第12話 立春(前)

 二月に入った。

 真琴は相変わらず、実家の自室で籠城していた。昨年の大晦日に実家に戻って以来、入浴以外はずっと自室で、誰とも会わず、缶詰を貫いていた。自室と言っても、真琴の物など殆どない部屋である。

 中学卒業後、満を持して家庭内別居に突入すると、それまでに買い与えられていた物の一切を処分した。下着に至る生活必需品まで、と言うその徹底振りは周囲の度胆を抜いたが、真琴にしてみればまだまだ手緩かった。高校に進学しないと決め、家を出るつもりだった。完全にリセットして、自分の人生を出直すつもりだったのだが、家族その他に食い止められてしまい、その代行措置だったそれは手始めでしかなかった。それまで殆ど使わず、別の用途で使っていた小遣いは、早い段階で一般家庭の一財産程度にはあり、真琴はそれを元手に家庭内にいながら独立宣言をした。子供のやる事だ、と侮っていた周囲は、折目正しく家賃や生活諸雑費を実家に払い始めた真琴を、どこまで続くものか冷ややかな視線で静観したものだったが、毎月一〇〇万円を優に超える出費を平然と払い続けるその子供に、然しもの周囲も気味が悪くなる。その実家が、密かに顧問弁護士に調べさせたところ、その時点で既に今で言う「億り人」になっていたと言うから、周囲の驚愕振りと言ったらなかった。真琴は小遣いを元手とした投資による資産運用で、既に一財産を築いていたと言うから、獅子の子は獅子、と周囲も慄いたようである。

 ここまで来ると、実家の生計からあっさり離脱した真琴を笑う者は誰一人としていなくなった。当時は、嫡流長子の既婚者にして既に一児を儲けていた一〇歳上の実兄も同居していたが、兄は真琴程頑迷に生計の袂を分かってはおらず、それにより兄を立場的に押し退けた真琴は、名実共に高坂宗家当主夫妻に続く第三の主人に君臨する事になる。そうした真琴の、その専属使用人として仕え始めたのが、当時若手有望株だった佐川由美子だった。しばらくの間、そんな由美子の品定めをしながらのんびり生活していた真琴だったが、何かと気が回るこの使用人が使えると見るやまたもや独立を画策。密かに独り立ちのための全てを整え終えると、今度こそ有無を言わさず由美子を引き連れ実家を飛び出し、完全独立を果たした。一七の歳の事だ。

 以来実家に戻ったのは、一時的な帰省を除くと実に四半世紀振りだった。一時的な帰省と言うのも本当に数える程の、それも小一時間程度の滞在だった事から、この一か月と言うものは、本当に久方振りの実家暮らしと言う事になった訳だ。とは言うものの、室内にある真琴の物など、本当に衣類などの必要最小限の身の回りの物だけだった。その衣類ですら、流行りのサブスクリプションで着回し出来るため、本当に最小最低限でしかない。後は広島のタワマン諸共、物の見事に処分してしまった。元々が、余り物を持ちたがらない身だ。処分と言っても高が知れていた。

 衣類以外の物で、スマートフォンとタブレットPC以外は、全て実家の物であるため、全て部屋の借用料込みで使用料を払っている。と言っても、三〇畳もの大部屋の中には、テレビとソファーとテーブル、ベッドと書棚以外は何もなかった。全て使用料を払うため、その金がにっくき実家に落ちるおぞましさを思うと、少しでも切り詰めたかったのだ。が、始めから籠城するつもりで戻ったため、部屋ぐらいは広めのものを用意させた。そもそもが、使用料など払わずとも実家は痛くも痒くもない、とにかく呆れた富豪だ。そんな事は痛い程分かっていたが、それでも実家にすがると言うその事実が、とにかく許せなかった。

 そんなこんなで実家に戻って一、二週間は、それまで仕事に追い回されていた事もあり、籠城と言う名の骨休みをするつもりだった。部屋へ入室させるのは、やはりこの度専属使用人として雇い直した由美子だけであり、他の者は親は言うに及ばす、復縁間近の高千穂といえども、指一本毛一本たりとも入室させない。真琴は広島から戻って以来、そんな頑なな生活を貫いていた。

 一日中、タブレットで電子書籍を眺める。南側に面した庭沿いの窓際の椅子に腰を下ろし、日向ぼっこしながら一日中本を読む。そんな生活だ。籠城生活で絶対的な運動量低下に伴い、健康を損なう懸念があったものだが、開始早々、それは余り問題ではなく、日を追う毎に心身共に深刻な別の問題に晒され始めた。

 テーブルの上に手を置いて、タブレットを支え長時間黙読していると、手が痛くなる事に気づき、タオルハンカチを置くようになった。先生からせしめた件のタオルハンカチである。そのせいか、一日たりとも先生の存在を忘れた事はなかった。それどころか、日に日に想いが募る。それこそが深刻な問題だった。せめて連絡がとれれば、と思ったものだが、メールアドレスは実家に戻る直前に、メールの発着信記録諸共消去した。母は、年内一杯で清算しろ、と言った。清算したものまでは手出しをさせないつもりで抹消したのだ。言う事さえ聞いていれば、ある程度の節度は守る母ではある。恐らくこれ以上の無用な詮索はして来ないだろう。それでももし、先生に魔手を伸ばすような事があれば、刺し違えるぐらいの覚悟は持っていた。

 そんな調子で意地になって、人との接触をありとあらゆる媒体に至るまで必要最小限に断ち、拗ねたように籠城している。籠城したところで、所詮は籠の中の鳥だ。表向きは抗っている、と言うアピールでしかない。売物の鳥を野放図に放置する訳がなく、盗聴やデータ閲覧などの身辺調査は、最早嗜みのレベルでやっている、そんな家である。結局のところ、従順な鳥でしかなかった。

 大晦日に別れて以来の状況そのままに、日に何度か涙ぐむようになった真琴は、しばらくタオルハンカチで涙を拭い続けていたものだった。が、毎日洗濯に出しては、何事か勘繰られそうな気がして、溢れ出る涙はティッシュで拭き取る事にした。それ程に、大事にしているそのタオルハンカチこそが最後の拠り所だった。

 昼間はまだ良かった。

 にこにこしながら、来客を差し置き楽しそうに図書館から借りた本を読んでいた先生に思いを馳せながら、自らも本を読む事で少しは気が紛れた。

 問題は夜だった。

 特に床に入ってからは、最後の夜が思い返され、身体が疼いて仕方がなかった。お互い夢中になってしがみついたあの夜。真琴は一大決心の上で、先生に後の人生の支えを求めた。残るはつまらない余生でしかない。ならばせめて最後に、人生で初めて心を許した男の剥き身が欲しかった。ここ何年か、緩やかではあるが、自分の容姿に陰りを覚える中で、あの夜程自分に自信が持てない日はなかった。世の男達を惑わせる圧倒的な美貌を誇った女も、心を掴まれた男の前には無力だった。孤独に苛まれ、しかし頼れる相手が見出せず、苦渋苦悶の人生を歩んで来た女が、ろくでもない連中に追われてばかりの人生だった女が、いざ自ら追い求める段になってみると、震えが止まらず、心臓が締めつけられ、血圧上昇で目眩がする程だった。

 免疫がない、と由美子に嘲笑された事があったが、追う立場のそれは、まさにその通りだった。一般的な人並みの幸せを諦めていた孤独の女傑が、まさかこの期に及んで乙女のそれを突きつけられ、人生最高潮に動転した。

 ——こんなの私じゃない。

 酒で勢いをつけないと、とても布団まで持ち込めなかった。布団に縺れ込んだら縺れ込んだで、拒絶される事を恐れる余り、想像以上の緊張で泣き出す寸前だった。どうにか思惑通りに事が成就すると、後は本能に身を任せた。先生の本心など知ろうとせず、愛の所在を確かめる事なく、とにかくその剥き身に身を預けた。無言で、一晩で、一生分の情感を感じ取るつもりでしがみつくと、あらゆるところの感度が振り切れたようで、余りにも端なく悶える有様になってしまった。自分でもそれに驚いたが、形振り構う余裕などなく、とにかく時間が惜しかった。

 翌朝を迎えても全然足りなかった。

 昼前になってもそれは変わらず、迫る別れに焦り、余りにも無力な自分に涙腺が不意に堰を切ってしまうと、ついには止まらなくなってしまった。

 結局、求めた支えは全然足りなかった。先生は何も言わず、後先構わず、真琴の思いを正面から、文字通り体当たりで受け止めてくれた。平凡な自由人に、真琴が背負う因果を負わせかねない蛮行とも言うべきそれは、先生にしてみればリスク以外の何物でもなく、お互いそれはよく分かっていた筈だったが、真琴は最後の最後で抑えられなくなったのだ。そしてついには、真琴のややこしい人生に、先生を巻き込みかねない状況を作り出してしまう可能性を生じさせてしまった。

 それでも先生は真琴を受け止め、答えてくれた。当初はそれだけで満足出来る、それを支えに後の余生を生きていける、と思っていた筈なのに、結果として後に残された感情は、

 ダメだ——全然足りない——。

 抑えつけていた感情の蓋が壊れた後のそれは、暴走以外の何物でもなく、無理矢理抑えつけていた期間が長かった分だけ思う様暴れ回った、と言う訳だった。それだけ自分は渇いていた、そしてそれ程先生に満たされたいと思っていた、と言う事を身を持って知るに至ったのだが、一度その身体の重さを知ってしまうと、以後の夜の喪失感は凄まじかった。身体が疼き、火照り、濡れ、自分でもこんなに好色だったものかと、その有様を客観視しようとして激しく動揺した。掛け布団に纏わりついてみても、枕を抱いてみても、当然の如く全く代わりになろう筈もなく、覆い被さるあの重みに焦がれるようになった。眠れない夜が一週間も続くと、昼間に椅子に座ったまま、気絶するように昏睡するようになった。時間に長短はあるものの、一般的な睡眠時間としては到底足りないその昼寝だけでも、夜になると何処にその体力が残っているのか、自分でも理解出来ない程に身体が疼き、火照り、濡れる事を繰り返し始めた。

 ある夜、喪失感に駆られ、声に出してその名前を呼んでみる事にした。

「先生」

 広い自室で、思いがけず響いた自分の声が自分の耳に届くと、著しい動悸が胸を突き、更に胸が熱くなった。やはり余計に寂しさが込み上げ、余計に切なくなってしまい、寝るどころではなくなってしまった。我ながらバカな事をしたと、夜中に窓際に座って月明かりをぼんやり眺める事にした。そうすれば、少しは眠たくなるだろう。その傍には、それまで忌まわしいとしか思えなかった誕生日に、先生から贈られたアングレカムを置いていた。可憐に咲いた白い花が目を、ふんわり甘く香る良い匂いが鼻を慰める。ほんの少し気が鎮まる気はするが、やはり全然足りなかった。

 咲いた花を見せたら、あの拙い口で

 ——何を言うかしら。

 そんな想像を巡らすと、ますます想いが募るばかりで、どうにかなりそうになる事を恐れ、とりあえず止めた。

 何もする気になれず、差し込む月明かりをぼんやり眺めていると、窓に映った自分の青白い顔にはっとした。単なる月明かりのせいである事は理解出来たが、文字通り深窓の箱入り娘のような体たらくの身である。このままその身が朽ちてしまうのではないか。そんな錯覚が頭をよぎると、また急に不安が押し寄せて来た。

 不意に目の前にあるテーブル上にあるタオルハンカチに救いを求め、手を伸ばすが、触るだけでは全く落ち着かない。掴んで擦ったものの、やはりダメだ。堪らず顔に押しつけ匂いを嗅いだが、もう懐かしいあの匂いは全く感じられなかった。

 溜息を吐いて、タオルハンカチ諸共膝上に両手を置くと、タオルを介した自分の手の重みが腿に伝わり、瞬間的に先生の重みを思い出して一瞬心臓が跳ねた。気がつくと、目を見開いて、口を開けて驚いている自分がいる。我に返ると、背中に寒気が登って来て、身を縮めると情けなくて泣けて来た。

「子供みたいだ——」

 偉そうな事を言って強がって生きて来たくせに、行き着いたのはこの様だ。両目から何かが溢れそうになるのを堪えるが、無理に我慢していた分、代わりに嗚咽が漏れ出てしまう。結局その拍子に、認めたくないそれが堰を切ってしまい、両頬を静かに伝い始めた。

「あ」

 思わず手にしていたタオルハンカチで拭いてしまう。また、洗濯に出さないといけない。どうせ出すのならもう同じだ。結局また、すぐにぐずぐずにしてしまった。

「ダメだ」

 止まらない——。

 いくら拭っても、何処から出て来るのか分からない程、止め処なく流れる涙になす術がない。

 この場で他に出来る事と言えば、

「ともえ」

 本名を呼んでみる事ぐらいだった。

 するとやはり、一瞬心臓が高鳴り、しゃっくりが止まるかのように一瞬だけ気を取り戻しかけた。が、その反動が、高鳴った後の胸からじんわり押し寄せて来ると、もうどうしようにもなかった。

「具衛さん」

 こんなにも依存してしまっていながら呼び捨てはないだろう、と「さん」をつけて呼んでみる。使いなれないその呼び方は、何処かしっくり来ないのだが、もう何をどうしたら気が鎮まるのか分からないのだから仕方がない。

「具衛さん」

 嗚咽と共に止まらない涙を拭いながら、真琴は延々朝まで泣き続けた。最大の不覚は、そのどうしようにもない情けない姿を、翌朝やって来た由美子に見られてしまった事だった。見られた、と言うか、由美子に呼び戻されるまで、その廃人同様の状態に陥っている事に気づかなかったのだ。気がついたら、驚く由美子がいた。そんな有様だった。当然口止めをしたが、それが信に足る腹心であったとしても、果たして守られたものか。真琴には知る由もない。


 立春が来た。

 昼下がり。相変わらず足元確かからずの真琴が、自室の窓際でぼんやり本を読んでいると、それは突然やって来た。

「奥様がお呼びでございます」

 いつになく神妙な面持ちで由美子が言うため、はぐらかす選択肢を見出せず、

「——分かった」

 すぐ参ります、と返答せざるを得なかった。

 そのまま由美子に連れられてやって来たのは、最後に足を踏み入れたのがいつ以来なのか、思い出せない程久し振りの、宗家のプライベートな居間だった。古めかしい暖炉には、今も尚薪が焼べられている。暖かそうな静かな火が覗いていて、一瞬山小屋の火鉢を思い出した。思わず顔が綻びそうになったが、その暖炉に向かって座っていた二人が

「お連れ致しました」

 由美子の声で振り返ると、一気に思い出が冷えて現実に立ち返る。

「お座りなさい」

 向かって左に座っている老女が、穏やかな顔に添わない険を含んだ震える声で、真琴に命令した。四〇年来の宿敵、実母高坂美也子その人である。その命令口調に、対抗意識が反射的に芽生え、真琴の顔にも明白な険が浮かぶと仁王立つ格好となった。

 それを更に美也子が、

「お座りなさい」

 無理矢理にも捩じ伏せようとする。

 その忌々しい物言いは、相変わらずだ。その姿を直に見るのも何年振りかと言うのに、一瞬にして嫌悪感が溢れとても言う事を聞く気になれない。

「話って何よ」

「お座り!」

 痺れを切らした美也子が、ついにヒステリックに叫んだ。

 やっぱり——

 これだ。

 何でも自分の思い通りにならないと気が済まない。その変わらない横暴さが、真琴を一瞬にして立腹させ、いつもの女傑に立ち戻らせた。

「用がないなら部屋に戻るわ。由美子さん、お母上様は従順な犬をご所望のようよ」

 振り返り、部屋に戻ろうとした時、

「いいから、ちょっと掛けてくれないか。話があるんだ」

 右側に座る、いつもはお飾りの筈の老人が声を発した。実父高坂次任。名目上の高坂グループ代表である。

 思いもよらぬその呼び声に、真琴は驚いたものだったが、父が真琴に向かって「話がある」などと声をかけてくるなど、記憶を遡っても思い出せない。ひょっとすると初めてかも知れず、

「——何かしら」

 忌々しげに盛大な溜息を吐きながらも、とりあえず部屋の中央に鎮座する古めかしい長大な木製テーブルとセットの、座らなくなって久しい木製椅子に腰を降ろした。そこに座るなど、本当に何年振りだろうこの椅子は、子供の頃真琴が掛けていたそれである。テーブルを囲んで親と対峙する記憶は、本当に古いものであり、いがみ合った場所の記憶でしかなかった。しかし椅子は、何故か変わらず今もそのまま置かれている。

「重工の株価が急騰しているのは知っているかね?」

 お飾りの父が、突然話を切り出した。

 まただ——。

 父は大抵、母の言いなりであり、父から話をするなど今までになかった事だ。その事で頭が占拠され、真琴は肝心の内容を聞き取り損ねた。

「聞いてるの?」

「え?」

 母の辛辣な叱責にも、父の言による動揺の方が大きい。

「ちょっと聞きそびれた。もう一回言って」

 真琴は内心、自分でも驚く程素直に父に向かって問いかけた。その父もまた、いつになく冷静な面持ちで、常の頑固さを潜ませている。

「重工の株価が、昨日までの三日間で二倍以上に膨れ上がった。四日目の今日もストップ高でな」

 重工と言うのは、実家グループ内では高坂重工を言い表す。

 高坂グループとは、旧高坂財閥から戦後新しく派生した新生高坂グループを指すが、それは正式名称ではなく表向きのグループを指し示す通称だ。建前上はグループ企業に序列はないが、実情は、大小余す事なく計上するとグループ企業総数数百社と言うその巨大グループは、その中の主要企業三〇社で構成される事実上のグループ意思決定上の最高機関「木鶏もっけい会」によって成り立っていた。

 高坂重工は、その木鶏会における最上位の基幹企業の一つであり、木鶏会の代表たる「代表世話人」は最上位の基幹企業の最上位者、つまり社長なり会長なりが持ち回りで務めている。今は高坂重工会長がその代表世話人であり、それが真琴の父次任と言う訳だった。

 その大企業である重工の株が

 ——急騰?

 とは、一体どう言う事か。

 日本の株式市場では、株価の異常な暴騰落を防ぐため、前日の株価に対して騰落率が三〇%以上となると当日の取引が止まる仕組みがある。三日間で株価が二倍になった、と言う事は、連日それが働いたと言う事だ。その株価が四日目もストップ高と言うならば、この四日間で株価は約三倍に膨れている。中小企業では、たまに見られる変動だが、高坂重工のような国内業界一、二を争う大企業で、この変動はどう見ても異常だ。昨年末の、高千穂絡みの極秘案件を理由に上がっていた高坂重工の株価は、ここ一か月は落ち着いていたようだったが、ここへ来て

 また——?

 上がっているらしかった。

「——で?」

「何をしたの、あなた?」

 母がまた痺れを切らし、いつになく多弁な父に割って入った。

「してたのはそっちじゃないの」

 高坂重工に対する政府の「国産次世代戦闘機開発主体委譲計画」を土産に、高坂の権能搾取を目論見、復縁を迫ろうとしている高千穂と、それを待ち構える母の構図は、先生の活躍もあってとうの昔に掴んでいる事実である。今回の株価急騰も、それが原因である事は分かり切っており、

 それを今更——

 何を理由に詰るつもりなのか、真琴には全く思い当たらなかった。

「国と結託して悪さしてんのそっちじゃない! 私の知った事じゃないわ」

 今更そのネタを隠したところで、勝負はもうついている事であり、開き直りついでに盛大な嫌味を含ませて言い返す。

「ウソおっしゃい!」

 ——出た。

 決めつけだ。

 母の悪い癖が出ると、真琴はうんざり顔を惜しげもなく披露しながらも

「何が出来るって言うのかしら、今の私に」

 大人の対応を見せつけた。

「余りつけ上がってると、ためにならなくってよ!」

 またその母が逆上気味に言い放つと

「何? 脅迫するためにわざわざ呼びつけた訳? 知らないっつってんでしょうが! それとも喧嘩? 上等じゃない! ちょうど身体が鈍ってたところだし庭へ出なさいよ! 思う存分その捻くれた性根を打ち据えてやるわ!」

 真琴は息巻いて、一息にその何倍もの勢いで盛大にけしかけた。呼吸を忘れる程の勢いで吐いたため、慌てて無様にも肩で息をしてしまい格好がつかない。

「二人とも、やめないか」

 母娘が引き際を失いそうになるや、そこへまた父が、妙な冷静さで場を持とうと割って入った。

 何——?

 父はこんな人間ではなかった筈だ。

 真琴が知る限り口下手な父は、口達者な母の横暴になす術がなく、いつも頑固に黙していたものだ。それが、

「少し落ち着きなさい」

 すっかり一段高い視座で物を言っているではないか。

 返す返すもこんな人間では、

 ——ない筈なのに。

 それを見て後出しの矛を、思わず真琴が先に収めると、母も小さく悪態を吐きながらも険を潜めた。

「じゃあ何処が買ってるのよ。もう分かってるんでしょ?」

 ガス抜き気味に大きな溜息と共に、誰にともなく真琴が水を向ける。目立った業績やネタ絡みではない暴騰ならば、即ち組織的な買い占めである事が常である。事前に通知なり通告がない買い占めならば、大抵は何日かすると、相手方から何らかの宣言がなされるものだ。

「フェレールだ」

「は?」

「だから、フェレールが買い漁っているんだ。重工の株を、何の前触れもなく」

 その意外な会社名に、真琴は耳を疑った。日仏を代表するグループ同士、家同士が親戚でもあり友好的関係であった筈だ。

 それが——

「何で?」

 真琴はここ一か月、すっかりいじけて世相から目を背けており、本当の意味で深窓の箱入り娘を呈していたため、本当に事情が飲み込めていなかった。どうやらこの騒ぎは、本当にここ数日で起きた青天の霹靂だったようで、グループ内や政府内、特にせっせと土産をこさえていた高千穂周辺にとっては、水面下で水面を平生に保つための尽力で精根使い果たしているらしい。

 表立っては、突然高坂重工の株を買い漁り始めた仏国が誇る多国籍コングロマリットの巨人フェレールグループは、今回のこの短期間で既に高坂重工の株を約二五%取得した。過半数を取得すれば、株主総会の普通決議を単独で可決する議決権(取締役の選解任等、会社の意思決定の大半を専決可能)を思う様に振るう事が出来ると言う、会社法に則ったと思われるその動きは、高坂重工における支配者に君臨せんとする動きである事は明白だった。それも只の企業ではない。高坂グループの最上位の一角である基幹企業を、である。資金力が潤沢なフェレールであれば、その気になれば一息でその域に達する事は可能であるが、表向きにはフェレールは未だ何ら声明を出しておらず、その後の動向を開示していない、らしい。

「表向きはな」

「何よ、その伏線は?」

「いいから黙って聞きなさい!」

 特定の企業が一方的に、ある企業の株を買い占める場合、買われる側の企業がそれを同意または事情を承知していなければ、通常は敵対的な株式公開買付

「一般的に見て、それは敵対的TOBって言うんじゃなくって?」

 と呼ばれる。

「お黙り!」

 真琴にはっきりと事実を突きつけられた美也子は、予想通り傷口に塩を塗り込まれたような分かりやすい拒絶反応を示した。これで、今まで思う様人生を振り回されて来た分を取り返したなどと到底言えたものではないが、この場においては、少しはやり込める事が出来た分、真琴は母の乱暴な言にも軽い舌打ちをして顔を背ける程度の反応で、また矛を収める。

 ザマーミロよ。

 お互いにそこそこの資本関係もあり、日仏の架け橋とも称される巨大企業グループ同士の結びつきは、両国の経済にも密接な関係性を持つ程の力を互いに携え、その影響力を多分に示して来た。更に言うと、母美也子にとってみれば、フェレールグループ会長にして元仏大統領のアルベール・フェレールなどは、事実上の弟分である。

 その弟分から突然向けられた牙は、言うなれば

 ——反乱だわ。

 と言うも同じであった。美也子などは煮えたぎったものだろう。

「表向きは、まだ何も動きがないのだが——」

 父が目の前の卓上に置いていた一通の大封筒を手に取るや、居間の角に控えていた由美子が擦り寄る。由美子は受け取ったそれをすぐに、対面に太々しく座る真琴に手渡した。

「何よこれ」

「いいから読んでみなさい」

「口がついてるんなら説明しなさいよ」

 全く、などと悪態を吐きながら真琴が糊つけされていない大封筒の中から在中物を取り出す。

 そう言えば——

 広島の片田舎の豪邸の縁側で、大封筒から出て来た文面に愕然とした事があった事を、不意に思い出した。真琴にとっては今のこの状況は、あの瞬間から始まっているのだ。その頃真琴の傍に寄り添ってくれた数少ない何人かの人々は、本当に皆良い人達だったのに、その文面の敵意が最終的に真琴からその人達を奪った。その真琴に、

 ——また?

 今更何を見せようと言うのか。

 このシチュエーションは、忌々しい記憶でしかなかった。込み上げて来る怒りを辛うじて堪えながらも封筒を開き、乱暴に揺さ振って中身を出す。すると、A四大の紙が一枚中から滑り出て来て、よく磨かれたテーブルの上を軽ろやかに滑った。少し腕を伸ばさないと取れないところまで滑ってしまい、小さく舌打ちしながらも真琴がそれを手繰り寄せる。

「全く——」

 何だって言うのよ、などと懲りずに悪態を吐きながらも、手にした紙の文面を目にした真琴は、瞬間で目に見えて固まった。仏語で認められたそれは、ゆっくり目を通してもすぐに読み終える程度の短文である。真琴がそれに目を通し始めて目をひん剥く様子を見るや、

「今朝方、我が家のパソコンの非公開アドレスに届いたものだ。向こうは夜中か」

 父が補足を加えた。

"真琴を解放するならば、核融合エネルギーの実用化に向けた開発を一緒にやらないか"

 と言う分かりやすい一文は、最後にアルベールの電子署名が添付されている。それは正式な私的メール、と言う事だった。

 合わせて追伸があり、

"今なら資本増資と言う事で丸く収められる。良い選択を期待している"

 などと、贔屓目に見ても相当な上から目線だ。

「私はフランス語は分からんが、母さんに言わせると、そう言う事らしいな」

「あの鼻垂れのお坊ちゃまが!」

 それは、美也子の神経をなぶるには十分過ぎた。

「な、何よこれ——」

 重工に対する敵対的TOBが、裏でどうして自分と結びついているのか。全く理解出来ない真琴は、勝ち誇ったのも束の間、今度は混乱に陥った。

 な、何なのこれ——!?

 自問自答しようにも、答えに全く宛がない。このメールで真琴が分かる事と言えば、母を始め重工はおろか、グループは飛びつきたいネタ、と言う事ぐらいだった。

 高坂重工は、戦前こそ軍需産業大手として君臨したが、財閥解体の憂き目を契機として、その培って来た技術を放棄すると言う、思い切った経営方針転換で見事復活を遂げた技術大手である。これは何も重工に限った事ではなく、グループ内の企業が全てそうであったその方針は、とにかく戦争を反省し、当時の高坂家当主である祖父が掲げた「不戦不羈」の原則に殉じた。

 因みにグループ会の「木鶏」と言う名称は、木曜日に会合をする事に加え、古代中国の哲学者「荘子」の文献に出て来る故事を由来としており、闘鶏における最強の状態を意味するそれは、つまりは「動じない」と言う含蓄がある。更に言うとこの名称には、日本書紀に登場する神話の霊鳥である金鵄きんしと因縁があるらしく、金鵄は戦前に軍事勲章のデザインにもなった事から、そこへ木鶏を出す事で盲目的に国に取り入らず一線を画す、と言う新生高坂グループの決意を表すとも言われていた。

 かくして後に奇跡的な復活を遂げる基幹企業となった高坂重工は、その技術力で次々に高度経済成長を支える工業産業用品の開発に勤しみ、復活を先駆者となるのであるが、その技術力の最たるものが原発であった。世界有数の原発ノウハウを構築するに至った高坂重工は、政府の原発輸出施策に乗り更に勢いづいたものだったが、近年はその老朽化と相次ぐ災害や事故に加え、自然エネルギーの台頭で苦境に立たされている。稼ぎ頭の原発の雲行きが怪しくなると、有無を言わさず再び経営方針の転換期を迎える格好となった社内で、俄かに湧き上がったのが軍需産品生産復活論だった。現在生産している物は、それだけでは軍事用途に使えない物ばかりだが、事実上転用可能な物が多く、ならば潔く自前で作れば良いではないか、と言う論調である。原発施策の後退に伴う衰退を前に、軍需産品生産を再開するべきだ、と言う向きの軍品生産復活派に、不戦不羈の原則は後退の一途であり、風前の灯の中で社内の一部が最後の望みを託したのがフェレールだった。

 フェレールグループも世界的な原発企業の一つであり、そのノウハウは高坂重工と肩を並べるライバル企業であったのだが、その施策に決定的に異なる一点があり、それが次世代を見据えた核融合エネルギー研究だった。次世代エネルギーの一つと目される近未来的半永久エネルギーのそれは、所謂人工太陽を産み出そうとするプロジェクトであり、その実現性は未だ未知数である。が、実現出来れば、従来型の原発に比べ安全性も非常に高く、二酸化炭素も出ず核廃棄物も極少と言う文字通りのクリーンエネルギーながら、水素(三重水素)一gで石油八t分もの膨大なエネルギーを生み出す。クリーンかつその豊富なエネルギー量は、それだけで大変な魅力であるが、その実で核融合エネルギーは、次世代宇宙開拓には欠かせない技術の一つとも言われており、その実用化がもたらす利益は現有の原発の比ではなかった。

 であるからして、欧米では大きな利潤の前の助走として研究開発が活発だが、一方で日本は結果に拘る余り、見通し不明な技術として懐疑的な見方が強い。その理由の一つに、現有の原発で使った使用済み核燃料をリサイクルする「プルサーマル計画」や高速増殖炉の失敗があった。その轍は踏まじとして、資本を投じたくても出来ない風評や論評が席巻している日本では、その研究開発は遅々として進んでいない。

 その状況下で高坂重工は、近年起死回生の策としてフェレールグループに核融合技術の共同研究開発を持ちかけた事があった。のだが、後からやって来た者に手の内を明かす事を嫌がったフェレールがそれを拒否した、とは、真琴がまだ若かりし頃の話である。

 だからこそ、何故自分がネタの一部に挙げられているのか、それも今更何故また拒否した話を持ち出すのか、全くもって理解不能だった。だったのだが、これを

 ——受けない手はない。

 事もまた、明白だった。

 核融合エネルギー開発に乗り遅れると言う事は、戦後日本が航空機産業開発の権利を失った状況以上の技術的遅滞を招く可能性が高い。それがどれ程の事か。それは未だに、国産ジェット旅客機が自前で作れない状況を鑑みれば分かろうものである。

 私の解放——

 を求めている、と言う事は、国産戦闘機開発の件は諦めろ、と言う事だ。核融合開発と戦闘機開発、両方を天秤にかけるなど、将来性を見据えればどちらに傾くなど分かり切っている。更に言うならば、その提案を拒否したところで、後に待っているのは株の買い占めによる会社の乗っ取りであった。

 敵対的TOBの対抗策には、友好的な第三者である企業に、敵対的買収者より有利な条件で株を買い増して貰う事で敵を退ける「ホワイトナイト」、買収対象となった企業が、買収者の魅力となっている資産・事業を第三者に疎開させて買収意欲を失わせる焦土戦術の「クラウンジュエル」、既存の株主にあらかじめ新株予約権を発行しておくことで買収を食い止める「ポイズンピル」、逆に買収を仕掛ける「パックマンディフェンス」などの対抗策や防衛策が存在するが、いずれもフェレールの絶対的資金力の前には霞んで見え現実的ではない。

 高坂重工は、確かに旧財閥系の大グループ企業の一つで、重工業では国内有数の大企業だが、あくまでもグループ内の一企業でしかない。片やフェレールは多国籍巨大コングロマリットであり、単純に企業単体として見た時の資金力において文字通り桁が違った。時価総額で見ても重工のそれは、フェレールの数%にも満たない。高坂グループが総出で対抗して、ようやく良い勝負が出来るレベルだが、グループをまとめるには余りにも時間がない。ただでさえ日本では年度末が迫っており、帳尻合わせで忙しい時期だ。各企業とも面倒毎は避けたいところだろう。

 つまりはこのタイミングでこの動きは、資金力豊富な極一部の大々企業にしか不可能な戦略であり、高坂側は

 ——なす術がない。

 と言う事だった。

 フェレールの提案を受け入れようと受け入れまいと、どちらにしても結果は同じと言う事である。ならば、事が大々的に公になる前に、つまり「赤っ恥をかく前に大人しく言う事を聞け」と言わんばかりのそれは、それこそ体の良い、しかして

 ——事実上の脅迫。

 で、あった。

「何を今更ぁ——」

 座りながらに地団駄を踏む勢いの美也子は怒り心頭である。どう足掻いても結果が変わらないのだ。高千穂を転がして、大事に育んで来たであろう巨大な利権が転がり込む話を、目前にしてちゃぶ台返しにされ、しかもそれ以上の話で釣られようと言うのだから、プライドもクソもあったものではない。文字通り、圧倒的な力で捩じ伏せられた形のそれは、美也子のやりそうな手口に似ていた。

 自分のやり口でやり込められ、何重もの屈辱を与えるその容赦なき手法こそ、高坂美也子がフィクサーとして恐れられて来た所以である。

「母さん、もうやめよう」

 父が弱々しく言うと、

「もう好きになさいな! あなたが会長なんだし!」

 美也子は、音を立てて席を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。

「どんな手を使ったのか知らないけど、覚えておきなさいよ!」

 まさに負け惜しみめいた一言を吐き捨て居間を後にするその様は、御歳八三にして達者な足取りであり、

 あーめんどい。

 まだまだ呪縛はキツい。

「済まなかった、では済まない事は分かってはいるが、本当に済まなかった」

 後に残された格好の父次任は、今までの頑固振りからはとても想像出来ない素直さで謝罪をした。

「え? 何? 何か余命幾ばくもない病気か何かかしら?」

 その変貌振りに驚いた真琴が、本気で心配したものだったが、

「わしも母さんも頗る元気だが」

 父は父で、やはり冗談の一言もなく生真面目に返答をする。

「高坂はこの話を受ける。お前はもう自由になさい」

「は?」

「ただ、今は分からんだろうが、母さんも——いや、やめておこう」

 次任は極あっさり事に決をつけると、そそくさと立ち上がったものだった。

「母さんが拗ねておるから、わしももう行くぞ。とにかくこの事は、もう心配するな。お前の好きにしなさい、真琴」

 如何にもやっつけ気味に取ってつけたように言うと、頑固者だった筈の父は、何処かしら心ここにあらずの様相で、美也子を追いかけるようにそそくさと居間を後にする。

「ちょ、ちょっと——」

 呆気に取られる真琴は、その父の宣言通り、早速ながらも見事に放置されたものだった。

 好きにしろとかって今更——。

 父次任に名前を呼ばれるなど、いつ以来なのか。後に一人残された真琴は、やはりいくら記憶を遡っても思い出せなかった。


 二月中旬。

 フェレールと高坂重工は、核融合エネルギー研究・開発・商業実用化をターゲットとした合弁会社の設立計画を発表した。両企業の社長が、共同記者会見するニュースを実家自室のテレビで呆然と眺めながら

「信じられない」

 真琴は力なく呟いた。重工側の社長とは、真琴の実兄である。

 フェレールからメールが届いたその日の内に返事をした高坂サイドの動きも早かったが、僅か一週間で共同記者会見まで漕ぎ着けた早さはどう考えても異常だった。

 まるで、こうなる展開を

 読んでいたかのような——

 フェレールの迅速な動きによって、高坂側は条件を確認するだけだったらしい。高坂重工にとってこの案件は、それ程渡りに船だったのである。原発がジリ貧の中、突然降って湧いた話に飛びつかざるを得ないほど、実のところ重工は

 切羽詰まっていたのね——。

 厳しい経営に晒されていたのだった。

 戦争の反省から、国と一線を画した企業運営の難しさである。公共事業ビジネスに厳格な自社基準を設け、業界大手に比べると圧倒的にその受注率が低い高坂重工は、バブル期以後業績低下の一途を辿り、水面化では一部事業の分割・売却の話すら浮上していた。それが、今回のフェレールによる資本の梃入れと、合弁会社設立に伴う新事業展開により、一気にV字回復を目論む体制が構築されたのだ。合わせて水面化で、他事業の業務提携などの話も上がっているらしく、まさに、

 フェレール様々ね。

 であった。

 この結実が、実は裏取引による奇妙な条件が決定打とは、

 世間様はよもや——

 想像もつかないだろう。その奇妙な条件には、後づけがあった。高坂の足元を見るように、奇妙な条件を追加してきたフェレールのそれは、更に美也子を激怒させたものだったが、後に引けない高坂は黙ってそれを飲むしかなかった。

 その後づけ条件とは、

"真琴及びその交友者の絶対安全の確保"

 と言う、一見して謎めいたものである。最初の条件では解放を、次の条件では安全を要求して来たそれは、明らかに条件の拡大を目論む意図が透けて見えたもので、理解に苦しむその内容に高坂サイドは戦々恐々としたものだ。が、結局何日立っても、その後の追加はなく、そのまま今日の共同記者会見を迎えたのだった。

 それにしても、

 私の交友の身の安全って——

 どう言う事なのか。

 夕方六時から始まった記者会見はまだ続いていたようだったが、ニュースは一部録画が放送されるに止まり、次のニュースになる。

 そこへ自室の扉がノックされた。

 真琴が入室を促すと由美子が入って来るなり、

「夕食のお時間でございます」

 夕食を伝える。

「分かりました。参ります」

 事態が激変して以来約一週間と言うもの、真琴は相変わらず自室に籠城していたのだが、夕食だけは我慢して両親と摂るようにした。籠っていたのでは、何がどうなっているのか分からない。両親に物を尋ねる気にはなれず、あれ以来フェレール家の面々へ連絡を試みたものだったが、会長のアルベールや秘書のジローは余程忙しいようで連絡がつく気配すらなかった。唯一連絡がとれた叔母のリエコはリエコで、

「姉さんは何て言ってるの?」

 の一点張りで、まるで種明かしをするつもりはないらしい。

 それどころか、

「一緒に食事でもしなさいよ」

 などと突き放されてしまい、他にこの件で有効なチャンネルを持たない真琴は、仕方なく夕食だけは一緒にする事にしたのだった。

 しかし、

 ——それにしても。

 四半世紀振り、である。

 実家の居間で家族と一緒に夕食を摂った記憶など、家を出る直前の一七歳の年が最後、と言うから

 お互い良くもまあ——

 忌み嫌ったものだ。そんな調子なものだから、真琴はやはり目を合わそうとしなかった。今夕で両手の指ではそろそろ収まらなくなって来た回数の夕食を両親としたものだったが、情報を抜き取るどころか、ろくに口も利いていない。

 こんな調子で一体何を、

 掴もうと——

 言うのか。

 何かに呆れながらも、真琴は今日も努めて静かに黙々と、手と口を動かし食事を進めた。味わうも何もない。とにかく口にかきこむだけである。食い散らかしているそれは、皮肉にも真琴が平生口にしているような、大富豪が口にするには素食と言えよう、極ありふれた物だった。コースもクソもない、極ありふれた根菜の煮物、葉物野菜のサラダ、豆類の小鉢、味噌汁、ご飯。それとなく両親の膳を目の動きだけで確かめるが、やはり同じ膳である。

 ちっ。

 忌々しい事この上ないが、改めて自己のルーツを思い知らされたものだった。さっさと最後の一口をかきこみ飲み込むと、

「ご馳走様でした」

 真琴は今宵も、それだけ言ってさっさと席を立つ。

「ちょっと待ちなさい」

 それを、次任が呼び止めた。

 ——また。

 その圧を感じない物言いは、一体どうした事か。何処となく気遣わしげな、腫れ物に触るかのような声色など、これまで一度として聞いた事がなかったのだが、先日来の次任は一貫して、

 ——この調子。

 で、薄気味悪かった。

「何か飲んで行かないか?」

「部屋で飲むからいい」

 即答した真琴が振り切ると、

「ちょっと話があるんだ。掛けてくれないか?」

 次任がまた、呼び止めた。

「何なのまた一体。また脅迫されるようなら今度こそ訴えるわよ」

 真琴が美也子を一瞥して嫌味を口にすると、音も立てず静かに食していた美也子が、小さいながらも音を立てて箸置きに箸先を置く。

「母さん」

 火を噴くタイミングはお互いよく分かっている。美也子が口を開く前に、次任が、

 また——

 抑えた。

 それがよりによって、美也子も言う事を聞くと言う、

 ——何の前触れ?

 天変地異でも見るような真琴は、椅子に座り直す事で返事に変えた。


 数分後。

 美也子も食べ終わったところで膳が下げられ、入れ替わりで食後の飲み物が出て来たそれは、三人ともルイボスティーだった。合わせて羊羹が一切れ添えられている。

「ちょっと甘いか」

「さっぱりしてるわね」

 などと、口々にルイボスティーを飲む両親を前に、真琴はますます不審感を強くしていた。

 な、何なのよ一体。

 飲み物のオーダーをする際、真琴が一も二もなく最近はまっているホットグリーンルイボスティーを頼むと、両親も

「じゃあ同じものを」

 と口を揃えて頼んだのだ。

 ルイボスティーは南アフリカ原産で、一日の気温差が三〇℃を超える過酷な環境下で育ち、原産地が唯一の生産地と言う希少価値の高い茶である。それも発酵させず抗酸化作用をふんだんに含む純粋なグリーンルイボスティーの高級品ともなると、一般家庭では少々手が伸びにくい。それが当たり前に常備されているところなど、流石と言うものである。が、

「初めて飲む」

 などと口にしながら啜る二人を

「何言ってんのよ」

 真琴は詰った。

「毎朝飲む由美子さんのハーブティーに入ってるわよ」

 それを知っていた真琴は、実家に帰省以来、酒も飲まずにルイボスティーばかり飲みつけている。籠城の悪い酒で酒浸りになる事を恐れ、あえて酒を断ったのだ。

「話があるんならちょうど良いわ。リラックス作用もあるし」

 ねぇ、と部屋の端に控える由美子に声をかけると、

「はい」

 由美子が控え目に答えた。

「少しは下働きに甘んじている人達に思いを寄せたらどうかしら?」

「お嬢様」

 真琴の追い討ちに由美子が窘める中で、

「——そうだな」

 次任がまた、素直な事を吐く。

 う——

 噛み合わない。

 昔なら、ここまで言えば、壮絶な戦端が展開されたものだったが、次任も次任なら、今日は美也子も異常なまでに大人しい。正直なところ、

 ——キモいわ。

 思わず、日頃使わないストレートな若者言葉が脳裏に浮かんだ。

 籠城生活に入っても、長期戦を見据え健康には気を遣っている。今日も夜寝つけない他は、特に体調に問題はなかったものだったが、思わず悪寒を覚えた。

「で、何?」

 主導権を握られたまま、と言うのが面白くない。真琴は声色に、然も不愉快さを乗せて詰問する。

「ああ——いつまでうちにいるのかと思ってな」

 いつになく、言葉を選ぶ次任に

「何? いちゃいけないの? 利用価値がなくなったらさっさと出て行けって?」

 真琴はすかさず噛みついた。話の本筋を炙り出し、有利に展開するには

 相手を怒らす事ね。

 法廷弁護でよく使われる手法である。

「いや、そうじゃないが」

「じゃあ、フェレールに約定の履行を怪しまれるから、早く出て行って欲しいとか?」

 フェレールの持ちかけて来た提案は、美也子のプライドを折ったとは言え、高坂側の損失と言えばそれだけだ。破格の提案だからこそ、選択の余地がなかったと言える。元々が、美也子のプライドが折られる事を、

 損失じゃなくてお灸よ。

 事が発覚する事があるようなら、そうした向きが強いだろう。

「何かあれば、真琴が黙ってはいないだろう。だからいつまでいて貰ったところで、約定を違える事にはならん」

「これまでの恨み辛みをぶちまけられる怖さから、早く出て行って貰いたいって言えばすむ事じゃない」

「言わせておけば——」

 そこへ真琴が本丸と捉えた美也子が痺れを切らして割って入り始めた。

「あら、本音を突かれてご立腹かしら?」

「母さん、真琴」

 が、また次任が窘める。

 まただ——。

 親から名前をこれ程に呼ばれた事も久し振りだ。子供の頃以来のその響きに、つい矛先が鈍る。

「——煮え切らないわね」

 美也子は怒りを我慢している、と言わんばかりの分かりやすい顔を全面に出しており、これは予定通り

 なんだけど——

 そもそもが、美也子が我慢する様子など中々拝めない事から、これはこれで貴重ではあった。それを内心ほくそ笑んだものだったが、次任がここまで歯切れが悪いのは経験がない。何処か切なげなその表情に、つい真琴の方が絆されてしまった。

「おかしな裏取引なんて、どうせ何処からか漏れるもんだろうし、そうなれば母上様に反目したバカな娘を雇いたいって言うグループ企業はおろか——」

 国内の栄職と言う栄職は就任される事を嫌がるだろう。美也子の隠然たる力は、脈々と政財界に張り巡らされている。

「まあ、しばらく仕事から離れてみるのも良いかもねー、なんて——」

 思ったりもしたものだ。

 先生のミニマムライフは、未だに眩しい思い出ではある。が、

 それを一人で——

 やるとなると、本当にときめくものかどうか、今一自信が湧かない。先生と言う人間がいたからこそ訪ねていた、と言う思いは、もうごまかせなかった。

 高千穂の魔手は去った。

 次なる手を講じるには、時間がかかるだろう。高千穂のみならず、いい加減おかしな連中から狙われる口実にならないためにも、身をしっかり固めるか、世の中から

 隠棲しないと——

 と思った。

 ——そうか。

 自由放免、である。

 これまでの人生で聞いた事もないそのフレーズに、耳目を疑ったものだ。それがなぜか高坂重工を救う一手にされているのだから、これが覆される事はまず有り得ないだろう。これを上回る仕掛けなど、さしもの真琴も思いつけない。となると、

 何をやっても良いのか。

 と言う事になる。

「まあ、しばらく様子を見させて貰って——」

 特に何事も妙な動きが、

 ないようなら——

 世間やグループ内が、

 落ち着いたようなら——

 先生が施設と雇用契約を結んでいる年度末までに、

 ——逢いに行ってみるかな。

 と、素直に思った。

 出来る事なら、今からでも飛んで行きたい、とまで思ったものだったが、流石に実家、特に母の動きはまだまだ余談を許せるものではない。下手に連絡や接触を試みようものなら、窮鼠猫を噛むではないが、何事か裏工作されて台無しにされかねない。

 ここは辛抱時と判断した。

「で、その後はどうするんだ?」

「え?」

 不用意にも二親の前で、妄想に陥りそうになるところへ、次任の声が被った。不覚にも内心で大きく心音が跳ね上がる。

「様子を見て、その後は?」

「どうって——」

 何故、それを今追及されないといけないのか。あくまでも種明かしをしないまま聞き出そうとするスタンスに、何か言質を取ろうとして

 いるのか——

 などと憤りを吐き出そうとしたその時、美也子の口から思わぬ名前が飛び出した。

「不破って言う男の子の所へ行くのかしら?」

 美也子の顔が得意気に歪む。

「何を——」

 真琴は迂闊にもそれに反応して、目をひん剥いて

 ——しまった。

 これではそれを肯定しているようなものではないか。そもそもが先生の事など、美也子の情報網からすればいくらでも調べがつく。先生に辿り着く取っ掛かりのネタ元は、由美子であり高千穂だ。住所や名前が分かれば、そこから先など思う様だったろう。真琴よりも詳しい情報を掴んでいるに違いないのだ。何せ、売物の鳥に許可もなく近づいた不届者である。

 そしてこの、

 執念深い傲慢な女の事だ——。

 事が落ち着き、関係した者達が気を許した後か忘れ去った後にこそ、何をされるか分かったものではなかった。

「よりによって、あんな何でもないか弱い殿御に、よくもまあ入れ込んだと言うか——」

 ここ最近の鬱憤を晴らすが如くの辛辣な物言いに、相手の顔がぐにゃりと醜く歪んで見える。

「社会の底辺を這いずり回って、世を憎んで他人を恨み、いじけて隠棲したような凡夫の何処が気に入ったのか知らないけど——」

 怒りで、口よりも手が先に動いた。

 怒りのみに身を委ねるのではなく、瞬間沸騰した精神を、その何処かで別のベクトルに変換する作用が脊髄反射で働く。羊羹用に一緒に出されたステンレス製の菓子楊枝を、真琴が何のためらいもなく掴むや、極小さいストロークで振りかぶって投じたのと

「やめなさい!」

 次任の叫び声が被った。

 かと思うと、先の鋭い楊枝が美也子の毛先を掠め、かっ、と低く小さいながらも、しっかりとした硬質の音を立て、真琴と美也子の延長線上にある木製クローゼットの木枠に突き刺さる。

「——今度から菓子楊枝は、木製で先の丸い物が良いわね。由美子さん」

「申し訳ございません」

 美也子が由美子を一瞥しながら

「この跳ねっ返りの野蛮な娘が、くないか何かと勘違いするものだから」

 事もなげに呟いた。

「木製にするんだったら、今度こそその憎たらしい横っ面に突き立ててやるわ。間違って殺すような事もなさそうだし」

「命を取ろうとしないところが甘いのよ」

「あんたのために罪を負って刑に服するのがバカバカしいのよ」

 真琴も平然と応酬する。

「二人とも、やめんか」

 次任が後追いでもう一度仲裁に入ったが、流石に収まりがつかなかった。

「私の事は、この際何を言っても構わないけどね——」

 真琴は怒気を露わにしながらも、

「他人を蔑む時は、精々気をつけなさいな」

 茶に口をつけてひっそり漏らす。

 そうしてカップ越しに目を光らすと

「頭では自ら手を下す事に価値すら見出せない亡者だと理解出来ても、野蛮な手業を嗜んだ手は、つい反射で悪を貫くとしたもんだから」

 カップの茶を煽って飲み切り、席を立った。

「もういいかしら?」

「待ちなさい」

 次任が呼び止めても聞かない真琴のその足を止めたのは、この期に及んでまた美也子が吐いた投げ遣りな独り言である。

「そのか弱い凡夫が、フェレールを動かしたって言うんだから、私も年をとったものね」

 それを耳にした真琴の衝撃は、ここ数年レベルでは最大のものだった。それどころか、この半生の中でも最大級だったかも知れない。

「な——!?」

 苦し紛れにこの鬼婆は何を言ったものか。それでもつい耳を傾ける向きが、迂闊にも振り向き様に目をひん剥き、動転の反応を示してしまった。

「相変わらず物分かりの悪い娘ね。そんな事だから、あんな柔そうな子に懐柔されるのよ」

 そこをつけ入られ、真琴の大事な人間を容赦なく抉る声となる。その音声信号を耳にするなり、今度は野蛮と中傷されたその手が、反射で空になったカップを掴んだ。

「いい加減にせんか!」

 それを次任が、太い声で誰に言うともなく周辺を震わせた。ようやく昔の頑固で威厳ある父のその声を思い出した真琴だったが、それでも頭ではカップを投げたつもりだった。が、やはり反射としたものか、手は止まっている。一瞬後、それを認識した真琴は、険しい表情のまま静かにカップを手放すと、

「フェレールを動かしたってどう言う意味よ」

 立ったまま更に詰問した。

「だからそのままの意味よ」

「母さん、もうやめなさい」

 美也子が意地になって意地を悪くするのを見咎めた次任が、ついにはっきりと仲裁に入り場を入れ替わる。

「今回のフェレールの申し出は、真琴が知る不破君と言う殿御の立案だそうだ」

「なっ!?」

 何ですって——?

 真琴が絶句する中で、

「どうやったら、あの貧相な子がヨーロッパの巨人を動かせるのかしらね。侮ったらろくな事にならないわ全く」

 美也子の今度のそれは、殆ど手放しに誉めたに等しい。それが分かった真琴の反射も反応しなかった。それはそうだ。大企業の利権が絡む一国の国防政策を、舌先三寸で覆したのだ。結果は時の運もあるだろうが、それを試みるなど、恐れて関わる事をためらうのが普通である。それをやってのけた男は、暗に普通ではない、と、皮肉好きの分かりにくい美也子は言ったのだ。

「失礼致します」

 何やら立て込んだ話に成りかけたところへ入室して来たのは、由美子の夫にして高坂宗家筆頭執事の佐川兵庫助さがわひょうごのすけである。燻銀の渋さがピカイチのこの執事は、見た目も仕事も申し分なく、真琴は由美子の顔が僅かに緩むのを目の端で捉えたものだった。が、兵庫助の様子がいつになく固いのを感じ取るや、身体が自然に身構える。

 兵庫助が次任に歩み寄り、素早く用件を耳打ちすると、それに表情を険しくした次任のその口から語られたのは、予想外の出来事だった。

「真純が行方不明らしい」

 父次任から語られた人物は、他ならぬ真琴の一人息子である。


 高坂真純(こうさかますみ)、一六歳。現在真琴の実兄方で暮らしているその一人息子は、真琴に似て反骨精神旺盛にして大変な気骨者に育った。遺伝子の半分は奸物高千穂隆介ながら、真琴が早々に離婚したため、父親とは一緒に生活をした事すらない。それが良く作用したようで、典型的な真琴二世として成長した男児は、やはり早熟聡明の壮士に育った。

 家風に反発し、世の中の常識に果敢に立ち向かったこの真琴二世は、考え方も瓜二つで、学生時代、母のような陰湿ないじめ被害に合う事はなかったが、同年代の幼稚な思考に馴染めず孤立した。中学に入学早々「高校には進学しない」宣言をするや、母同様に司法試験の勉強を始め、中学三年にして一昨年度の司法試験予備試験に合格。続け様に昨年の司法試験にも合格し、それまで真琴が約二〇年と少し保持していた、新旧司法試験制度下における史上最年少合格記録を更新した。

 そんな鬼才は中学卒業後、都内某弁護士事務所でパラリーガル(法務助手)として勤めていたのだが、昨年の司法試験合格を受け、早速同年一一月開始の司法修習に入り、現在は都内裁判所配属の司法修習生である。

 司法試験は国内最難関の国家資格として有名だが、それだけを持って裁判官や弁護士になれる訳ではない。裁判官、検察官、弁護士の三者を法曹と言い、法曹になるにも法曹資格が必要なのであるが、司法試験合格者を対象とした法曹教育制度と言うのが、裁判所法に定められるところの司法修習だった。

 司法修習は、法曹になるためには必修であり、現行法下においては一年間かけて行われる。法曹三者いずれの道を希望する者も、同一課程の統一修習で行われ、修習は一〇か月の実務修習(民事裁判修習、刑事裁判修習、検察修習、弁護修習、選択修習を各二か月ずつ)と、埼玉県和光市所在の司法研修所における二か月の集合修習に分けられている。その最後には司法修習生考試が待ち構えており、それに合格することでようやく判事補、検事、弁護士になるための資格を得る事が出来るのである。

 第三話で「弁護士料は言い値で高額」と先述した事があったが、その理由の一端はまさに、これ程までの狭き門を潜り抜けなくては就く事が出来ない職業故だ。司法試験合格に必要な最低限の勉強時間は三〇〇〇時間とも言われており、法のスペシャリストを目指す法知識人達でさえ、合格するのに大抵何年もかかると言うその超難関資格は、六法全書を丸暗記する覚悟がなくてはなれない、とまで言われる程である。そこまで過酷な修練を要する資格は、確かに他では余り聞き覚えがない。

 真琴は別居しているとは言え、この一人息子の事を忘れた事はなく、その様子はつぶさに聞知していた。確か今は、刑事裁判修習中だった

 ——筈だけど。

 兄は現在、実家の近場にあるマンション暮らしで、真純もそこから修習先へ通勤しているのだったが。

「先週末の夕方に、職場から『急な出張で帰られなくなった』と千鶴ちづるに電話を寄越したらしいが——」

 千鶴とは、真琴の兄の長女にして、真純の婚約者である。共に兄の家で、兄夫婦と一緒に仲良く同居していたものだった。それが、

「何故かその連絡を最後に、連絡が取れなくなったらしい」

 こんな事は今までになく、それでもまあ忙しいんだろう、と黙認していたらしい。

 法曹の忙しさも中々のものなのだが、真純はまだ司法修習の身であり、基本的には朝から晩までのカリキュラムである。その身分は公務員ではないが、国家公務員に準じた地位を有し修習専念義務を負うが、修習給付金と言う名の給料も貰える。が、修習分の勤務時間は朝から晩までであっても、それ以外の時間は、最後に控える司法修習生考試に向け、普通は血眼になって勉強するものだ。真琴でさえ、少しは隈を

 ——作ったもんだったし。

 さしもの真琴二世も、時を忘れて机にかじりつく事が多く、周囲は邪魔にならないよう遠目からサポートしていたようだ。

「——が、いくらなんでも連絡がつかないから、千鶴が真純の職場に確かめたら、忌引き休暇中だったそうだ」

 真純による虚言が発覚した、と言うのが事の顛末である。

「忌引き?」

「ああ。お前が亡くなったらしい」

「はあ?」

 真純の父は、仮にも外務大臣だ。父が死んだとは言えないものだから、

「私ねぇ」

 母の真琴が亡くなった、と言う事にしたのだろうそれは、明らかに何かの

 時間稼ぎ——

 のように思われた。

 公務員の場合、実父母の忌引き休暇は七日である。配偶者なら五日、祖父母なら三日だ。が、真純は未婚であり配偶者の線は消える。後は祖父母と言う事になるが、

「私じゃ、日数が足りなかったのかしらねぇ」

 美也子が顔色を変える事なく呟いた。祖父は次任、元首相の高千穂隆一郎であり、やはり目立ち過ぎる。一方で婆を殺した事にするならば、美也子か元首相の奥方、と言う事になる。

 どのみち日数的考察と知名度から、真琴が選ばれたのは間違いなさそうだった。家族葬と言う事にしておけば、今は無職の真琴なら、しばらくは世間の話題にはならない。

「週末の夜だと言うのに、当然の如く音信不通で帰っても来ないそうだ」

 気がついたら、音信不通になって一週間が過ぎていた、と言う訳であった。

「とりあえず、警察に捜索願出すわ」

 真純は、嘘をついて休むような甘い人間ではない。そんな事はこの場にいる人間なら、口に出すまでもなく共通する認識であった。つまりは、余程の事があったと、見るべき状況である。

 真琴が静かに席を立って、居間にある固定電話に足を向けかけると、

「もう千鶴が出したそうだ」

 次任があっさり告げた。

「なら、私はとりあえず、する事ないわね」

 何か分かったらまた教えてよ、と言い捨てると、真琴は今度こそ、そのまま席を離れ居間を後にする。一見冷たいように見えるが、他にやりようがないのだ。それをこの居間で、どうのこうのと雁首揃えて議論するような真琴ではないし、両親でもない。仲は壊滅的に悪い親子でも、そう言う腹の据わり方をしている事もまた、共通認識であった。それに真純の婚約者の千鶴は、家中ではしっかり者で通っている。離れ離れの母子の関係より、同居の婚約者の方が警察は喜ぶだろう。婚約者であれば身分はそれなりに固く、同居とあらば当事者の事情にも明るい。

 そうなって来ると際立つのは、

 私って、何処までも一人ねぇ。

 真琴の孤立感だった。

 二親に背を向けた後、真琴は自嘲せざるを得なかった。仮にも実の息子が行方不明であるにも関わらず、真琴は極めて冷静である。それには、生き急ぐ年齢不相応の法律家と、よく出来た婚約者の存在が大きかった事もあるが、何より一人息子の巣立ちが早かった事も、少なからず影響していた。

 それにしても、

 ——随分よねぇ。

 真純は幼少期、中々のマザコンだった。兄の家に行くまでは、

「将来的には母さんと結婚する!」

 などと、周囲を憚らず高らかに公言していたものだったが、千鶴を見つけてからと言うもの、千鶴に首っ丈となった。真純と過ごした一〇年だけが、真琴が一人ではなかった時間だ。とは言えその間も、シングルマザーの外務官僚、シンクタンク研究員、国連職員として多忙を極め、帯同赴任していたとは言え、

 まあ、べったりって訳じゃ——

 なかったのだ。

 それがついに、今や忌引きのネタである。不覚にも寂しさが滲み、居間を出るまで溜息が我慢出来なかった。自分に関わる人間は、

 みんな離れて行く——。

 偶然なのか、必然なのか。真琴はそれを推し量る事を、ついに何かに突きつけられたような気がした。それはこれまでの多忙に感けて、真琴が保留にし続けていた自他を巡るわだかまりだ。敵と見做した者が去るのは良い。事実そうなるようにして来たものだ。だが、味方と思える者達までも離れていくのは何故なのか。

「あなたの殿御に相談なさい」

 美也子が真琴の背中に投げかけたその声は、特段の色を感じなかった。まさかあの母が、その男を少しでも頼ろうとしている事に真琴は素直に驚き、思わずそのまま振り向く。

「今は在野の士でも、元専門家でしょう。——この際、切れる札は多いに越した事はないわ」

 その振り向き様に美也子が畳みかけた。そのまましばらく、視線が絡み合う。ネガティブな感情がないまま、母を見るなど何年振りなのか。記憶を辿っても思い出せなかった。そもそもそんな事など、今この瞬間までなかったのではないか、とさえ思えて来る。

 その母が思いがけず口にした男は、以前会社の自室まで乗り込んで来て「いい加減噛みつけ」と言っていた。今ここでそれを、

 ——思い出すかな。

 一緒にその他の甘い記憶も少し思い出してしまうと、不覚にも顔が緩んでしまった。

 本当は、分かっていた。その男に「噛みつけ」と言われた時、合わせてつけ加えられた通りだ。「現状に甘んじている事が我慢ならない」と、まざまざと突きつけられたではないか。その時は、妙な頓智を働かせては、その男の身を思うのと同時に、結局は自分からも逃げていたのだ。自分はいつまで経ってもこの確執を乗り越えられない、と諦めていたではないか。

 それを今この場で、少し踏み込め、

 ——って言うの?

 何かの偶然か、自分の顔はその男のせいで、久し振りに筋肉が緩み穏やかなものになってしまっている。

 ——仕方、ない。

 とりあえず取り繕っても、また無様を呈するだけだ。真琴はしばらく黙した後、そのまま先生に話しかけるかのように口を開いた。

「何か企んでないのなら、知恵を貸して貰わないでもないけど」

「そんな事を言ってる場合じゃないでしょう。高坂の大事な跡取りです」

 真琴の唯一の兄は、千鶴を筆頭に四姉妹を世に生み出したが、後継ぎになり得る男子は現れなかった。つまり真琴の子、真純が兄の次の後継ぎ、となる予定である。美也子の思うところはもっともだった。

 が、それにしては専門家

 って言っても——

「軍人上がりの元警察官ってだけなのに、随分と持ち上げたものね」

 真琴が知り得た先生の情報など、その大家の武智から耳にした大雑把なものだ。それ以上でもなければそれ以下でもなかった。少し注目するならば、両方共に一〇年の経歴を有する、と言う事ぐらいである。それ以上に目立った経歴は聞いていない。先生の為人からして、それなりに出来た職業人だった事は何となく理解出来るが、それ以上の何かを見出せる

 ——ってものでもないし。

 歯痒いが、美也子が口にした「凡夫」と言う表現は、その為人をよく言い表わしていた。

 だからこそ——

「無理矢理担いで、痛い目に合わすつもりかしら?」

 煮湯を飲まされた鬱憤晴らしのネタを探している、としか思えなかった。

 そもそもが、

 無理矢理清算させたくせに——

 先生はまさに、邪魔者扱いされた身である。それを今更頼ろうなど、

「とりあえず、虫が良過ぎると思うんだけど」

 そこまで言うと真琴は、流石にとりあえず歩み寄る姿勢の我慢の限界に達した。長年の確執がもたらす臨界点は、精々二、三言である。これ以上はまた暴走して爆発するだけだ。今はそうなる前に、とりあえず居間を出て行く事にすると、部屋の扉が閉まり切る直前に

「相変わらず詰めが甘い」

 美也子の皮肉めいた溜息が、真琴の耳を突いた。


 翌、丑三つ時。

 やはり眠れない真琴は、自室窓際の椅子に座って、ぼんやり月明かりに照らされていた。今宵は流石に先生の事よりも、真純の事に思いを馳せる。

 現金なものね——。

 いなくなって初めて、その存在の大きさに気づかされる。思い返せば罪作りもいいところだった。お妃候補から逃れるために当て馬と結婚し、その延長でこさえたような子である。

 それにしては——

 良く出来た子だった。

 不意に過去形にしてしまい、動悸を催す。女癖の悪い狡猾な男と、高飛車で世の中全てに喧嘩を売っていたどうしようにもない女の間に生を受けたにしては、幼少期から知能的には全く手がかからなかった。世に言うちょっとしたギフテッドの傾向があり、一を聞けば文字通り一〇を知るような子だった。真琴の仕事の都合で、初等教育を欧州で受ける事になると、瞬く間に進級したもので、将来が楽しみだった

 筈なのに——。

 真純が一〇歳、日本の子供なら小学五年の年、日本のお盆時にバカンスを取得して、母子で日本に一時帰省し兄宅を訪ねると、突然

「一人で日本に残る」

 と言い出した。

 一〇年間一緒に過ごして来て、人格もそれなりに育んで来たつもりだったが、意志が強く頑固と言う母真琴の気質を余す事なく受け継いでいたこのちょっとした小さな天才は、やはり常識的観点に乏しく、驚いた事に兄の長女で当時大学四年だった千鶴に一目惚れしたのだ。

 いくらなんでも——

 一回り違う。

 大概の世の常識に抗って来た真琴も、この時は流石に驚いたものだ。

 真琴に似て早熟だった真純は、身体は概ね同年代レベルだったが、精神レベルは明白に一般的な成人レベルに到達していた。が、例えそうであったとしても、年齢は児童の枠組に入る一〇歳の子供である。その心身の余りの懸隔は、子供に別人格が入り込んだかのような錯覚すら覚えた事があったが、真純はやはり真純だった。

「また連れて来てあげるから」

 と、説得をした真琴だったが、その時真純が言った一言は衝撃的だった。そしてそれは、事ある毎に真琴の脳内を暴れ回る事になる。

「僕は運命の人に出会ってしまったんだ」

 しかして周囲は、いくら聡明だからとて、一〇歳の子供が大人びた事を言ってかぶれたものだ、と笑ったのだが、それを冗談で収めなかったのが真琴と千鶴だった。千鶴がこの時どこまで本気だったのか、真琴は知る由もなかったが、少なくとも周囲の親兄弟を前に、見た目はどう見ても拙い一〇歳の男児に対して

「では、この場で婚約しましょう」

 と言い切ったものだから、真純の言共々、これには周囲も言葉を失った。流石にその場では約定しなかったものの、その後数日のうちに千鶴は、一〇歳の真純と本当に婚約したものだから、やはり何か感ずるところがあったのだろう。無論、周囲の驚愕振りは詳述するまでもない。真琴は真琴で、この明らかにうら若い二人を目の前に、

 ——負けた。

 と思った。

 負けを認める習性に乏しく、跳ねっ返りの形容に事欠かない女傑が、密かに完全敗北を宣言したのである。

 運命的な出会いなんて——

 した事がない真琴が、それをこの年齢不相応に小難しい天才に、理路整然と説明して思い留まらせる事など出来る筈がなかった。いい加減な事を言うような子ではない事は、それまで育てて来た真琴が誰よりも分かっている。結局その夏、説得出来る言葉の持ち合わせに事欠いた真琴は、行きずりの男女の成れの果てに授かったような我が子に早々と出し抜かれ、一人欧州に戻り、また一人になった。

 これは、

 何の——

 業なのか。

 人に向き合う事から逃れ、当たり散らして思う様、突っ張って生きて来た自分に対する何らかの

 罰——

 としたものなのか。

 迷いが生じる時、良き友を持たない真琴は、極たまに呆けたように延々と自問自答を繰り返した。それは何処か哲学めいたものだったが、その考え方など無数で答えなど

 ある訳ない——

 のだ。

 分かっているくせしてそれを認める事が悔しくて、ごまかすために考えて答えを探しては喘いだ。実は、全ての答えは肯定と否定が表裏一体であり、盲目的に一つを導き出そうとするからこそ

 悩み、迷う——。

 と言う事を真琴は分かっていた。

 人生は選択の連続でしかないのだ。そこで迷ってしまったのなら、結局のところ人は、答えを求めるのではなく、迷いに対する助言を誰が口にするのか、誰が声をくれるのか、

 ただ、それを——

 求めている。それだけなのだ。

 これまでの真琴には、当然そうした声をかけて来るものなど皆無だった。正しくは、声をかけられても、それを受け入れる事が出来なかった。それを受け入れる土壌や地盤を全く築く事が出来なかった。のだが。

 去年の梅雨以降、お遊び半分で突き始めた凡夫にいつしか絆された。何でもない男の位置づけだった

 筈だったのに——。

 噛みついたり、当たり散らしたり、そうした迷いや弱さなどの鬱積をぶちまけても、男は何らかの示唆や結果を返したものだった。いつも真琴に言い負かされて、失笑してしまう程腰砕けが板についている

 くせに——

 口下手で、拙い言い回しで、全く箔がない

 くせに——

 誰であろうと、何であろうと、一度飲み込んで受け止めて、生真面目に考えて、自分なりの思いを丁寧に、真摯に、ゆっくりと口にするその姿に、長い年月をかけて凝り固まり捻くれていた頑迷な心が揺さぶられた。自分でもはっきりと認識していない、思いがけない琴線に触れて来るようなその声。それをいつしか求めるようになり、気がついたらその声を受け入れる事を許していた。

 人って結局——

 心を許した者の声が聞きたい。

 ただ——

 それだけだ。

 一つの真理に近づいた事を、密かに誰にともなく真夜中の自室で、一人勝ち誇った。が、合わせて自分の弱さを痛感する。いつからこんなに弱くなったものか。それも分かっている。元々全く強くなどなかった。弱さや甘えから目を背けて逃げ回っていただけだ。向き合う事を恐れて強がっていただけだ。向き合うと、一人では乗り越えられそうにないから、それを避けて突っ走っていただけだ。

 要するに愛に飢えて僻んでいた

 ——だけだ。

 口にはしないが、脳内ではっきりとそれを唱えて認識した真琴は、几帳面に揃えた両足の両太腿の上に置いたタオルハンカチに両手を置いている。両手を揃えて両掌で軽く押し当てると、掌と太腿に鈍い暖かさを感じた。

 会いたいな——。

 真純に思いを寄せていた筈が、気がつくと先生の事を考えている。思わぬ形で自由が約束されてからと言うものは、悲嘆に暮れるような事はなくなった。先生を思うと、気がつくと顔から緊張が緩んでいる。そんな顔など、到底他人に見せられたものではないが、きっと穏やかな顔なのだろう事が自分でも感じとれた。それでも、満たされない状況に変わりはない。また不意に、目尻から両頬へ大粒の涙が一筋伝うと、止まらなくなった。

 ——会いたい。

 それもそうなのだが、不意に先生がフェレールを動かした、と言う母美也子の言が頭をよぎった。

 一体——

 どう言う事なのか。

 いくら優れた意外性を持つとは言え、どう考えても接点が見出せない。

 まさか、ノーアポで突撃した、

 ——とか?

 あの草食系は、腹を括ってしまえば大抵の事はやりそうな、そんな大胆さを隠している詐欺師だ。とは言え、

 いくら何でも——

 権と財を極めた家が持っている手管など、ちょっと考えなくとも分かろうものだ。下手を打つようなら、それこそどうなる事やら分かったものではない。真琴のいる世界とは、そんな世界なのだ。

 ——無茶が、過ぎる。

 あの先生が、フェレールの権謀術数と絡むなど、どう想像を巡らせようにもイメージが被らない。あの山小屋で、蜜柑の皮を煮出したお茶を飲みながら、図書館から借りて来た本を読んではニコニコしている素朴な男が、

 何が出来るって——

 言うのか。

 その時、自室の扉がノックされた。

「お嬢様」

 静かに中に入って来たのは由美子である。真琴は慌てて、手にしていたハンカチで顔を拭った。

 また——

 つい、ハンカチを使ってしまった。

 また——

 洗濯に出さないといけない、などと思っていると、由美子が思わぬ事を口にした。

「おぼっちゃまが、誘拐されたそうです」


「先程犯人から、我が家の代表電話に、身代金を要求する連絡が入った」

 夜中、居間に揃った親子三人は、それぞれ寝巻きの上からガウンを着て、テーブルの前の椅子に掛けた。部屋の端に控えるのは、やはり寝巻き姿の佐川夫妻である。淡々と事情を語る次任によると、第一報は午前三時ちょうど。真純の携帯電話からの入電だった。宗家の使用人が電話をとると、明らかに真純とは異なるくぐもった声の男が、次任と代わるよう要求した。数分後、次任が電話に出ると、

「二四時間以内に一億米ドルを用意しろ。出来なければ真純を殺す」

 と言う、古風でシンプルな要求だったらしい。次任はそこで話を切った。他の面々が続きを待っていると、いつまで立っても次の言葉が出て来ない。

「——で?」

 堪らず真琴が先を促すよう話を仕向けたが、やはり次任は何も答えなかった。以上で終わりらしい。

「で? じゃ、ありますか。あなたの子の事でしょう。親として、法律家として、あなたの見解、方針を述べなさい」

 逆に美也子から横槍を入れられた。が、

「親って言ってもねぇ」

 早々に家を出られ、真純にとってみれば抜け殻のような存在だ。

「真純は、千鶴さんを頼みたいんじゃないかしら?」

 そう思う事は、もっともだった。

 しっかり者の千鶴なら、派手な立居振舞は期待出来ないが、迂闊を踏むような事はまずない。更に真純なら、誘拐現場でも何とかしてしまいそうな気がしたものだ。何かにつけて、とにかく頭が切れる真純なのだ。自分が望まない過度な介入がもたらす犯人の逆上が怖い、

「——ぐらいにしか思っちゃいないでしょ。あの子は」

 と言う真琴の考え方は、保護者にあるまじき楽観視である。が、真琴をしてそう思わせるのが真純と言う青年だった。

「じゃあ何故、こっちにかかって来たのよ」

 それを、美也子が極単純に反駁をする。

「それは犯人が決める事でしょ!」

 それを物の見事に、真琴がバッサリ切り捨てた。これまでの真琴なら、それをほくそ笑んだ事だろう。が、この状況では、流石にそう言う気にはなれなかった。大体が、真琴が知る母とは、他人に揚げ足を取られるような事など殆どない人間だ。夜中に起こされて頭が回らない、などと言う生温い常識外の人間なのだ。つまりは苛立ちの余り、口が先走る程の犯人に対する怒りである。それ程腹を立てている、と言う事の裏打ちであった。

 真琴からすれば因縁でしかない母にせよ父にせよ、家系的観点からすれば、長きに渡り宗家を守って来た人間なのだ。その宗家の次の次の大事な跡取りに牙が向いたとあらば、頭に来るのは当たり前であった。犯人の目的など、口にするまでもない。宗家の財産狙い。それが全ての答えだった。

「兄さんの家じゃ、物足りないでしょやっぱり。それに犯人は、警察に通報されるのを嫌がるもんだし、宗家なら出入りが掴みやすいじゃない」

 東京二三区に隣接するベッドタウンの住宅街の一角に、広大な敷地を構える宗家豪邸である。何処から監視しているのか知った事ではないが、業者などの出入りに事欠かない富豪の事だ。あわよくば業者になりすまして家の中から監視する事すら可能と思われた。

「ふむ。それで?」

 次任が逆に聞き返して来る。

「それでって? こっちが状況を聞きたいんだけど」

「状況はさっきので全部言った」

「あ、そ」

「だから、あなたの見解を述べなさいと言ったでしょう」

 美也子が呆れながら、また横槍を入れた。

「なら、後は警察に任せれば良いんじゃない?」

 が、真琴は後は強がらず、あっさり投げ遣り気味に言って、椅子に踏ん反り返った。法律家といえども、分かる事は法に関する事ぐらいだ。いい加減な目論見は、真純の命に直結する状況でもある。つまらない意地を張っている場合ではない事ぐらいは分かっていた。

「対処法は専門家に任せるべきでしょ。犯人は、別に警察に連絡するなって言わなかったんでしょ?」

 次任の言った事が犯人の言の全てなのならば、そう言う事になる。

「ああ」

 しかして次任は、真琴に添うように屈託なく答えた。それはつまり、警察に通報されても揺るがない立ち位置を構築している

「って事よ」

 それに、行方不明になって既に一週間である。警察には通報するな、と言う事に意味を持たないと考えたのだろう。普通なら、とっくに通報している日数だ。

「身の代金目的略取罪ね。未成年者略取は親告罪だから、保護者や法定代理人じゃないと警察は被害届を受けたがらないでしょ」

 よく言われる誘拐とは、基本的に犯行の経緯で文字通り拐かさなくては成立しない。

「あの子を拐かせるヤツがいるのなら、見てみたいもんだわ」

 真琴の言う通りであった。

 一方、略取とは暴行脅迫他の強制的手段を用いて、被害者の意思に反して従前の生活環境から離脱させ、自己または第三者の支配下に置く事を意味し、

「世間で言われてる誘拐は、大抵の場合略取の事ね」

 である事が殆どである。

 身の代金目的略取罪とは、読んで字の如く身の代金を要求する手口、未成年者略取とは、やはりそのまま字面のとおり未成年者を略取する手口であり、それぞれ法定刑が異なる。

「大抵警察は、取っ掛かりやすい犯罪か、刑罰の重たい犯罪で事件を立ち上げるから、まずは未成年者略取か——」

 法定刑とは、法で定められた刑罰の事であり、身の代金目的の場合、無期又は三年以上の懲役。未成年者略取の場合、三月以上七年以下の懲役である。

 それよりもこの場合、その前に

「監禁してるんだろうから、監禁罪で立ち上がるかも知れないわね」

 略取した者が、監禁の後身の代金を要求すれば両罪の関係は併合罪となり、最大で重い罪刑の長期に一.五倍が加重された刑となる。が、身の代金目的の場合最大加刑が無期懲役であり、この罪を持ってその通り処せられた場合、併合罪による加刑はない。

 また如何に併合罪と言えども、懲役刑は三〇年が最大である。因みに監禁罪の法定刑は、未成年者略取罪と同じだ。

「多分、真純を略取するぐらいだから、複数犯だろうし」

 それが、反社会的団体によって組織的に敢行された犯罪ならば、組織犯罪処罰法が適用され法定刑がさらに苛烈になる。

「いずれにしても、私は捕まえた後の事は分かっても、捕まえるまでの手法は分からないわ。親告罪で立ち上がるかもしれないから、警察には私が被害申告するわ」

 因みに親告罪は、裁判を起こす時、つまり起訴する際の必須要件なのであって、警察の事前捜査を阻害するものでは全くない。が、警察にしてみれば、捜査経済上はっきり起訴に持ち込めるかどうか分からないような捜査など煩わしい以外の何物でもなく、立ち上がりからその要件をがちがちに固めながら捜査を展開するのが常である。

「無罪になれば、その責任を負わされて賠償させられるし、初動から固められるものは固めたいだろうから」

 つまりは、いい加減な事をやっていると、国家賠償法に基づく賠償責任を問われ兼ねないのだ。国賠訴訟で賠償が確定すれば、その費用もまた税金が充当される。更に言えば、警察はその分予算を減らされる。下手を打ったのだから、当然と言えば当然である。

「しかし宗家も甘く見られたもんね。こっちに電話して来た事を後悔させてやるわ」

 実家やその系譜は煩わしいし正直言って面倒臭い事ばかりだが、だからと言って甘く見られる事を看過出来る訳もない。それは自分のアイデンティティに対する明白な敵意なのだ。やはり、我慢ならなかった。

「しかしそれでは、真純が——」

 急に声色を抑えた次任が、慌てたように口を挟むと

「上手いことやるでしょ、あの子なら。犯人に宗家に電話をかけられた段階で、内心頭抱えたもんじゃない?」

 宗家の面々は、次任の他は今は美也子と真琴である。犬猿の仲ながら、一方で良く似た女傑であり、やろうと思えば相当に派手な立居振舞が可能である事は言うに及ばない。

「——ま、そうかもしれんな」

 次任はこの際、残された良心と言う事が出来た。政財界において、高坂一族と言えば「女流の高坂」で名を馳せる、代々女の強い家系である。

「千鶴さんを呼んどいてよ。私は警察に通報するわ」

 津々浦々、一応未だ弁護士登録をしている真琴により、如何にも法律家らしい細かい説明と所感が語られると、次任は素直に納得の表情をしたものだった。

「と、言う事らしいが?」

 後は美也子だが、次任が気遣わしげに美也子を見ると、

「初手としては、とりあえずそんなところでしょう。あとは専門家と相談して決めましょう」

 とりあえず美也子も真琴の見解に添う姿勢を見せる。

「やるからには疎漏は許しません。高坂の名にかけて、必ず真純を取り戻しなさい」

 そうして、然も隠然たる体面を繕うように静かに言った。

「だからやるのは警察なんだって」

 私じゃないわ、何よ偉そうに、と真琴はとりあえず矢継ぎ早に噛みつくと、ガウンのポケットからスマートフォンを取り出し、警察へ通報を始めた。


 朝六時。

 犯人の第一報から三時間が経った。

 夜中の真琴の通報で、宗家の客間はたちまち警察の現地本部となった。一〇人前後の捜査員が、用意された流しテーブルで雁首揃えて第二報を待ち構える中、せせこましく所携のスマートフォンで連絡をとったり、何かの資料に目を通したり、対応対策を話し込んだりしては、

 何か——

 騒々しい。

 銘々は皆揃いも揃って、作業着や商売人風の服装であり、一応犯人側や周囲の耳目に気を配った風ではある。

 とにかく、

 ——落ち着かない人達ね。

 であった。

 騒々しさは、実は人数の割に少し手狭な部屋のせいでもある。これは一応外部からの目を気にして、どの方向からも外から見えない屋敷の内部にあるやや手狭な客間を使用したためだ。それにより、一応外部からの目は気を遣う必要はなかったのだが、それにしては立居振舞に気を遣わない

 と言うか——

 一言で言うと、がさつな振舞が目についた。そうした事にうるさい家柄の事である。

 先生とは——

 偉い違いだ。

 武智の話では、先生も昨春まで警視庁で勤めていたらしかった。が、真琴がその目で見て接して来た先生は、軍人上がりながらも、今目の前で賑やかな警察官達と同職だった事を全く思わせない静かな振舞で落ち着いていたものだ。

 それが——

 仮にも人様の家で、

 こうも——

 疎鬆とは。

 次任と真琴はとりあえず、我慢して辛抱強く座っているが、美也子は見るに見かねたらしく、早々に居間に引き上げていた。後追いで駆けつけた千鶴は、美也子につき添わせている。

 まあ、そうは言っても——

 ここにいる捜査員達は、特殊犯対応のスペシャリスト、の筈であった。人質を伴う凶悪犯を担当するのは、日本警察では国内においてはその名が知れた刑事部捜査第一課の分掌である。警視庁で特殊犯担当と言えば、通称SIT(Special Investigation Team)と呼ばれる特殊部隊員達、の筈なのだが、それにしては何故こうも無駄に

 ——右往左往してんのよ。

 真琴は密かに口を歪めたものだ。

 これは意外に、

 頼りにならないんじゃ——

 と思えて来る。殆どの人間は、一見して仕事をしている振りをしているようにしか見えなかった。何か情報がもたらされると、手持ち無沙汰だった面々がこぞってそれに取りつき、文殊の知恵を出し合っている。一人で突っ走らない姿勢は慎重と見る事も出来たが、それにしては日和見の感が強いように思えてならない。

 次任は、現地本部の責任者の隣で電話機を前に座っていた。腕を組んで目を瞑っては、流石に苦虫を潰しているようだ。いつかかって来るか分からない犯人からの電話を待たされる身であるため、迂闊に離れる訳にも行かず、やむを得ない、と言った調子である。

 真琴はそんな諸々の様子を、壁際に座って伺っていた。一応、被害者の母親であるため、次任共々一応推移を見守るとしたものだ。ものなのだが、

 それにしても——

 やたら好奇で不躾な視線に晒されており、とにかく苛立ちが募った。もっとも外では、その美貌美声故、耳目を集めては我慢を強いられて来た身であり、今更どうこう言う事もなく慣れてはいる。が、それがプライベートな空間である筈の自宅とあっては話が別だ。内も外も大差ない真琴の振舞だが、外では散々我慢させられる身なのだ。真琴の自宅なら、よそ者の方が分別を持って然るべき

 ——としたもんじゃないの?

 が、現状、真琴の方が我慢を強いられている。そのため早々に、感冒対策を語ってマスクをつけていた真琴は、顔の大部分が見えないを良い事に不機嫌面を躊躇していない。目だけは隠れていないのだが、取り繕う気になれず冷ややかなものだった。その目が、淡々と状況を眺めている。こうなってしまっては、見える物の何もかもが芳しからずだ。

 自分の立場に甘えるつもりはない。つもりはないのたが、もう少し配慮と言うものがあっても良いと思うのは求め過ぎなのか。仮にも被害者の母親なのだ。しかも、対応しているのは、表向きには清廉性の高い職種の人間の筈なのだ。只でも、母親のアイデンティティに打ちひしがれている真琴である。目の前の捜査員達は、その込み入った事情まで把握してはいないだろうが、少しでもその心情を察する向きがあるのなら、少なくとも「不躾な目」はないのではないか。

 そんな疎鬆の一部始終は、仕事振りまですっかり信用出来なくなったもので、

 先が、思いやられるわ。

 真琴はマスクの下で、何度目かの盛大な溜息を吐いた。そのせいで、こんな時ですら何度となく、自分が良く知る元警察官なら、

 ——こんな事はない。

 きっと自分に歩み寄った対応をしてくれる、などと、想いを馳せてしまう。が、その元警察官の現職時を詳しく知らない真琴は、今は目の前のがさつな特殊部隊員達にすがる他なかった。

 そこで、

 まさか——

 一つの懸念が頭をよぎる。

 こうした事件は最終的に、突入を伴うものだ。それを、

 ——この人達がやる訳?

 思わずマスクの下で盛大に顔を顰めた。

 突入を伴う場合、日本警察が誇るもう一方の雄として名高いSAT(Special Assault Team)を投入する事もあるが、SATは警備部所属であり刑事部の捜査員ではない。基本的には機動隊員で構成されており、あくまでもテロ対策ユニットだ。よって、SITと連携する事は基本的にはない。のであるが、例外はあるもので、SITだけでは手に余る時には、やはり連携をする事もある。とは、

 ネットで調べたもんだけど——

 SITがこれではSATもどんなものか、

 ——分かったもんじゃないわ。

 真琴はまた、騒々しさとマスクに託けて盛大にためらう事なく嘆息した。この騒々しい人々が随時更新して来る情報は、そうは言っても中々迅速で確かなものではあったものだが。それにしても、

 ——賑やかねぇ。

 真琴の中では一言、それに尽きたものだった。

 この騒々しい現地本部の設置は、通報から一時間もかからず、夜陰に紛れて忍者のような周到さで訪ねて来た捜査員達によって開設された。中々熟れたものだ、と思ったのはそこまでだ。後は、現状の有様である。

 とりあえずその瑣末さは置いておくとして、本部設置に当たり開示された情報は、

「各地の防犯カメラを解析中です」

 と言う事だった。

 捜索願を受理後、それなりに追跡調査していたようだが、状況の急展開で本腰を入れて追跡を始めたその担当は、やはり近年俄かに話題が上がる事が多くなった、同じ刑事部内のSSBC(Sousa Sien Bunseki Center/捜査支援分析センター)である。横文字好きの日本人の特性のような物がもろに出た、その取ってつけたようなローマ字の頭文字を並べた略称の部署の面々は、そうは言っても防犯カメラや携帯電話情報など、あらゆる媒体の情報分析のスペシャリスト集団であり、本腰を入れたその働き振りは中々迅速だった。

 その働きで夜明け前には、司法修習先の都内裁判所と兄宅の間の帰宅経路上の某駅で、真純が三人組の男達に連れられて車に乗り込む状況が発見された。ものだったのだが、最初から本腰を入れていれば、

 国内で取り押さえて、こんなややこしい事になってないのに!

 と言う真琴の心のぼやきは、その後間もなく、やはり夜明け前にもたらされた続報による反感である。

「犯人達は、ハワイ行きのクルーズ船に乗って逃亡したようです」

 先週末の金曜日の夜、犯人グループを乗せて横浜港を出港した高坂グループ船会社所有の二〇万トン級大型クルーズ船「クイーンパシフィック」号は、警察の不明をついて太平洋を東進し、いまやハワイ目前と言う事だった。

 説明を受けた真琴が、

「クイーンパシフィックって、確か船籍は——」

 船籍を匂わす口振りに、捜査員の口から出て来た国名は、良く聞く中米の便宜置籍国である。

「それって——」

 真琴は絶句した。

 船籍とは文字通り船の国籍であり、船上で適用される法律は、基本的に船籍を置く国のものとなる。更に便宜置籍国とは、やはりその文字通り実質的な船主の国籍とは異なる「便宜上船籍を置いた国」を意味し、こうした船は「便宜置籍船」と呼ばれるのであるが、これの何が問題なのか。その一番の理由は、理由は何であれ、その船で適用される法律は実質的な船主の国籍ではなく、船籍を置く国の法律と言う事だ。国際船舶は基本的に国際法上において、国家の領土主権の効果が自国船舶・自国航空機内にも及ぶ、と言う所謂「旗国主義」の原則が採用されている。よって便宜的に船籍を置いた国であろうとなかろうと、とにかく船上の法律は、公海上では基本的に船籍を置く国の法律が適用されるのである。

 つまり、

「治外法権、です」

「そんな——」

 真琴の呟きに、現地本部の責任者は流石にばつが悪そうに目を逸らした。

 基本的に国家における犯罪捜査権とは、その国の主権が及ぶ範囲内に限られる。これは日本においても例外ではなく、分かりやすい例外を上げると、日本にある各国の大使館は不可侵権が存在しており、事実上日本の主権が及ばないため、当然日本警察の捜査権も及ばない。逆を返せば、日本が世界各国に構える日本大使館や領事館は、不可侵権のために事実上日本の主権が及ぶため、日本警察の捜査権が及ぶと解されるのである。

 一方で、誤解されがちなのは在日米軍基地だ。「米軍基地内は米国だ」とよく言われるが、事実上そうなのであって、実際には治外法権は及ばす歴とした日本である。これは「米軍基地と基地内に駐留している米国人には、基本的に日本の法律は適用されない」とする所謂「日米地位協定」の解釈の拡大がもたらしたものだろう。確かにその字面通り、基地内は米国軍法に基づき運営されており、一見治外法権のように見えるものだ。が、実はそうではなく、日本の業者が米軍基地内で行う工事の許可・届出は日本の法律に基づく必要があるし、基地内の事件事故に関しても一定の制約化ではあるが、日本警察の介入は可能とされている。が、実務的には殆ど有り得ないため、「事実上治外法権」と言い切っても間違いではない状態となっている訳だ。

 現代の高度な法の概念に基づくと、小難しい根拠の羅列とその解釈が必要になってしまうが、実は日本には古来、それを一言で分かりやすく表してしまう諺があったりする。

「『郷に入っては郷に従え』って事、ですか」

 と、真琴が呻いたそれだ。

 元を辿れば中国由来のその諺通り、まさに公海上を航行している某中米船籍の船上では

「日本の捜査手続権は及びません」

 と言う事になる訳だった。当然、事情に関わらず、である。

 いくら優れた部隊を有しようとも、それを行使する権利を有しないのだ。無理に行使しようものなら、主権国家の主権を害する行為である事は明白であり、無許可で勝手に押し入れば入国の段階で事実上の密入国、と言う事になる。そもそもが、一主権国家が自国の治安を維持するために他国の捜査機関に犯罪の捜査、鎮圧の権を委ねるなど、その国家の威信を甚だしく傷つけ兼ねず中々有り得る事ではない。

 一方で、刑法や重大犯罪には「国外犯規定」を有するものがある。が、それは他国における邦人の犯罪や、邦人被害にかかる犯罪を捜査し、日本の刑事実体法に基づいて処罰すると言うものであり、あくまでも日本の司直に付すると言う意味合いでの事だ。他国には他国の刑事手続が存在する以上、日本の逮捕状を持って他国に乗り込み、他国で犯人を逮捕するなど現実として有り得ず、こう言う時は、

「現在、国際手配の準備に入っています」

 仏国リヨンに本部を置く「国際刑事警察機構(ICPO/通称インターポール)」に、警察庁経由で国際指名手配する。その根拠は、日本の捜査機関が、日本の裁判所へ逮捕状請求する事で得た日本の逮捕状となる訳である。

「つまりは——」

 日本警察の出番は、国際手配した段階で実質的な捜査は終了、と言う事を宣言したに等しい。後の事は、船の行き先国に依頼する

「他に手立てがありません」

 と言う事になる。公海上で何か事が起これば、船籍国が対処する。それが国際常識と言うものだ。

「高坂さんはごまかせないと思いますので、この際私の主観ではありますが私見を申しますと——」

 滝川、と名乗った五〇前後の如何にもゴツく精悍そうな渋味を漂わす責任者は、流石に真琴の素性を知っていたようだ。その語られた私見によると、船籍国である某中米国は、日本のような先進的な自由民主主義国家のそれである民主的な警察ではなく、

「殆ど戦時中の憲兵に近い組織です」

 つまり、何か事が起こると相当に手荒い、と言う事だった。それは真琴の見解とも一致する。

 一方で、行き先地のハワイにそのまま向かい米国領海に入れば、米国連邦法及びハワイ州法の適用下となる。つまり、

「FBIか、ホノルル市警のSWATですか?」

「後、沿岸警備隊ですね」

 こちらは手荒いと言うより、躊躇しない、容赦しない、更に言えば犯人諸共被害者まで負傷する、と言う懸念があった。沿岸警備隊は日本で言うところの海上保安庁であり、海上警察権を執行する機関であるが、日本のそれと決定的に違うのは、

「軍隊、ですよね」

「はい」

 と言う事である。

 領海内における外国船舶の基本的な立ち位置として、外国船は沿岸国の領海内においても、その平和、秩序、安全を害さないことを条件として、無害通航権を持っている。これは沿岸国に何ら干渉を受ける事なく航行する事が出来る権利であり、基本的に他国領海内においても、通常航行している船舶は旗国主義に基づき、船籍国の国内法が適用される。

 一方で領海の沿岸国は、領海にも当然に及ぶ主権に基づき、領海使用の条件を定めたり航行を規制する事が出来るのであるが、これは他国船舶の無害通航を妨害する結果とならないように一定の国際義務が課される、とされている。

 結果として現状では、他国領海内を航行中の外国船であっても、基本的にその領海を治める沿岸国は外国船の旗国主義を尊重し、その旗国の主権を害する事はしない慣習となっているのが国際的な常識だ。のであるが、これはあくまでも、通常航行中の外国船舶に適用される慣習、原則である。有事が発生している船舶には当然、

「この原則の便益は適用されない」

 と、真琴が述べた見解が一般則だった。

 その上この国際慣習は、国連海洋法条約に基づくものなのであるが、米国は

「批准してないし——」

 未だ非締結と来ている。

「慣習上、条約に従ってはいるようですが——」

 つまり、米国領海に入れば間違いなく沿岸警備隊が動き出す、

「と言う構図です」

 滝川は終始、渋い顔を貫いた。

 米国の治安機関を信用しない訳ではないが、水面下では未だ根強い人種差別が存在している国家の事である。船の所有が日本なら、乗客も大半は日本人と言う状況下では、正直な感触として、

 何をされたものか——

 分かったものではなかった。

 便宜置籍主義の弊害が、

 ——もろに出ちゃったわね。

 と言う格好である。真琴は、呆れ気味に鼻で盛大な溜息を吐いた。

 船に限って便宜置籍船のような考え方が横行するその理由は、便宜置籍国になるような国は、船に関する規制や手続きが緩く安易にして安価である、と言う事が言える。船の登録を始めとする手間は少なく手数料も安価であり、船員の国籍条件や労働条件に関しても規制が緩いため安易に安価な労働力を求める事が出来る。つまり船主の都合に良いと言える一方で、船主の国の厳格な法律から逃れるための脱法行為とも捉える事が出来、事実、違法行為の温床となるケースも散見される。

 思わぬ因縁ね——。

 国連勤めの経験を有する真琴である。便宜置籍船問題は、軍縮研究所時代、兵器密輸絡みで調査した事があった。いずれにしても国際的議論は中々成熟せず、解決には時間を要する見込みとしたもので、事実上の放置である。そんな因縁が実家グループ会社の船舶に絡んで来るなど、中々皮肉も利いたものだ。

 手間暇金を惜しんだ結果が

 ——この様ね。

 世の国際化の波に乗じての事だ、と言えば聞こえは良いが、結局はフェアトレード的観点で言うところの労働力の搾取に他ならない。グループ内の旧態にも呆れたものだったが、今は何を言ったところで船籍は、グループ内船会社が抱える中米国の現地法人によって同国が便宜置籍国になってしまっている。その間隙を突いたかのような、犯人側の皮肉めいたものを思わせる構図に、真琴は思わず天を仰いだ。

「一応、被害届出人の意向を確認するよう、本部から申しつけられておりますのでお伺いしますが——」

 滝川も、所詮は巨大組織の駒の一つでしかない。真琴はその言を上から被せ、

「身の代金は用意しようと思えば用意出来ます。出来れば日本の捜査機関による行き届いた活動で、迅速な解決を望みます」

 即答した。

「——分かりました。ただ身の代金は」

「戻って来ないのは承知の上です」

 旧来型の現金によるやり取りではない事は、時世的にも金額的にも有り得ない。おそらくは、既に架空名義の口座をいくつも用意しており、振込と同時に送金の連続で資金洗浄するのは目に見えていた。一億米ドルと言えば一〇〇億円超だ。始めから警察が算段出来るとは思っていない。

「——そうならないよう、鋭意努力します」

 滝川は真摯に答えると、また席に戻った。次任と真琴は離れて座っているのに、一箇所に呼び集める事なく一々個々に足を向け、丁寧な説明を行うその姿勢は、

 現地の責任者はそれなり、か。

 と思わせたものだったが、それでもやはり拭えないのは警察の後手後手感だった。それを先生に言ったら、

 ——何て答えるかしら?

 またつい、その男を思い出してしまう。真琴はマスクの下で苦笑しながらも小さく溜息を吐くと、席を立って次任に近づき、

「一〇分で戻るから」

 風に当たって来る、と一言添えて客間を出た。

 

 同日午前九時を回ったところで、また一つ進展がもたらされた。

「犯人グループが割れました」

 また、責任者滝川による説明である。今回は、真琴が被害関係者を一箇所に集める事を提案し、居間に集合するよう立ち回った。何回も話をさせるのは時間もかかり気の毒な上、被害関係者の意思が統一出来ない。真琴の一人息子とは言え、高坂の跡取りでもあり千鶴の婚約者でもある。被害届出人の立場を得ている然しもの真琴も、独断専行するつもりにはなれなかった。

 で、滝川による状況説明は、美也子と千鶴が控える静かな居間で行うよう真琴が仕向けた結果、滝川以下、美也子から千鶴までの計五人が、居間のテーブルを囲んで話を聞いている。

「主犯は、谷岡敏一」

 四〇歳と伝えられたその男は、高千穂隆介現外務大臣の元公設第一秘書、だったらしかった。

「何ですって?」

 声を上げたのは真琴だけだったが、顔を顰めたのは千鶴以外の高坂当主夫妻である。

「ご存じ——でしたな」

 滝川はそれを持って、高千穂が真琴の元夫である事を思い出したようだ。

「動機については捜査中ですが、何か心当たりがありませんか?」

 滝川に尋ねられた面々は、揃って沈黙を示した。

「その元公設秘書は、いつ頃まで勤めていたのでしょうか?」

 真琴が疑問を払おうと滝川に尋ねると、

「先週頭に突然首になったようです」

 大体真琴の予想通りの回答を、滝川はあっさりと言ったものだった。それは過去に埋もれた元秘書ではなく、ついこの間まで現役秘書だった、と言う事であり、

 ——あの男か。

 真琴は先生とサカマテの専務室で盗聴した経緯を思い出す。

 更に言えば、

 先週頭って——

 フェレールと高坂の裏取引が成立して、高千穂が進めていた「国産次世代戦闘機開発主体委譲計画」が白紙になった直後の事である。つまりは、高千穂による

 ——トカゲの尻尾切りか。

 である事を如実に物語っていた。

 先生が入手した盗聴データでも少し耳にした事があるその男のやり口は、

 まあ中々——

 酷かったのだ。

 インサイダー、贈収賄は言うに及ばす、その陰湿で大胆な手口は、叩けばいくらでも埃が出て来そうな、そんな声色に思えたものだ。そんな男がこの事件を企てたのなら、

 逆恨みね。

 高千穂に捨てられた上、あらゆる罪を被らされるのでは堪ったものではないだろう。多少はやけになって、古い言い方をすれば高飛びのつもりなのだろう事は、何となく想像に無理がないと思ったものだった。

 真琴がここまで思いついたならば、美也子もまた勘づいた事だろうが、そこはお互い沈黙を貫く。今は余計な腹は探られたくない、としたものである事は、いがみ合っている母娘といえどもやはり共通認識であった。只でさえ治外法権で揉めに揉めているのだ。そこへ妙なネタをぶち込めば、犯人の身に突進する要員が分散されかねない。

 何でも良いから

 早く勝負つけなさいよ!

 真琴は心底で罵りながらも、後二人の名前を聞いたが、これらは全く聞き覚えがなかった。主犯谷岡の交友者らしき、首都圏を根城にする通称「半グレ」と呼ばれる準暴力団認定組織所属の二人組らしい。

 現在ICPO経由で米国と船籍国に捜査協力を依頼中、と言う事で説明は終わり、滝川は退出した。

「真純もとんだとばっちりを受けたようね」

 真琴が誰に言うでもなく、その場に居座った面々に言い放つ。今の真純の状況は、本来真琴が負わされていたものだ。高千穂の悪巧みが瓦解した思わぬ余波で、途端に被害者に成り果ててしまった真純は、まさにとばっちりと言えた。真琴の言はつまり、その因果因縁を説明するまでもなく、手に取るように分かる美也子に対する痛烈な皮肉である。

 その美也子は、

「あなたの殿御に連絡をつけなさい」

 また何の脈絡もなく答えた。

「はあ? 何で?」

 それに真琴はつい、反射で盛大に噛みついてしまった。非常時の事でもあり、あれでも少しは歩み寄れるものかと思う向きが極々僅かでもあったものだったが、もう止めた。

「真純のとばっちりに飽き足らず、まだ私にも何か喰らわそうって訳!?」

 つまりはそう言う事だ。真純のとばっちりは本来真琴の災難だ。それを逃れた事を面白く思っていない向きが、何かにこじつけて弱い立場の先生を担ぎ出す事で気を鎮めようとしている。それが美也子の底意なのだ。

 何処まで——

 腐っているのか。最早我慢ならなかった。

「この期に及んで、そんな事を考える訳がないでしょう」

 が、気色ばむ真琴を前に、美也子は相変わらず顔色を変えず答える。

「よく言えたもんね。そうやって敵対する人間を追い落として来たんじゃない!」

 いくら元軍人にして元警察官といえども、特段目立った経歴を聞いていない先生の事である。現地本部にいる警察の特殊部隊の面々の、がさつで無骨な形が技量や力量に比例すると言うのなら、先生は在職中、まるでそうした荒事に関わりのない人間だったのではないか。単なる事務方だったのではないか、とさえ思えて来る。

 そんな男を——

 腹いせに担ぎ出そうとするその性根の悪さはどうしたものか。その面の皮の厚さこそが、美也子の真骨頂と言えばそうしたものだったのだが。その顔が、何処かしら自分に似ている事が、真琴は悔しくて仕方がない。

「あなたは何も分かってないのね」

「一応人間と話してるつもりだったけど、どうやら私の勘違いだったようね」

 話にならないわ、と捨て置いた真琴は、乱暴に立ち上がると椅子を払い除けて居間を出た。


 どう言うつもりなのかしら?

 客間の現地本部に戻った真琴は、相変わらず壁際で目を瞑って思案を巡らせていた。

 真純のヤツ——

 真琴は捜査員から、真純が犯人グループに連行される様子を写した防犯カメラの映像を、いわゆる「面通し」と言う被害確認作業の一環で見せられた。その様子が余りにもあっさりしたもので、全くの無抵抗だったのだ。

 ——何があったのかしら。

 数百年の系譜を誇る富豪高坂家において、今回のような身の代金目的めいた事件など一度や二度ではない。もっとも近代に入ってからは少なくなり、現代に至っては流石にその記憶は忘れがちになったものだったが、その実封建時代には頻繁に発生していた。

 その過去の辛酸を放置する事なく、それを教訓として高坂の系譜を継ぐ者達は現代に至っても尚、必ずそれを教養として修めており、身を守る術の習得を義務づけられている。武門の高坂は、古の思想を体系化したような学問を学ぶだけで継がれる程甘くはなかった。女流として名を馳せ、過去には商家に転身した家ながらも武門としても生き残った高坂家は、中々武勇に傑出した人物も輩出していたりする。そもそも侍とは「領地領民を、その誇りにかけて守るために存在するものである」と言うその存在意義を、その苔むした学問の教えにより叩き込まれ続けていた累々の高坂の先祖は、侍が侍たる本分を忘れなかったのだった。

 それ故の武術修練において、現在の高坂宗家及びその一族近辺では、真琴の武勇は突出していた。それは、武門の高坂に恥じない文句なしの使い手だったもので、その技はその子真純にも血となって継がれていた。

 筈なのに——。

 合気道の深い領域を修練して来た真琴は、稽古において木刀も杖も振り込んで来ている。それも土着の豪剣「天然理心流」に倣い、図太いそれらを振り込む事で基礎を徹底的に鍛えて来たのだ。それにより、幼少期真琴にべったりだった真純も同様に鍛えたものだった。真純はその後、剣道に入れ込んで行ったのだが、線の細い割に野太い太刀筋で稽古相手が伸びてしまった事が一度や二度ではない。

 あんな連中——

 それこそ真純の手にかかれば、こんな事にはなっていない筈であった。が、現状は、頼みの警察も悩ましい展開である。

 それを今更、どの部分を切り取って

 先生を頼れって、

 母は何を言い出したものか。

 フェレールとの一件を根を持っているとしか思えず、含みのあるその言は明らかに

 何か企んでる——

 としか言いようがないではないか。

 何かするようなら、フェレールとの約定を反故に出来る。その鍵を握っているのは真琴なのであるが、気になるのは母美也子の執念深さである。今はまだ約定がなったばかりで、短期的な自己の矜持を保つためだけに、重工を始めとするグループ企業に相当有益な作用をもたらすフェレールとの約定を無碍にするとは思えないし、流石に具体的に何かを講じるような愚は犯さないだろう。が、長期的に見れば、どう出て来るものやら分かったものではない。この段階にして、先生に拘る向きと言うのは、必ず後のための何かしらの一石を

 放り込むつもり——

 と見るべきである。

 長期的に動きたいのだろうが、如何せん美也子は、元気とは言えそれなりの年齢だ。そこまで悠長な仕掛けは、

 考えてない筈ね。

 との推測は、真琴にとっては当然の思考だった。長年やり合って来た間柄なのだ。そのスタンスは痛い程分かっていた、つもりだった。

 こんなんじゃ——

 いつまで経っても、宗家で睨みを利かせないといけないではないか。

 これでは、いつまで経っても、

 ——会いに行けない。

 真純の事件の最中だと言うのに、不覚にも涙腺が緩み、危うく一瞬でまた堰を切りそうになった。気がつくと焦がれてしまう。別れてもうすぐ二か月になると言うのに、思いは全く色褪せない。それどころか、

 膨らむ一方だ——。

 真琴は堪らず片手で目頭を覆った。

 右往左往する捜査員連中に、べそをかいていると思われるかも知れないと思ったが、まさか先生の事とは思わないだろう。

 ——酷い母親だ。

 これでは、それなりに手塩をかけて育てて来た息子に出て行かれても

 仕方がない——

 と思う。

 真琴は、現地本部に座っていても、この期に及んではもう出来る事がない。現地本部の責任者である滝川のすぐ傍で、相変わらず腕を組んで瞑想している次任にしても、何一つ口一つ開かない。犯人からの第二報はかかって来る様子がなく、クルーズ船は予定通りに航行しているようだった。ここでシージャックにでも出るようなら罪状がまた一気に跳ね上がり、世界的にメディア展開されては派手な事に成り兼ねないのであるが、今のところそうした動きはないらしい。船主たる会社は実家グループ企業であるため、早い段階で捜査上の事情を明かし捜査協力させてはいるが、クルーズ船に対しては船長以下限られたクルーにしか事情は伝えられていない。大っぴらにして下手な刺激を与えないためだった。

 何にしても、ジリ貧の展開だ。これでは最終的に洋上決戦になる事は目に見えている。犯人としては、熟練度が高く容赦ない捜査機関を有する米国の司法権限が及ぶ範囲内での勝負は望んではいないだろう。例え正規のパスポートで出国しているとしても、真純を拉致しているのだ。警察が何らかの逮捕状を取得した時点で犯人達の身分は旅券法上の「旅券返納命令」該当事由を満たす事になる。「その滞在が当該渡航先における日本国民の一般的な信用又は利益を著しく害しているため、その渡航を中止させて帰国させる必要があると認められる場合」と言うのがその理由だ。外務大臣が発するその命令は、事実上所持している正規のパスポートを無効とするものであれば、それをもって世界中何処の国へ逃げようが即刻不法入国者となり、その事実が関係国に手配されれば即時の身柄拘束、強制送還の対象となる。つまりはそれだけで捕まる理由が出来た、と言う事だ。それが偽造パスポートならば、詳述するまでもない。既に身代金を要求して来ている事でもあり、外務大臣の元公設秘書の事である。パスポートに絡む動きは当然折り込み済みと考えるべきだろう。確実に包囲網が狭まっている事を理解しているならば、米国領海に入る前に必ずシージャックを宣言し、船の行き先を変更する事は目に見えていた。そうなれば、無駄に多い乗客を救命ボートで下船させ、クルーも必要最小限残して下船させる。身軽になった船には食糧も燃料も余裕があり、犯人グループが望む所へ逃亡する事が出来る。公海上であれば、捜査権を有するのは船籍国だ。シージャックが長期戦を呈してくると、必ず何処かで突入作戦が敢行されるだろう。そうなると、戦時中の憲兵のような大雑把な警察機関のそれに、デリケートな作戦が展開出来るとは、

 ——到底思えない。

 見通しは暗かった。

 更に言えば、突入作戦であれば軍が投入される公算もある。と言う事は、反政府組織やゲリラ戦が日常と隣り合わせのような荒っぽい国の軍のやる事だ。犯人諸共、

 殺されかねない——。

 真琴は片手で髪を掻きむしった。

 ——長期戦はダメだ。

 何とか短期決戦で終わらせないとろくな展望が見出せない。でも、

 ダメだ——。

 何も思い浮かばなかった。


 同日、午後三時。

 気がつくと、もう昼を過ぎていた。

 壁際にへばりついていた真琴が、次任と共に居間に呼ばれ、何回目かの状況説明が現地本部の滝川の口から語られ始めた。

「現在クルーズ船は、ハワイホノルル港まで約一二時間の位置を予定通り航行しておりまして——」

 日本時間翌午前三時頃、到着予定らしい。現時点の警察の方針が決定し、結論日本警察は静観、と決まった。高坂家の要望に添うよう短期決戦、警察の特殊部隊によるクルーズ船突入作戦も検討されたようだったが、最後はやはりどうしても、公権力を主権が及ばない他国で行使する事に希望が見出せず断念したらしい。それはそうだ。明白な内政干渉となり、国家間の信用信頼関係に遺恨を残すような国際問題に発展し兼ねない。

 そうした主権や法律、政治的背景も然ることながら、日本警察の特殊部隊では精々

「ヘリからのリペリングによる突入技術しかありません」

 洋上の船に、犯人に気づかれないように侵入する術がないのだった。別の船で接近しても、ヘリから降下しても、動きが派手過ぎて秘匿潜入とは到底言い難い。犯人にバレてしまえば、やはり泥沼化は目に見えている。

 更に言ってしまえば、公海上にしろ米国領海上にしろ、短期決戦で日本警察が作戦をするための

「手段が、我々にはありません」

 日本警察が保有する航空機など、精々ヘリだけである。とても太平洋を横断出来る代物ではなかった。民間機で向かうにしてもチャーターしなくてはならないし、自衛隊の航空機を利用する手もあるが、その折衝をこれから始めるとなると、一体事が動き出すのにどのくらいかかるか未知数だ。どちらにしても、警察の特殊部隊員が機上から降下出来ないのでは意味がない。

 犯人からの第一報から半日。手をこまぬいて右往左往していながら、結局、

 ——出来ないと来たか。

 真琴はあからさまに、マスクの中から溜息を吐いた。

 犯人グループを突き止めたまでは良かった。が、日本警察ではそこまでが限界だったようである。そこから先は明らかに精彩を欠いていた。

「捜査員を、米国と船籍国へ派遣中です」

 両国とも日本警察からの捜査協力要請には応じたそうだが、米国は流石に即座に臨戦体制に入った一方で、船籍国は

「シージャックが宣言されない限り、静観するそうです」

 お世辞にも乗り気ではないらしかった。ようするに突入する技量も乏しければ、金もかかる。太平洋のど真ん中へ突入要員を派遣するにも金がかかり、リスクも負うのであるから言いたい事は理解出来る。要するに船籍国にしてみれば、たまたま船が自分の国の国籍を名乗っているだけで、状況との関係性は希薄だ、と言いたいらしかった。犯人も被害者も日本人なら、乗船客も時間と金を使ってのんびり船旅が楽しめるような、貧しい自国とは関わりが薄い富裕層の他国民である。

「いくら出せるのか、と言って来まして」

 挙げ句の果てには、金を要求されたらしい。途上国の国家機関にありがちな話ではあった。

「——以上です」

 滝川が非力を詫びる一方で、質問の有無を尋ねるが、口を開く者は誰もいない。

「では——」

 滝川が腰を上げ始めた時、

「真琴」

 美也子がすまし顔で、真琴を見据えて呼びつけた。

「あなた、代案はないの?」

 明らかに不服気な声色だが、居住まいは涼しげで全く動じる様子がない。こうした時の肝を据え抜いた振舞は、大抵居合わせた者を萎縮させるもので、真琴はやはり自己のルーツに忌々しさを覚えたものだ。

 真琴は流石に動じる事はなかったが、

「代案って——」

 追及を拒む余り、不覚にも答えを逡巡してしまった。

「ここまでのようね」

 格好の言質を与えた、と思ったものだったが、美也子は論う事なく小さく溜息を吐いただけだった。それどころかそのすまし顔が、微かに哀れんでいるようでいて何処かしら寂しげだ。

 何よその顔は。

 必ず皮肉めいた面を寄越していたあの母のその思いに、気がついたら真琴は斟酌しようとしていた。そんな顔つきに驚いたのも束の間、

「分かりました。これからは私が采配します」

 常とは有り得ない表情そのままに、美也子は高らかに宣言する。

「はぁ?」

 真琴は思わず、盛大に顔を顰めて間抜けな声を出してしまった。真琴に限らず、その場の人間が声を失い言葉が出ない。

 采配って——

 国家機関を差し置いて、何をしようと言うのか。いくらその名の通った策士とは言え、政財界の裏で姑息を労して人を操るのとは、現状は明らかに違う。実際に人命を左右しかねない状況下である。下手を打てば、それこそ賠償責任を負わされる可能性すらあるのだ。

 確かに現時点の被害者は、

 ——真純だけだけど。

 犯人グループがシージャックに及べば、被害者の数は一気に拡大する。その膨大な数の命を左右する事に素人が首を突っ込んで、

 どうするってのよ!

 国家であれば、賠償は税金から捻出出来るが、素人のそれは身銭である。もっとも高坂家はそれが可能な財力を有するが、何も問題は金だけではない。要するに素人の采配を、命を左右される側の人々が納得出来るのか。現状はそのようなシビアな状況なのである。つまり、

「どう責任取るってのよ!」

 そもそもが、何の権限も持たない素人が出る幕ではなかった。真琴が反駁し始めるのを、

「真琴、大至急不破さんに連絡を取りなさい」

 それでも美也子が、有無を言わさず上から被せる。今度は殊勝気にも、きちんと名前を呼んだものだったが、だからと言って何か変わる訳でもない。

 こ——

 この期に及んで、

「まだそれを言うか!」

 真琴は勢い余ってテーブルを一叩きした。が、この場にそれに驚く素振りを見せるような肝の細い者などいない。揃いも揃って大した落ち着き振りだ、と真琴は、まだつけたままのマスクの下で密かに口を歪めたものだ。

「どうするってのよ」

 いい加減うんざりして見せ、嫌悪感満載の声色で吐き捨てるその一方で、

「不破、とは——もしや、不破具衛の事ですか?」

 何やら色めき立った声を上げたのは滝川だった。

「そうです。警部さん、連絡先をご存じですか? この跳ねっ返り娘は、どうしても教えたがらないので」

「え? 不破が今何処で何をしているのかご存じなのですか?」

 真琴に問いかけながらも、滝川は背広からスマートフォンを取り出した。そのまま操作して、画面を美也子に呈示する。同時進行で、美也子が居間にある代表電話の子機を手にとり、早速電話をかけ始めた。が、すぐに何も口にする事なくスピーカーモードにすると、

"おかけになったお電話番号は——"

 などと、月並みで機械的なアナウンスが流れ始める。

「面目ありません」

 滝川が頭を下げた。

「あなた方も仕方がないですね。——真琴」

 目を剥いて驚いていたまま状況を見定めていた真琴に、美也子が呆れながらもまた真琴を呼びやる。

「何よ」

 とりあえず返事こそしたが、真琴は瞬間でふて腐れ、勢いそのままに顔を背けた。

「この際どんなチャンネルでも構わないから、とにかく大至急不破さんに連絡をとりなさい」

「だから何を考えてるのかって言ってるのよ!」

 たまたま捜査一課の警部が先生を知っていただけの事で、それ以上でもそれ以下でもない。それを、

「あの人がこの件で何が出来るのか、ちゃんとした説明をして欲しいもんだわ!」

 真琴が感情的にぶち撒けると、それを掬ったのは滝川だった。

「不破なら、現場まで到達出来れば、一気に片づけるでしょう」

「え?」

 ぶち撒けついでに今度は忙しくも目をすがめた真琴に、滝川は更につけ加える。

「不破は、我々の先生でしたから」

「先生って——」

 思わぬ所で、思わぬ男から、二人の間だけの通り名を聞かされてしまい、真琴は驚きの余りまたしても声を失った。

 そんな——。

 その呼び方は、あの町の中だけではなかったのか。広島を離れてからと言うもの、遠く離れた東京の地で、あの男を先生と呼ぶ者など自分しかいないと思っていた真琴である。それを他人に呼ばれてしまい、独占出来ない名称である事を認識させられた事で、予想外の動揺に襲われたものだった。

 私だけの——

 先生ではないのか。

 では、この滝川と言う捜査一課の警部が言う先生とは、どんな先生だったのか。只々驚く真琴を前に、

「事情は追って説明します。現時点が最後のチャンスと思いなさい。さあ早く! 急ぎなさい! 真琴!」

 美也子が真剣な表情で気を吐いた。

 実母のその真剣さに触れた記憶がなかった真琴は、立て続け様に今度はそれに驚かされたものだ。

「は、はい」

 思わずその圧に飲まれてしまい、返事そのままに、真琴はまだ着ていたガウンのポケットからスマートフォンを取り出した。

 ああ、そうか——

 夜中に起こされてからと言うもの、着替えもしていなければ、化粧もしていない。だから見られていたらしい事に思い当たった。それにしても、ガウンはファスナーで襟を立てて顎まで上げていたし、色合いも青色の、それこそ誰かさんがよく着ていた服の色に似たはっきりしない地味なもので、ニット仕立てのロングワンピースに見えなくもない。また、化粧はしていないものの、早々にマスクで隠していたではないか。

 そんなに——

 じろじろ見る程の物なのか。

 そう思い当たりながらも、この何処か不躾な特殊部隊員達からも先生と呼ばれるあの大人しげな男が、ではこの形を見たらどう言う反応を、

 ——するんだろう。

 真琴は不意にそんな事を思いながらも、武智に連絡をし始めた。


 同刻。

 非番の具衛は、相変わらず一人、山小屋でのんびりとしたものだった。早々と風呂に入ってジャージ姿で火鉢を抱え、居間の座卓に臨んでは図書館から借りている本を読み耽っている。今日も後は、晩飯を食って寝るだけの身であった。

 フェレール家へ押しかけた後も、

 意外に、何事も——

 なく、周囲に変化はない。

 フェレールと高坂重工の話は、世間のメディアで知る程度だった。驚くべき早さで進んだ話は、具衛のアイデアを膨らませたもので、アルベールもジローも随分と思い切った事を

 やったもんだ。

 と思ったものだったが、実はその渦の中心だった男は、今も変わりなく世間から忘れ去られた存在でしかなかった。

 あれ以来、フェレールとは連絡すらとっていない。一応、ジローとだけは電話番号とメールアドレスを交換していたが、お互いまだやり取りをした事はなかった。どう考えても、立ち位置に格差があり過ぎる。これ以上近づく事を恐れた具衛からは、連絡をする事など有り得なかった。それこそ事が落ち着けば、何をされるか分かったものではない。人など気が変わってしまえば、

 ——そんなもんだ。

 不意に邪魔になれば、取るに足らない自分の身など、こっそり如何ようにも出来る力をフェレールと高坂は持っている。それを前に何の力も持たない具衛は、まさに如何ようにもされる他に道がなかった。

 仮名さんが——

 とりあえず自由になれば良い。

 具衛を突き動かしたのは、仮名の不遇が不憫に思えた、それだけである。

 ——それだけだ。

 うわ言で名前を呼ぶとか、そんなのは、

 一時的な気の迷いだろう。

 あれ程の女傑である。自由になれば羽ばたいて行く事は明らか、と思う具衛の思考は常識的なものだろう。忘れられないのは今も変わらないが、本を読めるぐらいには立ち直って来た事でもある。

 こうやって——

 時が解決して行くのだろう。

 兎にも角にも、人生最大の大博打は終わった。後は、施設の雇用契約満了を年度末の来月に控え、身の振り方を巡らす日々である。一家が残した負債も、運良く完済する事が出来た。高校を中退以来、軍と警察で不自由を強いられて来た具衛もまた、この度自由を獲得した身ではあった。

 では、

 ——どうするか。

 とは言え、先立つ物がまるでない。

 目下の悩みは、契約を更新するか、それとも別の道を探るか、その一事に尽きた。

 酒も飲めるようになったし。

 借金を完済するまでは、それで身を滅ぼした父の業を背負うつもりで、自ら勝手に禁酒を課していたが、それも昨年末で解禁した。が、冠婚葬祭事でしか酒を飲んだ事がない男は、四十路を前にしてまだ酒の味が良く分からない。この前も、大家の武智から

「お歳暮の余りを持って帰ってくれんか」

 旨で、無理矢理地酒の一升瓶を二本持って帰らされたのであるが、夕食時に晩酌してみるものの、まるで減らなかった。まだ飲みつけていない日本酒の味はよく分からない。

 あれは美味かったな——

 不意に、昨年末の誕生日に飲んだサングリアを思い出した。洋酒の甘くフルーティな香りが、年齢の割に稚拙な舌に合ったようだったが、最大の理由は二人で飲んだからだろう。

 あの日が人生の——

 絶頂だった、などとうじうじ考え始めると、また本が遠退いている。こう言う時、傍に酒があれば、大抵のバカな男はこれを煽る

 ——としたもんか。

 本に目が向かないなら、試しに昼酒を飲んでみる事にした具衛が立ち上がり、一升瓶と湯飲みをテーブルに置いたところで、その傍に置いていたスマートフォンが素気ない音で鳴り始めた。表示を見ると武智である。

 ——また?

 殆ど着信がないこの男の事である。

 今度は何の

 面倒事か——

 訝しみつつも応答すると

「まだ酒は飲んどらんじゃろうな?」

 相変わらずの察しの良さで、いきなりの詰問調と来た。何やら切羽詰まっている様子である。

「え? ええ。飲む寸前でしたが」

 素直に驚きつつも、具衛はあくまでのんきに答えたものだったが、そこから先は思わぬ展開の連続だった。

「高坂様が火急の用事で、あんたと連絡がとりたいらしいけー電話番号を教えた! すぐに電話があるけー待っとけ!」

「えっ!? ちょっ!? どう言う——」

 武智が一息で言う事を言うや、一方的に切られた直後、宣言通り入れ替わりで電話帳登録外の番号から着信が入る。

 ——これが、そうか。

 具衛は思わず、一つ生唾を飲み込んだ。

 今更どんな声色で出れるものなのか。淡々と素気ない音を鳴らし続けるスマートフォンを前に、しばらく表示される電話番号を眺め続けたが、出ようと思うと切れた。

 き、切れたか——。

 一つ溜息をついて、首を傾げつつ自分のスマートフォンを見て目を瞬かせていると、またすぐに鳴り始める。

 お、同じ番号——。

 また一つ、生唾を飲んだ具衛は、今度は、五、六コール目ぐらいに応答した。

「もしもし——」

 不審さを匂わせる声そのままに、名乗らず応答した具衛に対して、電話向こうは性急だった。

「不破さん!?——先生なの!?」

 ヒステリックなその音色は聞き覚えがあるが、その慌て振りは覚えがない程に狼狽している。

「仮名さん、どうしました?」

「ごめんなさい! とにかく時間がないの! 今すぐ来て!」

「え?」


 そこから先は本当に忙しかった。

 とりあえずいつもの服装に着替え、ズボンのポケットにスマートフォンを捩じ込みリュックを背負うと、外にタクシーが来た。武智から手配されたらしい。行き先は、町の北側にあるサカマテ傍の高速IC入口まで、と言う事らしかった。

 タクシーに乗ると、また仮名から電話がかかって来て、

「高速の入口で警察のパトカーが待ってるから、それに乗って広島空港まで連れて行って貰って——」

 そこから指定された飛行機で羽田まで来い、と言う事なのだが、

「ちょっと待ってください! その便は今の時間じゃ間に合いませんよ!」

 現在地からは、高速経由でも車で一時間弱はかかる行程だ。か、時計を見ると飛行機の出発時刻まで、既に三〇分を切っている。

「警察のパトカーには緊急走行で向かって貰うわ! 飛行機は待たせてあるから大丈夫! でも空港に着いたら出来るだけ急いで国内線搭乗口まで行って頂戴! 一応、一般客が乗ってる民間機だから!」

 仮名は言う事を言うなり一方的にぶつ切りした。事情はさっぱり飲み込めないが、相当立て込んでいるらしい事だけは確かなようだ。

「パトに緊走させて、飛行機を待たせる?」

 それは一体どんな待遇だ。具衛が思いついたそれは、とりあえず一国の首相級のそれと被った。

 ——嘘だろ。

 しかしてタクシーが高速ICに着くと、やはりいつぞや同様に「料金は武智から貰う」旨でさっさと立ち去った。入口を見ると、その手前に端に寄って赤色灯をつけて待機しているパトカーが目に入る。半信半疑で後ろから近づくと、運転席のドアが開き、中からヘルメットに青色の繋ぎの制服を着用した警察官が降りて来て、具衛と目が合った。

 具衛が小走りに駆け寄り、

「不破ですが」

 と言うや、

「話しは聞いてます。急ぎましょう」

 後席ドアを開けてくれる。

 乗り込むなり、無線で「特務用務につき広島空港まで緊急走行」の旨を警察本部の通信指令課へ発信し、

「飛ばすんで、シートベルトしといてくださいね」

 やんわり言ったかと思うと、けたたましくサイレンを鳴らしながら、アクセル目一杯で加減速のGなどお構いなしに突っ走り始めた。

 こらこらこら——

 緊急車といえども、

 高速は一〇〇キロまでだろ——。

 が、メーターは殆ど振り切ってしまっている。運転している警察官は、高速道路専門で活動する「高速道路交通警察隊」の警察官、通称高速隊員なのであるが、こてこての交通ルールの擁護者である彼らを

 ここまでさせるって——

 一体今度は、何に巻き込まれようとしているのか。

 因みに緊急走行時でも、一定要件を満たさない限り、シートベルト着用義務は免除されないのだが、リミッターが作動するようなスピードなのだ。

 シートベルトって言われても——

 何か起これば即死である。

 俺ってもう——

 こてこての民間人、の筈である。それが、

 ——何のレースゲームだこれは!?

 具衛の悲痛をよそに、パトカーは通常かかる所要時間の約三分の一程度で、広島空港に到着した。

「お気をつけて」

 と、見送ってくれた隊員に謝礼もそこそこ、

 こ、高速隊員恐るべし——。

 顔を顰めつつ盛大に溜息を吐きながらも、今度は国内線搭乗口へ小走りに向かう。搭乗口に肉薄すると、国内航空会社の制服を着用した凛々しげな女性グランドスタッフ数人が、何やらキョロキョロ首を振っているではないか。

 あ、あれがまさか全部——

 自分を探しているのか。その内の一人に向けてとりあえず、

「不破ですが」

 と声をかけてみると、

「お待ちしておりました。出発時刻ギリギリですのでお急ぎください」

 顔パスならぬ名前パスで搭乗口を一瞬にして突破した。パトカーの無茶振りで、どうにかオンタイムで離陸した飛行機に乗せられたのは、ビジネスクラスである。

 おいおいおい——

 その待遇も大概だが、そもそも身分確認が「名前パス」とは有り得るのか。信用してくれるのは嬉しいが、支払い共々この異常な性急さを心配していると、仮名からショートメールが届いた。

"無事に飛行機に乗った?"

 メールアドレスは消去してしまったが、電話番号が分かる今ならショートメールが使える。

"はい"

 具衛が返事を打つと、以後は津々浦々と種明かしが始まった。明かされたところで、もう飛行機に乗ってしまっている。

 嘘だろこれ——!

 やれと言われれば、やれるものではあるのだが、下手を打って誰かが死傷したら

 誰が責任を——

 と、思い至ったところで、

"作戦の発案者は?"

 と、尋ねてみた。すると、

"母"

 と、仮名から即答である。

「やっぱりかぁ——」

 思わず天井を仰いだ具衛は、周囲に構わず盛大な溜息を吐いた。


 羽田空港の到着ゲートを出ると、

「ごめん! 急いで!」

 待ち構えていた仮名に手を掴まれ、慌ただしくターミナルの取りつけ道路に横づけされた車に連れ込まれた。思わぬ再会を噛み締めるようなゆとりなど全くない。今日は高級セダンであり、仮名のアルベールではなかった。運転手つきである。

 二人が乗るや、慌ただしく出発した車だったが、すぐに見えて来た立入禁止区域に何のためらいもなく入って行く。その先に見えて来たのは、既にローターブレードが回り、すぐにでも離陸可能なヘリだった。車がヘリの傍で止まると、また仮名が躊躇なく具衛の手を握り、そのままヘリへ引っ張り込む。

「お願いします!」

 間髪入れず仮名がパイロットに叫ぶと、ヘリは鋭く上昇を始めた。すると仮名が、今度は自分の物と思われるスマートフォンを具衛に差し出す。白色の綺麗に使われているそれは飾り気がなく、どうしたら良いものか一瞬怯んだ具衛に、

「捜査一課の滝川班長が、ヘリに乗ったら電話が欲しいって!」

 仮名は相変わらずの性急さで、畳みかけ続けたものだった。

「滝川さんが!?」

「私が説明出来ない事情は、今この場で詰めて頂戴! 後は洋上になるから通信出来ないかも知れないわ!」

 具衛が受け取ると、既にスマートフォンから小さながなり声が聞こえて来る。慌てて耳に当てると、

「すまん! 不破!」

 怒鳴り声の謝罪が、いきなり耳を突いた。

 懐かしむ暇もなく、早速思いついた懸念を口にし始める。が、

「もう着くわ! 急いで!」

 結局仮名に急かされ、

「責任の所在が曖昧ですまん!」

 拝み倒されて、終わってしまった。

 乗り継いだ挙句最後にやって来たのは、日本国内における米軍拠点の一つ、在日米空軍横田基地である。通常、日本の民間機が着陸する事はおろか、その空域に近づく事すら出来ない筈にも関わらず、驚く程無干渉ですんなり格納庫傍の一角に着陸する。

「行こう!」

 また仮名に手を引かれ、ヘリのローターブレードの風に髪を掻き乱されながらも、目の前に駐機している大型輸送機に駆け寄ると、輸送機側からも繋ぎの飛行服を着用した軍人と思しき一人が駆け寄って来た。

「タクさん! 待ってましたよ!」

「シャーさん!? 学校はどったの!?」

「積もる話は中で!」

 輸送機も、例によってジェットタービンをアイドリングさせている。三人がサイドハッチから乗り込むや、輸送機は待ちきれないと言わんばかりに、せせこましくも早速動き始めた。

 時刻は午後五時過ぎ。勢いそのままに離陸。大家の武智から電話を受けて、二時間しか経っていなかった。


 C-一七、通称「グローブマスターIII」と呼ばれる米軍の主力軍用輸送機に乗ったのは、真琴と先生だけだった。

「グローブマスターってハワイまで飛べんの?」

「空荷なら十分届きますよ」

 先生は搭乗後しばらく、何処で馴染みになったものか今一理解出来ない「シャーさん」と呼ぶ米軍兵士と話しながら、その兵士が用意した一見して軍用のリュックサックの中身や、着替えの繋ぎを確かめていた。が、ひとしきり話終えると、

「じゃあ私はコックピットに行ってますんで、何かあれば呼んでください」

 シャーさんは前席へ去って行った。

 後に残されたのは、鉄の結束器具が剥き出しの、全く飾り気ない貨物室内の側壁面にある折り畳み席に、横並びで座った日本人の民間人男女各一名ずつである。

 私服の上から米空軍用の繋ぎを着込むと、

「おお、ぴったり」

 などと言いながら、先生はようやく落ち着いて腰を折り畳み席に置いた。その着慣れた様子に真琴が思わず見入っていると、

「どうかしました?」

 先生が軽く首を傾げた。

「あ、いや、慣れたもんだなぁって」

 照れを紛らわすために、少し若い年代を意識した甘ったるい声を出すと、唐突に最後の夜の事が鮮明に頭に思い起こされ、真琴は声を失った。とりあえず、席は一つ空けて座ったものだ。輸送機とは言え飾り気のない軍機であり、騒音の大きさは機内といえども民間機の比ではない。傍にいても大声を出さないと会話もままならないが、シャーさんは耳栓の代わりにインカムを貸してくれた。

 中々気が利くわ。

 軍用品らしいが、周囲の通信機器とは独立仕様設定であり、

「二人の世界にどっぷり浸かって貰っても全然大丈夫ですから!」

 などと、中々ジョークも利いたものだ。

 貨物室の壁面は民間機のように内装パネルなどなく、無骨にもフレームが剥き出しになっている。せめてもの救いは、機内が民間機同様に与圧、昇温されている事ぐらいだった。

「まあ実は、長年こんな繋ぎしか着てませんでしたから」

 そう言う先生の声は、周囲の騒音の中、インカム経由の声ながらクリアにしっかりと聞き取れる。元々ゆっくりと丁寧に話す男だ。その相変わらずの丁寧さが、嬉しい。

「ホント意外って言うか、絶対詐欺師よね」

 瞬間で取り戻した真琴が、またつい照れ隠しで先生を詰った。武智から聞いていた先生の素性が、本当に触り程度だった事を真琴に思い知らしめたのは、にっくき母美也子がもたらした「情報」である。

「お褒めに預かり光栄です」

 二人の間では、真琴のそれはすっかり褒め言葉で定着したものだ。照れ臭そうに笑った先生が、頭を掻いた。草食系にして一見して癒し系の、着る物によっては爽やか系にもインテリ系にも見れるこの男が、軍の繋ぎがこれ程までに似合うとは夢々思わなかった真琴である。

 仏軍外人部隊では、前半五年は山岳特殊部隊と落下傘特殊部隊で活躍し、当時仏大統領だった叔父アルベール・フェレールの山岳遭難事件時には、救出者として一躍英雄になった。

 当局者による救出とは聞いてたけど——。

 当時日本にいた真琴は、真純出産に伴う産育休中で詳細を知らなかった。後半五年は司令部付で、輸送ヘリを駆使して切り札要員として各地を飛び回っていたらしい。

 フェレールと高坂の件でフェレール家に押しかけた帰りには、機長の急病で墜落しかけた嵐の中のヘリを操縦して難を逃れた

 とか何とか——。

 そもそもが、

「ヘリの操縦資格があるのに、何でそれを生かさず警察になんか、あ——ごめん」

 真琴は今回の件の体たらく振りで、すっかり警察のレベルに不審感を抱いてしまっており、ついそれが声色に出てしまった。

「いえ」

 役に立たなければ、批判に晒されて当然の

「国家機関ですから」

 先生はまた、何の衒いもなく淡々と言い切ったものだ。元警察官なら、警察事情に詳しくて当然である。その、自らの出自を批判されれば多少は防御反応を示すかと思いきや、相変わらずの安定した中立性と言うか、潔くもブレない視座には正直恐れ入る。自分などは、それをされたら何倍にもして返す口なのだ。それが先生と来たら、加えてその経験を逆手に取った対応の数々で真琴を少なからず刮目させて来たにも関わらず、それを誇るどころか至って大人しい。

 何故——

 ここまで熟れたものか。

 ——ま、まずい。

 無意識の内に、それでも先生の変わらなさを拾い上げている自分に、そしてそれに感じ入りつつある自分に密かに動揺する。

「——ある人に、頼まれましてね」

 先生はそんな真琴には気づかず、やはり淡々と答え続けていた。その「ある人」とやらに「日本警察の特殊部隊を鍛えて欲しい」とスカウトされたらしい。

 警察庁指定「広域技能指導官」。

「卓越した専門技能又は知識を有する警察職員」を警察庁長官が指定し、その職員を「警察全体の財産」として、都道府県警察の枠組みを超えて広域的に指導する、と言うその制度において、先生は軍の特殊部隊経歴を有する者としては史上初の警察官採用事例となった。大抵の広域技能指導官は、メディアでも組織内でも大きく取り上げられて、中々華々しく活躍するそうだが、

「不破の指導分野は『特殊部隊に関する技能全般』でしたから」

 当然極秘扱いで、同僚でさえ日頃何をやっているのか知る者は少なかった、とは現地本部の滝川から聞いた話だ。そんな先生は警視庁の機動隊に配属され、指導に当たったものの、

「今の幕府の方々は、仏軍式がお気に召さない連中が多くて」

 明治維新前後の幕府と仏国の関係を揶揄しながらも、先生を回想する滝川は少し寂しげな顔をした。先生自体の実力は申し分なかったそうなのだったが、

「指導するには若く、余りに箔がなかったものですから」

 まあ、それがヤツらしいと言えばらしいんですが、と語った滝川は終始苦笑いだったものだ。既に予備知識がある真琴の前で、そんな過去を語る先生もまた、全く柔らかい印象で、今でさえ軍の繋ぎを着込んでいるのが信じられない、とさえ思えてしまう。

 結局、現場の現役隊員との衝突が絶えず、前半五年で指導官から降ろされると、後半五年は警視庁各署でどさ回りだったそうだ。

「まあ、閉鎖的な組織の弊害ってヤツが、もろに出た感じでしたね」

 と、今度は少し気の毒そうな顔の滝川によると、そう長くない先生の警察人生の後半は、

「大抵の人間は嫌がる部署ばかりでね。未経験者に荷が重い仕事を負わせて、あからさまに辞めさせるためですよ」

 前部署の経歴は極秘扱いにつき、新しい配属先には「何をやっていたのか分からない問題児」と言う同僚間の悪い風評だけが引き継がれ、文字通り不当な言いがかりに塗れていたと言う。その上で、組織犯罪対策部門でとことん

「使い回したもんですよ」

 と言う、中々の横暴振り。

 自虐的に笑う滝川が、それでも都度やり切れなさそうに目を逸らす。それだけで、先生の警察における一〇年間の処遇の全てが語られたようなものだった。

「結局最後は本人がもう、心が折れちまいまして。使えるヤツは擦り切れるまで使い潰す——。古今東西、組織の常識としたものです」

 まあ、私の力不足ってヤツで、と笑い飛ばしもしていた滝川は、先生の素性をそれなりに知る数少ない元教え子、と言う訳だった。

「滝川さんが『虫が良過ぎて申し訳ないって』本当に申し訳なさそうに——」

「笑い飛ばしてたでしょ?」

「——うん」

 真琴は、何でもなさそうに取り繕う先生の振舞に思わず喉を絞った。そう言う高坂がやっている事も

 ——全く、同じだ。

 自然、顔が沈み込む。

 使えるヤツは使い潰す——

 滝川の声が、脳内で鮮明にこだました。

「後で盛大に、ご褒美をせびってやりますから」

 相好を崩す先生の気さくさに、細やかな救いを思うのと同時に

「流石に軍人上がりは図太いわ」

 真琴は空笑いして見せた。

 そこへ、

「タクさん晩飯まだでしょ? 良かったら食いますか?」

 シャーさんがインカム経由で会話に割り込んで来ると、如何にも強烈なファーストフードの匂いを漂わせる紙袋を持って来て、先生に突き出した。

「おっ、流石! 用意いいね! あ、服ぴったりだったよ」

 今着ている飛行服は、どうやらシャーさんの物らしい。

「そうですか。あ、二人分ありますから、良かったらご一緒にどうぞ」

「ありがと!」

 余り余裕のない真琴が辛うじて頭だけ下げると、シャーさんは優しく目だけで答えては、

「あ、ホントにインカムは割って入りたい時だけ入る仕様ですから。後は二人の世界でどうぞ!」

 思い出したように、何事か思わせ振りを吐いてくれたものだった。

「なんだそれは!?」

「年貢の納め時ですよ!」

 そそくさと前席へ戻って行く言い逃げのシャーさんに、先生が間髪入れず無遠慮な罵声を浴びせる。先生のそうした遠慮なさを見るのは始めての真琴だ。その思わぬ親密さ、交友関係の意外さを垣間見、

 やっぱり——

 只の田舎者ではない事を、改めて自分がそれだけ騙されていた事を、更にはそれだけこの男を侮蔑していた事を思い知らされた。

 ——何て自分勝手なんだ。

 この男に頼る他ないと言うのに、何と自分勝手に思い上がっていたものか。情けなくなる一方で、何故か抜き足差し足の歩みで、如何にも「邪魔しては悪い」と言わんばかりに立ち去って行くシャーさんのコミカルな動きに、また何処か少し救われる。

「いいヤツなんですよ」

 思わず失笑した先生が、その背中を見送りながら言った。

「あなたに似てるわ」

「元バディなんですよ」

「バディ?」

「フランス時代の」

「それが、何で——」

 米空軍の繋ぎを着ているのか。

 しかも流暢な日本語で、見た目もどう見ても日本人であり、背格好も先生に似ている。加えて、その両肩についていた茶色い葉っぱのようなマークは、

「少佐?」

 だった筈だ。

「しかも今は、高校の先生ですからね」

「はあ?」

「今回の件で——」

 日本人の民間人が作戦に臨む、と言う事で、先生によるとそんなシャーさんは、米軍なりの配慮

「——ですよ。彼は日本語が流暢ですし」

 と言う事らしかった。

「流石はお母上様ですね」

 と、合わせてつけ加えた先生だが、それはわざと聞き流した真琴だ。

 それにしても「日本語が流暢」と言う事は、シャーさんは日本人ではないのかと思ったが、一方でそもそも米軍少佐になるような人間が米国籍外と言うのは、普通に考えて想像し難い。勝手に日系人と当たりをつけたが、それにしてはシャーさんは、重ね重ね一般的な日本人の顔つきにして、イントネーションも日本人そのものだった。

「あなたは知り合いまでも意外と言うか、類友と言うか——」

 真琴が素直に呆れ返っていると、

「今のうちに、食っときましょうか」

 先生は貰ったばかりの紙袋から、予想を裏切らない米国サイズのハンバーガーを取り出した。基地内の店で買ったのだろう事は確かめるまでもない。ちょうど夕食時ではあるし、これまた重ね重ね気が利いたものだ。

 そう言えば、

 何も食べてない——。

 夜中に起こされて以来、朝も昼も食べる気になれず茶ばかり飲んでいた。腹は減っていない。不思議と減らない。それどころではなかった。

 ——筈だったのに。

「うわ、やっぱりデカいですね」

 先生からハンバーガーを手渡された真琴が、その大きさに怯んでいるその横で、先生は早速かぶりついている。その変わらなさに、つい失笑が漏れた。

「何ですか?」

「いや、あなたはいつでも何処でも、本当に嬉しそうに美味しそうに食べるなぁと思って」

「そうですか?」

 意識した事ないですけどね、などと言いながらも、早速もごもご口を動かす事を忘れない先生を見ていると、真琴は途端に空腹を覚え始めた。

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