第8話 スピネル様の好みの人とは
スピネル様が幼馴染みの距離感を目標の一つに加えてから十日、残念ながらまだ直接肌に触れることはできないでいた。それでも服の上からなら腕だけでなく肩や背中、胸にも触れるようになったのだから、随分と目標達成に近づいてきたと思う。
焦らずにじっくり進めるしかないだろうなと考えながら部屋の窓を開けたら、ラベンダーのいい香りがした。
「そうか、もう夏が近いのか」
伯爵家に来たのは春過ぎだったから、結構な時間が経ったことになる。当初考えていた以上に時間がかかっているなぁと思いながらも、すっかりサンストーン伯爵家での生活に慣れてしまった自分もいた。
三食お茶の時間付き、それにフカフカのベッドに最新式シャワーなんて、激務でしかなかった王宮医時代には想像もできなかった夢のような生活だ。唯一の問題点は精力増強すぎる食事だけれど、それにもなんとなく体が慣れてきた感じがする。
(まぁ、三日に一度は右手のお世話になってるけど……)
それは置いておくとして、こんな生活を続けていたら王宮医に戻れるんだろうかと心配になってくる。あの激務に再び耐えられるのか……、うーん、心が折れそうな気もしてきた。
そういえば、たまにちぃ兄から届く手紙では城での仕事に変わりはないらしい。
「ま、僕はただのヒラの王宮医だし、僕一人いなくても変わらないんだろうけどさ」
それはいいことなんだろうけれど、ほんの少し寂しいような複雑な気持ちになった。
有名な医家であるカンターベル家の人間は、生まれたときから医者になることが決められている。それは性別に関わらない家訓のようなもので、父の姉や妹も全員医者だ。
しかも、必ず一度は王宮医にならなくてはいけないという決まりまであった。王宮医としてしばらく働いた後、独り立ちして貴族のお抱えになる場合が多く、なかには研究者になったりする人もいるけれど、まずは王宮医になることが義務づけられている。
「元王宮医となれば身分も給金も保証されるからありがたいことなんだろうけど、時代錯誤じゃないかなぁ」
昔はそれでよかったのかもしれない。しかし家名や身分にこだわるのはもはや王侯貴族くらいで、庶民は割と自由に仕事を決めている時代だ。ファルクだって庶民から騎士団に入っているし、市井の医者の多くは医家の出身じゃない。
それなのにカンターベル家は頑なに医家であることにこだわり続けている。別にそういうこだわりが悪いと言うわけじゃないけれど、どうせ医者になるなら子ども専門の、それも王宮医じゃなくて市井の医者になりたかった。
子どもの頃、僕はファルクや他の街の子どもたちと遊ぶことが多かった。そのとき、周りの子どもたちが怪我や病気になっても診てくれる医者が少ないことに気がついた。
それなら自分が市井で医者になればいいんだと思った。それなりに真剣に考えていたけれど、あの親父がそれを許すはずもなく、結局僕も王宮医になってしまった。そしていまは伯爵家に貸し出されている状態だ。
「しかも、ろくでもない最終目的まであるしな……」
机の上には親父に渡された
「本格的に相手探しもしないといけないし……、はぁぁ」
それが一番しんどい。
「まず女性は除外するとして、身なりにこだわりすぎて香水プンプンな男は駄目だろ? 権力に興味津々な男も駄目、最初が肝心だから素人も駄目だろうし……。かと言って玄人なら誰でもいいってわけでもないしなぁ」
指折り考えるたびにため息が漏れる。
「それに、スピネル様の好みもよくわからないしな」
むしろ、そこが一番の問題かもしれない。せっかくなら好みの相手がいいんだろうけれど、これまでスピネル様とそういう話をしたことがないのだ。
いやまぁ、そんな話、医者と患者ですること自体なくて当然なんだけれど。
「うーん、困った。いや、困ったなんて言ってても仕方ないんだけど」
……うん、これはもう本人に確認するしかない。それに最終目標の内容はスピネル様も承知しているわけで、これはスピネル様自身のためでもあるんだ。
小さく決意した僕の耳に、午前のお茶の時間だと呼ぶ侍女の声が聞こえてきた。
※ ※
「媚びへつらうことなく正直に物事を口にし、目標達成のためには努力を惜しまない。食事をおいしそうにたくさん食べ、体力もあり、それでいて小柄で、あぁ、顔の造作よりも表情が豊かなほうが愛らしく見えるな」
「それはまた、とても具体的ですね……」
機嫌が悪くなるかと心配しつつも好みの人物像を訊ねたら、すらすらと答えが返ってきて驚いた。あまりに明確な人物像に、もしかして好きな相手がいるんじゃないかと思ったくらいだ。
(……いや、いてもおかしくないか)
というより、スピネル様の歳で好きな人がまったくいないなんてほうがおかしい。そりゃあ手を繋いだり抱きしめたりはできないにしても、それと好きになることは別だ。
もし心に決めた人がいるなら、いっそのことその人にお願いするのもアリかもしれない。そのまま恋人になって、それから結婚に発展することもあり得なくはない話だ。
(順番がちょっと前後しちゃうけど、この際大目に見てもらうとして)
想われ人がスピネル様のことをどう思っているか気になるところではあるものの、この美貌にこの家柄、好かれて嫌がる人なんているだろうか。
(いや、いない!)
グッと小さく拳を握ったところで、スピネル様がフッと笑ったのがわかった。
「どうかしましたか?」
「いや、何事にも一生懸命だなと思ってな」
「あー……、お恥ずかしい話ですけど、医者としての腕は普通なので、僕にできることと言ったら一生懸命やることくらいなんですよね」
「そんなことはないだろう。少なくともわたしは、サファイヤを指名してよかったと心の底から思っている」
「……あはは、ありがとうございます」
うっわー、やっぱりスピネル様の笑顔は眩しすぎて直視できない。さりげなく視線を外して診察記録の紙を見たけれど、残像すらキラキラして心拍が少し上がってしまった。
「それにしても急に好みの人物像を訊ねてくるなんて、どうしたというんだ?」
「治療も随分とよい方向に進んでいますし、そろそろ最終目標のための準備を始めたほうがいいかなと思いまして」
「あぁ、なるほど」
「……あの、念のために確認しますけど、治療の最終目標の内容は間違いないんですよね……?」
「間違いない」
うん、しっかり答えるということは本人も承知しているということだ。
「であればですね、やっぱり最初が肝心だと思うんです。ほら、そういうことは繊細な問題でもありますし、お互いの好みや気持ちの問題もあるでしょう。場合によっては家柄だとかも問題になるかもしれませんし」
「そうだな。これまでは考えることすらなかったが、いまなら具体的に想像することもできる。サファイヤが言わんとすることもわかる」
おおー、いつの間にそんな大きな一歩を踏み出していたんだ。これなら最終目標達成はそう遠くないかもしれない。
「スピネル様に具体的に好ましく思う人物像があるのは、よいことだと思います。それに、そういう人がお相手なら嫌悪感を抱きにくいでしょうから」
「嫌悪感ということなら、最初から抱いてはいない。ただ、近づかれると体が勝手に拒絶してしまうせいで、……思うように近づけないのがつらいと思うことがある」
あぁ、そうか。好きな相手なのに近づけないなんて、相当堪えるよな。
でもきっと、近い将来それも問題なくなるはず。僕でさえ服の上から触ることができるようになったんだから、あと少しがんばりましょう! 心の中で激励する。
「しかし、それも最近ではずっと改善されたと実感している。これならいずれ接触できる日も……」
おや? スピネル様の言葉が止まった。
「スピネル様?」
「あぁ、いや、触られることばかり考えていたが、わたし自身が触れることは考えていなかったなと思ってな」
「そういえばそうですね……」
スピネル様が潔癖気味になったきっかけの話を聞いてから、人と接触できない根本的な部分について僕なりにいろいろ考えていた。ご令嬢方に拒絶されたことが原因で、他人に触れられたくないのだと考えていたんだけれど……。
(自分が汚いから拒絶されたと思っていたら、話は少し違ってくるんじゃないだろうか)
もしかすると触られるのが嫌なんじゃなくて、触りたくないことが発端なのかもしれない。そう、自分は汚いから誰かを触ってはいけない――十歳の子どもなら、強烈にそう感じたとしてもおかしくはない。
それが時間を経るにつれて“触りたくない”に“触られたくない”が加わり、人に対して潔癖気味になったのだとすれば……。
「スピネル様は、触りたいと思っていますか?」
「……そうだな。改めて考えてみると、触りたいと思うことがある」
それはものすごく大きな一歩、いや二歩三歩と言ってもいいくらいだ。せっかくそう思うようになったのなら、この機を逃してはいけない。
「スピネル様、次からは僕に触る練習もしてみましょう」
「……触ってもいいのか?」
「せっかくスピネル様自身が触りたいと思っているんです。前向きなその気持ちは絶好の機会ですよ!」
それに僕に触ることができれば、好きな人にだって触ることができるはず。それに、これをきっかけに潔癖気味が改善されるかもしれないじゃないか。
「お互いに触り合う練習、がんばりましょうね」
明るい未来が見えたとホッとしたら、なんだか急に喉が渇いてきた。本当は行儀が悪いんだろうけれど、用意された紅茶はちょうどぬるくなっているし、グビグビと一気に飲み干す。
「触り合う練習とは、聞き様によっては恥ずかしくなる文言だな」
「あー、あはは、本当ですね。治療だっていうのに、申し訳ありません」
「いや、かまわない。……それに、早く治療じゃない触り合いもしたいしな」
随分と前向きだなぁと思いながら、今度は熱々の紅茶をカップに注いでゆっくりと飲む。そんな僕をオレンジ色の目がどんなふうに見ていたかなんて、知るよしもなかった。
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