まだ、飛べない
あんなに高揚していたのにいまや全身は震えるほど冷え切っていて、目の奥の冷めない熱が強すぎて苦しかった。
(私はこんなに感情を表に出す人間ではなかったはずなのに、彼の前ではどうしても上手く取り繕えない)
怖かった。自分が別のものになっていくような気がした。たとえば以前よりずっとか弱いものに。
そしてそれは決してコーディリアの望む自分ではない。
城内に駆け込んだものの詳細な道を知らないコーディリアは足を止め、ふらついた身体を預けるように肩で壁にもたれかかる。深い呼吸を繰り返して気持ちを立て直すと、振り返ったそこでアエルが心配そうに見守っていた。
「せっかく綺麗にしてもらったのに、台無しにしてしまってごめんなさい」
苦笑いとも自嘲ともつかない笑みを零すと、アエルはますます泣きそうな顔になって、けれど一生懸命に首を振る。
「お願いがあるの。あなたの主人に背かない範囲で構わないから、あなたたちのことを詳しく教えて。……彼に直接聞けばいいんだろうけれど、きっと話が逸れてしまうし、お互いに感情的になってしまうと思うから」
「……はい。私の知っていることでよければ」
アエルは恐縮したように首を竦め、部屋へ戻ろうと微笑んで誘うコーディリアに頷いた。
だがその部屋の前に見知らぬ男性の姿があった。アエルが不思議そうに声を上げる。
「カリトー。どうしたんですか? 用があるならいまは……」
「もちろん承知しているとも。私の耳の前では隠し事をすることの方が難しいのだとよく知っているだろう?」
案じる視線と快活な笑みをそれぞれ向けられ、頷いたコーディリアへカリトーが一礼する。
「カリトーと申します。お噂はかねがね伺っております、コーディリア様」
よくよく聞いてみると彼の声に覚えがあった。顔を見るのは初めてだが彼もまた執務室でレアスとともにアルグフェオスと話していた人物だ。短く刈り込んだ赤い髪、がっしりした体つきと厳しい顔つきには気持ちのいい笑顔が浮かんでいる。細められた目の色は碧。襟元を斜めに合わせた長衣に幅広の袖、腰を絞る帯という服装は見るからに神殿島、もとい翼公の関係者だ。
「翼公に付き従う方にそのように頭を下げられては困ります。かしこまる必要もございません。それよりも私に何かご用でしょうか?」
「失礼いたしました。主より伝言を賜っておりますのと、コーディリア様の疑問を解消するお手伝いをと思い参上いたしました次第です」
まったく改まる様子も改める気もなさそうな堂々とした笑顔に眉を上げてため息をつき、アエルが頷いたのを確認して部屋へ招いた。
アエルはコーディリアだけのお茶を用意しようとしたので、二人の分も頼み、双方に着席してくれるよう促す。
「お話を聞きたいとお願いしたのはこちらなのだから、座ってくれないと落ち着かないわ」
カリトーは笑って、アエルは渋々、コーディリアと向かい合う席につく。
お茶を飲み、お茶受けの焼き菓子を摘もうとしたカリトーはアエルに睨まれて手を引っ込めたが、コーディリアは微笑んで皿を押し出した。
「どうぞ、二人とも召し上がって。アエルが準備してくれたものだから私が言うのはおかしいけれど」
「いえいえ。ありがたくいただきます」
アエルの呆れ顔は遠慮のないカリトーだけでなくコーディリアに対するものでもありそうだ。甘いです、と不満を言わないのはカリトーの前だからだろう。
「うん、美味い。美味いですが、素材の味はやはりアレクオルニスに劣りますな。魔力不足ですかすかです」
そういうものなのかと思いながらコーディリアも焼き菓子をかじった。小麦粉、バター、卵に砂糖、ごく一般的な材料を混ぜて焼いた菓子は馴染みのある味で、素朴ながらも美味しい。本来の味ではないと彼は言うが、よくわからない。
「アエルもカリトーも神殿島からやってきた翼公の羽子、でいいのよね? 羽子というのはどういうものなの?」
「一族の方と主従の契約を結んだ者を、羽根を与えられたという意味で『羽子』といいます。仰るように私もアエルもアレクオルニスで主様の羽子となり、翼公に任じられた主様をお助けするためこちらに参った次第です」
羽子になれるのは主となる神鳥の一族の者が認めた者のみ。そのとき契約の儀式を行うが内容は秘密。
役目は主の手足となること。羽子となれば元々の能力が強化されるが、軽いとはいえ一族の制約でわずかに行動を制限される。
そうした受け答えのほとんどはカリトーが担った。アエルにはコーディリアの相手は荷が重いと判断したアルグフェオスが彼を遣わしたのだと理解したのは、彼の開けっぴろげな雰囲気や明るい笑顔に少しずつ話の主導権を握られているのに気付いたときだった。
「直属の従者というわけね。羽子にはどういう利点があるの? 魔法が強まるのかしら」
「いえ魔法はさほど。強まるのは私たちの祖の持っていた力です。私の祖は馬でしたので、聴力と味覚、運動能力が向上しています」
茶器を持とうとして手が止まった。冗談かと思ってカリトーを見る。
「かつては一族の方々と番うにふさわしい強い魔力を持つのは人間に限らなかったのです。そうして一族の血を引く馬や牛、狼、熊が魔法で姿を変えて人と番い、その裔が人間として生きて、その祖先のことも忘れた頃に生まれるのが私のような先祖返りです」
彼はそれこそ馬のように白い歯をにかりと剥き出した。
「先祖返りは多少なりとも能力を持っているせいか人の暮らしに馴染めず、大抵はアレクオルニスに送られて神官や巫女になります。私も神官だった頃に主様と出会い、お願いして羽子にしていただきました」
アエルもその隣でカリトーの言葉を肯定する。
「私とレアスは恐らく狼の血を引いています。能力は、その……」
「言いたくないことなら無理をしないで。あなたたちを責めたくて話を聞きたいと言ったわけじゃないから」
急いで言うと、責任感と義務感で思い詰めた様子のアエルが「ありがとうございます」と安堵の微笑を浮かべてくれたので、コーディリアの方がほっとする。
「私たちにはかなり強く先祖の力が出たようで……色々あって島で暮らすことになりました。幼い頃は力の制御が難しかったのですが、見かねたあるじ様が羽子にして助けてくださったんです。おかげで能力が暴走しなくなりました。あるじ様には感謝してもしきれません」
「主様は慈悲深い方ですからな。その上一族の方々でも最も強く美しい魔力の持ち主で、近い将来、必ずや長となられると言われております。最も調整が困難であろうこの地の翼公を任じられたのもそのためです。主様でなければ早急にこの圏域の魔力を整えることは難しかろうと」
「もしかして、アントラエル様も翼公でいらっしゃる?」
二人とも、えっと驚きの声を上げた。
「アントラエル公にお会いしたのですか?」
「いやあすでに他の翼公と面識をお持ちとは、さすがですな! アントラエル様は隣接する圏域の翼公です。主様とは旧知の仲で、私たちのことも何くれとなく親切にしてくださいます」
コーディリアはため息をついた。アエルの微妙な笑みが物語るように、嬉しそうなカリトーとはどうも認識の齟齬がありそうだ。親切にされたとしてもそれに至るまで遊ばれてしまうのだが、それでも憎めない性格の持ち主なのだろうとは思う。けれど人が悪いのは間違いない。アルグフェオスに連れられているコーディリアの見た目が見た目なものだから、特別なものだと勘付きつつ彼が素性を伏せていることまで察してあんな曖昧な話し方をしたのだと、ここでようやく理解できた。
「出掛けた先の港街でお会いしたわ。どこかで私たちのことを知ってやってきたような様子だった。そういう能力をお持ちなのかしら?」
「コーディリア様は誠に聡明でいらっしゃる! そうなのです、一族の方は鳥類と意思疎通ができます。港街なら海鳥が公にお知らせしたのでしょうな」
私たちにはできないのですと、一族の許された力をまるで自分のことのように誇っている。そのように言われるのも意を酌む形で口を噤むのも、アエルとレアス、カリトーにとってアルグフェオスが恩人であり誇るべき主人だからなのだ。神鳥の一族の、祝福された強く優しい存在。コーディリアの感じてきた彼の人となりと相違ない。
けれど、それならば何故、という思いがある。
(正体を明かさずに別れるつもりだったのにいつそれを翻したの? 何故、そう思ってしまったの……?)
――あなたは私のことをどこまで知っているの?
「疑問は解消されましたかな?」
笑顔のカリトーを見返すと、その目は本当に笑っていなかった。コーディリアがどう考えるかを見定め、打つべき手を探るのはすべて彼の主のため。アルグフェオスがコーディリアを側付きに望むならカリトーは何を置いてもそれを叶えようとするだろう。
コーディリアは交渉の席につくように居住まいを正し、しっかりとカリトーを見据えて言った。
「ええ、ありがとう。おかげさまで色々とわかったわ。最後に一つだけ。アルヴァ王国側との交渉は上手くいきそうかしら?」
「それが私どもの務めなれば。……何故そのようなことを?」
思いがけない質問にこちらを探っているのか、それとも事情を承知の上で確認を取ろうとしているのか。向けられた笑みの意味を読み切ることができないまま、勘繰られてはならないコーディリアはおっとりと微笑んで首を振った。
「気になっただけよ。翼公がおいでになったならすぐにおふれが出るでしょうにそんな気配がないものだから」
「そうでしたか。しかしご心配には及びません! 遠からず翼公がおいでになったことは人々の知るところとなりましょう」
自分がそうしてみせると厚みのある胸元を叩くカリトーに、コーディリアは頼もしいことと微笑んだが、あながちお世辞でもない。豪放磊落、それでいて注意深く人を見ている彼はやはり翼公の従者なのだ。
「さて、それでは主様の伝言をお知らせ申し上げます。――先ほどは申し訳なかった。ちゃんと話がしたいので夕食後に時間を取ってほしい、とのことです」
「『お話はお受けできませんが恩人の頼みならば』とお伝えしてください」
かしこまりましたと答えるカリトーは譲歩しようとすらしないコーディリアに苦笑していた。笑みを返しながらコーディリアは机の下で小さく手を握る。心を固めなければ、アルグフェオスに会った途端に感情が揺れる。また感情的になって平行線を辿ってしまう。
けれどそのときは二度と訪れなかった。
言伝を持ったカリトーを見送ろうとしたとき、コーディリアは呼ばれた気がして動きを止めた。
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