第37話 Hair Make HIRO ─side 裕人─
梅雨に入ってしまう前の火曜日の朝、俺は実家から新しい店へ向かった。二号店・
オープンすぐに客は来ないだろうと思ったので、同級生たちに声をかけていた。サラリーマンをしている奴らは無理だったが、高校時代の友人が数人と、結婚を目前に控えた佳樹と、子育て中の美咲が来てくれることになっていた。
スタッフも何人か来てもらい、開店準備をする。せっかく地元に店を持ったので、近いうちに母校にも挨拶に行こうかと思う。卒業してからずいぶん経つので先生も変わっているだろうが、お世話になった先生が校長になったと聞いた。ちなみにその先生は、美咲の遠い遠い親戚らしい。
開店時間になり、一番に現れたのは佳樹だった。佳樹とは小学校から一緒だが、あの頃から何も変わっていない。すぐに誰かに嫌味を言って、倍返しをされる。お見合いは一回で済んだらしいが──婚約者にいろいろと教えるべきだろうか。
「よう佳樹、ありがとうな、朝から」
「ほんまやで、眠いわ。昼からが良かったのに」
午後は遠くに住んでいる友人たちが来るので、その予定を入れた。一番近くに住んでいる佳樹は、もちろん朝回しだ。
「うちから近いから有り難いけど」
「そやろ? 来てや、毎日」
「ええっ、それは無理や。来て月一やろ!」
「ははは。そうや?」
佳樹と話すのは、やはり面白い。からかっていても仕方ないので、アシスタントにシャンプーを任せる。書いてもらった簡単な個人情報をファイルし、次の客を待つ。
入口側はガラス張りなので、外がよく見える。店の前を通る人が立ち止まり、立看板の宣伝と料金を見る。住宅街ではあるが交通の便が悪いという土地柄でHair Salon HIROほどお洒落にはしなかったので、若者以外にも来てもらえるだろう。
佳樹のシャンプーが終わってカットの準備をしていると、店の前に一台の車が停まった。車はすぐに去っていき──入ってきたのは美咲だ。
「ははは! いらっしゃい、ははは!」
「ええ……なに笑ってんの? 何かおかしい?」
俺は美咲を見た瞬間、笑いだしてしまった。仕方ない、許してくれ。美咲は服装がおかしいのかとチェックしているが、それは関係ない。
「いや、別に……。とりあえず、これ書いて」
佳樹と同じく個人情報を書いてもらい、受け取ってからシャンプーに案内する。
「あれ、もしかして……高井?」
「え? 誰?」
美咲が佳樹に気付き、身動きが取れない佳樹は鏡で後ろを探った。けれどわからないようなので、美咲だと教えた。
「えっ、紀伊? まだこっちにおったん?」
「さあ佳樹、バリカンで坊主にしよか」
「ちょー待て、やめろ。それは困る!」
美咲のシャンプーもアシスタントに任せ、俺は佳樹のカットに取り掛かる。佳樹は癖が強いので、少々厄介だ。
「俺もうすぐ結婚式やねんから、頼むで」
「髪は任せろ。おまえの中身は変えられへんけどな」
俺と佳樹の話を聞きながら、美咲とアシスタントも笑っていた。特に深い話はしていないし、その予定もない。俺の代わりに美咲が佳樹の説明をしてくれているようで、いろいろありがたい。
美咲のシャンプーが終わったので、佳樹の隣に座ってもらった。一つ離そうかとも思ったが、隣のほうが楽だ。
「紀伊、親に送ってもらったん?」
「うん。終わったらまた連絡する」
美歌もずいぶん大きくなったので、少しなら美咲がいなくても大丈夫らしい。
「なぁ紀伊、小耳に挟んだんやけど、あれ、ほんまなん?」
「え? あれって?」
「あれあれ。ははは、あれやで、あれ。あの……最後に〝ん〟つくやつ」
ショッピングセンターで会ったとき、美咲と朋之は妙な雰囲気だった。中学の頃と比べるとずいぶん仲良くなっているが、何かがおかしかった。朋之は美歌を大事そうにしていたし、美咲は美歌よりも朋之を見つめていた。何かあったのか、と朋之にLINEをすると、美咲に再婚を申し込んだが一旦断られた、と返ってきた。俺が美咲を見た瞬間に笑ったのは、それだ。
「あー……あれ……うん……考え中……」
「あれって何? ヒロ君、何なん?」
「あれやでな、紀伊?」
「うん、あれ……」
「紀伊、何なん?」
うるさい佳樹を置いて、俺は美咲の髪をカットする。まだ伸ばしている最中なので揃えるだけで、後からカラーする。
「俺はな……まぁ、良いと思うで。こないだも見ててお似合いやったし」
「そう? 美歌は、既に勘違いしてるけど」
「まだ忘れられへんのやな。……良い人っぽい、って言ってたで。あの人が」
朋之が美咲の元旦那に会ったことも、本人から聞いた。まだ美咲には言っていないらしいが、元旦那は朋之に『美咲を幸せにしてやってくれ』と頼んでいたらしい。そんなことを言われなくても、朋之は最初からそのつもりだっただろう。
「なぁ、紀伊、ヒロ君、何の話?」
「あ、佳樹おったんか」
本当に少しだけ、佳樹の存在を忘れていた。俺が言える話ではないので、どうするかは美咲に任せることにした。美咲は長く悩んだ末に、やはり教えないことにしたらしい。
「なぁ、ミカって、紀伊の子供?」
「うん。それは正解」
「子供が勘違いしててお似合いって……最後に〝ん〟……何?」
「佳樹、問題。方べきの定理とは? 中学の問題やで」
「えっ、急になに? そんなん忘れたわ」
「そんなんやから、教えられへんねん」
俺の出題に、美咲は笑っていた。美咲が方べきの定理を覚えていたのは佳樹が美咲に聞いたからで、俺が思い出したときは近くに朋之がいた。佳樹は美咲に聞く前に俺にも聞いていたらしいが──、美咲のことを教えるのは、方べきの定理を思い出してからだ。
「そんな前のこと、覚えてるわけないやん」
「紀伊は、おまえのおかげで今も覚えてるんやで。大事やよな、あのときの記憶って。佳樹、紀伊がどんなんやったか覚えてるか?」
全く教えないのはかわいそうな気もしたので、少しだけヒントを出した。もちろん、それで思い出すとは思えないが、それはそれで良しだ。
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