瀑布の目覚め―彼方に集う獣たち―

小野寺かける

プロローグ

 賑やかな空気に馴染めなくて、孤児院の裏庭に逃げ込んだら、そこで人が燃えていた。

 アイビーは驚きすぎて悲鳴も上げられず、とにかく無我夢中で「火を消さなくちゃ」と思った。気が動転しすぎてはっきりと覚えていないが、気が付いた時には、燃えていた誰かさんが水浸しだったから、バケツに水を目いっぱい汲んでぶちまけたのだろう、多分。

 誰かさんはアイビーに背を向けていて、しゃがみ込んだまま動かない。よく見ると全身真っ黒だ。もしかして間に合わなくて、もう黒焦げになっていたのだろうか。

「あ、あのっ、大丈夫?」

「ええ、まあ……いきなり水をかけてくるとは思いませんでしたけど」

 たどたどしく問いかけると、誰かさんがゆっくりと振り向いた。艶のある短い黒髪と、女の子かと思うほど長い睫毛。その陰に隠れるように、深緑色の丸い瞳が輝いている。声変わり途中なのか、白く細い喉から発されるそれは中性的だがやや低い。

 焦げたから黒いのではなく、元から髪も服も黒かったのかと一安心したところで、アイビーは彼が誰なのか気が付いた。

「あなた、『でんか』って呼ばれてた子ね! 変わった名前だなと思ってたの」

「別に『でんか』は名前ではないんですが……」

 すくっと立ち上がった彼はアイビーよりも背が高い。当然か。アイビーはまだ幼く、彼は十代半ばに見える。『でんか』は水の滴る前髪や、黒地に金糸で刺しゅうを施した上着の裾を絞り、やれやれと言いたげに苦笑した。

「俺が燃えていると思って水をかけてくれたんですか。あなたも濡れてしまって」

『でんか』の言う通り、アイビーも全身ずぶ濡れだった。ふわふわさが自慢の朱い髪は水を含んでぺしゃんこになり、お気に入りの民族衣装ディアンドルもずっしりと重たくなっている。知らないうちに自分も水を被っていたようだ。

「ごめんなさい、『今からかけるね!』とか言えばよかったかしら。だけどあのままじゃ危ないと思って……」

「いえ、気にしないでください。謝るのは俺の方です。事情を知らない人が見れば慌てる光景ですよね、申し訳ない」

「ううん、いいのよ。よく分かんないけど。『でんか』は熱くなかったの?」

「平気ですよ。俺から出た炎ですから。だから、ほら。火傷もない」

 彼は右腕の袖をまくってみせた。アイビーはガーネットに似た緋色の瞳で繰り返し眺めてみたが、確かに傷はない。

 ただ別のものがあった。

 前腕の真ん中あたりに、黒一色で描かれた絵があるのだ。二本の角を生やした男の人だろうか、その周囲にはうねうねとよく分からない模様がたくさん描かれている。

「あっ、こういうの刺青っていうんでしょう!」

「違いますよ。これは契約印です。……あからさまに『お前、何を言ってるんだ』って顔をされると困るんですが……」

「だって分からないもの。ケーヤクイン?」

「幻獣と契約した幻操師げんそうしなら、誰しもが体のどこかに刻むモノですよ。俺はまだ幻操師として半人前なので、力がよく暴発するんです。あなたが見たのはその一部始終ですね」

 難しい単語が次々に出てきて混乱した。アイビーが一つずつ意味を理解する前に、彼は「実際に見せましょうか」と手のひらを上に向ける。

 何をするのだろう、とじっと見つめていると、彼の手のひらがぼうっと炎に包まれた。

 ――違うわ。手そのものが炎になったみたいな。

 ぎょっとしてアイビーは距離を取り、また水がいるのではと辺りを見回した。だが彼は平気な顔をして笑っている。

「さっきは暴発しましたけど、今は落ち着いているので安心してください」

「触っても大丈夫なの?」

「ダメです。俺は熱くないですけど、他の人が触れば普通に火傷しますから」

 指が触れる直前に咎められ、アイビーは慌てて手を引っ込めた。

「ど、どういうことなの、これ。魔法?」

「似たようなものです。もしかして、幻操師自体、見るのが初めてですか。だとしたら申し訳ない、俺のような半人前の、中途半端な炎で」

 彼は悲しそうに微笑み、手の炎を消した。

「もっと立派な幻操師を見たのなら、憧れとか抱いてもらえるんでしょうけど。よりによって最初に暴発の場面を見せてしまいました」

「んー、あなたの言っていることよく分からないけど、でも、すごく素敵な炎だと思った」

 アイビーの暮らす孤児院では木や石を使って火を起こしているが、とても時間がかかって面倒くさい。着いたと思えばすぐに消えてしまったりして、大きな炎になった時は感動すら覚える。

 だが彼はいとも簡単に、手のひらに炎を出して見せた。初めこそ驚いたが、ちろちろと揺れる様は美しく、ずっと見ていたいほど幻想的だった。まるでおとぎ話に出てくる魔法使いのようでカッコいいとも思う。

「カッコいい、ですか?」

「もちろん! 初めはびっくりしたけど、それ以上に素敵なんだもの! 火が出るのは腕だけ? ねえねえ、口から吐いたりできる?」

「残念ですが、右腕だけです。ただ、ここから生じた炎なら自在に操れます。お詫びにもう一度だけやってみせましょうか」

「お願い!」

 また暴発してはいけないからと彼は深呼吸をして、腕に炎をまとわせた。不思議と恐ろしさはなく、ずっと見ていたいとすら思う。

 じっと眺めていると、炎は契約印とやらの上に集まり、珠のごとく凝縮した。彼が手のひらを上に向けると、まるで朝露が頭をもたげた葉に沿ってするすると移動するように、炎は生きているのかと思うほど滑らかに彼の腕を伝い、手のひらに収まった。

「よく見ていてくださいね」

『でんか』は炎の珠を持ち上げるようにして宙に投げた。音もなく舞い上がった珠は、しばらくチラチラと火の粉を散らしながら漂う。彼が指をついっと振れば、炎は蝶に姿を変え、優美な動きでアイビーの前に舞い降りた。

 春になれば孤児院の庭には白や黄色の小さな蝶がやってくるが、そのどれよりも美しく可愛らしい。アイビーは目をまん丸に見開いて、「わあ……」と頬を赤らめた。

「本当にキレイね。ぽかぽかする。あたしにも出せるようになる?」

「炎系の幻獣と契約すれば、きっと」

 あまり長時間炎を出すと疲れるのだという。彼がもう一度指を振ると、蝶は再び珠に戻って二人の頭上に舞い上がり、ぱちんと音を立てて消えた。

 本当はもう一回見たかったが、『でんか』が疲れたように座り込んでしまったので諦めた。アイビーが最初に見た時、炎は荒れ狂うヘビに似た動きで彼の腕にまとわりついていたから、すでに相当疲れていたのかも知れないと思い至ったのは後日のことだ。

「そういえば、えーと……あなた、名前は?」

「アイビーよ」と彼の隣にしゃがみ込むと、可愛い名前だと褒められた。

「で、アイビーはどうして裏庭に? 食堂で昼食を食べている時間では」

「……賑やかな場所に、まだうまく馴染めなくて」

 アイビーには記憶がない。孤児院で暮らし始めたのは一年前で、通りかかった旅人が倒れていたアイビーを見つけ、ここに預けていったと聞いている。それ以前の記憶はなく、知っていたのは名前だけだ。

 自分がどこの誰で、どうして倒れていたのか分からず、毎日が不安だった。

 身元を示す唯一の手掛かりは、首からぶら下がる銀の鍵だ。

 六角形の頭部には花と思しき意匠が彫られ、六つの花弁をたおやかに広げている。左右からは鳥のような翼が対になって飛び出しており、ブレード部分からは歯が三つ伸びていた。

 どこを開けるための鍵なのかまるで分からず、見覚えもない。孤児院に来てからしばらくは記憶を思い起こすのに必死になって、一緒に遊ぼうと話しかけられても、首を振ってばかり。自分の態度が誤っていたと気付いたのは、誰にも誘われなくなってからだった。

「ここにいるのはね、小さい時に家族が死んじゃったり、捨てられちゃった子なの。あたしも捨てられちゃった子なのかな。だとしたら、どうしてお母さんはあたしを捨てたのかなって、悲しく、なって」

 正確な年齢は分からないが、先生たちの判断ではアイビーは十歳くらいだという。それまでは家族と一緒に、どこか別のところで暮らしていたのかも知れない。けれど、どれだけ思い出そうとしても、何も分からない。知らないうちにアイビーの大きな瞳から涙がこぼれていた。

 止めようと思っても止まらない。ずびずびと鼻をすすっていると、頭に大きな手が乗せられた。はっとして顔を上げると、『でんか』の穏やか目がアイビーを見つめていた。

「俺以外に誰も見ていません。だから好きなだけ泣くといい」

 先ほどまで炎を灯していた手が、アイビーの頭をゆっくりと撫でる。

 手つきがあまりにも優しいものだから、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

「寂しい時や悲しい時、不安な時は泣いてもいいんですよ。我慢する必要はありません」

「……怒られたり、しない?」

「少なくとも俺は怒りません。アイビーはずっと『泣いてはいけない』って堪えていたんでしょう? 泣くことで胸がすっきりするなら、そっちの方が良いです。ほら、これをあげますから、涙を拭いてください」

 彼が差し出した白い手巾ハンカチをおずおずと受け取り、アイビーはひとしきり泣いた。『でんか』の言う通り、泣いたら色々な不安が消えていて、体が軽くなったようだった。

「あの、これ、ありがとう。洗ってくる!」

「大丈夫ですよ。『あげます』と言ったでしょう? その手巾はもうアイビーの物です」

「……いいの?」

「俺を励ましてくれたお礼です」

 いつ励ましたっけ。アイビーが首を傾げると、『でんか』はおかしそうに笑った。

「さて、じゃあ俺と一緒に戻って、ご飯を食べましょう。他の子と仲良くなれるようお手伝いもしますから」

「えっ、でも」

「今まで拒んできてしまったのにと不安ですか? 大丈夫ですよ。こちらから話しかければいいんです。非礼を詫びるのはそれからでも構わないでしょう」

「ヒレーをわびる?」

「ごめんなさいと謝ることです。事情を話せば、みんな理解してくれるはずですよ」

 彼はアイビーの小さな手を握って立ち上がる。不思議と暖炉の前に座った時よりも温かく感じて、アイビーは「『でんか』は魔法使いなんだわ」と彼をまっすぐに見上げた。

 なぜだろう。彼とは初めて会ったはずなのだが、無性に懐かしく感じる。

 もしかしたら、『でんか』とは記憶を失くすより前に会ったことがあるのかもしれない。そうだと嬉しいな、と笑っていると、彼も微笑んでくれた。

 なんて綺麗な笑顔なんだろう。まるでお菓子のように甘く、ガラス細工のごとき繊細さが合わさった、美術品のような笑顔だ。けれど作り物っぽさはなく、心の底から嬉しさがこぼれている風な柔らかさがある。

『でんか』が嬉しいと、アイビーも嬉しくなる。ずっと見ていたかったが、「行きましょうか」と彼がアイビーの手を引いて歩きだしてしまった。アイビーは小走りで彼の隣に並び、もっと笑顔を見たくて顔を上げた。

 きっと、こういうのを「幸せ」というのだろう。二人で食堂に戻ってから、彼はアイビーのそばにいてくれた。おかげでみんなとも仲直りできたし、思いっきり遊べた。

『でんか』がこのまま孤児院にいてくれたらいいのに、と思ったが、彼はその日のうちにどこかへ行ってしまった。

 また会いたいな。その時はもっと色々なお話がしたい。先生たちにも「『でんか』に会いたい」と言ってはみたが、「お忙しいでしょうから、当分ここには来られないわ」と返されるばかりだった。

 不安になった時や眠る前は、彼のくれた手巾を眺めた。そのたびに『でんか』の顔や声を思い出して、胸が暖かくなるのだ。

 月日が流れ、国を揺るがす大きな事件が起きて以来、孤児院は親を亡くした子どもたちで溢れかえった。アイビーは新入りだけれど年長者として年下の子たちの面倒を見なければならず、『でんか』のことも頭の片隅に追いやらざるをえなかった。

『でんか』と再び会えたのは、裏庭で会ったあの日から、六年の歳月が流れた時だった。

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