Ange-loss.

ナガヲ

1-天蓋

天蓋


「あ……『天使さん』だ」


 ひとつ階上の廊下にひらめいた金色を見て、青年の口から思わずといった呟きがこぼれた。春先の陽光に輝く淡い金糸は柔らかにほぐれて、その奥の真っ白なうなじが見え隠れする──かどうかというところで、青年は無意識に視線を逸らしていた。

 青年は名を晝間翔といって、メゾン・ド・シエルに越してきて最近一年が経つ。自転車を使えば大学には五分という立地、レトロな内外装のこのマンションを、彼はとても気に入って暮らしている。メゾン・ド・シエルの一階の中央部分は、趣味のよい大家夫妻が手入れする中庭。そこから屋上までを吹き抜けが貫いているという構造で、その穴をぐるりと囲むように部屋が並ぶ。翔の部屋は四〇三号室、吹き抜けを挟んで一階上の真向かいは五〇九号室になる。そこには、翔曰く「天使さん」が住んでいた。

 名前もわからなければ、正面から顔を確認したことすらない。知っているのは、住んでいる部屋と、遠目で見かけるおぼろげなシルエットのみ。ただ、こうして視界の端に映るだけでもそれとわかる、美しく長い金髪を持つそのひとのことを、翔は勝手に「天使さん」と呼んでいるのだ。

 以前、大家さんとのおしゃべり中にうっかりその呼称を持ち出してしまったことがあったが、大家さんは一瞬だけ視線を泳がせたものの、すぐに「ああ」と合点のいった顔で話を続けた。そのとき翔の内心を占めていたのは、よかった通じた、という安堵よりも、やっぱり誰でもそう思うよなあ、という納得のほうが大きかった。大家さんも「天使さん」については詳しく知らないらしく、二、三年前に入居したが挨拶以上の交流はほとんどないという。最後に、不思議な方よね、と彼女は曖昧に締めくくった。おしゃべり好きで、入居者たちの食べ物の好き嫌いをも把握しているような女性であるので、翔はかなり意外に感じたことを覚えている。それでもさすがにフルネームくらいは知っているだろう、どさくさに紛れて聞きそびれてしまったなあ、とも思った。

 何を隠そう、翔は名も顔も知らぬ「天使さん」に強く惹かれていた。声を聞いてみたいし、あわよくば仲良くなれたらと思う。一方、ふしぎなことに、こうして遠くから眺めるだけに留めておきたいという気持ちも混在している。いざ遠足の当日になると、それまでの楽しみに過ごした日々のほうが幸福に感じるような、落胆や絶望とは別の、しかしどうしようもない虚しさ。それを避けたいのかもしれなかった。

 とはいえ、万が一まるきりイメージと違う人物──つまり「天使さん」などとは間違っても呼べないような不器量、あるいは性悪などだったとしても、絶対に失望などしないという自信はあった。翔が惹かれたのは、「天使さん」の外見や内面にとらわれず、存在そのものといっても過言ではなかったためである。素性も曖昧な相手にそこまで執着してしまうのはおかしいだろうか、と思わなくもないが、譲れない気持ちが翔にはあった。


「うわっ、時間やば」


 玄関の鍵を閉めつつそんな考えに耽っていると、予想以上に始業時刻が迫っていた。腕時計を確認した翔は小さく悲鳴をあげると、慌てて駐輪場を目指して階段を駆け下りた。振り向きざま、名残惜しく仰ぎ見た廊下に、もう金色は見えなかった。



「で、どうなの。オモチカエリできそうなの、その美女は」

「え」

 翔はぎょっとしてあーくんの顔を見た。ポンパドールにしたピンクモーヴの下で、人好きのする顔がニヤニヤ笑いを浮かべている。

 あーくんというのは、翔の大学での初めての友人だ。どちらかといえば大人しい翔の交友関係には今までいなかったタイプの青年だったが、いわゆるカースト上位の人間にまつわるすべての表現が当てはまるような彼の前では、会話に詰まるといった経験が一切なかった。入学式の際、学籍番号が隣同士だったのをきっかけにずっと交流が続いている。もとよりこの大学にほとんど知り合いがいない翔と、友達は多いもののこの人文学部にはひとりもいないというあーくんは、放課後までの時間をいちばん長く過ごす仲になった。ちなみに、あーくんの本名は出会った当初に教えてもらった気もするが忘れ去ってしまっていた。それよりも「オレのことはあーくんて呼んで。だいたいそう呼ばれてっから。あ、てかインスタ交換しよ」などという、初対面とは思えぬ屈託ない笑顔のほうがよほど印象に残っている。

 そして先ほど、翔はあーくんとの昼食がてらの雑談にふと「天使さん」の話題を持ち出した。そういえば話したことがなかったなと思う。といっても、翔の知る数少ない特徴と大家さんとのエピソードくらいしかろくに情報がないので、当然かもしれなかった。

 そうしてあらかた話し終えた後のあーくんの返答がそれであった。大学の食堂のテラス席、昼前とはいえ公共の場で彼なりにお上品な言い回しを心がけたのかもしれないが、あーくんの顔には端的に「ヤれそう?」と書いてある──と翔は読んだ。だてに毎日、昼食を供にしていない。

 それを受け、翔はムッと眉をひそめた。別にそういう方向に話を持ってゆかれたことが不快だったのではない。むしろ、この年頃の健全な男ならばきっとこれが「普通」の流れなのだろう。奔放に夜遊びを嗜んでいるらしいあーくんの口から出たのならば、なお自然なことのように感じる。ただ、初めて翔の心に疑問が浮かんだだけだ。自分は「天使さん」をどう見ているのか、という問い。


「いや、なんか、そういうことじゃなくてさ……」

「じゃどういうことよ」

「ちょっと待って、整理するから」


 翔が立てた手のひらを見せると、あーくんはちょっと唇を尖らせて、彼のヒレカツ定食の続きに取りかかった。翔の言うことはいつもムズイんだよなあ、とぼやきながらも翔の申し開きを待ってくれるらしかった。

 たしかに翔は「天使さん」が気になると話した。どんな人かはまったくもってわからないけれど、どうしてだかとても惹かれると。しかしそれは、好い仲になりたいと考えているということと直結なのだろうか。そのうえ、肉体関係をも視野に入れていると受け取られてもおかしくないのだろうか。そして翔は、「天使さん」が女だとは明言しなかったし、そもそも知らない。たしかに、きれいな長い金髪のひとと言われれば女性だと受け取ってしまう気持ちはわかるが、そこも引っかかる。

 つまるところ、翔は「天使さん」と自分の関係を、同じマンションに住む美女に懸想をする男、で片づけたくないのだということだった。そう表現してしまうとなんだか表面的で俗っぽい感じになってしまうのが嫌だった。別にやましい目で見ていない。そういうわけじゃない。こう伝えたい気持ちは山々だが、悲しいかな、照れ隠しにとっさに恋心を誤魔化すせりふとしても使い古されすぎた言い訳だった。

 そこまでわかっているから、翔は余計がっくりと肩を落として己の思考に降参した。


「……ごめん、うまくまとまらないや……ただ、別に俺は『天使さん』とよろしくなりたいわけじゃないってだけ」

「マジ? そんな考え込むほど気になってんのに?」

「うーん……」


 自分でも全容を理解できないこの感情を、他人に伝えるのはあまりにも難しいことだった。それに──


「お前ってさ、ちょっとヘンなとこあるよな」


 ヒュッ、と呼吸が一拍分飛んだ。まさに今、翔がいちばん恐れていた言葉が寸分違わぬ正確さで放たれ、思わず身が固くなる。こわごわ視線を上げるが、あーくんは付け合わせのキャベツをモサモサ崩しているばかりで目は合わない。きっと、翔が思っているほどの意味を持たない言葉だった。そう、彼はそういう子だとむりやり思い直す。そろそろ何か反応を返さないと訝しがられるだろう。翔にとってはすでに手遅れなくらいの沈黙に感じられたが、その実ほんの数秒に満たない時間であった。

 引き攣った喉を叱咤して、なんとか声を絞り出す。


「そ、うかな」

「おん。変わってんなーって思うわ」

「……」


 努力の甲斐むなしく追い打ちを喰らい、翔はさらに蒼白になって黙り込んだ。あーくんとの関わりの中で、初めて息が詰まる体験だった。なんとかしてこの動揺を悟られまいと翔が頭をぐるぐるさせている一方、事情を知らぬあーくんがまあ、と変わらぬ語調で続ける。


「そこがおもしれぇんだけど」

「……へっ?」

「オレも、オレがつるんでる奴らも、口を開きゃ酒とか女とかさ……別に嫌いじゃないんだけど、翔の話にはそういうのこれっぽっちも出てこねーから新鮮でいいなって」


 思いもよらぬあーくんの告白を受け、素っ頓狂な声が出る。良くも悪くもあまり発言の精査を行わず、歯に衣着せぬ物言いをする彼のくせ、そんな本音を聞いたのは初めてのことだった。


「翔はオレと違っていかにも人文学部! って感じじゃん? さっきの『天使サン』の話もオレにはよくわかんねーけど、お前なりにちゃんと考えがあるんだろ? ……なんか正直羨ましいわ、そういうの」


 珍しくはにかむように笑ったあーくんの顔には、明朗な話しぶりとは裏腹に言いようのない複雑な感情がにじんでいて、翔は先ほど覚えた居心地の悪さをすっかりどこかへやってしまった。翔のほうがよほどあーくんの在り方を尊敬していると考えていたが、彼は彼で翔に憧れがあったらしい。

 想定外の展開に翔は逡巡し、恐る恐る尋ねる。


「えっと、それ、もしかして褒めてる?」

「いやどう見ても褒めてんだろ! むしろ口説いてるわ!」


 あーくんはそう言って、今度は大きく破顔した。彼の派手な笑いはいつも、その場の空間ごとドッと沸いたように錯覚させる力を持っていた。今も例にもれず、突然柔らかくなった空気に許された感じがして、翔もようやく頬をこわばらせるのをやめた。止まっていた箸の動きを再開させ、伸びかけになってしまったわかめうどんにありつく。

 しかしそれも長くは続かず、再びあーくんの発言により凍りつくことになる。


「ああでも、『天使サン』の話、名前なんつったっけ? 彼女にはすんなよ」

「うッ……耀ね、わかってる。言わないよ」


 びくっとした拍子にちゅるんとうどんを数本掬い損ねた。言えないよ、が正しかった。


「そそ、耀チャン。ってか珍しいじゃん、翔が女心わかってるなんて」

「女心っていうかまあ、付き合いは長いしね」

「聞いてる感じ、耀チャン特にそういう話嫌がりそうなタイプだかんなー。オレの女友達にもいるわ」


 翔が苦々しい面持ちで言葉を濁す一方、したり顔のあーくんが頷いた。言われた通り、翔は女心というものを生まれてこのかた理解できた試しがない。それでも言った通り、付き合いの長さから得られる経験上、彼女──耀が「天使さん」についての話題にいい顔をしないであろう想像は容易にできた。あーくんにはなんとなく伝わったらしい「別にそういうわけじゃない」も、耀には恐らく通用しないと察せられた。

 一度は和らいだ表情がまた物憂げなものに変わったのを見て、さすがのあーくんもバツが悪そうに頭を掻いた。自分がバカで思ったことをすぐ言ってしまう性質なのはもう開き直っているが、それよりも、何気ない発言から本来の何百倍もの情報量を汲み取ってしまうような、この繊細な友人が心配であった。


「翔っていろんなこと考えててスゲーけどさ、あんま思いつめると疲れるぞ。ほら、これやるから。特別な」


 と、自分の定食に付いていたデザートを翔のほうへ滑らせて寄越す。翔が薄黄色のカップを手に取って見ると、ラベルには「天使のプリン」と印字されていて、図らずといったふうに顔がほころんだ。それがあまりにも眩しくて、あーくんはこっそり苦笑いを洩らすほどだった。自分にはとうてい理解できない崇高な思慕を誰かに抱えてそんな顔ができることが、羨ましい以上にいっそ怖くもあった。


「ありがと、あーくん」

「おう。やっぱおもしれぇわ、お前」

「それ、ほんとに褒めてるんだよね……?」



──なぜですか?

 誰かの声で不意に意識が浮上した。といっても夢の中での話である。翔は実体を持たず、自己と世界の境界が曖昧なままの状態で漠然と空中を漂う存在だった。

 そこはすべてが青と白で構成された場所だった。四方どこに意識を向けても広大な空が広がるばかりで、上も下も際限ないように見える。遥か目下に地上がありそうな気配もない。もしくは、と世界の絶景に数えられる南米の湖のことが浮かんだが、翔の意識でいう頭上でも足元でも雲は自由に、穏やかに流れている。水面に映った空というわけでもなさそうだった。人間が生身で行ける限界の高さを超えると、こんな世界が広がっているのだろうか。それとも、空によく似た別の世界を見ているのだろうか。

──……は、……てはいけないのですか?

 また先ほどの声が辺りに響く。途切れ途切れで内容はよく聞こえないが、疑問を投げかける一見悲愴な声音には、不服や動揺に紛れて自分は間違っていないと訴えるような幼稚さもあった。どうやらその人物の必死の主張は相手に受け入れられないものらしく、次第にその声はくぐもってすすり泣きじみたものへと変わっていく。

──ああ……よ、どうして、私を……


 翔が今度こそしっかり自分のまぶたを開いて見た先でも、やはり空が広がっていた──と思ったが、それは四角く切り取られたちっぽけなものだった。そのまましばらくぼうっとしていると、徐々に眠気が晴れてきて、大学から帰ったあと部屋に戻らず、メゾン・ド・シエルの中庭のベンチで昼寝を決め込んでしまったことを思い出す。

 あの空の真っただ中に放り出されているような感覚を味わってからこの四角い空を見ると、ここはずいぶん「下」にあるのだなと翔はぼんやり考えた。まるで、自分たちの知る世界の上に夢で見た世界がポンと乗っかっていて、ひとびとはその世界のことを空と呼んでいるだけのように思えた。いつも見ているのは空の底。青天井という言葉があるが、ほんとうに世界には天井があったりして。人間が知る由もないだけで。


「って、そんなわけないか」


 起き抜けの頭は未だ夢うつつで、普段は思いもしないような方向に思考が傾くことがある。翔はその流れに身を任すのが好きだった。自他ともに考えすぎと評される彼の脳が、なんの主観も常識にもとらわれず思考できる貴重な時間であるからだ。

 今回もこのちょっとしたトリップを楽しんだあと、翔は軽く笑いながら身を起こした。すると、ぱさりと音を立てて身体から滑り落ちたものがある。不思議に思って拾い上げると、それは薄いカシミヤのカーディガンだった。中庭で寝こけている翔を見つけた住人の誰かがかけてくれたのだろう。少しばかり恥ずかしかったが、その優しさに翔は感謝した。

──それにしてもこれ、誰のだろ?

 思い浮かぶのは大家さん夫妻の顔だったが、彼らの体格にしてはこのカーディガンはいささか大きすぎる。なにか手がかりはないかと何気なくポケットを探ると、二つに折られたメモ用紙が入っていた。そこには気取らない美しい字で「風邪ひかないようにね」というメッセージ。翔の頭によぎったのは、やはりというべきか、ただひとりの人物だった。確証もなにもないのに、その流麗な筆跡とこぼれるような長い金髪が、翔の心の中でピタリと重なってしまったのだ。一度そう思ってしまうと、ほかの顔見知りの住人のイメージなどすべて霞むようだった。

 生まれてから今まで止まっていたのではというほど、初めてこんなに鼓動がうるさい。翔は耐えきれず、柔らかなカーディガンに顔を埋めて俯いた。


「ほんとに天使なんじゃないの、あのひと……」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る