鳥帰る

 昼中ゆえに人目につくことを警戒して、少し離れた森の中に降りて徒歩で家に向かう。

 雛罌粟、菫、薄雪草、青雛菊、露草……足元に咲くそれらがコーディリアの魔力の残滓に撫でられていく。すっかり見慣れたと思った山道はまた知らない道のようで、あの頃には芽吹いたばかりの緑に埋もれていた季節の花は、早咲きを終え、再び咲こうと蕾を揺らしている。

 山風にさらされてきた古い家が見えてくると、菜園の中で屈んでいた人影が立ち上がるところだった。その人は歩いてくるコーディリアを見て、いつもは不機嫌に眇めている目を驚きで大きく見張る。

「ただいま帰りました、ウルスラ」

 コーディリアが幾ばくかの後ろめたさにはにかむと、「あんた……」と言葉を失っていたウルスラは途端に目を吊り上げて庭に入ってきたコーディリアに掴みかかってきた。

「この、大馬鹿者ッ! せっかくグウェンが慣れない魔法を使ってまで知らせをやったってのに!」

「すみません。けれど帰らないという選択肢はありませんから」

 グウェンの所在を尋ねようとするとその本人が家から出てきた。会話が聞こえていたのだろう、コーディリアがいることを確認した途端「仕方のない子」とでも言うように悲しい微笑みを見せた。

「お帰りなさい、アデル。そんなところにいないで早くお入りなさいな。グウェンもよ。アデルが帰ってきたのだからいつまでも手入れする必要のない菜園にいても仕方がないでしょう?」

 ふん、と鼻を鳴らしたグウェンはアデルを押しのけて家に入っていく。後に続いたコーディリアは、狭い場所に雑然と、けれど一定の法則で並べられている家具や日用品といった暮らしそのものに包まれて張り詰めていたものが緩むのを感じた。

 暖炉の近くの椅子に座らされる。グウェンの淹れてくれた香草茶の優しい甘さが、感情の波でざらついていた心を癒す。

 けれど優しさに浸っている時間はない。

「グウェン。マリス殿下の現在の動向を知っていたら教えてください。あのときは上手く聞き取れなかったんです」

 コーディリアの呼びかけにグウェンは口をつけていた茶器を下ろした。

「状況はさほど変わっていないようよ。マリス王子は自分の手の者を連れて麓のエビヌの街に逗留、もとい占領したようね。噂では罪人である元婚約者を探しにきたのだろうと言われているわ。ロジエは神殿島の管理下にあるから、領主不在では抗議もできず、住民は大人しく従うことにしたようね」

 やはり、とコーディリアは続きを促す。

「他には、何か?」

「街の出入りはいまはできなくなっていると、親類に会いに行った人が教えてくれたわ。手紙を出したという人もいたけれど検閲を受けたみたい。ロジエの住民のほとんどはあちらに家族や知り合いが住んでいるから、何かあったらすぐ噂になると思うけれど、いまのところ大きな動きはないようね」

 それを聞いてわずかに息を吐いたが、そう長く安心できる状況でもないだろう。麓に来ていて、最も潜伏しやすいロジエ側にやってこないわけがないのだから。

(私の所在を知っているわけではないらしいけれど遠からずこうなる可能性はあったのだから何の不思議もない。考えなければならないのは私がどう動くべきか。気付かれていないうちに逃げるのが最善だけれど……)

「アデル。まさか自分が何とかしなくては、なんて思っているんじゃないだろうね?」

 思考に沈む意識を引き戻すと、吐き捨てるような迷惑顔のウルスラが答えを聞く前に言い捨てる。

「おこがましい。あんたにこの国のすべてがかかっているわけでもあるまいし、逃げたところで誰が文句を言うもんかね」

「今日ばかりはウルスラの言う通りね」

 鏡越しに話してからグウェンの微笑はずっと儚くて悲しげだ。

「アデル。早く支度をしてお逃げなさい。もし行方を聞かれたら適当に言って誤魔化しておくから」

 白と黒、微笑と渋面、二人の魔女が異なる物言いでコーディリアに同じことを告げる。しかしコーディリアは療養中に手入れされた白い指先で器を握り締め、浅く残った薄緑色の水面を睨むように呟いた。

「……そう、……そうしなくちゃならないのは、わかっているんですが……」

 残していく二人のこと、ロジエのこと、そしてルージェラ城とアルグフェオスを思うのとは別の部分で、コーディリアの心が「待て」と引き留める。家の中から吹く風が枝葉を激しく揺らしている音を聞いているような、遠くにある何かを予感している。

 それが何なのか上手く説明できない。少なくともまだここから離れてはいけない気がするのだ。

 ふうっという大きなため息を響かせたウルスラが不満そうに呟いた。

「翼公の申し込みを断るなんて馬鹿な娘だね。大人しく守ってもらえばいいものを。あれはそれが仕事なんだから」

 思わず器を取り落としそうになった。

「けれど頷けばその分制約が増えるもの。考えてしまうのは当然だわ。まあ翼公はアデルを上手く説得できなかったとも言えるかもしれないけれど」

「あ、あの!? 私、そんなこと一言も……」

 アルグフェオスと何があったのか、戻ってきてからあちらの暮らしのことなど一切話していないのに。泡を食ったコーディリアに片や冷たく、片や生暖かい視線が突き刺さる。

「長逗留させておいて、何もないわけがないだろう」

「いまどき珍しい魔力持ちの美しいお嬢さんなんだもの、逃すはずないわよねえ」

 療養するよう言って、二人ともそういうつもりでいたらしい。赤く染まった顔を伏せて縮こまっていたコーディリアは、いくつかの疑問を思い出してそっと上目遣いになった。

「……ということは、私の伝言を受け取ったときにはもう翼公のことを知っていたんですね?」

「多分そうだろうと思っていただけ。伝言を届けてくださった方は詳しいことは話さなかったけれど、廃城に逗留しているのなら翼公に違いないでしょう? それにしばらくしてロジエの魔力の流れが変わったもの。ああこれが言い伝えに聞く翼公の力なのだと思ったのよ」

 ころころと笑うグウェンを、コーディリアは改めて見つめて、言った。

「あちらで声を聞いたときからやっぱりと思っていたんです。グウェン。あなたは魔力を持っているんですね」

「ええ」と答える彼女の瞳は金色だが、その手が白く染まった髪に触れる。

「元の髪色は薄い金なの。瞳の色も複雑で、青地に金が混ざっていたのよ。これも歳を重ねるうちに金色が強く出るようになったのだけれど」

「驚きました。一度も魔法を使ったところを見たことがなかったので」

 グウェンは笑みを深めた。

「そうね。魔法は大嫌い。できれば使いたくないと思っていたけれど、どうやらそういうわけにもいかないみたい。ねえ、ウルスラ?」

 呼び掛けられたウルスラは顔を背け、コーディリアは理由を求めてグウェンを見るが返ってくるのは意味心な微笑だ。

「アデル、あなたが身近に接した翼公はどんな方だった? 翼公を名乗るにふさわしい器量の持ち主だったかしら?」

「翼公は……」

 アルグフェオスという名のその人は、類稀なる青い髪と瞳の持ち主で、神鳥に祝福された強い力を持つ穏やかで思いやりの深い男性だ。

 それから少しずるいところがある。こちらが否やを言えなくなるような言動をするし、強引なときもある。怖いくらいに忍耐強いと思っていたら時々びっくりするくらい情熱的だ。よく見ているから、嫌がっていないとわかると触れるのを躊躇わない。けれどいやらしさはない、そう感じさせないようにする注意深さもある。だからこそふとしたときに溢れ出すものに戸惑わされてしまった。

 祈りの木の花弁の幻から目を背けるようにして、コーディリアは面を伏せる。

「……神鳥の申し子のような力をお持ちです。けれど決して驕らず、私のような厄介者にとても親切にしてくださいました。この国の話を聞かせてほしいと言って、私の拙い話に耳を傾けて興味深そうにしていらっしゃった。きっとあの方は自分の知らない世界の、知らない国、見知らぬ人々の暮らしを知りたいと考えていたんだと思います……」

 以前の口ぶりを思うと先代を含めた翼公の在り方に思うところがあるようだった。優しければ優しいだけ辛い、そう評した彼自身が翼公になるのだから同じ悲劇は繰り返さないだろう。そう言うと、グウェンは吟味するようにゆっくりと頷いた。

「そう。そのように言うのなら、制約を理解しつつ上手く立ち回ってくださるかもしれないわね。神殿島も先代のときのような騒ぎは避けたいでしょうし」

 何かを感じてコーディリアはふっと魅入られるようにグウェンを見つめた。

 古びた椅子に浅く腰掛けた老女はいつもと変わらない、ほっそりとした身体に防寒の羽織ものをしっかりと巻きつけている。けれど何故だろう、いまの彼女がまるでいずこかの貴族の館の女主人のように見えるのだ。

 その違和感をなんとか口にしようとしたとき、外に大きな魔力が発生するのを察知した。

 同じものを感じてびくっと肩を揺らして警戒する二人を横目に見ながらいつかのようにコーディリアが扉に向かう。魔力に個性はないはずだけれど、何故かわかる。これは彼の青い力だ。

 そうして扉を開け放ったそこにいたのは一羽の鳥。渡鳥のような首長の、けれど真っ青な羽を持つ美しい生き物だ。

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