第七話 精霊達との快適な暮らし
女子寮の前で待っていたロジャーと合流し、マリーは怯えながら進む。
綺麗な本校舎から林を隔てた旧校舎へ近づくにつれて、じっとりとした重々しい空気に変わって行くように感じられた。
「こ、ここが……?」
マリーはそうつぶやいて、石造りの建物を見上げた。
手の入れられていない建物にはいたるところに蔓やクモの巣が絡みついている。
背後に木々があるためか、ここには本校舎の声も届かない。
その建物の異様さを際立たせているのは、全ての窓についている鉄格子だろう。
かつては牢獄や修道院として使われていたという古き建物は、外部の者を容易に入室させることはない。逆に言うと、出ることもできない。
「ああ~……少しさび付いているわね。何しろ、もう十年以上放置されてきたから……後で油を差した方が良いわね」
プリシラ先生は顔をしかめながら、扉の南京錠を苦労して開ける。
ギギギと不穏な音を立てながら開いた鉄の扉は、戦が起こっても籠城できるのではないかと思うほど堅牢だ。
「合鍵はないから、これは無くさないようにね」
そう言って、鍵を手渡される。マリーは神妙な顔で、うなずいた。
突然、背後にいたエマに両肩をぎゅっとつかまれて飛び上がった。
「ひゃっ! って、お姉様!? どうなさったのですか?」
エマの顔色は色白を通り越して蒼白だった。
「な、なぁ。マリア、やっぱり、ここに入るのは考え直さないか」
「……え? でも……」
これはマリアに科せられた罰なのだ。拒否したら進級できなくなってしまうかもしれない。それは伯爵家の汚点となるだろう。
その危険が分かっていないはずがないのに、エマは引きつった顔で必死に言い募る。
「とても、こんな危険な場所にきみを置いておけないよ。なぁ、私と一緒に別邸で暮らそう。悪いことは言わないから……!」
マリーはおずおずと言う。
「あ、あの……お姉様。もし中に入るのがお嫌でしたら、外でお待ちくださっていてもよろしいんですよ?」
マリーはここで暮らす以上入らない訳にはいかないが、エマは違う。
エマはわざとらしく肩をすくめる。
「ハ、ハァ? この次期シュトレイン伯爵である、この私が怖がっているとでも思っているのか? 私が幽霊なんぞに怯える訳がないだろう」
一同に沈黙が落ちる。エマの虚勢はあまりにも分かりやすすぎた。
しかし皆の何とも言えない表情を見てか、エマはむきになってしまったようだ。怒気荒く言う。
「私をここに一人で置いていくつもりか!? この幽霊棟の入り口で!? それこそ、あり得ぬことだろう。安心しろ! 大事な妹のため! きみは私の後ろについてくるが良い。私が先陣を切ろうじゃないか!」
そう堂々と言い放ったエマは、手足を同時に出すギクシャクした動きで玄関から中に入り──蜘蛛の巣に顔を絡み取られて悲鳴をあげて戻ってきた。
あきれ顔のロジャーにハンカチで顔をぬぐわれてメソメソしている。マリーは姉の名誉のために見なかった振りをした。
(……確かに、お化けと言われると怖いけれど……)
マリーは当惑しながら、その旧校舎をじっと見まわす。
幽霊がいると聞いて最初は恐ろしかったが、実際に見ると、その建物はそれほど恐怖心を煽るものではなかった。
(なぜかしら……? あまり幽霊がいるような感じがしないせい?)
そう感じる一番の理由は、辺りに精霊がたくさんいるからだ。
精霊というのはどこにでもいるが、彼らが忌避する場所もある。それは墓地や殺害現場など──つまり悲しい怨念が渦巻いていた場所だ。
ここはマリーの友である精霊達が楽しそうにキラキラと舞い踊っている。
(精霊達がいるってことは墓地や殺害現場じゃないし……つまりは幽霊もいないってことだもんね)
もしかしたら、かつては精霊も忌避した場所だったかもしれないが、長い年月をかけて浄化されたのかもしれない。
(精霊がいない場所は不幸が訪れやすいけど……、ここならそんな心配もない……よね?)
マリーはとりあえず、そう信じることにした。
「それじゃあ、行きましょうか」
プリシラ先生の先導で、少し足取りの軽くなったマリーは建物にそうっと入った。背中にはエマがぴったりと亀の甲羅のように貼りついており、その後ろにロジャーが続いた。
埃の積もった廊下には自分達だけの足跡がついていく。
蜘蛛が壁を這うところを見るたびに、マリーにくっついているエマが「ひいっ!」と悲鳴を上げた。一番後ろを歩いているロジャーは主君の様子を生ぬるい目で見つめている。
建物の一階には、職員用の寝泊まり部屋があった。かつては看守が使っていたというその部屋は思っていたより清潔で、十分な広さがあった。ベッドもあるし、布団を変えれば十分使えそうだ。
マリーは案内される館内を見回して、つぶやく。
「掃除しがいがありそうですね……」
娼館で下働きしていたマリーは、掃除も手慣れたものだ。
最後に連れていかれた一階の手芸室で、マリーは布をかぶせられたそれを見つける。
「これは……機織り機、ですね……?」
埃をかぶって捨て置かれているそれを、まじまじと見つめる。マリーが娼館で使っていたものと大差なさそうだ。それほど古い物ではない。
「ああ、ここは手芸科だったみたいね。糸や布も残っているわ」
プリシラ先生が壁際にあった棚の箱を手に取り、針や糸を眺めていた。
「手芸部? 聞いたことないですね」
エマの言葉に、プリシラ先生は肩をすくめる。
「今は廃部になってしまったみたい。元々部員も少なかったから、新館ができたと同じ頃に廃部にして、機織り機はここに置かれたまま忘れ去られていたんでしょうね」
マリーが機織り機に触れると、精霊達が気配を察知して寄ってくる。『織るの?』『織るの?』と彼らがワクワクしている空気が伝わった。
試しに機織り機を動かしてみると、大きな音をたてながらも動き始める。まるで『自分はこんなところでくすぶっているが、まだまだ動けるんだぞ!』と力強く主張しているように感じられた。
「お姉様……私、ここが気に入りました」
マリーは満面の笑みで、エマに向かって言った。
伯爵家から持ってくることができなかった機織り機のことがマリーは気になっていた。
布を織る時に絶対に必要になる物だが、大きすぎて運んでこられなかったので、本音では残念でならなかった。
こんなところで機織り機と巡り合うことができたのは、運命としか思えない。
使う時はどうしても大きな音が出てしまうのだが、この旧校舎でなら、どれだけ使っても周囲の迷惑になることもなさそうだ。
(それに……マリア様の知り合いばかりいる寮で暮らすより、一人で過ごした方が身代わりであることが知られるリスクも少なくて安心だわ)
マリーのウキウキした様子に、エマは正気を疑うような目を向けてきたが──最終的にしぶしぶ了承したのだった。
それからその日の残りの時間は大掃除に費やした。
ロジャーはきびきびと、エマも泣きべそをかきながら手伝ってくれたおかげで、だいぶ片付いた。
もちろん全ての部屋の掃除はしきれないものの、寝泊まりする部屋と廊下や玄関、そして手芸室を片付ければ、生活に支障がないくらいのものにはなった。
女子寮のマリアの部屋から布団を移動させて、干しておいたそれをベッドに広げるとふんわりとして気持ちがいい。
(あ、これ……もしかしたら思っていたよりも、ずっと良いかも……)
もちろんシュトレイン伯爵家で過ごした期間の豪華さとは比べられないが、娼館でスカーレットやギルアンに怯えながら過ごした幼少期を思えば、とても気楽だった。ここではマリーに理不尽な暴言を吐いたり、殴ってくる者もいないのだ。
伯爵邸から運んでもらった針や糸は手芸室に置いてある。
マリーは寝る前に手芸室におもむくと、「これからよろしくね」と言って機織り機をそっと撫でた。精霊達が布を織られるのを楽しみに待っているかのように集まってきて、煌びやかに舞い踊っていた。
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