第10話 王子様、再び
生まれて初めての王子様とのお茶会は小一時間ほど続いた。その間たっぷりと王侯貴族のドロドロ愛憎劇を聞かされた僕は、すっかり食傷気味だ。
その後、城からのお迎えが来て嫌々帰って行ったアンバール殿下の後ろ姿を見ながら、なんだかとんでもないことになったなぁなんてぼんやり思った。
「僕はただの王宮医なんだけどなぁ……」
「今日はすまなかった」
こっそりと愚痴を吐き出したつもりだったのに、スピネル様の耳にはしっかりと届いてしまったらしい。というより、今日のドタバタはスピネル様のせいではないし、確実にアンバール殿下のせいだから謝らないでほしい。
「アンバールは昔からああなんだ。浮気性で不真面目で、わたしを含め周囲がどれだけ大変な目にあってきたか」
「あー……、心中お察しします」
王子様なのにオイタが過ぎて二十歳での顔見せになったと聞いたけれど、きっと聞いた話以上のことがたくさんあったに違いない。それにずっと関わってきたスピネル様は、さぞかし大変だったことだろう。
……なんとなくだけれど、そういう環境のせいで潔癖気味がどんどんひどくなってしまったんじゃないだろうか、なんて思ってしまった。
「それから、最後にアンバールが言っていたことは気にしなくていい」
「最後……? あぁ、はい、わかっています」
別れ際、アンバール殿下は僕に「また会いに来るよ」と、にこやかに手を振っていた。ついでに言えば「今度はもっと仲良くなろうな」なんてことも言っていたけれど、ヒラの王宮医の僕が王子殿下と仲良くだなんて、なれるはずもない。というより、なりたくないのが本音だ。
「アンバールは男女問わず手を出すのが早い。サファイヤも十分に気をつけてくれ」
「……さすがに僕を相手にそれはないと思いますけど」
ヒラの王宮医でキラキラしていない僕を、そんな対象として見る人なんかいるわけがない。ファルクの話じゃ貴族の中にはいるってことらしいけれど、本当だとしたら余程変わった趣味の人だ。
たとえば僕が絶世の美少年だとか、せめて兄たちくらい整った顔だったらあったかもしれないけれど、……いいや、それでもないな。なんたって僕は中身も平凡なんだ。
こんな平凡でちょっと小柄などこにでもいる男を、そういう対象として見る男なんているわけがない。そもそも女性にだってモテたことないんだぞ。……って、ちょっと泣きそうになってきた。
そんなわけで、僕自身はそんなことはないと確信しているのに、どうやらスピネル様は違うらしい。
「サファイヤは自分のことを知らなさすぎる。もう少し自分のことを理解すべきだ。わたしの専属担当医になったからと安心していたが、アンバールの件といい、そうも言っていられないと心配になる」
「いやいや、そんな心配、必要ないですよ。それにアンバール殿下は雲の上の人です。そう何度もお会いすることはありませんし、城でも僕のような下っ端が直接診察することはありませんから」
「いや、警戒するに越したことはない」
「いやいやいや、だからですね、」
「屋敷にいるときも、十分に気をつけてほしい」
「…………はい、わかりました」
あまりに真剣なオレンジ色の目で見てくるから、そんなに心配することないのになぁと思いながらも、おとなしく頷いておいた――んだけれど。
まさか、二日後にまた同じことが起きるとは、さすがに思わないじゃないですかー!
「おっ、今日も相変わらず小さいな」
しかも、また小さいとか言いやがりますか! いくら王子殿下とはいえ、四歳下の奴に言われたくはないぞ!
どうやら今日は、スピネル様が外出している時間を狙ってやって来たらしい。
伯爵様は相変わらず朝から城に行っていて、なぜかただの居候王宮医である僕が王子様のお相手をしなくてはいけなくなってしまった。というか、アンバール殿下のご指名ということで、サンストーン家の誰も助けてくれなかったんだ。
「見た目は普通の小さい男なのになぁ。あのスピネルがご執心っていうのが、よくわからない」
スピネル様がいつもくつろいでいるソファに座ったアンバール殿下は、どうしてか僕を隣に座らせてジロジロ見てくる。
……何度も“小さい”って言うの、絶対に馬鹿にしているだろ。いまだってニヤニヤしながら僕を見ていること、わかっているんだからな。
「お言葉ですが、僕は王宮医でただの担当医です」
「うん、だからさ、王宮医だろうが担当医だろうが、スピネルが誰かを側に置いたことなんて一度もないから不思議だって言ってんの。女嫌いだから女性を近づけないことは理解できるとして、男でさえ誰一人近づけないからな。俺だって、すこーし側に寄るだけで虫ケラを見るみたいな目で見られるんだぜ?」
「俺、一応王子なのにひっどいよなぁ」なんて言っているけれど、それは絶対にアンバール殿下のこれまでの行いのせいに違いない。
(やっぱり親しそうなアンバール殿下でも、スピネル様が潔癖気味だってことは知らないのか)
それもそうか。潔癖気味だと知られてしまえば、じゃあどうしてそうなったんだって話になりかねない。
スピネル様にとって深い傷となっているあの話は、いくらアンバール殿下であっても話したくはないだろう。…………アンバール殿下だからこそ、話したくないと思っていそうな気もするけれど。
「カンターベルの医者らしく、そこそこの腕だってのは知ってる。でも、それだけが理由ってわけじゃなさそうだしなぁ。見た目は普通の男だし、あっちの具合がいいってわけでもなさそうだし、小さいし」
いくら王子殿下とはいえ、後半の部分はえらく失礼だし下世話じゃないか? それより、毎回のように“小さい”って言わなくてもいいよな?
「おっ、怒ったか? あぁー、なるほど、喜怒哀楽が出やすいってのは王宮医じゃあ珍しいか。それに怒った顔はなかなか愛嬌がある。そうか、スピネルは見た目より中身を重視するタイプだったのか。じゃあ小さくてもかまわないな」
「だから、小さい小さいって、それいちいち言わなくてもよくないですか?」
…………あ、しまった。つい、心の声がダダ漏れてしまった。王子殿下を相手になんて無礼なことを言ってしまったんだと思っても、後の祭りだ。
僕は紅茶をひと口飲んで喉を潤し、ゆっくりとアンバール殿下のほうに顔を向けてガバッと頭を下げた。
「大変、大変! 無礼な口を、きいてしまいました! 大変申し訳ございません!」
何かしでかしたら即謝る、これも王宮医になってから学んだことだ。頭を下げたとしても相手は王子殿下、許されないかもしれないけれど、まずは誠心誠意謝ることが大事だ。
僕は素早く床に正座をし、絨毯に額を擦りつけるように頭を下げた。あとは、ただひたすら王子殿下の言葉を待つだけだ。
これで許してもらえるならよし、駄目だとしたら……、最後まで見届けることが叶わなくなるのは残念だけれど、スピネル様の担当医の後任をなるべく早く選んでもらうしかない。それから謹慎でもなんでも受けることにしよう。
そんなことを思いながら、とにかく額をグーッと絨毯に押しつけ頭を下げ続けた。靴の踵が尻に当たって痛かったけれど、我慢して土下座を続ける。
「~~……っ、ブフッ、おまえ、おもしろい奴だな。ククッ、ハハハ、アハハハ!」
(……え? 何がおもしろいって?)
頭上から大きな笑い声が聞こえてきて驚いた。……もしかして許してもらえたということだろうか。
少しだけ頭を上げて盗み見た王子殿下は、王族とは思えないほど大口を開けて大笑いしていた。しかもお腹を左手で抱え、背もたれに寄りかかりながら右手で座面をバンバン叩いている。……何がそんなにおかしいのかわからないけれど、なんだろう……ほんのりと馬鹿にされているような気がしてきた。
「っは~! 笑った笑った! いやぁ、いきなり文句言ったかと思えば、即座に頭突きする勢いで謝るとか、おまえ、おもしろすぎるだろ。こんな奴、貴族どころか使用人にもいないぞ。あ~、スピネルが側に置きたがるのもわかる気がするわ」
「……あの、」
「別に怒ってないって。前にも言ったけど、無礼者なんて言って殴ったりしないぜ?」
「それは、……ありがとうございます」
「つーか、頭上げろって。アッハハ、ほんとおもしろいわ」
よくわからないけれど、また殿下が笑った。マジマジと見るわけにはいかないものの、チラッと見た笑顔はどことなくスピネル様に似ている。いや、スピネル様はこんなふうに口を大きく開けて笑ったりはしないか。
しかし、いつか親しい友人ができて、こうして屈託なく笑える日が来るといいなと思う。……うん、こんなふうに笑うスピネル様も、きっと素敵に違いない。
「……へぇ、そうやって笑ってる顔は、思ったよりそそるな」
「へ……?」
何を言われたかわからなくて顔を上げたら、目の前に王子殿下の顔があって驚いた。というか、まさか王子殿下まで床に膝をつくなんてどうしたんだ?
「へ? え? あの、」
「うーん、こうしてじっくり見ると、顔の作りは悪くないんだよな。なのに凡庸に見えるっていうのは、全体的な雰囲気のせいか?」
「あの、ちょっと殿下、」
「おまえの兄たちは、そこそこいい顔してるもんなぁ。兄弟なのにここまで違って見えるってのは不思議だが、そういうのも案外いいかもしれないな」
「ちょっと、」
「あぁ、泣いたら案外そそる顔になるのかもしれないか」
「ちょっ、」
近い、近い、近い! ちょっと殿下、近すぎますって! あと少しで鼻がぶつかっちゃいますって!
さすがに体を押し返したり仰け反って嫌がるなんてことは不敬すぎるとわかっている。でも、これ以上近づかれるのは困るわけで、ああぁぁぁ、一体どうすればいいんだ……!
……なんて思っている間にも、殿下の顔がグイグイ近づいてくる。「あ、目の色は少し違うけど形はスピネル様に似ているなぁ」なんて思った直後、口に温かくて柔らかいものがギュッと押しつけられた。
…………ん? ……なんだ、これは。
…………え、もしかして。……まさか。
とんでもない考えが頭をよぎったとき、部屋のドアが勢いよく開く音が聞こえた。直後にドンドンと床を蹴るようなすごい音がする。
なんだなんだと思っているうちに、荒々しい足音らしきものが近づいてきた。そうしてえらく近くで止まったなと思ったら、ガシッと首根っこを引っ張り上げられた。
思わず「ぐへっ!」と変な声が出た直後に、鼻が潰れるくらいの勢いで何かに顔を押しつけられてしまった。何が起きたんだと混乱しながら藻掻いていると、直後にドゴッという不穏な音がして驚いた。
(……いまの、結構な音だったよな)
それにいまのは、人の体が何かにぶつかったときに鳴る音だ。救護班として騎士団の訓練について行くこともあるから、こうした音は何度も聞いたことがある。
(あー……嫌な予感が……。本気で見たくないんだけど、見ないわけにはいかないよな……)
恐る恐る鼻を押し潰していたものから顔を離し、ゆっくりと振り返る。そこには、明らかに殴られたとしか思えない状態のアンバール殿下の姿があった。
王子殿下が殴られた……。あまりの状況に動けないでいると、頭上から声が聞こえてきた。
「サファイヤに手を出すなと言ったはずだが?」
すぐ側で響く声は、明らかに怒気を含んでいる物騒なものだ。
「……ってぇな。久し振りにガッツリやられたわ」
アンバール殿下の声は不機嫌そうだったけれど、話ができるということは案外大丈夫ということだろうか。……って、そうだよ、アンバール殿下が殴られたとか、とんでもない大事件だ!
「で、殿下、大丈夫ですか……?」
慌てて状態を診ようとしたんだけれど、めちゃくちゃ力強く抱きしめられていて動くことができない。「ちょっと離してください!」と言おうと顔を上げて……、え? えーと、いま僕を力いっぱい抱きしめているのは、スピネル様……?
すぐ真上にあったのは、綺麗だけれどとんでもなく冷たい表情をしたスピネル様の顔だった。
「…………え、……えぇー!? スピネル様、僕を触って大丈夫なんですか!? あぁ、拳が赤くなってます、こっちも大丈夫ですか!? じゃなくて! あぁ! スピネル様もですけど、アンバール殿下も頬が大変なことに! あぁ、お二人とも大丈夫ですか!? 大変だ、ちょっと落ち着いて!」
あまりに驚きすぎることが一度に起きたからか、僕は完全に混乱していた。
「いや、落ち着くのはおまえのほうだろ?」
「……こういうところも好ましい部分の一つではあるんだがな」
何を悠長に話しているんですか! 二人とも早く手当を……って、スピネル様、いい加減腕を離してください!
「あー、なんかわかった気がするわ」
「普段は冷静で周囲を慮る性格だが、こうして感情の起伏がにぎやかなところもいいんだ」
「は? スピネルが惚気とか、ちょっと気持ち悪いんだけど」
「もう一発殴られたいか?」
「あ、それは無理。いまだってめちゃくちゃ痛いし」
殿下の「痛い」という言葉でハッと我に返った。……駄目だ、医者である僕が一番に取り乱してどうする。
「……殿下、お顔を拝見いたします」
「大丈夫、大丈夫。久し振りだけど、スピネルに殴られるのには慣れてるから」
「……は? スピネル様は、過去にも殿下を殴ったことあるんですか……!?」
まさかと思ってスピネル様を見ると、眉をひそめながらアンバール殿下を見ていた。
「人聞きの悪いことを言うな。全部アンバールが悪いんだろうが」
「だからって、何度も殴らなくてもいいと思うんだよな」
「……え? まさか、何度も殴られたということは、つまり何度も殴ったってことですか……?」
僕の問いかけに、スピネル様が小さく頷いた。……何度も、ということは過去に複数回、アンバール殿下の顔に触れたということだ。すでに潔癖気味だったはずなのに、複数回も他人に触れることができたなんて、すごいじゃないか!
「スピネル様、それはすごいことですよ! しかも何度もだなんて、これまでで一番すごいことだと思います!」
「……なんでそこの王宮医は、俺が殴られたことを喜んでいるんだろうなぁ」
「わたしの担当医だからだろう」
「いや、それだったら、なおのこと怖いわ」
アンバール殿下の声に再びハッとした。スピネル様の潔癖気味に関しては後回しだ。先に王子殿下の頬の治療をしなくては。
大慌てで自分の部屋から治療道具を持って来た僕は、丁寧にアンバール殿下の頬を確認した。念のために口の中も見たけれど、切れてはいないようで安心した。口の端の小さな切り傷はしっかりと消毒したし、しばらく頬を冷やせば問題ないだろう。
スピネル様の拳もしっかり確認したけれど、こちらは赤くなっているだけで傷はついていなかった。これなら今夜にも赤みは引くに違いない。
治療を終えて道具を片付けたところで、ソファに座る僕の近くに立ったままのスピネル様を見上げた。視線を合わせたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「ええと、いろいろ言いたいことはあるんですが、先に言わなければいけないことを言っておきます」
「なんだ」
オレンジ色の目を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「人を殴ってはいけません。それも医者の前で殴って怪我をさせるなんて、どういう了見ですか」
男同士、しかもスピネル様とアンバール殿下は思った以上に親しいようだから、もしかしたら過去に殴り合いの喧嘩をしたことがあるのかもしれない。だからといって、医者の前で怪我を負わせるようなことをしていいはずがない。いや、医者の前でなくても駄目なんだけれど。
「~~……ッ、ブフッ、プ~~ッ。これは、また……ッ、アハハ、ハハハハ! なんておもしろい王宮医だ!」
「……殿下も笑っている場合ではありませんからね。口が過ぎると、またこういう目にあいますよ」
「ハハッ、あぁ、わかった、肝に銘じよう。……ククッ、駄目だ、おもしろすぎて腹が痛い、アハハ、ハハッ」
王子殿下は、またもやソファの座面を叩きながら笑っている。
「アンバールのことなど心配する必要はない」
「スピネル様、いくら親しいとはいえアンバール殿下は一応王子様なんです。殴ったら駄目でしょう」
「……善処する」
「ブフ~~ッ! いや、それもおかしいだろ! アッハッハッ! あのスピネルが説教されてるとか、なんておかいしんだ。しかもマジメに聞いてるし、もう何もかもがおかしすぎて腹がちぎれそうだ!」
なぜ王子殿下はお腹を抱えて大笑いしているんだ。僕は至って当たり前のことを話しているだけなのに。
そもそも、怪我をさせるほど殴るなんて絶対によくない。騎士団の訓練ならまだしも、喧嘩で怪我をさせるなんてないほうがいいに決まっている。喧嘩したいのなら拳でどうこうするのではなく、納得いくまで話し合えばいいんだ。
それにスピネル様がアンバール殿下に怪我をさせたことが表沙汰になれば、いくら叔父とはいえ大問題になるはず。ただでさえ権力のあれこれでサンストーン伯爵家は大変な状況なのだから、余計なことで注目されないほうがいい。
そう思って言っているのに殿下はずっと笑ったままだし、スピネル様はそっぽを向いてしまっている。
「まったくもう」
僕がこぼした言葉に殿下はますます笑い、スピネル様は子どもみたいにぶすっとして機嫌を急降下させてしまった。
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