第13話 ちょろすぎる

 僕はいま、そこそこ本気で怒っている。ここ数年では一番怒っていると言っても過言じゃない。だからか、屋敷に戻って来た僕をサンストーン家の誰もが遠巻きにしていた。

 そんな僕は、怒り心頭のままズンズン歩いてスピネル様の部屋へと向かった。今日もスピネル様は外出するでもなく、部屋にずっといる予定だったはず。スピネル様の予定を思い出しながら、出かける前のことまで思い出してしまった。

 僕がファルクのところにお菓子を買いに行ってくると言ったとき、ものすごく、ものすごーく嫌そうな顔をしていた。あのときは「なんでそんな顔を?」と不思議に思ったけれど、いまならよーくわかる。


「未来の奥方がよその男に会いに行くとでも思ったか」


 僕にもこんなに低い声が出せるんだな、なんて妙なことに感心しながら、トントンとドアを叩いて即座に開ける。入室許可なんか待ってられるか。……いや、いつも待っていなかったか。


「おかえり、サファイヤ」

「……ただいま戻りました」


 ……くっそー、美貌の笑顔でおかえりなんて言われたら、返事せざるを得ないじゃないか!

 それでも僕は怒っていることを主張するために、ムスッとした顔を続けた。そうすれば、スピネル様は必ず僕の異変に気づくんだ。


「どうかしたのか?」


 ほら、ちゃんと気がついた。

 いま思えば、会話らしい会話もできなかった最初の頃から、スピネル様はしっかりと僕を見ていたような気がする。ちょっとしたつぶやきもしっかり聞き取っていたし、最近では僕が考えていることを察知する能力まで開花させつつあるくらいだ。


(っていうか、頭の中で思っていることを察知されるとか、ものすごく怖くないか?)


 いや、いまはスピネル様の新たな才能のことなんてどうでもいい。まずは、僕のこの怒りをちゃんと伝えるほうが先だ。


「僕はいま、すごく怒っています」

「みたいだな」


 ジトっと見ている僕を、オレンジ色の目が穏やかに見つめ返してくる。……今回ばかりはその目に流されたりしないからな。


「さっき知ったんですが、僕、どうしてかスピネル様の奥方になるって噂になっているみたいなんですよね」

「あぁ、そのことか」


 ってあんた、なに冷静に返事してんですか! 僕はそのことで怒っているんですからね!


「そんな話、僕は一度も聞いたことありません」

「そうだな、サファイヤにはまだ話していない」

僕には・・・……って、なるほど。それじゃあ噂の心当たりがあるってことですね」

「ある。いまは噂話でしかないが、できれば本当に伴侶にしたいと思っている。と言っても、まだ恋人にもなれていないから、話すのは時期尚早だと考えていた。それに、少し先の話にもなるだろうからな」

「……その口調だと、いずれ僕とスピネル様は恋人になるって聞こえるんですが」

「そうありたいと願っているよ」


 あ、駄目だ、何かが頭の奥でブチッと切れたような音がした。


「あんた、何言ってくれちゃってんですか!」


 俺の態度に驚いたのか、オレンジ色の目がぱちくりとしている。くそっ、そんなかわいらしい表情をしても駄目だからな!


「王太子殿下の姫を断って僕を奥方にって、伯爵様に言ったそうじゃないですか! おかげで貴族の間で噂になってるって聞きましたよ!」

「あぁ、それを言うなら父だけじゃない。王太子殿下にも陛下にも伝えてあるし、主要な貴族は知っている。なにせ宰相の職を設ける会議の場で宣言したからな」


 ……なんだって?


「もちろんサファイヤの父君もその場にいたから、知っているだろう。いずれ挨拶にと思っていたが、あぁ、これも順番が逆になってしまったか」


 …………なんだってぇ?


「ゆっくりと恋人になる過程を味わいたいと考えていたんだが、そうも言っていられなくなった。それにアンバールや他の貴族、あぁ、サファイヤの幼馴染みのような人間のこともある。わたしとしては早く婚約したいところではあるんだが……いや、できればすぐにでも結婚したいくらいだ」

「ちょっと待てー!」


 何を勝手に話を進めようとしてんだ、あんたは! っていうか、とんでもない爆弾を落としまくりだろう!


「どうした?」


 不思議そうに僕を見るスピネル様の様子に、今度こそ腹の中で何かがドカンと爆発した。


「どうしたじゃない! 何を勝手にとんでもない話を……っ。それ以前に、僕はスピネル様と恋人になるつもりはありませんからね!? それなのに婚約だとか結婚だとか、まったくもっておかしいでしょう!」

「おかしくはないだろう? サファイヤは二十四、わたしは三十、年齢もちょうどいい」

「たしかに僕の両親も上の兄も六歳差でいい感じだけど、っじゃなくて! 歳の差の話じゃありません!」

「では、身分か? それなら問題ない。カンターベル家は医家といっても貴族同然だ。伯爵家とであれば釣り合わないこともない」

「そりゃあカンターベル家は長く医長を務めているから、陛下からも特別に貴族会議への出席を許されていますけど……って、だから、そういうことじゃなくてですね!」

「父の説得は任せてくれればいい。あぁ、カンターベル家のほうには近々挨拶に行こう。わたしの感触では、断固反対という感じではないようだったから大丈夫だ」

「地位と権力に目が眩んだか、あんのクソ親父め! って、だから、そういうことじゃなくてですね!」


 あぁ駄目だ、話があちこちに飛んで全然進まない! というか、これってもしかしなくても確信犯的にはぐらかしているだろ! こういうところで優秀さを発揮するんじゃない!


「僕は勝手に奥方にするだとか言われたことに対して怒っているんです!」


 よーし言ったぞ、言ってやったぞ! どうだと言わんばかりにスピネル様を見れば、……あー、なんだ、その寂しそうな目は。

 たぶん他の人が見てもわからない程度の表情の違いでしかない。けれど三カ月も間近で見続けてきた僕には、いまスピネル様が悲しんでいるだろうことが手にとるようにわかる。なんなら、ちょっとだけショックを受けているってこともわかってしまった。


(…………どうする? ここはちょっと落ち着いて話すか?)


 いや、あのベロチュー事件から、その場ではっきり言わないと後々とんでもないことになると学んだだろう、サファイヤ。そうだ、ここで絆されたら負けだ。ここは最後までしっかりとだな……。


(……でも、こんな表情のスピネル様は初めてだ)


 もしかして、少しやりすぎたんだろうか。もし言い過ぎたのだとしたら問題だ。何より医者として患者の状態を悪化させるような言動は看過できない。

 ……いや、そもそもはスピネル様が悪いんであって、やはりここはしっかりと……。


「それほどわたしのことが嫌いか?」

「……は?」


 予想外の言葉に、思わず間抜けな声を出してしまった。


「これほど怒ったサファイヤを見たのは初めてだ。ということは、それくらいわたしのことが嫌いだということなのだろう?」


 思ってもみなかった内容に困惑する。たしかに僕はひどく怒っているけれど、だからといってスピネル様を嫌っているわけではない。


「……え、えと、ですね。そういうことではなくて、」

「そうか、それほど嫌われていたとはな。日々わたしの気持ちを伝え続け、最近では抱きしめることもキスをすることも許してくれるようになったから、受け入れてくれているものだと思って喜んでいたのだが」


(ちょっと待った、抱きしめるとかキスとか、そういうことを口にするんじゃない!)


 そもそも膝抱っこの類いは治療の一環としてであって、好きだとかそういったことでしているわけじゃない。それにキスは気がついたらされているというか、スピネル様にうまいこと誘導されてしてしまうというか、慣れてきたというか……とにかく、恋愛云々での行為では一切ない。


「言葉にはしてくれないが、てっきりサファイヤもわたしのことを好きになってくれているものだと思っていた。自分の気持ちをほとんど口にしないサファイヤだから、そこはわたしが汲み取らなくてはと思っていたんだが……」


 ……まさか、はっきり言わなかった僕が悪いってことなのか? たしかに、はっきりキッパリ嫌だと言わなかった僕にも責任があるとは思う。しかし僕は担当医だ。自分の都合で患者を突き放すことなんてできるはずがない。


「……そうか、嫌われていたとはな」

「……っ」


 初めて聞く力ない声に胸がズキッとした。それにオレンジ色の目も精彩を欠いているように見える。


(……そんな目で見なくてもいいじゃないか)


 あまりにも悲しそうな表情に、良心というか母性というか、そういったものがチクチクと刺激される。あぁいや、僕は男だから母性じゃなくて父性かもしれないけれど……って、そこはどうでもいいんだよ。


(……ううぅ……)

 だからそういう目で見られると…。

 あーっ、もう! だから、そんな目で見るなってば! これじゃあ僕がいじめているみたいじゃないか!


「……僕は別に、スピネル様を嫌ったりはしてませんからね」

「本当か……?」


 だからなんで、そんな不安そうな顔をするんだ。……いや、きっとこれも僕くらいしか気づかない表情の変化なんだろうけれど。

 医者としては、第一に患者の不安を取り除かなくてはいけない。潔癖気味なのは精神的なものが大きく影響すると持ち込んだ資料にも書いてあった。せっかくここまでいい感じになっているのだから、医者としては後退させるわけにはいかない。

 しかし個人的にはとても腹が立っていて、しかし僕はスピネル様の担当医であり……。やはりここは、医者としての立場を優先すべきか。


「嫌っていたら、膝抱っことかお姫様抱っことか、とっくの昔に殴ってでもやめさせてます。それに、あー、その……キスだって、嫌いな人とはできないでしょう? だから僕は、スピネル様を嫌ったりはしていません」

「そうか」


 あぁ、今度はパァッと美しい笑顔に……。うぅっ、駄目だ、その笑顔は心臓に悪いんだった。うっかり直視してしまったせいで、心拍が尋常じゃない速さになっているのがわかる。でも、スピネル様の不安を取り除けたのならよかった。

 そもそもスピネル様を嫌っているから怒っているわけじゃない。勝手に奥方にするだとか大勢に宣言したことに腹が立っているんだ。


「じゃあ、仲直りをしよう。こういうとき恋人は、仲直りのキスをするのだったな」

「は? え? 恋人って、だから僕は、ちょっ、」


 驚いている僕の顎をクイッと指で持ち上げたと思ったら、ものすごくキラキラした笑顔の美貌が近づいてきた。顔を見た瞬間、ただでさえ上がっていた心拍がさらに爆上がりする。そのことに狼狽えている間にますます顔が近づいてきて、チュッとキスをされたかと思ったら当然のようにベロチューに持ち込まれてしまった。


(……って、ちょっと、舌、僕の舌をグルグル舐め回さないで。って、ちょっと、上顎は、駄目だって、そこ、変な感じになるから、駄目だって何度も言って、んぅ……っ!)


 もう何度目かなんて数えたくもないベロチューだというのに、僕は相変わらず鼻で息ができなくてどんどん苦しくなっていく。苦しくてしんどくて、でも口の中は妙に気持ちがよくて、首の後ろ側がゾクゾクして変な気持ちになる。

 そうしているうちに頭がボーッとしてきて、あぁ、また何も考えられなくなってきた……。


「ッ、ぷはっ! は、はぁ、はぁ、はっ」

「何度しても鼻で息ができないままだな」

「わかって、はぁ、なら、は、はぁ、手加減、して、は、はぁ、ください、って、は、は、」

「これでは、本番はどうなってしまうんだか」

「は、は、ぇ、いま、なんて、……んっ」


 なんだか物騒な言葉が聞こえた気がしたけれど、どうしてかまたベロチューをかまされて、……僕の頭は完全に考えることを放棄してしまった。そんな僕をよしよしという雰囲気で抱きしめるスピネル様は、気のせいでなければ大変満足そうにしている。


「喧嘩はいただけないが、仲直りのキスというのはいいものだな」

「……なに、言ってん……ですか……」

「サファイヤはキスに弱すぎる。まったく、毎回ちょろすぎて本当に心配になるな」


 あぁ、またろくでもない言葉が聞こえた気がする。聞こえたような気はしたけれど、僕の耳も頭も酸欠でほとんど機能していないから、もしかしたら空耳だったのかもしれない。

 こうして僕は、その場ではっきり言わなければ大変なことになると学んだことをまったく活かすことができなかった。その結果、なぜかその日のうちにスピネル様の恋人になってしまっていた。

 ……そういえば、「仲直りのキスもしたくらいだから、これでもう恋人だろう?」という声に、何も返事ができなかった気がする。それもこれもベロチューなんてかまされたせいで、すべてはキスのせいだ。というか、キスに弱すぎるだろ。


 ……僕は声を大にして言ってやりたい。サファイヤ、おまえはちょろすぎる!

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