9-1 村娘の邂逅
「ルイーゼさん、占星術の基本については、さんざんノクスウッドの森で教えたね?」
そう尋ねながら、師匠がフラスコや
ここは研究棟の第三実験室……つまり、師匠の城である。本当は、王宮に勤める占星術学者なら誰でも使っていい公的な部屋だったはずなのだけれど、師匠が上手く手を回して、完全に自室扱いになっている。
パトリックとの決闘を終え、マチルダさんの矢の攻撃から逃げおおせた私は、師匠のもとを訪れていた。わざわざ訓練場まで私を呼びに来るくらいだから、よほど緊急の用事だろうと思っていたのだが、いきなり熱々のコーヒーでもてなされて少し困惑した。
変な顔をしているのがバレたのか、師匠は「コーヒー苦手? ミルクと砂糖ならここにあるよ」といそいそ勧めてくる。私はそれを断り、ひと口ブラックコーヒーを飲んでから師匠に聞いた。
「ええ、覚えの悪い私に、師匠が頑張って占星術とはなんたるかを詰め込んでくれたのは記憶してますけど。話したいことってそれですか?」
「他にもあるんだけど、とりあえず復習ね。説明してみて、まずはマクロコスモスとミクロコスモスとは?」
本当は、パトリックとの兄弟関係とか、聞きたいことはあったんだけど。私はコーヒーを飲みながら、入団試験のために勉強したことを思い出す。
「えーっと、マクロコスモスとは大きな宇宙、つまり天のことです。そしてミクロコスモスは、大きな宇宙に対応する小さな宇宙……それは、例えば地球だったり、国だったり、人間だったりします」
「うん、その通り。だから、彗星が降ったらある国に一大事が起こるとか、予言することができるんだよね。国の動きと宇宙の動きとは連動してるって訳だもんね。では、人間というミクロコスモスと、マクロコスモスが連動する時は?」
「それは、権能という形で変化が現れます。そもそも星座の守護を受けるということは、その星座と身体を連動させるということなので、一人ひとり独自の、その星座にちなんだ能力を授けられるからです。中には権能を発揮しない人もいますが」
ぐいっとコーヒーを飲み干すと、師匠が「飲むの速いね~」と言いながら次の一杯を注いでくれる。さすが王宮ブランド、豆の香りと酸味が絶妙だ。
「天と人とは繋がっている。だから例えば、僕はアンドロメダ座の守護を受けているけれど、もし星の配置が変わったり、欠けたりしたら、僕にも当然影響が出る。ま、滅多にないことなんだけどね」
「……そういえば、国王陛下は太陽と月の守護を受けていらっしゃるんですよね?」
ふと、私は思い出した。私が逆行をする直前のこと。急に赤くなった月と、その後のタイムスリップ。内ポケットを探すと、銀の古びた懐中時計が出てきた。
もしかして、あの時の月食で、新王は何らかの影響を受けていたのではないか。だから、この時計が不思議な力を発揮して、時間を遡ることができたんじゃないか。
「あー。月食や日食は、国王の力に大いに影響するって言われているよ。体調を崩したり、予言が狂ったり。ところで、その懐中時計、貴女は昔から持ち歩いているね」
師匠が私の手元を覗き込む。そして、首を傾げて言った。
「なんだか妙な造りだな。歯車の形がおかしいし、これは……ホロスコープの形を模している?」
「私もそれには気付いてました。もしかしたらこの時計は、占星術と何か関わりがあるのかも知れません。師匠なら分かりますか?」
「うーん、気になるけど、今は別の研究に取り掛かっているし」
「じゃ、私に毒を飲ませたお詫びとして、懐中時計を調べてください。このコーヒー、
私がカップを掲げて見せると、師匠はピキッと笑顔を凍らせた。
「バレた?」
「バレたっていうか、わざと不審に思わせるようにしてたでしょう。急に私の苦手な占星術の話を始めたりして。師匠は淹れてくれるばかりで全然自分は飲もうとしないし。砂糖やミルクに何か仕掛けられてるなら、私に入れるかどうか聞いたりしないはずなので、コーヒーそのものが問題なのかなと」
「そこまで見抜いてたんだね……。で、どう? 身体や心に変化はある?」
言われて探してみたが、今のところ何も起きていない。私がそれを伝えると、師匠は「そっかー、やっぱり守護が無い人には影響がないのかなー」と呟いた。あれ? どこかで聞いたフレーズだな。
「師匠、それで結局、私に何を飲ませたんです?」
「ん? ああ、メデューサの血だよ」
私は口に含みかけていたコーヒーを吹き出し、むせ返った。おいふざけんな。
「なっ……なんてもの飲ませるんですか! このマッドサイエンティスト、じゃなくてマッドアストロジャー!」
「貴女こそ、毒入りって分かったのに何でさらに飲もうとするのさ」
「めちゃくちゃ美味しいからだよ、このコーヒーが!」
こんな贅沢品にメデューサの血を仕込んで弟子に飲ませるとか、正気の沙汰じゃない。いや、そもそも弟子を平気で実験台にしやがったぞ、この師匠……。
「あははは、ごめんってば。たぶん大丈夫だろうなーって確認してから、貴女で実験させてもらったんだよ」
「もしかして、師匠が今研究してることってこれですか」
「そう。メデューサの死体は、忌々しいボライトンの息子どもに取られちゃったでしょ。でも、あの牢屋で、青い血だけは手に入れられたから、メデューサの血にどんな効能があるのか色々試したの」
転んでもタダでは起きない師匠。この頃は特に実験室に引きこもりがちだと思ったら、そんなことをしていたのか。
師匠はローブの袖から、青い液体が入った小瓶を取り出して見せた。
「ほらこれ。調べてみるとね、面白いことが分かった。どうやらこの血は、星座の守護を受けている人に飲ませると、邪眼と同じ効果を与えることができるみたい」
「邪眼と同じ効果って……」
「人の心の負の部分……劣等感、憎悪、嫉妬、そして疑いの気持ちなどを増幅させて、催眠にかかりやすくする。そして貴女は、コーヒーを受け取った時点で、僕に対して多少の疑いを持ったはずでしょ」
何を企んでるんだろうとか、もしつらい毒だったらとっちめてやろうとかは、たしかに思った。そして、私には特に効果はなかった。
「ボライトン博士たちは、解剖するために抜いた血を全部捨てちゃったんだって。信じられないよね、こんな大事なものを……兵器にもなり得る危険物質をさ」
師匠の言葉を聞いて、私も遅ればせながら、この発見の重大さを知った。
そう言えばメデューサたちは、地下水路の奥を拠点としていた。もし上水道に侵入して、飲み水にメデューサが血を垂らしたら、王都の街中が一斉に催眠状態に陥っていたんだ。王都に住む人たちは、名家の遠い血縁関係にあることが多いため、権能持ちはいなくても星座の守護を受けている人は多いから。
その懸念を話すと、師匠は「それは安心していいよ、街中を催眠にかけようとしたら、メデューサ丸々三体分くらいの血液量が必要な計算になるから」と言った。
でも私は、それを聞いてますます微妙な気持ちになった。
メデューサ丸々三体。ということは、メデューサたちに地下水路での作戦を伝授した誰かが、いざという時に彼女たちを殺して血を利用しようと考えていたのだろうか。
誰か。王都にいる、人間の黒幕……。
メデューサたちの味方なのかと思っていたが、「あの方」の正体を秘匿するための呪いの術といい、どうも彼女たちを切り捨てられる駒としか考えていなさそうだ。
「人間の方がよっぽど化け物にふさわしい思考回路してるよねえ。メデューサたちは孤独な存在だけど、家族って概念がない代わり、仲間意識は割と強いんだ」
ぼそっともらした師匠の呟きを耳にした私は、「師匠にとっての家族って誰ですか」と聞いた。師匠は嫌そうな顔をした。
「なあに、もしかしてパトリックのことを聞きたいの? それとも父親のこと?」
「……その様子だと、パトリックのことは快く思っていないんですね」
「そんな訳ないじゃない」
しかめっ面をしながらも、きっぱり師匠は否定した。私はぱちぱちと瞬きした。
「なら、やっぱりあれですか? 人見知り」
「察しのいい弟子って、こういう時に嫌だね。そうそう、屋敷の裏の森で遊んでいた子が、急に後妻の子だとか言って紹介されたんだよ。まー気まずいったらないさ。鉢合わせにならないよう避けていたの」
ひらひらと手を振る師匠。しかし、パトリックがどれだけ兄のことで悩んでいるかを知ってしまった私は、軽いノリで返されると、ちょっと納得いかない。
「それでも、パトリックは師匠に懐いてくれていたんでしょう? 急に冷淡に突き放されるなんて、可哀想じゃありません?」
「えっ。それ、パトリックが言ってたの? 僕、そんなにパトリックにひどい態度をとってたつもりないんだけど」
師匠は本気で不思議そうにしている。これには、私の方が「えっ」と驚きの声をあげた。
「さっき、訓練場でも、すごく冷たい態度だったじゃないですか」
「そうなの? ……家族には、ああやって接するものじゃないの?」
首を傾げた師匠は言った。
「だって、父が僕に接する時も、女王様がクラリスに接する時も、いつもあんな風だったよ」
私は言葉を失った。師匠の口調には、切なさも悲壮感もまったくない。「あ、マチルダの家の老夫婦は優しいけど、あれは養親だからだよね」などと言って、新しく淹れたコーヒーにたっぷり砂糖を入れながら呟いた。
「パトリックは紅騎士団に入れるほど強いんだし、妾の子なんて出自は気にしないで、我が家を継いで幸せに暮らして欲しいと思ってるよ。この頭でっかちな異母兄のことなんて、いないものだと思ってくれた方がいい」
師匠が自分を卑下するのを初めて聞いた。いつもは「僕って天才!」なんて言って自己肯定感がナチュラルに高い人なのに。
「な、なんでそんなこと言うんですか。兄弟なのに、忘れていいなんて」
「え? あ、そっか、貴女は弟妹たちと仲が良いって言ってたね。うーん、そうだなあ……」
師匠は天井を仰いで、何か思案しているみたいだった。そして、おもむろに口を開いた。
「実は僕、クラリスが王にならなかったら、今度こそ亡命しようかと思ってるの」
いよいよ私は腰掛けていたイスからひっくり返りそうになった。そんな私を師匠がけたけた笑って見ている。
「いやー、僕の学問への飽くなき探究心が、ついに引きこもり欲求を打ち破るまでになったというか? で、亡命者が家族だなんて、パトリックにしたら不名誉もいいところじゃない? だから、下手に兄弟らしくするよりは、不仲に見せておいた方がパトリックの立場を守れるでしょ」
「な、そ、あ……」
「『な』んで『そ』んな『ア』ホなことを? でもねえ、真剣な話、エルド王国はかなり危険な状況にあるんだよ。隣国は錬金術によって兵器開発が急速に進んでいる。一方で我らが偉大なる母国の軍事力は、ボライトン領地の例からも分かる通り、国境を守る騎士団でさえメデューサに壊滅させられる始末。もし戦争でも起きれば、この国は終わりだよ」
猫舌な師匠は、カップを口につけてふーふー冷ましている。
「それを防ぐためには、二つ方法がある。戦争になっても勝てるよう強くなることと、戦争を起こさないこと。僕が、武に長けたパトリックにこそ領地を継いで欲しいと思っているのには、前者の狙いもあるんだ。そして、クラリスは外交政策に力を入れて、後者を目指すつもりらしい。それが実現し、隣国との関係が良くなれば、文化の交流がなされて、いずれ錬金術の秘法も伝わってくるだろう。僕としてはそれを願っているけれど……」
でも、と師匠はカップを置いた。
「クラリスが王にならなかった場合は、紅騎士団長として遠くない未来に軍備強化をしなければならなくなる。クラリスはそれでも外交努力を続けるつもりだろうけど。そこで、僕は学者として、隣国の学問をなんとか故郷へ持ち帰る。つまりスパイのまね事をするってこと。そうすれば、隣国の手の内が分かり、彼らへの牽制に使えるだろう。自分の知的好奇心を満足させたいのが半分、そして、この国を本気で助けたいのが半分さ」
師匠はにっこり微笑んで、「弟を守るために彼を遠ざける。母国を守るために故郷を棄てる。人の心はアンビバレントなんだよ」と言った。
私は何も言えなかった。師匠が、色んなことをよく考えて、決断を下したのは分かった。
でも、隣国。未来で、私の村を焼いた国。恐ろしい兵士の群。見たこともない兵器。クラリス様が内通していると疑われたところ。
師匠の行動が、あの惨劇を引き起こすきっかけになってしまわないか。それとも、師匠たちは、あんな未来にしないために動こうとしているのか。師匠は、クラリス様は、何かとんでもない災禍に巻き込まれてしまわないか……。
ぐるぐると考え込んで、私は俯いた。師匠は「えーっ、僕がいなくなっちゃうのが寂しい感じー?」とふざけて言いながら、私の背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「大丈夫、学会でも疎まれがちな僕が一人消えたところで、騒がれることはないし、貴女も平気だ。ルイーゼさん、貴女にはクラリスもマチルダもついていて、パトリックや他の仲間たちもいるでしょう。僕たちは僕たちでやるから、貴女は騎士として、できることをやればいいよ」
私にできること。騎士としてできること。
それはもちろん、クラリス様を助けて、故郷を救うことだ。
うん、そうだ。師匠が危険になったら、私が助けに行けばいいんだ。逆行をする前とは違って、もう私には知識も力もある。
私は元気を出して顔を上げると、「師匠ってば、せっかくクラリス様という美人と婚約しておきながら、よくあっさり亡命しようなんて言えますね」と冗談まぎれに恨みごとを言っておいた。師匠は肩をすくめた。
「クラリスのためを思えばこそだよ。あの子はね、強そうに見えて実は結構危ういの。偉い領主のおじさんと、乞食の少年が川で溺れていたら、先に助けるのは少年の方なんだから。それが正しい行いなのか僕には分からないけど、政治的にはアウトなの。僕がそばにいたら、クラリスは僕を守る代わりに色んな人から恨まれる。昔からそれが辛いんだ」
そして師匠は、私から懐中時計を受け取ると「じゃ、調べておくね!」と言った。
それが二ヶ月ほど前の話。
懐中時計のことは、頭の片隅でずっと気にかかっていたが、公卿会議での衝撃的な出来事のせいで、すっぽりと抜けてしまった。
アナ・ベーカー。
何で?
どうして、もう次期王が王都にいるの?!
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