第26話 恭子26
前へ進もうとすると、名前を呼ばれた気がした。
足が止まる、でも振り返らないようにした。
そんなはずはない、ここには私一人しかいない。
まっすぐ前を向く。
風が吹き抜けて、ずっと遠くの草花までさざなみのように揺れているのが見えた。
ここはずっと昔に来た場所だ。
そのときは、まだお父さんが生きていた。
三人で旅行をしていたのだ。
近くの牧場で、牛の乳搾り体験をしていた。私は両親とわかれ、はしゃいで他の子たちに混ざった。
列に並んでいるうちに、どんどん楽しさは萎んでいった。
牛は大きいし。においもある。見えるところにいるけれど、二人と離れたことも不安だった。
だから実はとても怖くなっていた。でも強がって、やっぱりやめたいとは言わなかった。
牛が足下にあるバケツを蹴ってひっくり返したら、その日の乳搾り体験はおしまい。最初にそう説明されていた。
そして私の番が来る前に、バケツはひっくり返った。
ほっとして振り返ると、遠くで私のことを見ていた二人が笑っていた。そして私の名前を呼んだ。
きっと、私が安堵しているのがわかったのだと思う。
走って二人のところに行くと、照れ隠しで抱きついた。
唐突に、そのことを思い出した。
今の声が、その記憶を呼び起こした。
私はそんな幸せな記憶に背を向けて、進んでいかなければならないのだろうか。
今振り向けば、両親が笑って立っているような気がした。
けれど、そんなことはない。
お父さんは生き返らない。それに、お母さんはきっとお家で仕事をしているはずだ。
あれから何年も経って、私は大人とはいえないけれど、それでも大きくなった。今近くで怯えているあの子よりはずっと。
だから、振り向かず、泣きながら走った。
道はどこまでも続いた。風景は変わらないまま、どんどん後ろへ過ぎていく。
しばらくすると、冷たい緑の香りに、鉄くささが混ざった。
そのにおいに気を取られる。
気がついたときには、あの、埃っぽくて暗い部屋に戻ってきていた。
目の前の理玖くんの肩に手を置く。
申し訳ないけれど、その小さな身体を支えに立ち上がった。
まだ身体中が痛い。
目もなんだか見えにくい。
けれど大丈夫、無視できる。
男の人が一人戸口に立っているのがわかった。さっき聞こえていた声のうちの一人。私の身体を吹っ飛ばしたほうだ。
なんだ、あんなに長い時間走ったのに、ちっとも時間は進んでいないじゃないか。
男の人は私を見て、部屋に入ってこようとする。
その一瞬で動いた。
男の人の身体の中心へ渾身の蹴りを入れる。簡単に吹っ飛んでいった。
相手が体制を立て直す前に、もう一撃くらわそうと自分も部屋の外に出る。
けれど相手はそれよりも早く廊下の奥へと逃れた。
後を追う前に、理玖くんを見る。
良かった。まだちゃんと人間だ。
目が霞んだので瞼を閉じる。
もう一度開いたときには、もう視界はもとに戻っていた。
力がどんどん湧いてくる。指の先がぴりぴりとした。
なんだろう、少し楽しい気持ちもする。
「そこにいて」
理玖くんにそう言って、逃げた相手に近づいた。
「そのまま死んでおけば良かったのに」
男の人が言う。
「クロラになって戻ってきやがって」
クロラってなんだよ。
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