甲賀忍者と法力童女 VS 暴れ大蟹 ~異聞・東海道土山宿蟹ヶ坂奇譚~

鮎河蛍石

大きな蟹と法力童女

 慶長けいちょう六年、天下分け目の大戦、関ケ原の合戦を終えた徳川家康とくがわいえやすは、東海道の再整備に着手した。

 この大事業に著しい停滞をみせる区間があった。

 近江より伊勢に抜ける鈴鹿すずか山の手前にある土山宿つちやましゅくに巨大な蟹が現れたのだ。

 宿場の再開発により田村神社の脇に流れる田村川に眠りし巨大な蟹が目覚め、宿場町をこれでもかと蹂躙し、馬だの人だのを鱈腹喰らった。

 事を重く見た家康は、近隣に住む甲賀衆こうがしゅうしのびに事の鎮圧を依頼する。


「ええい畜生、焙烙火矢ほうろくひやでもびくともせん」

 

 しかし火薬の扱いに長けた甲賀衆が誇る最強の火器であっても、巨大な蟹の強固な甲羅には刃が立たなかった。

 土山宿は荒れ果て、生き残った住民は伊勢側の関宿せきしゅくと近江側の水口宿みなくちしゅく方面へ散り散りに避難し、現地に残った甲賀衆と巨大な蟹とにらみ合いが続いていた。


 蟹との凝り固まった戦が続くある晩のことである。

愛染明王あいぜんみょうおう様どうかこの苦境をお救いください」

 土山宿より直線距離にして五キロの場所にある甲賀衆が陣を張る油日あぶらひ神社の廻廊にて、所せましと眠る忍たちを余所に、信心深い一人の忍が仏に祈りをささげていた。名を甚五郎じんごろうという。

「甚よ精が出るな」

「望月殿このような夜更けに何用で」

 草木も眠る丑三つ時に、甚五郎へ声を掛けたのは、甲賀五十三家の長である望月兵太夫もちづきへいだゆうであった。

「明日も蟹とやり合うでな、はように休んだ方が良いと思うてな」

「それは判っておるのです。しかし望月殿、先の関ケ原の戦が終わったと思えば、蟹との戦です。これでは気が休まるいとまがありませぬ。故に祈らざる終えぬのです」

「その気持ちはようわかる。しかしお前が、不休で戦場に立ち万一のことがあれば、音頭執りを誰がやろうか。それに嫁とやや子の世話は誰が致すのか」

 兵太夫が納める竜法師りゅうぼし村の住民である甚五郎の妻が、初産を控えていることを知っての忠告であった。

 兵太夫は甚五郎の信心深さ故の真面目で慈悲深い性格と、品行方正な振舞いによって、近隣の村民の誰もに慕われていることから、この戦の陣頭指揮を任せていた。

「御意にございます」

「うむ。わかってくれれば良いのだ」

 兵太夫は甚五郎の肩を軽く叩くと、寝入った忍と忍の間に生じた糸の穴程度の隙間を縫うようにして、軽やかな足取りで廻廊を後にした。

 空かし彫りがされた廻廊の壁より、甚五郎が見送る間もなく忍び足で去った兵太夫の小さくなっていく背中を認めると、長の忠告通り横になる。しかし待てど暮らせど、蟹との戦で神経が逆立った甚五郎は眠れずにいた。硬く閉じた瞼に朝日がさし、疲弊した忍たちの深い寝息に鳥の囀りが混じる頃まで、横になるのがやっとであった。

 その時である。


「たのもうー」

 

 鶏の鳴き声よりも通る甲高い声が、朝露を纏う草木を震わさんばかりに境内に響く。

 突然の出来事に寝こけていた忍びたちは一斉に目を醒ます。

「なんじゃ」

「曲者か」

「やかましいのお」

 皆口々に声の主を拝もうと飛び起きる。しかし日頃の厳しい鍛錬をこなした玄人の忍も人の子である。寝ぼけ眼であっては頭がはっきりと回らない。しかし一晩中、起きていた甚五郎は例外であった。

「皆の衆、落ち着け。あれを見よ」

 甚五郎が指を指す先に二人組の男女があった。

 一人は三度笠を目深に被った痩身の侍である。脇には黒々とした鞘が一本差さっており、鞘走らぬよう左手は鯉口に添えられ親指は鍔を押さえている。

 一人は背の小さな童女。彼女が纏う法衣ほうえは丈が合っていないのか足元がズタズタに破けており、背丈よりも高い錫杖を紅葉の葉のような小さな両手でぎゅっと握っている。黒々とした髪を菩提樹の花を模したかんざしでが纏めていた。

 おかしなことにこの二人が立つ場所は、拝殿の前である。拝殿は桜門から両翼に延びた廻廊が囲む境内の中心にあるため、見張りがこの二人を見逃したということになる。しかし見張りが騒ぐ前に、この二人は拝殿の前に現れたのだ。

 その場に音もなく現たとでもいうのだろうか。

 たとえば空から降って湧いたかのように。


「それがしは、どのようにしてここへ入ったのだ」

 甚五郎は童女へ問うた。

「法力を使ってこっそり入ったんだよ、ここで叫べばみんなに聞こえるかなーって」

「ええい物の怪の類か!」

 忍び刀を手にした一人が二人へ詰め寄る。しかし侍が目にも留まらぬ速さで抜いた刀で、忍の刀を握る左手をずばと斬る。

 忍は刀を落とし斬られた左手を押さえ飛びのいた。

「ぬう斬られておらぬ」

 しかし、じんと痺れた忍びの左手は手首と繋がったままであった。

 なぜなら侍が正眼に構える刀は竹光であったから。

「もう! おいたはめっなんだよ!」

 眼光鋭く睨み合う忍と侍をして童女は激高し、ぴょんぴょんと跳ねながら錫杖で地面に連打した。その姿が甚五郎には野を掛ける兎のようにうつった。


「それまで。それまでだ二人とも」

 甚五郎は睨み合う二人の間に立ち矛を納めるようなだめた。

「武器を持っているようでなし、まずは二人の話を聞こうではないか」

「おどろかせてごめんなさい。夢見に仏が『土山宿にて蟹の化生に困り人あり』とささやいたから、京よりやって来たんだよ」

 童女は言い終わると、錫杖で地面を突く。しゃんと遊環ゆかんが鳴る音が境内に響いた。

 忍びたちはにわかにざわつく。

 やけに腕の立つ竹光を振るう侍と、妖しげな術を使う童女の僧侶が、甲賀の忍びたちが苦戦する戦に加勢するという。

 大半の者は思った。

 何が出来ようものかと。

「私は甚五郎と申す。名はなんと申されるのか」

「ああ忘れてた、この人は用心棒の椿つばき。口は聞けないけどすっごく強いんだ。それでわたしは愛妙あいみょうです。救世の遍路をしています」

 しかし甚五郎の考えは他の忍たちと違った。この二人が八方塞の戦を打開してくれると。

「俺はこの二人を化け蟹との戦に連れてゆこうと思う」

「正気か甚よ」

「ちんまい餓鬼と痩せ侍に何が出来るんだよ」

「焙烙火矢も通さん化け物相手ぞ」

 甚五郎の提案に忍びたちはめいめい不満を漏らす。

「しかしだ皆の衆、万策は尽きたのだ。だがこうして縋る相手を仏が遣わしたもうた。それに賭けてみるのはどうだろうか」

「甚は一度いいだしたら曲げぬしな」

「仕方あるめえ」

「駄目なら駄目でまた引き返せばよいか」

 何だかんだと言いつつも、仲間からの信頼に厚い甚五郎の提案に忍びたちは乗った。

「では支度を整え早速、蟹退治に行こうではないか」


 兵糧を搔っ込んだ甲賀衆一行と助っ人は、蟹が根城とする土山宿に面する茶畑に着いた。軍団と蟹との距離にして五百メートル。

「あれが蟹さんかーすっごくおおきいんだー」

 甚五郎の肩車に座った愛妙は、脚をぱたぱたと動かしながら、親指と人差し指で作った輪を通して、町屋の瓦礫の上で眠る蟹を見た。

「この距離から見えるのか愛妙殿」

「そだよ、ほら」

 愛妙が指で作った輪を甚五郎の目の前に出す。

「おおこれは凄い、はっきりと蟹の面相が見れる」

 愛妙の輪が映すのは、甚五郎と蟹との間合いが数歩程度の距離感で捉える標的の姿であった。

「誠か」

 愛妙と甚五郎の様子をみて、椿に手を叩かれた忍びが前に出る。

「ほら」

「おお……これはたまげた」

「どれ俺も」

「ほれ」

「なんと不可思議な」

 俺も俺もと忍が愛妙へ列をなし、望遠鏡の如き指の輪から蟹の寝姿を見て、驚いてみせた。


「だがなあの蟹は矢も通らば、毒餌を喰ろうても一向弱らぬし、火責めに焙烙火矢を叩き込んでもびくともせなんだ」

 一人の忍が愛妙と椿に今日までの試行錯誤を端的に語ってみせる。

「意気込んでここまで来たは良いが、先ほども申した通り打つ手がないのだ愛妙殿、椿殿……はてどうしたものやら」

 甚五郎は担いだ愛妙と隣に佇む椿へ、包み隠さず手詰まりであると吐露する。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。あたしにまっかせなさい」

 ぴょいと甚五郎の肩から愛妙は飛び降りる。

「椿、竹光ぴょんぴょこぴょん!」

 椿はうなずくと蹲踞そんきょの姿勢をとり竹光のしのぎを地面と平行に構え、切っ先を地につけた。そして愛妙は竹光の刀身に立つ。

「ちんとんしゃんのほい!」

 愛妙の掛け声に合わせ椿は立ち上がりながら竹光を持ち上げると、刀身はぐんとしなり、童女の体を蟹の方角へびゅおと吹っ飛ばす。

「おん、まからぎゃ、ばざろうしゅにしゃ、ばざらさとば、じゃくうん、ばんこく」

 愛妙は空中で放物線の軌跡を描きながら愛染明王の真言を唱え蟹の背に着地する。

「おいたする子は調伏めっなんだからね!」

 しゃん。背を錫杖で突かれた蟹は粉々に砕け琥珀色のつぶてと成った。その様子を認めた椿は竹光を鞘に納める。

「なにが起きたのだ」

「信じられん」

「見に行こうぞ」

 忍たちは、ばたたたっと愛妙のもとへ一斉に駆ける。

「それにしてもこの坂を駆けるのは疲れる」

「神社前の坂はほんに急じゃしな」

「忌々しい坂と忌々しい蟹に掛けて蟹ヶ坂かにがさかと呼ぶのはどうじゃろ」

 老いた忍たちが坂へ不満を口々に漏らす。これをきっかけにこの地は蟹ヶ坂と呼ばれるようになった。


「愛妙殿! ご無事か!」

 甚五郎が掛けながら名を呼ぶと、黄色い礫の山にちょこんと座った愛妙が両手で持った錫杖をしゃんしゃんと振って応える。

「らくしょうだったよ」

「この礫はいったい」

 甚五郎が尋ねると愛妙は礫の一つを引っ掴み口に投げ入れた。

「何をなさるか!」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。飴にしちゃったから」

「おお甘露甘露、甚も食うてみよ」

 甚五郎に続いて愛妙のもとに着いた忍びが飴を舐めた。

「うむ甘い」

 仲間に勧められるまま甚五郎も飴を舐める。

「愛妙殿に椿殿へ礼をせねばな」

「いいよいいよ、この飴を持っていくから」

 飴の山から滑り降りた愛妙が言うと、椿は袖口から竹皮を取り出し黙々と飴をさらい包んだ。後にこの飴を見立てた『かにがさか坂飴』が田村神社前で土産として売られるようになる。竹皮包装、千円。通常包装、七五〇円。

「それじゃあねーみんな元気で」

 愛妙が忍たちに手を振り、椿が一礼すると伊勢方面へ二人はとぼとぼ歩いて行く。

「愛妙殿! 椿殿! 間もなく生まれる我が子に名を貰うてもよいか!」

 甚五郎が叫ぶと愛妙は振り返らず錫杖を振る。

 忍たちは二人の背が見えなくなるまでその姿を見送った。


 かくして土山宿の騒動が納まり、散り散りとなった住人たちは宿場町へ帰り復興に努めた。

 ややあって甚五郎の妻は珠のような赤子を二人産んだ。女には愛、男には椿と名付けた。

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