第8話
「田咲さん、お花でーす」
劇場スタッフが大きな胡蝶蘭の鉢を抱えて楽屋へ入ってきた。隣にいた団長が口笛を吹く。
「でっかいなー。十万円くらいするんじゃないか?」
「……そうなんすね」
「なんだ、無感動だな。この世界ファンやタニマチは多いに越した事ないんだぞ? もっと喜べ」
バンバン、と剣の背を叩いて、団長は呼ばれたほうへ離れていった。
鏡前に置かれた鉢を見ても、差し入れた人の名はない。だからロビーではなくこちらへ回されたのだろう。
名が無いことが、贈り主を剣に教えた。
真っ白ですべすべした丸い花弁は、誰が見ても高級そうで、近寄ること拒絶していた。それはそのまま桐子そのものに見えた。
一枚だけ引きちぎり、衣装のポケットに入れた。
◇◆◇
「あれ? ママ、今日は出掛けないの?」
帰宅した伊織は、想定外に母が家に居たことに驚く。無論それは嬉しい誤算だった。
「なあに? ママがいないほうが良かった?」
「違うよ、ほら、ママが脚本書いた舞台が今日千秋楽だって言ってたじゃん」
「うん、でも一回観に行ってるしね。千秋楽ってそもそもチケット取りづらいし」
舞台のスケジュールを息子が把握していたことに、桐子はどきりとする。しかし自分の返事に納得したのか、それ以上突っ込んでこなかった。スポーツバッグを放り出すと機嫌よさげに冷蔵庫からジュースを出す。
「もうご飯だからね、着替えたら洗濯もの出しておいてね」
鍋を覗くと伊織が好きな白菜の肉巻きだった。やった! と歓声を上げると桐子は面白そうに笑う。
しかしその次に伊織の口から洩れた言葉に、持っていたおたまを取り落としそうになった。
「ママが毎日家に居ればいいのに」
でも仕事なら仕方ないよね、と頭を掻きながら、階段をのぼっていった。
◇◆◇
まだ帰宅しない広瀬を待つため、パソコンを持ってリビングへ降りる。
昨日も午前様ギリギリだった。今日もそれくらいになる可能性もあると考え、自分用のコーヒーを淹れる。
寝る前なのにコーヒー飲むの? と、結婚当初夫に驚かれたが、桐子はインスタントコーヒー程度のカフェインでは覚醒しない。むしろリラックス効果のほうが大きかった。
テレビもつけず、物音一つしないリビングでパソコンを起動すると、剣からのメッセージが入っていた。
花のお礼と、千秋楽が無事終わったこと、そして次の逢瀬はいつか、という内容だった。
一読した桐子は返信せずそのままメールを削除する。形に残る方法は読んだ先から消していた。無論返信はするが、それも後から消している。
見られたくない、というのもあるが、万が一他人が見た時に、その人が受ける不快感を考えてのことでもある。
倫理的にどうの、間違ったことだ、というよりも、第三者からすればこうしたやり取りは感情の汚物でしかない。汚いものを見せられて愉快な人などいるはずはない。
『もうやめれば?』
先日の親友の言葉を思い出す。しかしその傍らで、自分を見ると嬉しそうに駆け寄ってくる剣の顔も浮かんでくる。
環の言い分が正しいと分かっていても、彼女が自分を慮って言ってくれていると理解していても、今の関係を終わらせるつもりはなかった。
(剣のほうから離れていく時が来たら、私はどうするんだろう)
淋しく思うだろうか。ショックだろうか。引き留めようとするだろうか。
目を瞑って想像してみる。しかしその全てが当たっているようでもあり、違和感もあった。
先ほど削除したメールへの返信をしようと目を開けたところで、玄関ドアが開く音が聞こえた。
桐子はパソコンをふたを閉め、玄関へ小走りで向かった。
「おかえりなさい」
「あれ、起きてたんだ。ごめんな、遅くなって」
五十が見えてきた広瀬は笑うと目じりに柔らかい皺が寄る。それを認めた時、桐子の頭から剣からのメールの内容は綺麗に消えてしまっていた。
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