第三話 優しいシュトレイン伯爵家の人々
そして、ここで長話するのも何だから……ということで、大通りにある【ショコラール】という喫茶店に入ることになった。予約がないと入れない人気店だったが、ロジャーが支配人を呼ぶと、すぐに三人は上の階に案内された。
吹き抜けになった広い店内には、ゆったりとした間隔でソファー席がもうけられている。一階は満席だったが、二階には他の客はいなかった。
エマは階下を見下ろせるソファーに座って足を組んだ。
「ここの店は、シュトレイン伯爵家が出資しているんだ。だから顔パスで入れる」
「そ、そうなんですね……」
マリーはエマの目の前に腰掛け、困惑ぎみに相槌を打つ。
(偶然だけど……また、このお店に来られて良かった……)
このお店は、マリーもまた来たいと思っていた場所だ。カルロとの思い出の場所だったから。しかし予約が取れないのと仕事の忙しさから八年間も来店できていなかった。
やってきたメイドが三人分のホットチョコレートを置いていく。このお店はチョコレート専門店なのだ。
マリーが厚めのカップに入れられた茶色の液体を口に含むと、シナモンの香りが鼻腔を抜けていく。砂糖の甘さとチョコレートの苦みが口内に広がった。
エマのカップを口に運ぶ所作が優雅で、粗野なふるまいをしていても、どこか高貴さが身の内からにじみ出ているようにマリーには感じられた。
「それで妹の振りをしてもらいたいという話なんだが……少し話が長くなるが、聞いてほしい」
そう前置きして、エマは話し始めた。
八年前──エマが十歳、マリアが八歳の時に家族でバレル海に行き、ならず者に襲われてしまった。その時に海賊王レンディス・バークナイトに助けられたのだという。
それからマリアは二十歳も年上の海賊王に熱を上げてしまい、彼が現れるという噂の酒場を調べては通いつめ、しつこく求婚をしては振られるのを繰り返していた。
「マリアは一言で言うと、猪突猛進な馬鹿なんだ。海賊王に『俺のような平民のオッサンに構ってないで、もっと年の近い貴族の坊やを見つけな。その方がお前も幸せになれる』って諫められても、逆に『素敵! 私の旦那様、格好良い~!』と燃え上がる始末で……」
しかし、それから間もなく事態が急展開する。
マリアがこの帝国の皇太子カルロ・マクレーン・イルス・グラウローゲンの婚約者に選ばれたのだ。カルロの強い希望で結ばれた縁だった。
(カルロ皇子……? そういえば、この国の皇太子って彼と同じ名前だったわね)
マリーは懐に入れていたブローチにそっと触れる。初恋のカルロとマリアの婚約者が同じ名前であることにマリーは好感をおぼえた。
「私もまったく知らないことだったんだが、カルロ皇子は八年ほど前にマリアとどこかで会って好意を抱いたようなんだ。マリアに聞いても『知らな~い。殿下の言ってること、よく分からないわ』と不思議そうだったが……まぁ、とにかく、両親がマリアの強い反対を押し切って、カルロ皇子との婚約を結んでしまったんだ」
シュトレイン伯爵家からしたらこれ以上ない良縁だから、断る理由もなかったのだろう。
子供の内なら、『海賊王の嫁になりたい』と言う娘の言動も、まだ笑い話で済む。しかし、その熱意を抱いたまま成長してしまえば嫁ぎ先がなくなってしまうと両親も心配したのだろう。
エマは憂いを帯びた表情で言う。
「伯爵家から破婚の申し入れはできないから、マリアはどうにかカルロ皇子から婚約破棄してもらおうと躍起になった。陰でカルロ皇子に幼稚な嫌がらせしたり、自分の取り巻きの令嬢を使って皇子に言い寄らせたり……そのせいでマリアの周囲から人がいなくなってしまい、今では悪女と呼ばれるようになってしまった。カルロ皇子は誰にでも人当たりがよく紳士的なのだが、段々妹に愛想が尽きたのか、冷たく接するようになってしまった。まあ、当たり前の話だがな」
(マリア様はカルロ皇子に嫌われようと、やることが過激になっていったのだろうけれど……)
マリーは困惑ぎみに尋ねた。
「そんなに彼女から嫌がられていたのに、なぜカルロ様はマリア様と婚約破棄しようとしなかったのでしょうか?」
普通に考えれば、そこまで嫌がる相手と結婚なんてしたくないはずだ。
エマはホットチョコレートを口に運びつつ、首をひねる。
「……さあな。まだ【初恋のきみ】に幻想を抱いていたのかもしれないが……十八歳になって学校を卒業したら、マリアは皇宮に入ることになっていたんだ。それで、このままでは本当に結婚させられると危ぶんだのか知らないが、一週間前に『私は海賊王レンディス様のお嫁さんになります。探さないでください』と置き手紙をして家出してしまったんだ」
エマとロジャーが重々しいため息を落とした。おてんばなお嬢様に振り回されている二人の気苦労が伝わってくる。
「伯爵家の醜聞だ。これが皇家に知られたら、とんでもない騒ぎになる。だから、私達はマリアが行方不明になったことは伏せて捜索していたのだが、港町のどこにもマリアの痕跡がなくてな……おそらく、この逃亡計画を長年の間、マリアは水面下で周到に準備していたんだろう」
マリーは絶句してしまった。
愛する人を一途に思うマリアの行動力はすごいが、周りの迷惑などおかまいなしだ。色んな意味であっけに取られてしまう。
「この事態が公になれば、皇家の面子がつぶれてしまう。伯爵家は多額の慰謝料を払うことになるし、下手したら一族皆処刑だ。マリアも見つかり次第、拘束されて投獄、もしかしたら処刑されるかもしれない……カルロ皇子は罪人には容赦がないことで有名なんだ。元婚約者だからって、手心を加えることはないだろう。──だから、頼む……! 妹が帰ってくるまでマリアの振りをしてほしい。そして、できれば婚約が解消されるようカルロ皇子を説得してくれないかッ!」
「え、えぇ!? そっ、そんな……! 私がマリア様の振りをするだなんて、むっむむむ、無理ですよッ!」
しかもマリアが頑張っても無理だったのに、マリーがカルロ皇子に婚約破棄させることなんてできるとは思えない。無茶ぶりも良いところだ。
「大丈夫だ! 本当に、きみはマリアにそっくりだから! 姉の私ですら、たぶん横に並んでも判別できない」
「でも……」
「もうこれ以外の方法がないんだ。どうか、お願いだ。私達を助けてほしい……! 婚約解消してくれたらありがたいが、無理ならマリアが見つかるまでの時間稼ぎだけでも良いから……ッ」
そう苦しそうにエマは言うと、深く頭を下げた。それにロジャーも続く。
マリーは慌てて立ち上がる。
「や、やめてくださいッ! 貴族の方に頭を下げられるなんて……っ」
「きみが了承してくれるまで、私は頭を上げられない。私達はきみを頼ることしかできないんだ。妹が見つかったら本人が嫌がろうが縄にかけてでも連れ戻し、入れ替わりも終わりにするから……! どうか、それまでの期間お願いできないだろうか。──もちろんタダでとは言わない。謝礼ならできる限りのことはしよう」
「そんな……」
マリーは膝の上で震える指を握りしめた。
誰かの振りをするなんてとんでもないことだ。発覚すれば自身の身にも危険がおよぶ。しかも相手は皇太子だ。不敬罪で斬首刑になってもおかしくない。
(でも、こんなに困っている人達を見捨てることなんて、私にはできない……私が見捨てたら、彼らは殺されてしまうかもしれないもの……)
そう思うと、マリーには断るという選択は選べなかった。
「……わ、分かりました。どうか頭を上げてください」
「ありがとう! 感謝する!」
エマは弾かれたように顔を上げた。
マリーはおずおずと言う。
「できる限り婚約解消してもらえるよう務めますが……じつは私は男の人が苦手で……。そんな私でも、マリア様の身代わりができるのでしょうか」
つい放っておけず了承してしまったが、安請け合いだったのではないかと心配になる。はたして自分にできるのか。
「男性恐怖症なのか? ううむ……だが、そこまで心配はいらないだろう。私達がぴったり張り付いて、余計な男が近付かせないようにするから安心してくれ」
「そ、それに……私は元貴族令嬢の母親と、娼館で見習いとして、ある程度の教養は学んできましたが、とても貴族の子女の振りをするのは知識が足りないと思います」
「貴族女性の知識は……、そんなに気負わなくて良い。マリアはどうしようもないくらい馬鹿なんだ」
そうエマが自信を持って言うので、マリーは戸惑ってしまう。
(ど、どうしようもないくらい……?)
「そ、そうですか……? なら良かった? です……」
困惑しながら、そう言う他なかった。
「それで謝礼金の話だが、いくら必要だろうか。先払いでも構わないが」
そう切り出したエマに、マリーはおそるおそる言う。
「で、では、もしかして……三億ジニーでも大丈夫ですか……?」
(さすがに高すぎて拒否されちゃうかも……)
マリーはそう不安に思った。
全額でなくても良いから、一部だけでも負担してもらえたら助かる。そう思って切り出してみたのだが……。
エマは「ふむ……」と思案するように顎を撫でる。
「分かった。そのくらいたやすい。ロジャー、すぐに銀行へ行って三億ジニーを用意してくれ」
「えぇ!? 払ってくださるのですか!?」
マリーの方が仰天してしまう。
エマは不思議そうに眉を上げた。
「なんだ? きみが言ったんじゃないか」
「そっ、そうですけど……」
「なぁに。心配するな。我が伯爵家の財産は潤沢にあるから、この程度では揺らがないよ。私の一年間のお小遣い程度だし、もっと吹っ掛けてもらっても構わないのだが……」
マリーは唖然としてしまった。貴族と庶民では金銭感覚が違いすぎる。
ロジャーが眼鏡のブリッジを押し上げながら、申し訳なさそうな顔で言った。
「マリー様。我が主が世間知らずで申し訳ありません。こちらでお金についてはご用意させていただきますので、ご安心ください。──ところで、お嬢さんにはかなりの大金だと思いますが……もし差しつかえなければ、何かご事情があってのことなのか……ご使用の用途を伺ってもよろしいでしょうか?」
そう思慮深い眼差しで問われ、マリーは己の借金や今の生活について、ぽつぽつと話し始めた。
幼少期に娼館で働いていた母親が亡くなったことから、もうすぐ幼馴染のギルアン・テーレンの専属娼婦にさせられそうになっており、逃げても捜索されてつかまってしまうかもしれないことを。
マリーは緊張感から言葉が詰まりがちになりながら話した。かなり聞き取りにくかっただろうに、エマもロジャーも話をさえぎることなく話を最後まで聞いてくれた。
「なるほど……そのギルアンとか言う男は糞だな」
「エマお嬢様、言葉が汚いです。ですが、おっしゃりたいことには同意します」
主の吐き捨てた言葉に、ロジャーは眼鏡を押し上げながら同調する。
「ふむ……違法な金利の借金ならば、裁判所をすれば勝てるのではないか?」
エマは不思議そうに首を傾げている。
ロジャーは大きなため息を落とした。
「エマお嬢様……それは貴族なら、です。一般庶民の間では当事者間での解決が基本です。裁判は時間もお金もかかりますし、伝手がなければ開くのも難しいことですよ」
苦労して裁判が行えたとしても、スカーレットは娼館の女主人という立場で広い人脈を持っている。裁判官にも顔が利くスカーレット相手では、どうあがいてもマリーは勝てない。権力者への裏金も横行している現状では、資金がなければそもそも裁判をしたって勝てっこないのだ。
「なるほど……それについては、こちらで手を打とう。……と言いたいところだが、私達に裁判を開いている時間はないんだよな。だから、とりあえずはスカーレットに借金は払おう。なぁに、スカーレット・モファットと言えば、金の亡者として業界では有名だからな。テーレン商会が払った数倍の金をポンと渡してやれば黙るだろうさ」
「そうですね……しかし、黙ってお金を払うだけなのは癪ですから、後々に全額──いえ、利子をつけて返していただきましょう。おそらく、その娼館の女主人には余罪もあるでしょうから、調べたら色々出てくるでしょうからね」
エマとロジャーが悪い顔で笑っている。
その不穏さに、マリーは背筋がぞくりとした。
「あ、あの……?」
「安心しろ。伯爵家の名にかけて、恩人のきみに不便をさせる気はない。──そうだな。皇太子との婚約破棄が成立したら……もしくは我々がマリアを捕獲できたら、マリーを自由にしてやる。その時は新たに謝礼金を払い、きみが新しい土地で不自由なく暮らしていけるように便宜を図ろう。それで良いだろうか?」
そうエマに問われて、ビックリした。あまりにもマリーに都合が良すぎる契約だ。
(新しい土地で……誰も私のことを知らない場所で生きていく?)
それは夢のような生活だった。自分のお店も開けるかもしれない。胸が躍る想像にときめきながら、マリーはコクリと小さくうなずく。
エマは満足げに笑った。
「よし、交渉成立だな。じゃあ、さっそく行こうか」
そうエマが言って立ち上がった時、マリーは今引き受けている仕事のことをふいに思い出し、慌てた。
「あっ、あの……!」
「どうした?」
「あ、いえ……大変申し訳ないのですが……、いま私の元へ来ている依頼を全てこなしてから、身代わりを引き受けても良いでしょうか……?」
三か月先の分まで依頼を受けてしまっている。マリーが突然仕事を辞めたら、お客も困ってしまうだろう。
「そんなに時間をかけていたら、きみはギルアン・テーレンに良いようにされてしまうぞ。ほうっておけば良いだろう。どうせ辞めるなら、きみに何の責任もないんだし、その女主人も他の機織り職人やお針子達にやらせるだろう」
呆れ混じりのエマの言葉に、マリーはうつむく。
エマの主張はもっともだった。
「で、でも……」
確かにそんな義理などないと言われたら、その通りなのかもしれない。
でもお客にはマリーの事情は何の関係もないのだ。【織姫】の衣装を楽しみに待っている相手をがっかりさせたくなかった。
「……お願いします。一か月ほどいただければ、作業も終わると思いますので……」
そうマリーは頭を下げる。
エマはため息を漏らした。
「……分かった。マリーはなかなか頑固だな。マリアになりきるために一か月ほど邸にこもって淑女教育を受けてもらおうと思っていたから、その合間に作業をしてもらうというのでも良いか? 完成した衣装はうちの使用人が密かにお客に届けるようにしよう」
「……! はいっ! ありがとうございます!」
マリーは満面の笑みを浮かべた。
エマは店を出るとすぐに銀行で大金を引き出し、娼館でマリーの借金を返済してしまった。スカーレットはマリーを手放すことをかなり渋ったが、借金の総額の三倍を見せると、あっさりと手のひらを返した。ギルアンから受け取ったお金を返しても、圧倒的な利益を得られたからだろう。
あれよあれよという間に事が進み、荷物をまとめ、その時に会うことができたお姉さん達にはお別れの挨拶をして、その日の夕刻にはマリーは娼館を去ることになった。
伯爵家の人達にはすでに話が済んでいたらしく、エマの両親も邸のメイド達もマリーを歓迎してくれた。
「こんな事態に巻き込んでしまって、すまない。自分の家だと思って、くつろいでくれ」
そう申し訳なさそうにエマの父親──ローレンスは言った。その隣にいた優しそうな風貌のエマの母親のエステルが、マリーを凝視してから、ぽつりとつぶやく。
「……まさか」
「え?」
マリーは驚いて聞き返す。しかしエステルは取りつくろうように、急に首を振った。
「いっ、いえ! 何でもないの」
エマは両親に向かって快活な笑顔で言う。
「自分に似た人間が世界に三人はいるとは言うが、世の中にこんなにマリーにそっくりな相手が本当にいるなんて驚きだよな」
「そ、そうね……」
エステルは、そうぎこちない笑顔でうなずく。
マリーは首を傾げつつも、「これから、よろしくお願いします」と、三人に頭を下げた。
突然エステルが勢い良くマリーの手を握ってきて、マリーは目を丸くする。
「マリー、これからはそんな他人行儀な態度はしなくて良いわ。私のことはマリアと同じように『お母様』と呼んでちょうだい」
そう言われて、マリーは戸惑いつつも首肯する。
「お母様……ですね?」
「私のことは『お姉様』だ。父のことは『お父様』と呼んでくれ」
エマはそう言った。
マリーの『父親』のローレンスが、鷹揚にうなずく。
「我々のお転婆娘のせいで苦労をかけて、本当にすまない。何か困ったことがあったら、何でも相談してくれ。必要なものがあったら執事のロジャーに伝えてくれたら用意するからな」
ローレンスの言葉にエステルも首肯する。夫妻は娘の家出のためか、少しやつれた顔をしていたが気丈に微笑んでいた。
「あ、ありがとうございます……! お世話になります……!」
緊張しつつも再び大きく頭を下げた。
まさかここまで歓迎してもらえるとは思っておらず、胸があたたかいもので満たされる。
「これから一か月、マリアになりきるために厳しい訓練を受けてもらうことになるが……大丈夫か?」
エマの言葉に、マリーはうなずく。
これから、『マリア』になりきるのだ。これまでしたことのない勉強ばかりで大変だろうけれど、この優しい人達のためにも、くじけずに頑張ろう。そう、心に誓った。
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