翼は汝とともに
「……何?」
不審そうに顔を歪めるマリスに傲然と微笑む。
「国のために尽くすと、良き国を作ると誓いなさい。そうすれば再婚約の申し出を考えてみてあげてもいいわ」
考えるだけで承諾するかは別の話だけれど、と続けたところで堪えきれず迸った笑声が響き渡る。愕然としたかと思えば怒りにどす黒く顔色を変えるマリスを、コーディリアは高笑いして虚仮にしてやった。
「こ、の……っ、あばずれが!!」
「お口が悪うございますわよ。王太子ともあろう御方の物言いとは思えないわ!」
言った瞬間、殴られた。
と思いきや魔力の壁が振り下ろされた拳を弾く。中空に浮かぶ水面のようにいんいんと揺れる青い光にマリスの憤怒と憎悪の表情が照らされ、背中を圧していた騎士は膨らんだ力に押し上げられるようにして姿勢を崩し、激しく防具を鳴らす勢いで座り込んだ。
コーディリアと離れた二人の間で魔力の残滓が青く散る。同じ色に光る青の瞳はマリスにとっていままでになく気味の悪い青さだったに違いない。
「化け物だ」
マリスの言葉は成り行きを見守っていた周囲に伝播していく。ごく一部の誰かが「続けるべきではない」「もしものことがあれば報復がある」と裁判の一時休廷を求めただろうがそれ以外の者たちの声の方が大きい。弱き者、少数派の声が潰されてなきものとされる、この国の縮図がここにあった。
「化け物」
「魔女だ」
「何をするかわからない」
「早く何とか」
「殺せ」
「処刑を」
「殺せ」
「水に沈めて」
「地に埋めてしまえば」
「殺せ。殺せ。殺せ」
「早く、殺してしまえ――!」
「ならば、やってみるがいい!」
凄絶な笑みと挑発でもってコーディリアが声を張り上げた。
青い光が広く周囲を照らし出し、視界を染め上げる。光の中心はコーディリアだ。誰よりも何よりも濃い魔力に包まれて青い柱と化している。
「な、なんだ、これは!?」
恐れ慄き右往左往する者たちを意識の隅に追いやり、コーディリアは目を伏せてここに至るまでに思っていたことを反芻する。
――もしこれが最後だとして、私に何ができるだろう?
王宮に向かう道を歩きながら、恐怖に覆われた街の空気、あらゆるものに心身を損なわれている人々や顔色の悪い不安そうな子どもたちが見た。
もし彼らに何かできるとしたら。
コーディリアには何もない。貴族の身分は失われたに等しいし、王太子との婚約は破棄し、王宮から追われ、名ばかりの裁判を受けて処刑される身だ。この国の者には珍しい、恵まれたと讃えられた銀の髪も青い瞳、強い魔力を持つだけ。
けれど神鳥の青い力を正しく使う方法を知っている者は多くない。魔力の流れを感じ、読み取り、それに手を加えられるのは私だけ。そう気付いたとき、決めた。
正面に立っていたマリスが怯んだように一歩下がり、声を荒げる。
「いったい何をしている!? いますぐそれを止めろ!」
「あなたにできないことを、あなた方がやらなかったことをやっているのよ」
マリスを見据える、魔力で揺らぐ瞳はまるで燃える石のように見えたことだろう。
「この地に私の力を注ぎ込む。――この国の衰えた土地を、再生する!」
喚起された魔力が輝く。消費されて弱り切っていた地に神鳥の力が一気に注ぎ込まれていく。
魔力が満ちれば、衰微していた恵みが戻ってくるだろう。恵みは弱った人々の心身を癒すだろう。人の営みが、生きとし生けるものの巡りが戻ってくれば流れが変わる。悪い流れ、負の連鎖が緩やかになり、いつか止まる。
止めてくれる人がいることを、知っている。
「微々たるものかもしれない。手が届く範囲だけしか救えない偽善だと思う。それでも!」
これがコーディリアが自分を生かしてくれたいたこの国のためにできる最後の行いだ。
決して揺らがぬ決意に、コーディリアの力に、恐れ慄いたように一歩、二歩と下がったマリスはやがて背後や周囲を振り返り怒鳴った。
「誰か……誰か、縄を、石を持て! この女を石に括り付けて生き埋めにしろ! 湖に放り込むのでもいい、早く!」
マリス以上に恐怖の形相の騎士や兵士たちはまったく動けない。武力に乏しい重臣たちなどいまにも逃げ出しそうな顔色の悪さだ。そんな彼らに怒鳴り散らすマリスすら醜悪な形相ですっかり取り乱していた。髪は乱れ、額には青筋が浮かび、引きつってわななく唇に嘲りの言葉も笑みもなく、美しい儀礼服を損なうばかりの理性を失った声で周囲に空っぽの命令を叫ぶだけ。
「この女を、コーディリア・エルジュヴィタを殺せ! 殺した者にはアルヴァ王家が生涯の名誉と報酬を約束するぞ!」
その言葉に数名の兵士が果敢にも武器を手に少しずつ近付いてくる。マリスの哄笑が響き渡った。
「抵抗するなよ、コーディリア! 逆らったら同じ数だけ無実の人間が痛い目を見るぞ。まずはお前がいたあの離宮の者たちからだ! それとも王宮の下働きの者を無作為に選んで、お前の前で痛めつけてやってもいいぞ!」
コーディリアは唇を噛んだ。後ろ手に縛められた左の手首にはまだ指輪がある。指輪を外せない限り、この男を殺すことだけは絶対にできないのだ。
何の反撃もしてこないと悟った者たちが最初の数名に続く。じりじりと迫ってくる中には狂気すら感じられる卑しい笑みをにたにた浮かべている者もいた。
(ここまでか)
目を伏せた。一瞬、魔法で縛めを引きちぎって指輪を捨てることも考えたけれど、きっとその瞬間コーディリアはまた『始める』ことになってしまう。マリスや王家、この国そのものを壊すまで終わらない復讐を。
けれどそれはしたくなかった。ずっとそう思って踏みとどまってきたのは、何故なら彼らもまた、コーディリアが守ろうとした国の人間の一人でもあったからだ。
マリスに一矢報いたい、身勝手な願望を砕き、愚かな振る舞いから人々を守ろうと、ここまで来たその『終わり』がこれだ。コーディリアが選び望んだ報復の行き着いたところだった。
「殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ――!」
「――無礼な」
だというのに、もう聞くはずのない声を聞いた。
コーディリアが声の主を探した瞬間、閉ざされていた扉が大きく開け放たれた。駆け込んできた騎士は血相を変えており、倒れ込むように膝をつく。
「何事だ!? 邪魔をするな!」
「もっ申し訳ございません! し、し、しかしいまこちらに」
マリスの不興は恐ろしい、けれどどう言っていいのかわからないと動揺する騎士の説明よりも早く、その人々が姿を現した。
小柄な少年を先頭にした集団だった。少年の衣服は襟を左右に合わせ、袖丈が長く腰に幅広の帯を締める一族独特の意匠だ。青の肩帯をした男女は神殿島の所属の聖職者たちで、自らが壁となって要人を囲って守っている。すぐ後ろには背の高い男性が少年と同じ意匠の衣服をまとい、かすかな笑みをたたえて周囲を威圧しながら検分していた。
コーディリアがいるところから見えたのはそこまでだったけれど、信じられなかった。
「……どう、して……」
ここに来るはずがない。来られるわけがない。彼は一個人のために力を使えない。制約に縛られているから。
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