第30話 捨てた考え ─side朋之─

 美咲は年末年始は実家で過ごす予定らしい、と裕人から聞いていたので、俺はまた敢えて連絡はしなかった。マンションにいる平日は一人で大変だろうし、実家に帰ったら育児は親に頼って寝ているかもしれない。

 俺も仕事が年末業務に差し掛かって忙しかったし、会社の忘年会に呼ばれ、Harmonieも忘年会をすることになって、幹事は他のやつに頼んだが、バタバタしている間にいつの間にか正月休みに入っていた。

 ようやく落ち着いたので美咲にLINEをしてみたが、その日は既読がつかなかった。やはり美咲も大変なのかと待っていると数日後に既読はついたが、返事が来なかった。

 裕人の店が休みになる前に散髪に行ってその話をしてみたが、裕人も何も聞いていなかった。連絡が来るまで待つしかないか、ということになって、もう数日待った。そして新年を迎えたのでとりあえず年賀のLINEをすると、今度はすぐに既読がついた。けれど、返事は来なかった。

 もしかすると、実家にいてえいこんの練習には顔を出しているかもしれない、と一瞬思ったが、それなら練習に参加しているHarmonieの誰かが見ていてもおかしくない。篠山から井庭に連絡があってもおかしくない。

 今までとは違う反応に、俺は困惑していた。

 どうしても様子が気になって、週末に美咲を訪ねた。インターホンを押すと母親が出て、美咲は在宅のようなので入れてもらった。リビングに美歌は寝ていたが、美咲の姿はなかった。

 母親には用件は話さなかったが、美咲はずっと塞ぎ込んでいると言っていた。詳しいことは本人から聞いてと言うので、そのまま部屋へ行った。

「えっ、山口君、なんで、化粧してないのに」

 美咲は慌てて顔を隠すが、俺は気にしなかった。

「俺、きぃのすっぴん知ってるで」

「……それ、子供の時のやろ?」

「そんな変わってないやろ?」

 それでもやはり気になるようで、美咲は簡単に化粧をしてから少し部屋を出た。部屋の中は以前とあまり変わっていなかったが、安産守はどこかに仕舞っているようで、代わりに美歌との写真が飾ってあった。HarmonieのCDはしばらく聞いていないのか、ケースの中に納められていた。

 お茶を持った美咲が戻ってから、俺は本題に入った。

「何かあったんか?」

 塞ぎ込んでいる、と母親が言っていたが、本当に以前とはまるで表情が違っていた。せっかく子供が生まれたのに、人生に絶望しているような顔をしていた。遠くを見つめて、何かに悩んでいた。

「旦那から──これ渡された」

 美咲が引き出しから出したのは、緑色の紙だった。俺はそれを見た瞬間に状況を理解した。俺も見覚えのあるその紙は、正真正銘の離婚届だ。

「なんで? きぃ、何かしたん?」

「してないよ……」

 可能性があるとすれば俺のような気はするが、美咲はそれはないと否定した。俺と美咲が仲良く歩く姿は目撃されたらしいが、航は本当に俺のことは信じていたらしいし、実際に美咲とは何もしていない。

「私は音楽が好きやけど、結婚してからはずっと封印してて……ピアノ弾くのは旦那も知ってたけど、想像以上やったみたいで……農家の息子の嫁で収まってたらあかん、やって」

 航は美咲がピアノを始めてから、最初は美咲に笑顔が増えて活発になったと喜んでいたらしい。それが練習を重ねるうちに眠っていた力が沸いてくるのを隣で感じ、ステージで弾くのを見たときに、音楽の世界で活躍するべきだ、と思い始めたらしい。

「そんなこと言われても、これからお金かかるのに私は収入ないし、そんなつもりもなかったし……でも、旦那は決めたみたいで……」

 航の欄だけ記入済みの離婚届を渡され、美咲はいったんマンションを出た。必要な荷物だけとりあえず持って、航はしばらくマンションに住むので、実家から運んだ家具や新たに買った電子ピアノはそのまま置かせてもらっているらしい。

「嫌いになって離婚ってわけじゃないから……悩む」

 美咲は、悩む、と言っているが、悩んだところで結果は変わらないだろう。既に離婚届を渡されているので、航の気が変わらない限り復縁はあり得ない。しかしまだ夫婦に変わりはないので、俺が口を出せる話ではない。

「子供は、親権は取れそうなん?」

 俺が聞くと、美咲はため息をついた。離婚が決まったような言い方をしたので気になったのかもしれない。

「美歌は、私が育てる。女の子やからって……」

 航の実家は大きいと聞いたので、後継ぎにならない女の子は義両親には少し期待外れだったのだろう。寄越せと言われても美咲には辛いだろうが、男の子だったらどうなっていたのだろうか。

「俺は──ほんまに、関係ないんやな?」

「ない! あったら、慰謝料請求されてる……。義母の家の方でまだ疑ってる人いるから、それも辛いやろうって……。美歌の養育費は払うって言ってた」

 言いながら悲しくなったのか、美咲は泣いていた。命がけで出産したあとに離婚届を渡されて、体調が戻っても精神的には不安定なままだ。

「でも……なんで今頃……」

「美歌が物心つく前に、って」

 それはつまり、美歌には航が父親だと認識させないということだ。美咲がステージで演奏するのを見てから離婚を考え出したのなら、決めたときには出来てしまっていたのかもしれない。それなら作るなと思ったが、美咲が子供を欲しがっていたので迷っていたのだろうか。俺がいくら考えても、もうどうにもならない。

「きぃは、まだ決心できてないんやな」

「うん……毎日、こればっかり考えてる……どうしようもないのに」

 美咲はまだ、航への愛情が残っているらしい。俺の中で沸いてきた考えは、形になる前に捨てた。そんなことを言ったところで、美咲が困るだけだ。

「来週──先生に会いに行くか?」

 だから俺は気晴らしに、美咲を外へ連れていくことにした。

 もちろん、美歌も一緒にだ。

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