堕落
堕落
クラブでKちゃんが俺の隣に来ると店員に「ジーマ1つとテキーラ2つ。柑橘つけて」と頼んだ。店員はKちゃんにすぐジーマを渡した後、テキーラをショットグラスにゆっくりとしかし素早い所作で注いだ。皮と身を端から半分剥いたレモンをグラスのフチに挟むと2つを俺とKちゃんの前に丁寧に差し出した。「ほら飲んで。どうするかは明日考えればいいよ。今日はかなり疲れたと思うから今考えたことなんてろくなことじゃない。とにかくお疲れ様」といつもとは違う真剣な表情で俺の前にあるショットグラスをさらに俺に近づける。「そうだね。もう今日は何も考えずに酒に浸かるよ」とテキーラを一気に飲み干しレモンにかぶりつく。「どうも」と店員に礼を言いショットグラスを返す。Kちゃんもテキーラを飲み干して「真ん中の席で飲もうよ」と俺の手を引く。俺はKちゃんの手を頼りに真ん中のテーブルに向かった。久しぶりに味わった人の温もりに心がぽっとなった。カウンターから持ってきたジントニックを飲み干す頃にはKちゃんもジーマを飲み終えていた。俺は少しずつ正気に戻りジントニックを飲み終えた時にはこの不倫現場のクラブから早く離れたいという気持ちが強くなった。「お店出よう」と俺が提案をするとKちゃんは頷き2人で外に出た。横浜駅から少し外れた路地を2人で歩く。飲み屋の看板に照らされる2人の影が前に進むたび伸び縮みして、踊っているようだった。俺はそのダンスを眺めながら不倫の原因を考える。
俺が普段からガールズバーに入り浸っていたからか?そもそも外で遊んでいることが嫌だったのか?家事は全てやっているし料理だってそこそこうまい。休みの日はなるべく一緒に過ごしているし、俺は嫁に隠し事なんてほとんどない。プレゼントや祝い事を忘れたこともなければ迷惑をかけたことなどないはずだ。原因を探るも見つからない。
考え事が煮詰まった俺に向かってKちゃんは見透かしたかのように「女を忘れさせちゃったのかもね」と投げかけた。俺はどういうことなのかわからなかった。続けてKちゃんは「家のこととか完璧にやっていてもどきどきしないでしょ女は。逆に家事のできない男でも女として見てくれている男の方が好きなのよ。迷惑をかけないことよりも自分という女性に興味を持ってくれている。もっと言えば好きだっていう気持ちが伝わってればなんでもいいの。あなたはかっこいい男でいようと繕うから頭の中で何を考えているのかわからない。だから、あなたが嫁ちゃんのこと好きって気持ちが伝わってないんじゃない」と星も何も見えない空を真っ直ぐに見つめながら語りかけた。「その通りかもしれないね」と俺は心底納得した。Kちゃんは「でも、今回の一件であなたが嫁ちゃんに対してどれだけ本気か分かったしあなたがすごい真っ直ぐな人ってことは伝わったよ」と照れ笑いを浮かべ、潤んだ目で俺を見つめながら言った。「ありがとう。いろいろ付き合ってくれて。また、今度お礼をさせて」と俺は感謝しながらその人柄のおおらかさに感心していた。
気がついたら横浜駅に到着していた。帰宅して1人酒を飲んで今日は寝ようと考えていた。今日のことは一度持ち帰って明日にでも嫁に聞こうと決意した。しかし、駅に入ろうとした瞬間にKちゃんが足を止めた。「どうかした?」と俺が心配をするとKちゃんは「そんな真っ直ぐな君に愛されてる嫁ちゃんがうらやましい」と俺の目を刺すように見つめる。駅前で立ち話をして時間を潰すのも嫌だったので俺は「Kちゃんは同棲している彼氏がいるじゃないか。今日は家に帰ってゆっくり休みなよ」と帰るように促す。すると、Kちゃんは俺の服の袖を掴み、強く引き寄せながら耳元で囁いた。
――「今日だけは私のものにならないかな」――
電車のガイダンスが鳴り響く駅の入り口でKちゃんの艶やかで生々しい声が脳内をこだました。その顔にはいつもの屈託のない笑みではない別のものが貼り付けられていた。口元は不自然に緩み、細くなった目の中の黒目には際限のない暗闇が広がっていた。その顔は悪女そのもので、本当に俺を物としてしかみてないただ、嫁の大切なものを奪いたいという嫉妬から俺を誘っているようだった。目的が明確で潔さすら感じる。何も答えない俺に隙があると見たのかKちゃんは袖を掴んでいた手で腕を掴み強く俺を引き寄せてこう続けた。
――「君はもう捨て犬なんだから私に持ち帰らせてよ。どこの飼い主にも懐けないようにたくさん可愛がってあげるから」――
さっきよりも強く、耳元で吐息を感じるほどの勢いで、しかし静かなその声が俺の鼓膜を直接刺激した。そして、俺の中で張っていた糸がぷつんと切れた。
そう。どれだけ強がっても俺は不倫された男。人としてではなく雄として失格の烙印を押されたただの捨て犬。酒でいろんな気持ちを誤魔化してどうにか立っていただけに過ぎない俺の自棄的な感情が限界に達したのだろう。もうどうとでもなれと思ってしまった。嫁の1人も満足させられずに裏切られるのなら、人に利用されてでも誰かを満足させられる方がまだマシだ。それにKちゃんは俺の弱味を完全に握っている。誰かに広められようと俺に大したダメージはないけれど、立場としては俺の方が完全に下にいる。そう。勝手に負けた気になっていた。
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