わたし、やっぱり辞め……」


 涙声でそう言いかけたミッシェルを見ていられなかった。

 彼女の姿が、まるでかつてギルアンやスカーレットにいたぶられている過去の自分の姿に重なって見えたのだ。


(このまま彼女を放っておいて良いの……?)


 自分には関係ないと言われれば、その通りだ。でも──。

 しばしの逡巡の後、マリーはポケットに入れていたブローチをぎゅっと握りしめ、勇気を出して片手を上げた。

 ──ここでミッシェルを見て見ぬ振りをしたら、自分のことが嫌いになってしまいそうだったから。

 マリーの挙手に、クラス中の視線が集まってくる。

 顔面が火を噴きそうなほど熱くなった。上げていた手が小刻みにプルプル震え、後悔が押し寄せてくる。


「マリア、どうしました?」


 カルロが存外に優しく声をかけてきた。

 緊張で声が上擦るのを感じながら、マリーはどうにか言う。


「あ、あの……その、差し出がましいようですが……それなら、『衣装係』を作ってはどうかな……と思いまして……」


「衣装係? その係がミッシェルの衣装代を出すということですか? さすがに制作費用を一人の生徒に押し付けるのは学校からも許可がでないと思いますが……それとも、彼女にきみのドレスを貸してあげると?」


(他の演者は自前で用意しているのに、自分だけ私に衣装を貸されたらミッシェルの誇りを傷つけてしまうよね。それはダメ)


 マリーは慌てて首を横に振った。


「い、いえ! そ……そこは従来通りで結構です。衣装は演者に用意していただきます。それを衣装係がチェックして、不備があれば少し繕うなどの演者の手伝いをするということです。それなら、それなりの見栄えにもできると思います……」


 生徒達がざわつく。

 カルロは目を見開いたあと少し考えこみ、


「……なるほど。これまでも演者の衣装作りを友人達が手伝うことはありましたし、それを係にしてしまうのは良いかもしれませんね。──プリシラ先生、それでもよろしいですか?」


 カルロの問いかけに、女教師は「許可します」と、うなずく。

 その時、エセルが素早く片手を上げた。


「ならば、衣装係はマリア様がよろしいかと思います!」


「あ……わ、分かりました。言い出したのは私ですし、やります……!」


 マリーは困惑しつつも、うなずいた。

 言い出しっぺの責任もあるし、不得手な分野をするよりは技量の調整もしやすいから、ぼろが出にくいかもしれない。

 しかし、マリーの言葉にクラスメイト達が嘲笑する。


「マリアが衣装係だって!? 裁縫の時間でいつも赤点を取っている、あのマリアが?」

「ぼろぞうきんみたいな衣装を出してくるんじゃねぇの!? 俺だったらとても頼めないなぁ。逆にミッシェルが気の毒だよ」


 エセルは意地悪そうにクスクス笑いながら言う。


「皆さん、そんなことをおっしゃってはマリア様に失礼ですのよ。きっと私達には想像もできないような素晴らしいドレスを用意してくださるに決まっていますわ。まさか、衣装係とか言いながらミッシェルさんのドレスを用意できなくて、自分の手持ちのドレスを貸すなんて無様なことを──シュトレイン伯爵家のご令嬢である誇り高いマリア様がなさる訳ありませんですものねぇ?」


 そう意味ありげな視線を向けてくる。

 じつのところ校内でオペラをする時に生徒間で衣装の貸し借りをするのは良くあることなのだが、エセルは嫌がらせでドレスを貸せないように釘を刺したのだろう。


(……最初からそんなことするつもりもなかったのだけど)


「静かに。皆さん、言い過ぎですよ。そうでしょう、エセル?」


 カルロが教室内を威圧するように睨みまわす。

 いつも笑みを絶やさない彼が珍しく苛立った様子を見せたので、エセルは「あっ、カルロ様。すみません……!」と青ざめていた。


「謝罪の言葉は、僕の婚約者のマリアに……そしてミッシェルに伝えてください」


 カルロにそううながされ、エセルはかなり渋々といった雰囲気で、「ごめんなさいね、マリア様。それにミッシェルさん」と心のこもっていない台詞を小さく吐いた。

 マリーは『気にしないで』という気持ちを込めてエセルに微笑みかけたが、それが逆効果だったようで、すごい目で睨まれてしまった。


(……仲良くなるのって難しいのね)


 しかしエセルは意地悪のつもりでマリーを推薦したのだろうが、まったく意地悪になっていない。

 むしろ臆病で優柔不断なマリーは自分で役を決められなかったので、エセルが指名してくれたことをありがたいとさえ思っていた。


(一番の問題は、正体がバレないようにどれくらい手加減して作るかよね……)


 そんなことをマリーが考えていることなど、その場にいるクラスメイト達は誰も想像もできなかっただろう。




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