第7話 霜降

 目が覚めたら朝だった。

 どこからともなく雀のさえずりが聞こえ、慌てて起き上がると、いつになく柔らかいソファーの上だった。

 頭を二、三回素早く大きく振って周囲を確かめると、山小屋ではない。

 ——広い。

 軽く三〇畳は超えるのではないか、と言うフレーズが頭の中で理解された時、居間のドアが開いた。

「あ、起きたわね」

 颯爽と入って来た仮名は、具衛を一瞥しながらそのままキッチンへ入る。

「朝ごはんにするから、顔ぐらい洗って来なさいよ」

「は?」

「は? じゃなくて、洗顔。タオル用意してるから」

 言う事を言うと、

「部屋を出て左ね」

 仮名はまた背を向けて、手際良さそうに料理を始めた。トーストの香ばしい良い匂いが鼻をくすぐる。思い出したように腕時計を確かめると、何と八時を回っていた。

「えぇっ!?」

 うわぁ、などと具衛が一人でのらりくらり驚いていると

「ほら、もう出来るわよ。早く顔洗ってらっしゃい」

 小さく失笑した仮名が、柔らかく窘めた。

 らっしゃい——

 と、言われても。そのいつにないソフトな物言いは何なのか。それを初めて耳にした事で、その声は元来、柔らかい質の物である事に気づかされた。いつもの少し尖ったような歯切れ良く弾むその声は、外見相応に凛々しい仕様で良く通っていて思わず耳を傾けさす力があるが、今のそれは明らかに丸い。耳を突くようないつもの心地良さとは打って変わって、優しく触れるかのような声に、今更ながらに日常的に騙されていた事に気づく。

「ほら、早く」

「は、はい」

 そのくすぐったさに、具衛は身震いするようにフローリングに足を下ろした。足に力が入る事を確かめると、のろのろと立ち上がる。それに伴い意識がはっきりすると、ベランダに鳥めいた物は全く見当たらなかった。そもそもが雀の飛行能力では、マンションの六〇階は厳しい。では、

 何て鳥?

 妙な疑問を抱きながら、ドアの方に足を向けていると、

「新しい歯ブラシも用意してるから」

 磨きなさいよー、などと、また思いがけないくすぐったい声をかけられ、痙攣して思わず足を止めた。幸いにも仮名はキッチンに向かって背を向けており、その動揺は伝わってはいない。

 まさか——

 その美声が、鳥のさえずりに聞こえたのではないか。

 ——うわ。

 具衛はその持ち主の背中を一瞥してみると、背中に軽く電流が走ったかのようなショックに襲われ、また身震いした。見た目と言い声と言い、

 どんだけ——

 破壊力を持ち合わせれば気が済むのか。自分は未だ、それを受け入れる腹がまるで据わっていない事を思い知らされると、密かに大きな溜息を一つ吐きながら、ドアを開けて居間を後にした。


 広いベランダの向こうにある外は、雲一つない真っ青な秋晴れである。目の前に広がる広島湾の風光明媚と言ったらこの上ない。室内は室内で隙なく整えられ、陽光が映える事これまたこの上ない。実に清々しい空間にして、清々しい朝だ。そして、卓上に並べられた朝食は、食パンを囲むように並べられたサラダ、豆類、目玉焼き、ハム、果物など数々の皿。止めは目の前に座っている、七分丈のゆったりとしたライトグレーのチュニックを身に纏った、薄化粧の極上美人。

 ——夢だ。これは。絶対。

 目の前からか、鼻腔の奥の記憶か、バニラとミントの甘く爽やかな良い匂いがする。軽く鼻を啜っていると、テーブルを挟んで目の前に座った人間から、仄かに香って来ているようだった。こんな良い匂いのする人間の近くで朝飯を食うなど、これまでの具衛の人生では覚えがない。

「まだ寝惚けてるの?」

 キッチンのカウンターに置かれているコーヒードリッパーから淹れたてのコーヒーを持って来た仮名が、

「先に飲んだら?」

 その白いカップを具衛の目の前に置く。意外にしっかりとした質感の、比較的厚みがあるそのカップからは、忽ち嗅いだ事がない何とも言えない良い香りが立ち込め始めた。

 これが?

 コーヒーの香りなのか。カップに鼻を近づけて香りを嗅いでいると、その先でもう一杯コーヒーを淹れている仮名が視線に入った。お互い向き合っているが、仮名はドリップ中で目線を外している。それに託けて具衛は、目の前のコーヒーカップに屈み込みながらも、上目遣いでその様子を覗き見てみた。

 ビジネルスタイルも良く似合うが、カジュアルもやはり良く似合う。今日のズボンは今はキッチンの中で見えないが、先程見た時の記憶では確か、一見オーソドックスな青のデニムだった筈だ。と、言う事は、今日も仕事は休むらしい。

 それにしても——

 基が良いのだから何を着ても大抵の物は似合うだろうが、それに加えて本人の内面から滲み出る揺るぎない自信と言うか、堂々としていながらも気負わない立居振舞と言うか。とにかくオーラを感じずにはいられない。

「そのコーヒーはブラックで飲むの」

 コーヒーの怪しげな香りも相まって現を抜かしていると、仮名が目線を変えず声だけ具衛に投げて来た。

「いや、とても良い匂いなんで——鼻が離せない、と言うか」

 それとなく盗み見していた事は隠して答える。事実、良い匂いで飲むのが勿体ないぐらいだ。

「おかわり出来るから、先に飲んで目を覚ましなさいよ」

「すみません」

 縮こまったまま言われた通り、コーヒーカップに口をつけて一口飲んでみた。コーヒーに詳しくない具衛は、どう言った種類の豆なのか全く分からない。余り飲む事がなく、飲むにしても精々、缶コーヒーレベルの安物しか飲みつけていない男である。

「うまっ!?」

 エスプレッソ風のそれは、文句なしで今まで飲んだコーヒーのどれよりも美味かったのだが、風味の感想などを吐ける程の語彙を持たない具衛は、

「何でこんなに美味いの?」

 只々目を剥いて稚拙な独り言を吐いては、驚く事しか出来なかった。

「あなたのそう言う素直なところは、ホントに感心させられるわ」

「はぁ」

 仮名が追加で入れたコーヒーを持って戻って来ると、

「目が覚めた?」

 椅子に座りながら仮名が微笑む。

「まぁ、それなりには」

 とは言うものの、実は未だに夢見心地だったりする。コーヒーを一口つけた時のリアルな嚥下反応だけが、夢想ではない事を支える唯一の手がかりだ。が、一方で、何事か言葉をかけて来る割に、呆けた具衛など然して構わないような向きの仮名は、

「じゃ、食べましょうか」

 何ら拘りなく一人さっさと「頂きます」と宣言すると、勝手に食卓に手を伸ばし始めた。それにやや遅ればせながら手を合わせた具衛も、のろのろとご相伴に預かり始める。

 何と言う——

 出来過ぎた食卓か。

 落ち度を見つける事がこれ程難しい状況と言うものに、具衛は思わず身震いした。これは何か、後でとんでもないしっぺ返しが待っているのではないか。そんな事をぼんやり考えていると、

「しかし、三八にもなってキスで気を失う男なんて初めて見たわ」

 具衛の想像を飛び越して、そのしっぺ返しは直後に待っていた。その意表を突く口撃に、コーヒーを啜っていた具衛がむせ返り、激しく咳き込む。

「草食系だとは思ってたけど、思いの外ウブねぇ」

 免疫ないの? などと立て続けに嘯く仮名をよそに、具衛は顔を背け耳を真っ赤にしては、気管に入ったコーヒーにしばらくの間喘ぎ続けた。

「欧米なんて日常茶飯事なのに」

 いつもは表情に乏しく、何処となく冷めていて落ち着き払った澄まし顔をしている筈の美女が、目を見開き、眉を上げて、けたけた笑っているではないか。

「口同士では、やらないでしょ!?」

 ようやく声を取り戻した具衛が噛みつくも、

「似たようなもんよ」

 仮名は満更でもなさそうに、軽くいなした。相変わらず手と口を器用に動かし、良く食べ良く喋る。

 以前に比べると、確かに感情を表に出すようになって来たものだ。この歪な間柄が始まった頃などは、冷めた顔か怒った顔、と言う貧しさ盛り沢山の表情だった。それが盆踊り以降、何となく表情が明るく柔らかくなって来た、ように感じる。それは良い。それは良いのだが、それにしては、お嬢様にしては、昨日のあれは、急にはっちゃけ過ぎではないのか。

「何で、あんなことを」

 と訊くのは野暮だ。それは分かっている。それでもその衝動を抑える事が出来なかった。正面から答えを求めるような度胸はなく、なよなよと思わせ振りに身をくねらせつつも、精々か細い声で口に手を当て目を逸らす。

「何か色々盛ってるわね」

 照れが伝播しないようにしたとは言え、このような微妙な機微を男が女に訊くなど、何よりもそれが情けない。

 でも——

 やはりある程度は、納得の行く答えが欲しかった。素性を隠しているとは言え、二人の格差ははっきりしている。遊びなのだろう、と思った。思ったのだが、やはり自虐的な解釈では説得力に欠ける。仮名はどうみても、そんなつまらない男遊びをするようには見えないのだ。では何故、相手が自分なのか。具衛の脳内は寝入っていた時を除いて混乱の坩堝である。

「やるんじゃなかったわ」

 よよと何か患っている感を全面に滲ます具衛を、仮名はあっさり正面から受け止め、ごみ箱に投げ捨てるかのように吐いた。

「病み上がりなのに、居間のソファーに運ぶの大変だったんだから!」

 まったく、などと鼻息荒く抗議する仮名に、具衛は瞬間で演技していた立ち位置を失念する。

「す、すみません!」

 突然背中に一本、何か固い棒でも突っ込まれたかのように、見た目にも分かる程背筋を伸ばして畏まると、自分でも驚く程いつになく歯切れの良い謝罪が口から出て来た。確かにそうだ。起きた時は居間のソファーにいた。昨夜「口撃」された時は外のソファーだった筈である。自分で移動した記憶がないのであれば、仮名が運ぶ以外にはない。他に住人がいなければ、の話だが。

 それを一転して優雅にも、くすりと小さく失笑した仮名が、

「美女のキスで気絶する男が、本当に世に存在するとは思わなかったから」

 御伽噺じゃあるまいし、と追い討ちで嘯いた。

「男と女の立ち位置が、ひっくり返ってない?」

 更に仮名は、痛いところを容赦なく突き刺す。まさに、それを女に言及される事自体が情けない事極まりない。

「まぁこれも、時代の流れかしらねー」

 と、独り言ちながらも、委細構わずの調子の男らしい仮名は、一方で着々と手を動かし食を進めたものだった。

 ホント——

 その鷹揚な言動は、頼もしい男のそれであり、ぐうの音も出ない具衛である。その体たらくと言ったらないではないか。

「あぁ——」

 具衛は片手で目を覆い、思わず口を開けたまま天を仰いだ。が、

「処置歯がないって凄いわね」

 あなたの年代で、などと意表を突いて妙なところで感心されてしまうと、また慌てて口を閉じてはまた背筋を伸ばしてしゃちほこ張る。

「まぁ、忙しいこと」

 完全に手玉だった。

 これ以上の言及の術を、具衛は知らない。そもそもが、元々の原因は明らかに具衛なのだ。勤務先施設の入所者が発症した伝染病を物の見事にうつされてしまった、その相手方に対する謝罪のための訪問。元を辿れば、最終的にはどう足掻いても、この立ち位置に到達する。後の状況は全てオプションなのだから、私的訪問でない以上、具衛の立ち位置は弱い。

 仮名が訴える向きはまるでなく、具衛の役目は全くの勇み足の徒労だったのだが、それでもそれを理由に押しかけた立ち位置は、絶対的に変わらないのである。具衛と仮名が知己の間柄なのも、仮名の配慮で夕食のご相伴に預かったのも、全ては仮名の配慮に基づくものだ。それを良い事に、具衛はスケベ心を欲情し、

 あのグラスを——

 交換して貰っておけば。思い出すだに痛恨時である。

 そして、目の前のこの大変聡明な美女は、

「お見舞いで押しかけたくせに、人の失敗を論うような事をするからよ」

 そんな立ち位置や微妙な機微の事などは全てお見通し、と来ているから、尚の事質が悪い訳だ。答えを欲する事自体が、そもそも間抜けであった。具衛のセクハラ紛いの暴挙に立腹し、報復めいた実力行使に及んだ、と言う分かり切った回答が得られただけである。

「それこそ何なら争う? あなたそう言う事詳しそうだし」

 そうは言っても、実ははっきりしているのは、仮名の具衛に対する接吻容疑だけである。具衛がその気になれば、仮名を強制わいせつ罪で訴える事が可能なネタだ。しかも、具衛の行為自体は、明暗の程度こそ違えど、どれを取っても灰色なのだ。黒ではない。平面的に見れば、結果的には仮名のみが有罪となり得る、と言えるこの状況で、実際に法廷闘争しようものなら

「前後の状況は、どう考えても私に非がありますから」

 労力ばかりかかった、それこそ泥試合になる事請け合いである。

「あら、私を有罪に持ち込めてよ?」

「分かって言ってますよね、それ」

 仮名に前科がなければ、何処まで行っても有罪に持ち込めたとて、執行猶予つきの有罪判決が関の山だ。それよりも、

「後の民事で、前後の状況を思う様盛られて。考えるだに恐ろしいですよ」

 民事訴訟は、相手より如何に多くの証拠を収集する事が出来るか、それに尽きる。そうなると、刑事審の劣勢などまるで問題にならない程に、具衛の不始末まみれであった。そもそもが、発端は具衛の押しかけから始まっているのだ。それを盛大に盛れるだけ盛れば、

「あなたなら、無理矢理住居侵入に持って行き兼ねないでしょ」

 ぐらいはやってのけそうな仮名だ。

 二人の関係性を知る者ならば、具衛が無理矢理押し入るなど有り得ないにも程があるが、額面的には男が女の部屋へ上がり込み、その上二人きりなのだ。状況的にはどう考えても、男である具衛が不利で、黒で、女の敵、と言う構図だった。

「流石によくご存じね」

 実際にはこう言ったケースでは、基本的に刑事と民事を慮って、示談か和解となる事が多い。が、

「私なら、肉をちょっと切らせて盛大に骨を断てるわ」

 と言う状況に持ち込む事は、充分可能な状況でもあった。

 大体が、

 ——争い事になるもんか。

 こんな美女に誘惑されて訴えを起こす男と言うのが存在し得るのか。仮名が跳ね返り気味に被害者気取りで訴えでも起こさない限り、刑事も民事も有り得ないではないか。その事情を上手く使えば、ちょっと手の込んだ美人局のようでもあり、

「これまでの全てが、美人局のための壮大な罠だったりして、ね?」

 具衛が思いつく事などは、当然仮名も余裕で思いついてしまう訳だ。

 当然、

 抜け抜けと——

 見え透いた嘘でからかわれている事ぐらい分かるのだが、では反証を思いつくかと言えば、そんなものはあやふやな推測と感覚的なものでしかない。

 こんなんじゃあ——

 いつぞやにも、双方の口から論いあった時に出た

 ——説得力を有しない大多数のバカな男。

 であった。

 こんな不確かな論拠で美人局を否定しようものなら、逆に面白おかしくその凄まじい弁術に思う様なぶられ、徹底的にやり込められるだけなのは分かり切っている事から、黙りを決め込む事にする。

「あら、反論を期待してるんだけど」

 もう終わりかしら? などと、やはり仮名は意地悪そうに口端を上げ、目を剥きながらしれっと言い放った。こうなってしまうと、土俵も相撲も勝負も完全に仮名のものである。具衛は大人しく、

「だって口じゃ、全然敵わないですから。もう降参です」

 素直に白旗を持っているかのように、手にしている仮想の白旗を振ってみせた。

「素直な心がけは見上げたものだけど、何か如何にも、私が意地の悪い口達者みたいな立ち位置に追いやられてるのがちょっと気に障るわ」

 きっちり物の見事に底意まで覗かれてしまい、これまたぐうの音が出ない。

「まあ、朝から重いのはごめんだわ。食べましょ」

 仮名はそれ以上言及する事もなく、澄まし顔で言うなりリモコンでテレビをつけると、そのノイズを支えにするように、黙々とまた手と口を動かし始めた。


 食後。

 具衛はコーヒーをおかわりし、ダイニングテーブルにそのまま居座り、遠くにあるテレビを眺めていた。朝からバラエティーのような情報番組をやっている。平日に見るもう少しましな情報番組が放送されていないと思うと、今日が週末の休みである事を思い出した。何せ二日に一直のシフトで、季節感なく働いている身である。一人者であれば尚の事、カレンダーを気にする事は少なくなっていた。

 仮名は、キッチンで食器の後片づけをしている。病み上がりであるし、さり気なく下膳を手伝ったが、食器洗いまではさせて貰えなかった。

「お気持ちだけ頂戴しとくわ」

 思えば本当に、病み上がりだと言うのに、

「一宿二飯で申し訳ない限りです」

 と言って謝ると、盛大に笑われてしまった。

「前にさ、謝るんじゃなくて、お礼を伝えるって教えなかったっけ?」

 と前置きしながらも「何か芋侍みたいな謝意で微笑ましい」などと仮名は、喉を痙攣させたものだ。芋侍と言う例えが実は微妙だったりして、具衛は余り笑えなかったりしたのだが、それに加えて、たわいない過去の会話をよく覚えている事に内心驚いた。聡明な人間の記憶力は凄まじいものだが、仮名もやはりそうしたものらしい。

 これはやっぱり——

 迂闊な事は言えない、などと密かに防御線を巡らせ始めると、その仮名もコーヒー片手にテーブルに戻って来た。

「今日は、シルバーウィーク中だったんですね」

「あなたは夕方から仕事よね」

 仮名の仕事の復帰を確かめるつもりが、逆に自分の仕事を気遣われた。確かに、二日間で二人が代わり番こに一直と言う分かりやすいシフトパターンではあるが、それにしても人の事をよく覚えている。

「ええ。そろそろお暇しようかと」

 そのちょっとした何気ない配慮に感心させられるのと同時に、自分のそうした至らなさを改めて痛感させられた。

「あら。ゆっくりして行って貰って全然構わないんだけど」

 その月並みな社交辞令が、また一々染みてしまう。少し照れ隠し気味に、ほんの少し嫌味めいた一味が効いていたりもするのだが、実のところそれをさり気なく口にする仮名の本意は、受け手が捻くれない限り言葉の額面通りなのだ。つまりは、受け手のあらゆる反応を想定して、常に言葉に多くの要素を盛り込んで話している。仮名のそうした先の先の中に隠された防御反応に、具衛は最近、この女の懊悩を感じ始めていた。

「仮名さんのお気遣いの言葉には、本当に頭が下がると言うか、救われます」

 具衛は本心で言った。

「さっき散々、人の事を意地の悪い口達者扱いしといて今更ね?」

 しかし仮名は目をすがめ、然も白々しいと言わんばかりに論った。

「いえ、ホントですよ!」

 具衛は慌てて、拙い語彙力そのままに伝えるが、

「またまたぁ。おだてなくても、コーヒーぐらい何杯でも出して上げるわよ」

 やはり仮名の巧みな話術に、簡単に丸め込まれてしまう。

「ホントですって!——茶化されると心外です」

 いつも憎まれ口を叩くくせしてここぞのところでは必ず、心の隙間に入り込むようなさり気ない一言で人の心をくすぐって来る。使い慣れ、洗練された感謝の言葉もその一例だが、そうした配慮の一つひとつが言葉拙い具衛にとっては、じわじわと何処かに溜まって行っているようで、何かに効き始めている。そんな感覚だった。

 只、それを言い表す言葉を持ち合わせない具衛は、やはりそれを伝える術を持たず、

「本当ですから」

 それを繰り返す事しか出来ない。それがまた、具衛自身に情けなさを痛感させる。

「子供みたいね」

 そんな具衛の様子など、豪快さも持ち合わすこの女傑は、あっさりバカにしたりもした。

「はぁ」

 不甲斐なく情けない声を出しては、苦笑を浮かべる以上に、内心では意気消沈気味の具衛に、

「まあ、お気持ちは頂戴しとくわ」

 仮名はやはり、分かったような顔をしながら、皮肉を含ませつつも斟酌するようなのである。それにまた、救われてしまう。

「意外に、人たらしですよね」

 思わず本心を吐露してしまうと、

「まぁ、言うに事欠いて今度は人たらしって!」

 忽ち角が出始めるところなどは油断ならないのであるが、やはり正味のところ、そう思った。

「あ、言い方を間違えただけで! 良い意味で解釈してください」

「どうかしらね。——まあ、そう言う事にしといてあげるわ」

 素直な気持ちは伝わるらしい。ほっとしてコーヒーを啜ると、

「それに免じて、送って行ってあげるから」

 と仮名が言い始めた。

「いや、流石にそれでは——」

 甘え過ぎの上、いくらなんでも病み上がりに障るのではないか。そう重い状態ではなかったとは言え、二、三週間自宅療養していた身である。が、

「ずっと自宅に籠ってたから、いい加減外に出ないとカビが生えるわ」

 仕事復帰はシルバーウィーク明けからだし、と今更ながらに答えた仮名は「外出して身体を慣らしておきたいから」などと言いながらもコーヒーカップを掻っ攫い、てきぱきと準備を始めた。

「でもあなたの家までは、あなたが運転してくれない?」

 と言われ、その一〇分後には仮名の愛車のアルベールのハンドルを握らされている、と言う早業である。

 どーなってんの!?

 こう言う時、女の身支度はそれなりにかかるものなのではないか、と思っていた具衛だったが、化粧と着替えで五分少しと言うから驚いた。デニムパンツはそのままで、上はポロシャツに着替えただけ。化粧はやはり薄いままのようで、いつものつけ睫毛もなければ口紅もいつもより控え目だ。その代わりと言っては何だが、クローシュ型の麦藁帽子を被り、目にはウェリントン型のサングラスをかけていた。

「しかしあなた、左ハンドル慣れてるわよねぇ」

 仮名は、そんな具衛の戸惑いなど気にもせず、実はやはり具衛にとっては微妙な事を突いて来る。

「左、と言われても——」

 現代の普通車は殆どオートマチック車ばかりで、殆どシフトチェンジを要しない。とは言え、実は左ハンドル車に乗ると、海外在住が長い人だと、左右の通行原則で混乱してしまう事もあったりする。世界の国々の約三分の二は右側通行であり、左ハンドルと言えば即ち右側通行なのだ。

 そう言う仮名は確かに、海外生活が長そうな、

 ——感じがする。

 そのイメージは自然なもので、無理がなかった。

「通行原則さえ間違わないようにすれば良いだけですから」

 具衛が努めて、やはり気にもしない様子で答えると、

「まぁ、安全運転だし別にいいんだけど。あ、高速経由ね」

 口を挟む余裕を与えられず、一般道へ向かおうとした具衛に、仮名はてきぱきと指示を出した。

 しかして結局山小屋に着いたのは、午後二時前だった。仮名のタワマンを出発したのは、午前九時前だった筈なのだが。それが高速に乗るや、

「天気もいいし、どうせならこのまま、お昼も食べましょうよ」

 どうせ夕方までする事ないんでしょ、などと勝手に決めつけられてしまい、

「行ってみたいお蕎麦屋さんが、島根にあるのよ」

 と、山陽自動車道から浜田自動車道に誘導されて島根県側に越境させられ、それこそ具衛の住む町に似たような、山深いの何の変哲もない田舎に案内された。目的地の蕎麦屋周辺に着いたら着いたで、

「お昼には少し早いわね」

 と、車から降ろされ、片田舎を無理矢理散策させられた。

 これは所謂——

 デート、と言うのではないか。

 多少なりともドギマギしつつ、それこそ本当に具衛の町に似て何もない田舎の集落を歩いて回り、それなりの時刻が到来するや素気なく蕎麦を喰らって、その後約一時間かけて山小屋まで戻って来た、と言う訳である。

 で、

「あー久し振りだなあ——」

 などと声を上げながら、仮名は縁側の右隅に腰を下ろして両手を突き上げ伸びをしている。

「いつ以来振りだっけ?」

「三週間、でしょうか」

「そんなに経ったの?」

 そうかぁ、と素直な感嘆を連発する仮名は、しばらく賑やかだった。

 相変わらず涼しいだとか、具衛の出すお茶が懐かしいだとか、風鈴は何処にやっただのと、

 そう言うお宅も結構——

 子供みたいではないか、と言ってしまおうものなら、後で何倍返しされるか分からない危うい言葉を飲み込みつつも、具衛はいつも通り居間の座卓に座る。

「夕方まで出ないのよね?」

 左に身体を捻り、座卓の具衛に話しかける仕種も三週間振りだ。よく考えれば図らずも、昨日の夕方から行動を共にしていると言うのに、その形に全く見慣れず一瞬にして脳をやられてしまう具衛が、

「え? ええ。家を出るのは五時過ぎです」

 思わず苦笑しながらも辛うじて答える。

「よし」

 それを何処か嬉しそうに、また前を向き直した仮名は、

「じゃあ三週間分、居座っちゃおう」

 誰に言うともなく勝手に宣言すると、急に静かになった。具衛は答えず、静かに本をめくり始める。

 暦的には中秋だが、実際の気候的には晩夏のこの日、山小屋周辺は、天気が良い事も手伝って麗かだった。空の高い所にうろこ雲が揺蕩って、空気も風も穏やかで、街とは季節が半歩程度早く進んでいる。周辺に差し込む日差しは盛夏の頃とは明らかに違ってすっかり柔らかくなっており、昼下がりの情景は一足早くやって来た小春日和めいていた。

「彼岸花が沢山咲いて——綺麗ねぇ」

 そこかしこに咲き乱れている彼岸花は、今が最盛期だ。黄味がかって来た田や、畑や山野の緑の中に、背の高い茎に支えられた一際目立つ赤色の大輪の数々が、風に吹かれて小さく静かに揺れている。

「この辺りは、一昔前に沢山植えられたそうです」

「害獣対策よね。農家の方から聞いたの?」

「ええ」

「そう」

 山奥に有りがちな話を語って、少しばかりその関心を掴もうとした具衛だったが、仮名は既に知っているようだった。たまたま人伝いに聞いて知った具衛と違い、この女はどう言う経路でそれを知り得るのか。毎度の事ながら感心しかない。才人と呼ばれる人々がどうやって知識を得るのか、体当たりで知識を獲得して来た具衛はいつも疑問である。

「見た目に反して、別名や迷信がひどんですよ」

「人の都合で植えられたのにね」

 やはり仮名は、当然の様子で合いの手を出したものだった。

「知ってるわよ」

「相変わらず、敵いませんね」

「まぁね」

 仮名は穏やかな顔つきのまま、得意気に嘯く。

「何て、ウソウソ。つけ焼き刃よ」

 療養中に暇を持て余し、色々と興味の向くままに調べたらしい。

「ここに立ち寄るようになってから、里山に興味があってね」

 そうしたところ、島根の山奥にある蕎麦屋の事を知るに至り、

「今日、行く予定だったって訳」

「え?」

 計画的犯行、と言う事らしかった。

 確かに蕎麦屋に入るなり、連休中でそれなりに客がいる中、何となくあつらえられた様子だった事を思い出す。

「そうでもして連れて行かないと、あなたはいつも遠慮するじゃない」

「身から出た何とやら、でしたか」

「そう言う事」

 ほんの少し、口を尖らせて見せたかと思うと、またふんわり穏やかになった。最近の仮名は、本当にこうした表情を多く見るようになった。どうした心境の変化か、具衛には相変わらず良く分からないが、悪い気はしない。

「風が気持ちいいー」

 そんな仮名は独り言ちながら、足をぶらぶらさせていた。今日も、山小屋に来る時には必ず履くようになったフラットシューズを履いていた筈だったが、どうやら脱いでいるらしい。こうした感情をつぶさに語るような事も、当初には見られなかった。

 具衛が本を読む振りをしながら、ちらほら目をやると、仮名はいつになく機嫌が良さそうだ。その仕種が辺りの風情と同調するようで、絵心のある者なら、

 絵なんか描いたりして——

 より親密になろうとするだろう、などと妄想すると不意に心臓が跳ねた。思わず迂闊を踏んでしまい、密かに生唾を飲み込む。当然、具衛に絵心はない。それどころか、逆に絵は苦手だった。風景画ならまだしも、人物画ともなるとまるで描けない。学生時代、人に向き合う事が苦手だった事が手伝って、結局そのまま、絵を描く事は苦手意識が植えつけられてしまっていた。

 ふと、そんな事を思い出しながら、間抜けにもろくに内容が頭に入って来ない本をめくっては、またとない好機になす術がない自分に苦笑しつつ、また仮名をちら見する。相変わらずぼんやりと笑みを浮かべていたが、何処かしら物悲しさを纏い始めたように見えた。

「人にとって、存在意義の大きい美しい花なのに——」

 すると唐突に、誰に言うともなく、目線を遠くに投げかけたまま、仮名がぼそぼそ呟き始める。

「人の手で植えられたのに、その人に忌み嫌われてるなんてね——」

「はぁ?」

 具衛は、その人を見て危うい妄想に入り込んでいた手前、一瞬何を言い出したものかついて行けず、憂いめいたものに乗っかって何やら情感豊かに語ったそれに対して、余りにも不釣り合いな間抜け声を出してしまった。

「彼岸花の事よ」

 途端に仮名が、不機嫌さを盛り込んだ声色で具衛を責める。

「ああ、健気ですよね」

「何その取ってつけたような言い方は!」

 ムードぶち壊しね、などと盛大に不満をぶちまける仮名に、具衛は思わず心臓に手を当てた。

 ムードって——

 また何事か。また、昨夜のような展開でも狙っているのか。とりあえず、軽く喉を鳴らしながら小さくぎこちなく震える手で、目の前に置いている湯飲みを手に取り、また喉を鳴らしてお茶を飲む。一々喉を鳴らしていないと、誤嚥してむせ返りそうだった。

 鼻を啜ったり、喉を鳴らしたり、咳払いをしたり。急に様々な音を身体から出し始める具衛に、

「ぶはっ!」

 仮名はいつになく盛大に噴き出す。

「だから、取って食やしないって」

 その屈託ない笑顔と笑い声が、先日の盆踊りで、半狐面を被って面子やベーゴマをしていた時の仮名と重なって見えた。当初の冷艶とした美しさに只ならぬ気配を、ひどい時など人ならざる物なのではないかと疑っていた事がバカみたいだった。こんなに暖かみを帯びた眩しさを持つ者が、人でない訳がないではないか。

 こんな後出しが——

 許されても良いのか。

 具衛は只ならぬ動悸に耐えられず、顔を背けて座卓に俯いた。

「ごめんごめん!」

 悪気はないんだけど、などと仮名は、流石にそんな具衛の底意は汲めず、

「そう落ち込みなさんなって!」

 悪かったわよ、と何度か連呼しながらも、しばらくの間けたけたと、無邪気に笑い続けてくれたものだった。具衛としても、それに答える余裕など持てず、とりあえず笑い転げる仮名の勘違いの状況に乗っかり、気を鎮めようとする。

「はぁあ、やれやれねーまったく」

 と、しばらく笑った仮名が畳むように言うと、また元の穏やかな顔に戻っていた。

 まったく——

 やれやれだ。

 その頃には具衛も、顔が上げれる程度には立ち直り、また湯飲みに手を伸ばす。水分補給は十分のつもりだが、今日も動揺が激しく喉が渇いて仕方がない。具衛は徐に立ち上がり、台所から笹茶を淹れたやかんを手にすると、まず自分の湯飲みに追加を入れた後で縁側に向かった。

「色々と、マナー違反なのは分かってますが」

 あえて前置きをして、仮名の傍で正座して、その目の前で仮名に出している湯飲みに追加のお茶を入れ始める。お茶のおかわりは、湯飲みを茶托毎交換するのが当たり前のマナーだ。が、湯飲みを変えず目の前で継ぎ足せば、少なくともその場では混ぜ物は出来ない。更に具衛の湯飲みに同じ物を入れたのであれば、その確率は更に低くなる。

「もうある程度、あなたの為人は理解してるつもりだけど——」

 仮名はやはり、具衛なりの配慮を察しており、

「でも、その変わらないポリシーは素直に嬉しいわ。ありがとう」

 今度のそれは、含みがまるで感じられず、ストレートに腹に落ちて来るではないか。

 くそー。

 何故これ程までに嫌味なく、粋な謝辞を述べられるのか。具衛はまた、瞬間で心臓が重たくなり、

「いえ」

 と答えて、後退るのがやっとだった。そそくさと座卓まで下がり、密かに一息吐くと、

「この距離感も」

 それに合わせるかのように、仮名がまた呟く。何となく場が固まりそうになり、昼日中と言うのに何やら色めいて来るようだ。堪り兼ねた具衛が、何か言葉を吐こうとして、

「花言葉がまた、切ないんですよ」

 よりによって逆を突いてしまった。

 切ないなどと、これでは何かムードを作ってしまう可能性が出て来てしまう。

「ふーん」

 流石に彼岸花の花言葉の詳細までは知らないと見える仮名が、傍に置いているポーチからスマートフォンを取り出し、目の前で検索する様子を見ながら、

 あちゃー

 具衛は後悔を募らせる。

 その目の前で小さく噴いた仮名は、またスマートフォンを収めながら

「ホント、嫌になるわ」

 吐き捨てるように言った。

「私そっくり」

 立て続けに鼻で笑って口を歪める。

 今度のそれは、何やら思いがけない呼び水になってしまったか、と具衛が何か言葉を探し始めるが、

「まぁ、どう言うつもりで、彼岸花の花言葉何かを今ここで出すのかしらね」

 やはり仮名は、痛いところをぐりぐりと、そのよく回る舌で鋭く突き始めた。

「いや、その。ひどいイメージでも健気だと言う事を——」

 伝えたかっただけなのだが、それに勝手な投射をしたのは仮名の方である。それを指摘したいところだが、言ってしまうとやはり手痛い何倍返しが待ち構えている、として具衛はやはりそれ以上は言わない。

「冗談よ冗談。私が勝手に言っただけだから」

 そう防御線を張りなさんな、などと仮名は上機嫌のままに、からからと笑って見せた。

「いえ別に。そうじゃないんですが」

「ウソおっしゃい。いつも、小さい子がお母さんから怒られるのをやり過ごすような感じじゃない」

 相変わらずのご明察に、具衛はまたぐうの音も出ない。

「人の事を何だと思ってるのかしらねまったく」

 当たり障りない事言ってやり過ごしてるだけなの? などと、具衛が黙っている間に仮名はまた、火がついたように自分で自分を追い込み始めた。

「いや、そんな事は——」

 ——これだ。

 急転直下。仮名はこれがあるのだ。

 さっきまでの上機嫌が、あっと言う前に形を潜め、途端に雷雲が立ち込め始める。

 う——。

 どうしたものか。実際の天気は頗る良いと言うのに。

「——何てね」

 そんな中で仮名は舌を出して、再び悪戯っぽく笑んで見せた。

「冗談冗談」

 ははは、と明るく笑い飛ばし始める仮名に、

「はぁ」

 具衛は、あからさまに気の抜けたような溜息を一つ、大きく吐いた。まんまと謀られたらしい。

「こんな感じでね。腫れ物扱いされては寂しい思いをしてるから。ついね、つい」

 そう言うと、仮名はまた目を遠くに投げて口を閉じた。

 ——やれやれ。

 只ならぬ美人だが、本当に気疲れする。この抑揚さえ何とかなれば、これ程の女はそうはいないのだが。この先もこのつき合いを続けて行くには、

 相当の覚悟がいるなぁ。

 具衛はのんびりと、内心で毒づいた。

「ホントに、ホントだ——」

 また不意に、仮名が口を開いた。

「彼岸花だ。私」

 それに合わせて、具衛がまた顔を本に向けたまま、目だけ動かして仮名をちら見した。その顔は田野に向いてはいるが、明らかに目に力がない。

 また——

 寂然としているではないか。何と言う忙しさなのだ。なまじ頭の回転が早い分、思考の展開も並ではないらしい。具衛などの拙さでは、到底その思考に合わせて気の利いた言葉などかける事は無理だった。

 みるみるうちに、その横顔が嫌に儚いものになる。まるで心ここにあらず、と言うか。何か声をかけてやらないと、不意に何かに魂が抜かれてしまうのではないか。そんな只ならぬ雰囲気を纏い始めている。やはり、

 ——これだ。

 人ならざる物だと錯覚していた当初の感覚だ。先程まで、からからと笑っていた人間と同じ人間なのかと疑いたくなる程の自失。そしてその先の何かに陶酔する向きや、まさかとは思うが何処か倒錯し兼ねない危うさすら感じてしまう。

 一体何が——

 その心底に巣食っているのか。

「仮名、さん?」

 具衛はやっとの思いで、呼びかけてみた。もっと軽い声を出したかったが、物の見事に気持ちが乗って欲しくない時に限って余計な気持ちが入ってしまい、実に重苦しく吐いてしまった。

「——何?」

 ほんの少しだけ、具衛に目と顔の角度をくれてやる、かの如き頑なさなどは、また梅雨時の事故時のそれに戻ってしまっている。

「どう、しました?」

 三度目のこれは演技ではない。やはり腹が据わり切らず、声に迷いが乗ったままの、その余りにも拙い語り口は、吐いてすぐ自分でも思わず舌打ちが出てしまいそうだった。

「声が震えてるわよ」

 一方で仮名のそれは、すっかり冷たく棘々しくなってしまっている。こうなってしまっては、もう何を言ってもダメな事は分かり切ったものだ。そもそもが当初から、口では全く歯が立たない間柄なのだ。取り繕うような語彙力もなければ、それをする事自体がまさに詐欺師めいているし、為人を偽るなどまるで性に合わない。

「私はこう言う時、どうやって声をかけたら良いか分かりません」

 具衛は開き直るしかなかった。

「でも、聞く事は出来ますから」

 今まであえて、知ろうとしなかったその素性を、訊く時が来た事を具衛は何となく悟った。その只ならぬ身分故に、何かに巻き込まれるのではないかと言う不安は、これまで尽きる事がなかった。逆に具衛の素性に失望し離れて行くのではないか、と言う諦めも、常に脳裏にこびりついて剥がれなかった。

 でも、もうそんな事はどうでも良くなった。心底に巣食う何かを取り除く事が出来たなら、このどうしようにもない美人はどうなるのか。具衛はその先が見たくなった。

「良かったら、話してみませんか?」

 誰かに話せば、例え全部取り除けなくとも、

「少しなりとも、軽くなるかも知れません」

 素直にそう思った。

 情が移り始めている事を認識させられた瞬間だった。それが文字通り、身を滅ぼし兼ねない危険に晒され続ける事になるとも知らずに。

 その辿々しい具衛の思いがけぬ吐露に、仮名は相変わらず冷ややかな顔つきでそっぽを向いていたものだったが、

「ふ」

 突然口が緩んだような声を出したかと思うと、何処か達観したような穏やかさを取り戻していた。

「突っ張ろうと思ったけど——」

 くそー、などと悔しげに笑むその目が、何処か少し潤んでいるように見える。が、

「あなたのその可愛らしさは罪ね」

 仮名はこの土壇場で、尚嘯いたものだった。

 この、

 おっさんを捕まえて——

 可愛いと来たか。具衛は思わず突っ伏しそうになる。

「ま、いいわ。私もあなたに訊きたい事があったから」

 そんな具衛を構わず、仮名は薄い笑みを浮かべたまま、続け様に

「あなたには、私がどんな人間に見えてるの?」

 と言った。

「どんな——」

 と言われても。

 富豪の美女が、メイドに囲まれて思い通りの人生を歩んでいる、とでも言え、

 ——と?

 言う示唆なのだろうか。

 ずぶ濡れの凄然たる美女が、時を経て妖艶さを帯びて見えるようになり、それがシャープなキャリアウーマンに変化して、ついには何やら可愛らしげな一面を覗かせるに至った。具衛に見えている仮名の為人は、そんな仮名だ。だがこの場で仮名は、そんな事は訊いてはいない。

「世間知らずの金持ち、と中傷される事を望んでいるように聞こえてならないんです」

 具衛は、疑問をそのまま口にした。

「あなたは、そうは見えないので」

 事実だからこそ、はっきりした事が言えない自分が疎ましい。確かに富豪の令嬢だろうが、それに甘んじているそれこそ甘ちゃんには見えないのだ。しかし具衛には、それを理路整然と、それも仮名を納得させる高いレベルで、論拠に基づいて説明出来る程の確証もなければ語彙力も有しない。自己の言葉の不完全さと説得力のなさに打ちのめされ、悔しさが口端に浮かぶ。すると仮名は、

「ごめん。何だか言いにくかったわね。私が無理に答えをせがむから」

 やはり如才なく、それを掬い上げてくれるのだ。言葉で人を救う事の難しさを思い知らされる一方で、しかして仮名の一言は、自身の批評に対する聡さを思わせるのと同時に、不必要なまでの強い潔さを連想させた。それがまさに今の仮名の、達観した表情そのものだと言う事に気づくと、仮名はまた、

「ありがとう。——でもね」

 寂然の影をちらつかせ始めた。

「世間様は、そうは見てくれないの」

 長々と語ると単なる方向性のない愚痴になりかねない、と言う仮名は、

「有り余る金を目当てにされ、ろくな人間に絡まれない。不自由で孤独な行かず後家の高飛車女」

 との自己分析を、見事に分かりやすく端的に、そして自虐的に語ったのだった。

 具衛としては、長々と語らせて

 少しでも——

 軽くしてやるつもりだっただけに、それを引き出す術が分からず言葉を詰まらせる。聞き役として役不足である事を突きつけられたかのようで、自分の中に、まだ据わっていない部分を仮名に悟られたらしいその不甲斐なさに、具衛は小さく溜息を吐いた。

 このような山小屋に住んでいる厭世の世捨て人なのだ。何の力も説得力も持たない大多数の貧者の一人に過ぎない。精々寄り添って、その愚痴に耳を傾ける事ぐらいしか出来ない事は自分でも理解しているのだが、それすらもさせて貰えないとは男として何と寂しい事か。そう思った時、この女傑は既に女を捨てている、または捨てかかっている事を何となく悟った。

 それで——

 良いのか。

 盛夏の蒸し暑さに無縁の爽やかな冷涼さの只中において、更に人為的な緊張感が加味され、急激に冷え冷えし始めた二人の間に、

「私の全てを知って怖がらない人間は、そうはいないわ」

 仮名は明確に、突き放す一言を呟いた。

「気持ちは有難いけど、これ以上は無理ね」

 また微笑んだ顔を寄越した仮名だったが、一瞬少し細めたその目元は笑ってはいない。

「だって、折角ここまで仲良くなったんだし。もうちょっと夢みたいわ」

 そこがデッドラインのようだった。

 もう少し腹を割りたい思いがあったのだが。虚心坦懐の気概で聞き始めたにも関わらず、仮名の防御壁は予想外の高さで、上も横もまるで果てしない。それ程までに語りたくない身の上とは、一体

 どんなもの——

 なのか。

 これでも具衛は、それなりに現世を見て来た人間、のつもりだった。それこそ上下左右、大抵の階層の人間には一通り接して来たものだった。が、結局は、つもりで終わっていたらしい。頼れないと見なされた、と言う事は、外面に伝わる生き様に厚みがない、と言う事だ。そんな自分が、とにかく不甲斐なく悔しかった。

「ひょっとして、許婚がいらっしゃるんですか?」

 とりあえず、思いつくままに、そう言ってみる。

「そんなんじゃないわ」

 似たようなものだけど、とつけ加える仮名は、

「私を相手取って遜色ない男なんて、そうそういないわ」

 高らかに鼻で笑った。それもそうだと納得していると、

「今、こんな気難しい女なんか、男の方から願い下げだって思ったでしょ!?」

 また微妙なところを見事に掬われる。が、

「そんな事ないですよ」

 珍しく、微妙にその精度がずれた。

 そんな事——

 ないではないか。

 確かに気難しいがそれ以上に、どれだけその言動のせいで、心臓にポジティブな負担をかけられ続けたものか。

 分かって——

 言ってるのか。

「まともな人間なんて始めから寄りつかないから、残るのは野心家のろくでなしばかりなのよ」

 仮名は気にも止めず、持論を吐き続けた。寂しいったらありゃしない、などと一人芝居でツンケンしている。

「だから私にとっては、今のこの状況は夢なのよ」

 その物言いは、かなり突っ込んではないか。一言前に口走った「夢」は、自由の身になりたいと言う意味として捉え、あえて触れなかった。が、今のそれは明らかに、具衛の結界に何歩か入り込んでいる。

 こう言う時——

 何と言ったら、その侵入者と収まりがつくのか。双方が暴走する事なく、傷つかず、とりあえずそのままでいられるのか。悩んでいると、

「ね。そうやって善良な隣人は、みんな引いちゃうのよ」

 仮名が諦めたように苦笑した。

 引いてなんか——

 いない。いないが、諦めて後退る女を引き止める言葉が見つからない。こんな女傑から、夢だと語られるような状況を提供している男など、世界中でたった今この瞬間、何人存在すると言うのか。まさが自分が、そのうちの一人になろうとは、

「想像が追いつかないだけ、ですよ」

 また素直な言葉が思わず漏れ出た。

 ——そうとも。

 無意識的に、つい為人以外の支えを見い出そうしてばかりいたのだ。曖昧でいい加減なくせして、如何にももっともらしい世間の常識と言うヤツに、いつの間にやら取り込まれていたのだ。その分かりやすい外見や振舞ばかり気にして、そこから見えて来るステータスばかり目をつけては、勝手に固定観念を植えつけ偏見めいた物の見方をしていただけではないか。折角、お互いの素性を伏せたまま始まった間柄なのに、つい世の中で通用しやすい、分かりやすいステータスを求めては、それに惑わされてしまう。

 為人だけ——

 見ればよいのだ。

 為人と肩書きは、全くの別物の筈ではないか。少なくとも具衛は、そう考えて生きて来た筈だった。それが突然現れた余りにも眩し過ぎる存在に目が眩み、目につきやすい物にばかり目が逃げていたのだ。肩書きが人を作る。確かにそうだ。しかしそれは、その肩書きから得られた経験値がもたらす人間性であって一部分に過ぎない。根本ではないのだ。そうだ。何を迷う程の事があるのか。

「根本だけ、見ればいいのか」

「何?」

 また、素直に漏れ出た独り言に、仮名が瞬間で論おうとするのを

「やっぱり健気としか、言いようがないですね」

 具衛ははっきりと、確かな声色で被せた。

「はぁ?」

「彼岸花ですよ」

 人の都合で害獣対策用に植えられた有毒植物である彼岸花は、小さい子供が触るのを戒めるために苛烈な迷信が後づけされたと言われている。多年草でもある事から、基本的に触れなければ害獣対策の意義を全うし続ける

「本当に有難い花ですから」

 だからこそ、自生させる向きを人々に定着させるためにも、周知されているような汚名を着せられた訳だ。更に言えば彼岸花は、またの名を「曼珠沙華まんじゅしゃげ」と言い、釈迦は法華経の中で「天上の花」と説いている。

「加えて綺麗で情緒的。非の打ち所がない」

 中国大陸から人類有史以前に渡来したとも言われ、墓地にも数多く見受けられるそれは、仏教の伝来と共に伝わった意味合いとしては、実のところ問答無用の弔花なのだ。事情が理解出来ない若年層には忌み嫌われる向きが強いが、事情を知る支持層が多いであろう事は想像に無理がない。

「それを都合良く投射するとは、あなたらしくもない。そもそも、そのややこしい周辺事情なんて、花には関わりがないでしょう」

 彼岸花のネガティブなイメージに感けていた仮名を、具衛は容赦なく覆した。止めを躊躇すると、逆に止めを刺され兼ねない口達者である。勢いに乗ったなら、それで押し切る他に具衛には手立てがないのだ。

 自分の中に、仮名に対する好意が芽生えている事は最早疑いようがない。それが人としてなのか、それとも更に突っ込んだ先の関係でそれを望むのか。それはまた別の話だ。今は焦らない。が、

「私には関わりがあるのよ。そのややこしい周辺事情は。面倒くさいのよ。多分、国内有数で」

 言い負かされる事に慣れていない立ち位置を貫いて来ている仮名である。何やら腹が据わり始めた具衛に勘づいた様子を見せるも、本能的なものかそれとも反射なのか。具体性が滲む内容をちらつかせながら噛みついて来た。

「素敵な物は素敵。それだけです」

 それでも勢いづいた具衛は、仮名の吐いた内容を丸飲みしつつ、持論を突き進んだ。消化不良は後で治せば良い、と言うスタンスだ。が、実はこれが致死量である事をよもや知らないこの時の具衛である。後になって青くなるのだが、今は只、熱っぽく口を動かしていた。

「誰が何と言おうと、私は好きですけどね。彼岸花」

 どのみち何かが成就する事もなければ、長続きする事もない間柄である。それならそろそろ、それなりに想いを伝えても良いのではないか。綺麗なものは綺麗。好きなものは好き。今のその感情は紛れもない事実なのだ。

「な、何よそれ」

 クソ、と小さくも口汚く吐いては「やはり山の人間は単純過ぎるわ」などと嘯く仮名は、戸惑いや悔しさを滲ませ、小さく唇を震わせながら顔を背けた。

「だからあなたは、可愛いんだって言ったじゃないのよ」

 綺麗だとか好きだとか「よくも言ったもんだわね」とか「彼岸花のネガティブな印象づけは策略か」などと恨み節に事欠かない仮名は、勢い余って

「バカじゃないの!?」

 ストレートな感情を吐き始めた。

「バカはバカと言われても、堪えませんから」

 気楽なもんなんですよ、と珍しく言いたい事を言い切った具衛は、すっきりした顔をしている。

「何よ! 自分だけすっきりして。そもそもが、私の話を聞いてくれるんじゃなかったの!?」

「聞きますよ」

 聞く用意は、もう出来ているのだ。

「それを渋っているのは、あなたの方です」

 珍しく筋が通ってしまうと、仮名はそっぽを向いたまま、身体を小さく痙攣させた。

「くっ」

 縁側の右隅から、珍しく悔し紛れの声のようなものが小さく聞こえる。

「——知って後悔しても知らないわよ」

「大抵は知らない事にこそ、後悔が生まれると思うんです」

 好きこそものの何とかですし、と何気なく口にすると、仮名はまた一瞬小さく震えて見えた。どうやら意外にも本当に、そうしたスキンシップめいた事に、

 免疫が——

 ないらしい。

 以前、仮名の叔母を騙った家政士のユミさんが、仮名をチクチク突きまくっていた事を思い出す。

「だから私のは、大抵から外れてるんだって」

 それでも「ホントに何度言っても分からない子ね」などとわざとらしく子供扱いして見せては、また饒舌を取り戻して来た仮名が、

「そこまで言うなら、今この場で年だけ教えてあげるわ」

 言うなりその御尊顔を、思い切り具衛に突きつけた。

「さあ、何歳に見える!?」

「えぇっ!?」

 今度は明らかに、具衛の身体が痙攣した。

 今更、

 ——何歳?

 に見えるとか言われても。

 そう訊くからには、三〇そこそこではないのか。と言う事は、それより老若だと言う事なのか。

 分からん——

 と、言いかけたところで、

「お、教えて、くださるんですよね? クイズじゃなくて」

 と言う事を思い出した。

「只教えるだけじゃ、それこそ只でくれてやるようでつまらないじゃないの」

 口を尖らせるその仕種が、また具衛の脳天を大きく揺さ振る。

 と、年を聞くだけで——

 これ程動揺させられるのか。

 と、するならば、今後この歪な関係が続いて行く中で、他の事が詳らかにされて行く時に耐えられるのか、と生唾を飲み込んでいると、

「還暦」

 仮名がぼそっと呟いた。

「ええええっ!?」

「ウソ」

 具衛の絶叫が終わる前に、その本人によって虚言が申告され、

「はぁ?」

 何かが破裂しかけた具衛が、ガス抜きを兼ねて、盛大に抗議めいた溜息を吐く。

「な訳ないでしょ。いくらなんでも」

 仮名はしれっと嘯き、湯飲みに口をつけて一息入れた。それにしても、

「勿体つけま——」

 具衛もつられて気を落ち着かせようと、湯飲みに手を伸ばすと、

「今年で四二」

 また、作為的に被せられるように仮名に漏らされてしまい、物の見事に湯飲みをひっくり返してしまった。

「あっ!?」

 慌てて立ち上がり、台所から台拭きを取って戻る。

 今年で——四二?

 何と答えて良いか分からず、しばらく座卓を拭く事に逃避した。見えない。どう見ても三〇そこそこではないか。が、確かに精神年齢は適齢かも知れない、と思った。浮ついたところがなく、かと言って年寄り臭くもない。いつまでも若々しい

 お転婆令嬢——

 と言う感想が、一番しっくり来た。

 開示された年齢を噛み締めれば噛み締める程、何かが込み上げて来て、動揺が動揺を呼ぶ。開示された感想を何か伝えるべきなのだろうが、若々しい事は良いとして、お転婆令嬢とは流石に言えない。

「感想は? 一言もないの?」

 その相変わらずの凛々しさが、まるで何処かしら

「若々しくも、只ならぬ風合いを帯びた——その、琴心剣胆の姫将軍、と言うか——」

 土壇場で辿々しくも、素直な感想を盛らせた。

 以前に口走った「くノ一」よりは「姫将軍」と言った方が少しは響きが良いし、若々しいイメージが伝わりやすいのではないか、と何とか舌を回したところ

「あら、拙い舌でよく言えたわ」

 琴心剣胆って良く出て来たものね、と仮名は満更でもない様子であり、とりあえずホッとする。それなりの年齢になって来ている具衛は、肉体的にはまだそれなりに若年層で通用するところがあるが、精神的には元々地味な人生を送って来た男である。例えば、二〇前後のギャルチックな陽気さには、到底ついて行ける気がしなかった。そんな事情からも、仮名の落ち着き振りは具衛には眩しい。

「お返しに何か喜びそうな事を言ってあげたいけど、年齢絡みじゃ余りいい話はないわね」

「そんな事ないですよ」

 具衛は正直、具衛の視点では仮名との波長は悪くないと思った。確かに高飛車でプライドが高く扱いにくい。が、慣れて来れば、その先に垣間見る事が出来る豊かな善性と優れた気働きは、既に高い信頼感を寄せるレベルであり安心感が半端ない。年齢絡みで良いイメージこそあれ、悪いそれは具衛には想像が及ばないのであるが、只それを最後までブレずに確かな口振りで語り尽くす度胸は、今の具衛にはまだ練られていなかった。が、仮にもし、行き着くところまで行ったならば、

 ——姉さん女房?

 などと有り得ない想像をしたりして、勝手にへにゃへにゃになりそうになるのを堪えていると、派手にその上を行くのが仮名と言う女である。

「子作りは出来ても、子供は難しいかもね」

「んぐっ!?」

 新しく入れ直したお茶を啜っていた具衛は、途端に両手を塞いで立ち上がった。そのまま怪しく喉を鳴らしながら台所へ駆け込む。小さいシンクを抱えて盛大に咳込み始める具衛を心配した仮名が、

「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」

 縁側から上がり込み、バタバタと台所まで駆けつけた。

「大丈——大——」

 すぐ傍に寄り添われ、その急で思いがけない近さに顔を上げて引こうとするが、誤嚥性のショックは全然収まる気配がない。

「恥ずかしがってる場合じゃない! 全部吐き出しなさい!」

 流石に異変を感じ取った仮名は、躊躇なく具衛の背中を叩き始めた。これが高齢者なら、誤嚥性肺炎の有りがちな一例だが、具衛は流石にそこまで老いてはいない。しばらく背中を叩かれてたり摩られたりするうちに、喋れる程度には落ち着くと、

「もう——大丈夫ですから」

 と言いながらも、具衛は涙目によだれまみれの顔のまま、その場にへたり込んだ。半分窒息状態で咳込んだため、軽い酸欠になったようだ。足に力が入らない。

「何言ってるの!?」

 とても大丈夫には見えない、などと、仮名が手早く台所の布巾かけにあるタオルを手に取り濡らすと、具衛の顔を拭い始める。そうしたてきぱきとした機微が、如何にも仮名らしく如才ない。するとしばらくして、具衛の表情が落ち着いた事を察したらしい仮名が、徐に居間の座卓をずらした。かと思うと、

「ちょっと横になりなさい」

 ふにゃふにゃの具衛は、そのまま身体の何箇所かを掴まれ、あっさり仰向けに転がされてしまった。

「まったく、鈍臭いわね」

 呆れる仮名のその体捌きは、やはり明らかに武芸に嗜みを有する者のそれだったが、続いて具衛の傍に正座すると、今度は有無を言わさず膝枕をするではないか。

「いや、そこまでは——」

 流石に照れ臭く、思わず反射で頭を起こそうとする具衛だったが、

「うるさい、少し黙ってなさい」

 畳んだ濡れタオルで目元を被せて来た仮名に、そのまま両手で額を押さえ込まれた。正直なところもう座っても平気なのだが、物を言おうとすると怒られそうなので、膝枕に甘んじる。

 それにしても、昨夕からの盛り沢山の急展開に、

 ——出来過ぎだ。

 相変わらずバニラとハーブの混ざったような、仄かに甘く爽やかな良い匂いに鼻をくすぐられ、休まるどころか余計疲れる程に心臓がどたどたしていた。

 これはやっぱり——

 逆に心臓に悪い、と起き上がろうとするが、頭を起こそうとする度それに合わせて上から額が押さえられて起き上がれない。二、三回同じ事をすると、頭の上からくすくすと小さな笑い声が聞こえて来た。

「いいから、少しこうさせて」

 してろ、じゃなくて——

 させてなのか。

 どう言うつもりなのか推し量り兼ねた具衛の頭は、すっかりのぼせてしまった。幸いにも濡れタオルで目と額は覆われている。目が隠されている事もそうだが、それ以上に顔の火照りを取ってくれる事が何よりも助かった。濡れタオルがなければ、今頃顔は真っ赤になっている事だろう。

 少しすると額から手の重みが消え、代わりに髪を撫でられ始めるではないか。

「あ、あの——」

 昨日の夕方前から風呂に入っていない身である。流石に気が引けて、動揺が声になって漏れ出た。

「なぁに?」

 ——な、

 なぁに、とは何だ、なぁにとは。そんな甘ったるい声など、出した事がなかった筈ではないか。それを今、

 ——ここでやるか。

 そのせいで、言いたい事を、

「忘れました」

 物の見事に失念してしまう。

「何よそれ」

 そのいつもの声で、スイッチが入ったように瞬間的に思い出して

「丸一日、風呂に入ってないんで、髪臭いですから」

 と口を動かすと、

「そんな事?」

 仮名はまた、盛大に噴き出した。

「あなたはホント——」

 素直で可愛い、のだそうだ。

 三八のオヤジを捕まえて、などと言いかけたが慌てて止める。仮名は年上なのだ。年齢を開示されると、こうした配慮も出来るし、やはり具衛には良い事しか思い浮かばない。が、仮名はそうではなかったようだった。

「好きでやってるんだから。——私はこんな事しか出来ないし」

「こんな事って」

 これ以上望む男がいるのか、と口走りそうになった具衛より先に、

「仮によ、例えばの話で、さ」

 仮名が被せる。

「さっきの話の続きで——」

 それはこの状況の元凶か、と今度は誤嚥をしないよう、具衛は予め生唾を飲み込んでおく。

「仮にもし将来、私達が結婚したとしても、もう年齢的に子供を授かる可能性は低いわ」

 念には念を入れたような仮名の仮定は、それでも具衛に多大な動揺をもたらした。緊張で身体が固くなるくせに、まるで力が入らない。また、何かの魔術でもかけられたかのようだ。今の境遇では結婚すら想像出来ないのに、ましてや自分の子供など。その上更に、それを口にするのが世も羨む聡明な美女なのだ。とても自分事として考える事が出来なかった。

「二人だけで、よくないですか?」

 具衛は辛うじて、それだけ答えた。大体が、このままずっと続いて行くなど到底有り得ない関係なのだ。例え話といえども、素直な好意を示せる相手が偶然にも人生を共にしてくれるのなら。それ以上を望むのは、それこそ罰が当たるような気がした。そう思うと、何処か他人事のように思えて来て、少し冷静になる。

「うーん」

「里親って方法もありますけど」

「そうだけど——」

 仮名にしては、いつになく歯切れが悪い。その声が、気のせいか何処かしらいつも以上に艶っぽく聞こえるのは、やはり気のせいなのか。きっとそれは、仮定ながらもこんな話を他人と、それもこの只ならぬ美女と只ならぬ状況下で話しているからなのだろう。そもそもが如何なる種類のものだろうと、何らかの好意を持ち合わす事なくこのような話を男とする女がいるのだろうか、と言う事だ。

「どうせなら、もしそうなったら、私はあなたと私の遺伝子が混ざった子供が欲しいのよ」

 そんなリアルな願望めいた事を口にされると、やはり何らかの好意の存在を感じざるを得ないではないか。また先程むせた記憶が思い起こされ、急に喉がむず痒くなった。

「どんな子が生まれて来るか、何か面白そうだと思わない?」

 生物学的興味のような言い回しで何かを紛らわしたつもりのようだが、内容が内容なのだ。

「そんなもんですか?」

「そんなもんよ」

 昼日中だと言うのに急転直下で、今度は予期せぬ方向に雰囲気が怪しくなる。とりあえず再び、濡れタオルで目元が覆われている事に感謝した。

「だって私、あなたの事、結構好きだもの」

 高飛車なお転婆令嬢が、何を血迷ったものか。膝枕で身動き出来ず逃げられないにも関わらず、何やら聞いてはならないような文言が、ついにそのまま耳に届いてしまった。

 静かな周囲に二人切りの上、滑舌の良い仮名のその一言は、冗談に聞こえない。でも、

 何を——

 答えれば良いのか分からない。

 また緊張で身体が硬直すると、具衛の鼻先に更に甘い匂いが強くなったのと同時に、唇が何か柔らかい物で塞がれた。その吐息が記憶に蘇ると、瞬間でまた鼻の奥が血生臭くなるようで、それよりも何よりも気が遠退きそうになる。

 が、次の瞬間、今度は両頬を目一杯摘まれ盛大につねられた。お陰でどうにか意識は保たれたが、その代わり、

「いでででで」

 唇越しに無様な声が漏れ出てしまう。それでも構わず唇を合わせていた仮名が、数秒後には堪り兼ねたように噴き出しながら離れた。

「ホント、ムードってものがないわねあなたは!」

 また失神でもされて遅刻させたら職場の人に悪いわ、と愚痴を漏らしながらも合わせて膝枕も外す。そのまま立ち上がる気配と共に遠退く足音で、解放を認識した具衛がようやく半身を起こした。一瞬遅れで濡れタオルが額から腹に落ちて、間抜け面が露わになる。昨夜も物こそ違えど、似たような展開でやられたものだ。

 スキンシップに弱いのは、

 ——俺も同じだなぁ。

 人の事など言えたものではなかった。

 タオルを手に取ると、すっかり熱が移って温くなってしまっている。それ程火照った具衛の事など構わず、早くも仮名はサングラスをかけ帽子を被り、靴を履いて靴脱石の上に立っていた。

「出勤までもう少し時間あるでしょ。お風呂入って支度したら?」

 流石に「年の功」と言うべきなのか。年齢が分かった以上、うっかりした事が更に言えなくなったものだが、そんな事をぼんやり考えている具衛を、口元で薄く笑んでは小さく嘆息する仮名の余裕振りと言ったらない。そんな、何処か粋な雰囲気にすっかり飲み込まれている具衛に

「また来るわ」

 と言い置いた仮名は、そのまま車に乗り込むとあっさり立ち去った。

 唇を奪う過程と言い、その流れるような鮮やかな立ち去り際と言い、

 何処ぞの歌劇団の——

 男役のようだ。

 事が絡む土壇場ではリードされっ放しだった具衛は、そんな呆けた想像がやっとと言う情けなさである。目を瞬かせながら、間抜けにもつねられた頬を手で摩っていると、その麗人を乗せた車はあっと言う間に見えなくなった。


 一〇月に入った。

 県北の山間部に位置する真琴の会社の周囲は、取り囲む山々が既に少しずつ色つき始めている。

「株式会社高坂マテリアル」と言う名を冠するその会社は、約二〇年前社内工場の再編を行い、神奈川県の都境にあった本社兼主力工場を、広島県北西部の中山間地域に位置する地方都市に移転させて以来、本社は広島県の片田舎にあった。

 当時としては思い切った移転だったが、半導体を主力生産する会社として、環境の良さと豊富な山水、高速道路IC傍にある広大な敷地と交通の利便性、と言うポジティブ材料に目をつけ移転を断行した結果、更に会社を発展させた上、地方自治体の雇用創生やインフラ整備を始めとする中山間地域の活性化に一石を投じ、国も目を見張る程の積極的社内再編における企業と自治体の成功モデルの一つとなった。

 通称「サカマテ」と言えば、半導体の世界シェアで、圧倒的な強さを見せる米企業に対抗し、国内勢で唯一健闘を見せる「日の丸半導体」最後の砦であり、今や国内シェアは五割に達している。

 その本社棟の一室で、真琴は事務机上にファイルやペーパー資料、機械の模型などを所狭しと並べ、椅子に凭れかかっていた。眉間に皺を寄せ、目頭を押さえて瞑想している。整然と並べられてはいるが、ファイルやペーパーは付箋紙塗れで、そのまま卓上箒の代用に使えそうだ。

 室内は真琴の自宅の居間と同等程度の広さで、応接ソファーつきで軽く三〇畳はあろうかと言う広さであるが、事務机だけで二畳弱はあり、キャビネットや応接もあれば、室内は真琴の自宅の居間よりやや手狭に感じる。座高よりも頭一つ分は高いエグゼクティブチェアに埋もれたまま、椅子を半回転させた真琴は、徐に目を開いた。

 秋か——。

 緑に混じって燃えるような朱や赤が、山を彩り始めている。日を追う毎に彩りが広がりを見せている室内から見える山々は、真琴が社内で唯一、安らぎを感じる事の出来る景色だった。

 四月に赴任して以来、息抜きにこの山々を眺める事が増えた。それまでの真琴は、都会暮らしで人工物に囲まれた生活が当たり前であり、自然に心を寄せる機会も気持ちも殆どなかった。

 ——山はいい。

 職場の自室から見える景色は、山々が折り重なり奥行きのある西中国山地を臨む雄大な景色であり、中々圧巻のパノラマである。当初は、端末や書類に目を通す生活で、目が近くなっているのを一瞬でほぐしてくれる事から、何となく息抜きで眺めていただけだったのだが。梅雨真っ只中の六月に偶然見つけた山小屋で、箱庭のような景色を眺めるようになってからと言うもの、移り行く自然に心を寄せるようになった。

 六月以来、週一で通うようになったその山小屋も、訪ねる度に社の周囲同様に秋の訪れを感じさせるが、真琴の自宅周辺では、まだ半袖で過ごす人も散見される程に季節感の差がある。

「着る物に気をつけた方が良いですよ」

 とは、山小屋に住む仙人暮らしの「先生」の言だったが、それは事実だった。職場と自宅の往復だけで、季節が一か月は違うのだ。特に寒くなる時期のそれは、一番季節の開き方が大きくなると言う。

 瀬戸内海に接する広島市内中心部は、気候的には年間を通じて晴れた日が多く、晩夏から初冬にかけては地中海性気候に近い。温暖な日々が長く続き、近年では秋をすっ飛ばして突然冬が来るような感覚である。ところが「サカマテ」の所在地である県北西部は、明らかに内陸性気候であり、夏は暑く冬は寒い。特に秋は一日の寒暖差が大きく、ひどい時には二四時間で四季を感じる事が出来る程であった。

 今日も出勤時は、冬物のコートを羽織るかどうか悩んだものだが、街の朝はまだ寒さに乏しく、結局秋物の薄いコートにした。パンツスタイルのスーツも秋物である。だが、高速道路での出勤途上、車外温度を示す車の温度計がみるみる下がって行くのを見て青ざめたものだったが、後の祭り。結局出社直後、余りの寒さに従業員に貸与されている、赴任以来未着用だった会社ロゴ入りの冬用防寒ブルゾンをロッカーから引っ張り出して着る羽目になり、朝一のホットコーヒーを持って来てくれた秘書課の女史から笑われたものだった。

 日頃からそれなりに体を動かして、体力の維持を心がけているとは言え、寒いものは寒い。社内はSDGsを意識して、春から秋はクールビス、秋から春はウォームビスを提唱しており、この時期の空調の設定温度は何処もかしこも二〇℃だ。寒さに慣れていない体が暖まるには少し弱かった。

 あいつの——

 言う通りだった。

 真琴はそんな事をぼんやり思い出しながらも南側の窓に目を移し、山小屋に至る山々を眺め始める。十四夜以後も、週一ペースで山小屋に通っているが、あれ以来二人の間に目立った進展はなかった。何処かへ出掛ける事もなければ、先生が真琴の自宅を訪ねる事もなく。二度唇を重ねた割に、相変わらず二人は仮名と先生のままだ。

 あの日の前日。おたふく風邪と無菌性髄膜炎の完治診断をようやく得た真琴は、嬉しさの余り先生に長文のメールを打とうとした。山小屋を訪ねる機会を二回すっ飛ばさざるを得なかった上、家政士の由美子も東京へ帰してしまい、一人の療養生活は思いの外応えた。死ぬような事はないと分かってはいたが、健康を害した状態で一人で在宅療養していると、思考が自然に後ろ向きになってしまう事を、真琴は今回程痛感させられた事はなかった。これまで大病に全く縁がなかった真琴にとって、この二週間の療養は人生初の長期病欠だった。外見の洗練されたイメージとは裏腹に、人生の大半を気合いと根性で乗り切って来たこの女傑は、この二週間の療養を、日頃の激務の骨休みぐらいにしか考えていなかった。

 ビジネス上、急ぎの仕事はなかったが、懸案を上げると切りがない。いくら切れ者の即戦力で就任させられたとは言え、一人で出来る事には限界があった。いい加減ここら辺で、四月から自分がやって来た事が、社内でどの程度の影響力を及ぼし始めているか、自分が抜ける事で試す必要があった時の病欠である。少しは、自分が抜けても仕事が回っている事を期待していたのだが、戻って来た時の落胆振りと言ったらなかった。それでも健康を取り戻し、復帰出来た喜びは大きかった。健康の価値は病気になってこそ分かる、と良く聞くが、この才色兼備の只ならぬ女傑も、それは例外ではなかった。

 病気療養中にメールをしなかったのは、先生に言った通り、押しかけられてうつしてはいけない、と言う配慮だった。

 あいつは多分——

 妙な責任感を帯びては、必ず押しかけて来る。その推測から、メールを送る事を憚ったのだ。

「——適当に取り繕ってメールを打てば良かったじゃないですか」

 と先生が言ったとおり、実際真琴も打とうとした。のだが、普段事務連絡と変わらない味気ない内容でしかメールを送っていなかった真琴だ。いきなり取り繕うと

 ——変よね、やっぱり。

 と思ったのは勿論そうだが、それ以上にいざ打ち始めると、殊の外思いが溢れる内容になってしまい、妙に小っ恥ずかしくなった、と言うのがメールを打たなかった本当の理由である。

 こ、こんなのは——

 送れない。と同時に、

 ——寂しい。

 そんな錯綜が日を追う毎に押し寄せて来たが、どうしようにも出来ない。結局二週間、沈鬱、ぶっちゃけ半分泣きべそをかきながらの療養を余儀なくされると言う、口が裂けても死んでも誰にも言えない失態を、真琴は自宅で晒していたのだった。

 で、完治を得て早速、メールを打ち始めたのだが、打ち始めるとやはり、療養中の鬱憤が見事に出てしまう。我に返ってみると、先生の暴走を慮るが故に苦しい思いを強いられた、と言う情けない恨み節の長文を延々と認めていた事に気づいた。

 ——あ、危ない。

 送信する直前でどうにかそれを思い止まり、何とか破棄出来たのは良かった。こんな子供染みた情けない長文を送りつける失態に比べれば、十四夜の出来事は殆ど真琴のペースだった事もあり、全く問題にならない。思い止まった真琴は、完治を得た当日、翌日の先生の襲撃に備えて掃除や料理に勤しんだ、と言う訳である。

 過去のメールから先生の非番日を計算の上、十四夜当日の夕方、満を持してメールを送ったところ、予想通り先生が血相を変えて自宅を急襲して来たものだから、内心大笑いしてしまった。しばらくは、掌の上で扱うが如く、先生の言動がおかしくて構っていたのだが、途中から同時に満たされて行く感覚が芽生え始め、自分でも驚いた。次第にその思いは脳裏で思わぬ拡大をし、当初は夕食を済ませたら車で送って行こうと思っていたのが、折角の機会に惜しさが出て来て、気がついたら自分が暴走していた。

 そのきっかけは「病は気から」と言った先生の一言だったのだ。まさに病以上に凹んだ療養期間を強いられた真琴にとって、既に知己の間柄となっていたにも関わらず、それを頼る事が出来ないと言う辛さを経験させられた事は、即ち先生に何処かで依存した生活が真琴の中で存在する事をはっきりと認識させてしまったのだ。つまりは世間一般で言われるところの、惚れた腫れたである。

 わ、私が——!?

 内心でそれに驚いたが、いきなり自分の中でそれを受け止められよう筈もない。とりあえず動揺を鎮めるために、あーだこーだと、それこそ本人を目の前に子供染みた駄々を捏ねては、困らせるような憎まれ口を叩いてみせた。それでも沸々と何かが湧き上がって来ては、何処かにそれがもやもやと留まるのだ。結局、そのもやもやを拭い切れなかった真琴は、翌日の告白だか独白だかよく分からない、想いの暴露に至ったのだった。

 暴走したのは——

 自分の方だった。

 あんな何て事ない平凡そうな男に、とは少し言い過ぎかも知れないが、確かに面はそれなりに良いものの、後は只の変わり者でしかないのに。

 その何て事ない男はと言えば、よりによって夏を迎えて以降、着る物はおろか小屋の中の至るまで、仄かにバニラのような匂いを漂わせ始めた。米糠に含まれる成分の一部が、涼しいとは言え盛夏の熱で、バニラ香の元であるバニリンを生成したようなのだ。その事実は、真琴が既製品の米糠洗剤で実証済みであり、特に驚きはなかった。のだが、意味合いとしては、油断していると失笑が漏れそうになる。

 だって——

 何て事ない男から、

 ——バニラだなんて。

 真琴は密かに鼻で笑ったものだった。

 英語の比喩でバニラと言えば「凡庸」を意味するそれは、俗語でも芳しからぬ使われ方をする。それは最近、真琴自身からもしている匂いだが、真琴のそれは、自分で言うのも何だが流石に物が良く上品な香りだ。加えて凡庸とは駆け離れた立ち位置の真琴には、流石にそれを論った中傷は聞こえて来なかった。

 一方で先生のそれは、やはり米糠メインの匂いなのだが、気の抜けたパンと言うか、仄かに漂うぼやけた甘さは、一言で言うと安っぽさを思わせ、余計笑えたものだった。その何処かしら垢抜けない子供っぽさに、当初は微笑ましく思っていたのだが。そんな自分が、その何か何処かに移気をもよおし始めている。

 奇しくも以前、ふと自分が、

 能動的に籠絡したらどうなるのか——

 と思った、その通りの行動を図らずもやってしまった結果が、あの二日間だった。が、それ以後二人の立ち位置は、また元の鞘に戻ったように何も変わらず、お互いに感情的、衝動的な行動も、全く鳴りを潜めている。

 何か外的要因が

 ——必要?

 なのか。

 ぼんやり南の山々を眺めていると、卓上の電話が鳴った。机に向き直して壁掛け時計を確かめると、午前一〇時半を示している。

「もう、こんな時間か——」

 他に誰もいない室内で、大きな溜息を吐いた後受話器を取ると、やはり予定の来客が到着した、との連絡だった。受話器を置き、

「あいつか——」

 と舌打ちしながらも頭を抱えていると、何者かによって居室の片開きドアが、無遠慮にも盛大なドアノブの音と共に開け放たれる。

「やぁー専務! 久し振りぃ!」

 入って来たのは、働き盛りの四〇代と言わんばかりの、豪放磊落めいた堂々たる偉丈夫だった。

「何年振りかなぁ!」

 背広姿が板についている一八〇cm越えの男のフラワーコーナーには、テレビで見慣れた赤紫色のモールに金色菊花模様を配した権力の象徴が取りつけられている。それがずけずけと入って来るなり、卓上にうなだれている真琴の手を勝手に取ると、委細構わずぶんぶん振り回しては無理矢理立たせると来たものだ。その厚かましさと言ったら、忌々しい事この上ない。真琴は、盛大に顔を顰めて空いている左手で頭を掻きむしった。

「久し振りに会ったのに、そんな顔をしなさんなぁ! ハハハハハーッ!」

「外務大臣ともなると、より一層厚かましさが増したんじゃなくて?」

 高千穂隆介たかちほりゅうすけ。四八歳。元外務官僚。早々に引退した父の地盤を引き継ぎ、三三歳と言う若さで衆院選に出馬し当選。以後、衆院五期連続当選中と言う若手有望株である。出身は東京だが本籍地は広島市であり、広島出身の元首相高千穂隆一郎たかちほりゅういちろうの二男と言う秘蔵っ子として、政財界では知らぬ者はいない。が、それにも増して悪名高く、父の威光を傘に威張り散らしては、この春から外務大臣を務めている、とは、どこからともなく漏れ出ている風評。

「まぁ、そう言いなさんなって。今日は隣の選挙区の御大将もお連れしたんだから」

 ささっ、先生! どうぞこちらへ、などと高千穂は、口八丁手八丁で一緒に入って来た、七〇前後の尊大そうなバーコード頭の背広男を真琴の前に引き寄せ、無理矢理握手をさせる。

 ——うわ!

 何と言う脂っぽい手か。

 下手泰然しもてたいぜん、六八歳。高千穂の隣の選挙区で傍若無人を働く、与党「自由共和党」の重鎮。選挙区に大手自動車会社を抱えるも、労連勢力を差し置き、票田、資金源を構築している中々強かな選挙屋であり、それ以外では脳もないのに金に物を言わせては、昨春から当たり障りのない国家公安委員長のポストを得たと言う権力の亡者、とは、やはりどこからともなく漏れ出ている風評である。あだ名は苗字の読み返えから転じた「ヘタレ」。

 月並みな口上を交わした時に手に伝わる滑りがひどく、瞬時に嫌悪感最高潮となったが、そこをどうにか堪えた真琴は、

「ほら、時間が勿体ないわ。早く工場視察に行って来なさいよ」

 と、二人のポマード臭い男達を追い払う。

「じゃあまた後で!」

 颯爽と退出した男達と、この後外出する予定になっている真琴は、まずは室内の端にある洗面台で、石鹸を大量に泡立たせて入念に手を洗った。

「——何で私があんなヤツらを相手しなきゃなんないのよ!」

 とは言ったものの、現職の二大臣を相手取る役回りなど、社内でも限られようものだ。

 株式会社高坂マテリアル取締役専務執行役員兼CAO(最高総務責任者)。今春からその肩書きで務めている真琴は、一応その限られた人材と言って差し障りがなかった。一応上には社長も会長もいるのだが、いずれもオヤジ達である。それも中々の古狸と来ている。それよりは表向きに見映えのする「美しすぎる専務」が対応した方が、会社としても何処かに対して覚えがめでたいと言うものだ。そんな宛てがわれ方がまた、忌々しかった。

「あー嫌だ嫌だ!」

 呪文のように繰り返すも中々取れない滑り気は、長年の油っこい食事と酒浸りによるものだろう事は容易に推測出来る。それを可能にして余りある身分なのだ。国家に寄生し、金と権力に執着する亡霊。それが今のポマード男達だ。

「選挙期間外だってのに!」

 今日の来訪も、建前は視察と言う事になってはいるものの、単に選挙対策だ。就勤中は多忙を極めると言うのに、高千穂の勧めと言う名の圧力で、今日はもう仕事にならない。午後からは「先生」の町の役所前にて演説会に参加させられるのだが、その前には町の有力者の豪邸で昼食会と言うから、重ね重ね堪ったものではなかった。

「今の今だって、違法演説やってやがるんだから!」

 選挙運動とは、基本的に選挙期間中に限られる。だからその期間外の活動は「政治活動」だ。「選挙活動」であってはならない。一見小難しい言葉遊びのようだが、ようは票集めに繋がるような言動さえ気をつければ、その根拠法たる公職選挙法に反しない、と言う訳だ。のだが、饒舌にして功名心旺盛の方々の事、口がよく滑る。滑るのならまだ良い方で、大抵は意図的なものだったりする。が、演説中にうっかり票集めに繋がるような文言が出たからといって、即座に検挙される事はない。何事もある程度は遊びがあるものだ。そこはまさに「言葉遊び」ではないが、その範疇で片づけられて行く。

「SPやら警護の人間も現職の警察官だろうに、何やってるのかしら全く!」

 真琴が怒るのも無理からぬもので、法の額面上は例え口が滑っただけでも、現行犯逮捕が可能だったりするのだ。もっとも警護の人間が、その警護対象者たる大臣を選挙違反で現行犯逮捕したなど聞いた事もないのだが。結局は国家の犬、と言う事なのだろう。飼い主に咬みつけば後が怖い。

 矛先を同じ穴の狢に向けながらも、洗った手を嗅いでみてた真琴が、

「落ちない!」

 また洗い直す。

「どんなモン飲み食いしたら、あんな脂っぽい手になるのよ!?」

 日頃、殆どベジタリアンに近い食生活を送っている真琴にとって、その滑りは到底受け入れられない穢れであった。


 同日、午前一一時四〇分。

 ピカピカに磨き抜かれた黒塗りの国産高級ミニバン二台と、それを取り巻く数台が、車列をなして仰々しく「サカマテ」を出発した。高千穂外相と下手国家公安委員長は、それぞれ別車に乗車した。両方とも「自共党」の車であり、別々乗車は万が一を考えての事、と言う事らしい。

 これと全く同じ車に追われた事が、

 ——あったっけな。

 それは実に早いもので、あれからもう三か月になる。先生の山小屋へ向かう際に使う通い慣れた道を走り始めた車内で、真琴が花火大会での交通トラブルを思い出しては表情を和らげていると、

「やっと機嫌が直ったか」

 隣に座っている高千穂が如才なく表情を読み取り、馴れ馴れしく話しかけて来た。真琴は有無を言わさず、高千穂の車に同乗させられている。

「しかしその年で専務とは、出世したな」

 何歳になった、などと年を計算する素振りを見せ、真琴が口を開き鋭い舌鋒を浴びせようとする刹那、

「相変わらずの美貌だしな」

 などと、上手くすかすのも相変わらずで憎たらしい事極まりない。

「何処かの悪徳大臣と違って、こっちは全うに生きて来たから、精々雇われ専務の身なのよ」

 大臣用の高級公用車はどうしたのよ、と真琴は容赦ない。

「公用じゃないのに公用車使っちゃまずいだろう」

「あら、少しはまともな事を言うようになったじゃない」

「外務大臣ともなればな。そう悪さばかりもしておれんだろう」

「お巡りさんがいるのによく言うわ」

 助手席に目を怒らせて乗車している警察官は、背広のフラワーコーナーにSPバッジをつけた大臣専属の警護官である。大臣が行く所なら、国内は元より地球の裏側までも着いて行く、と言う文字通りの「動く壁」だ。大抵は、警視庁警護課所属の護衛のスペシャリストである。因みに前後を挟むセダンは、地元都道府県警察の護衛であり、地元警察官である場合が常だ。この日は、地元に地盤を持つ大臣が二人同時に帰広し、しかも帯同すると言う事で、広島県警から四台十数人体制で護衛警察官が就いていた。

「こいつらは手下だからいーんだよ! 後ろの車にゃこいつらの親分が乗ってるんだし」

 なあ? と悪態を吐く高千穂を、SPは無愛想気味に「はっ」とだけ返答した。国家公安委員長とは、事実上の警察大臣である。

「ハハハハハーッ!」

 と得意気に笑うそれは暴君に他ならず、とは車内の誰もが認めているところではある。

 会社の所在地が

 こいつの選挙区だって事を——

 忘れてたのは、真琴にしてみれば近年稀に見る痛恨事だ。その忌々しさに、自分自身にも高千穂に対しても腹が立ち

「正に『虎の威を借る狐』ね」

 真琴は言いたい放題だった。

「相変わらず手厳しいな」

 そう言うなよ、と高千穂は尚も軽々しい。

「それよりもな——」

「あんた少しは黙ってられないの? 車内の人達みんな閉口してるわよ!」

 真琴は相手が大臣とは思えない物言いで、車内で王様気取りの高千穂を容赦なく罵倒した。

「わーかったよ! 少し黙る」

 流石に憮然とした高千穂だったが、またすぐに小声で真琴に囁いた内容に、大声を張り上げたのは、

「はあ? 何訳の分からない事言ってんのよ!?」

 他ならぬ真琴である。

「こらこら、少し静かにしろよ」

 高千穂はしれっと真琴の口を手で塞ぐが、瞬時にその手を取り返した真琴が、あっと言う前にその腕を捩り上げた。

「あだだだだ!」

 無様な悲鳴を上げる高千穂を、SPや同乗している党員が慌てて見咎める。

「ちっ!」

 真琴が舌打ちをしてその腕を緩めると、高千穂の悲鳴が収まると共にその視線も収まった。今やまさに、一挙手一投足が注目される御大尽と言う訳だ。返す返すも忌々しい。

「気をつけた方がいいぞ。俺は昔の俺じゃない」

 相変わらずだなその腕前は、などと強がる高千穂を

「ふん!」

 真琴は盛大に侮蔑した。

 大臣と言う立場を傘に横暴の限りを尽くせる、と脅している。

「まあ、考えといてくれよ。そのうちお母様からも話がある」

「誰が、またあんたなんかと!」

「俺はやり直したいんだよ、なぁ真琴」

 甘い声を出して真琴を呼びやるこの一見してろくでもない男と、真琴は夫婦だった事があった。

 ——クソ!

 可能であれば人生をその婚前まで巻き戻したい。それが無理なら当時の記憶を消し去りたい。思い出しただけでも虫酸が走るその痛恨事は、外務省が発端だった。

 元外務官僚の経歴を持つ真琴は、二五歳の時、人生最大級の黒歴史を刻む出来事に遭遇した。当時、外務官僚だった先輩の高千穂に、その美貌を見染められてしまったのだ。高千穂は、中々の偉丈夫にして良い男振りであり、真琴が見てもそこそこの仕事振りだった。自身の美貌に絶対の自信があった若かりし頃の真琴は、その分かりやすいステータスがそこそこ気に入り、とある事情を内包した上で、さっさと結婚してしまった。真琴も若かった、と言う事だ。高千穂は元首相の子と言うサラブレッドでもあり、中々人気を博していたが、その裏で「すけこまし」の異名があり、その毒牙に泣いた女は数知れず、と言う女にだらしのない男としても有名だった。が、真琴としては、それでも自分の美貌に平伏しない男など存在しない、と言う自負があり、ちょうどその頃、実家から婚期を心配する声も上がり始めていた事も相まって、ここらで一度結婚しておくのも良いだろう、と言う軽い気持ちも手伝っての判断だったその結婚は、翌年一人息子を出産前後に、このろくでもない男の不倫によってあえなく瓦解する。激怒した真琴は、出産直後に離婚(結局は高千穂が駄々を捏ねたため、法廷闘争の末協議離婚)し、一人息子はその後一人で育てた、と言う拭い難い黒歴史を背負わされる羽目になったのだった。

 その一人息子は現在、本人立っての希望で、東京在住の唯一の実兄に預けている。その拭い難い屈辱は、高千穂よりも真琴に向けられる向きが多く、自暴自棄に陥り自殺が頭をよぎった事すらあった。

「あんたが欲しいのは、私じゃなくてうちの実家でしょ!」

 が、このすけこましは、そんな真琴の懊悩など知る由もない。

「当然それも欲しいが——」

 気障を振りまいて憚らない高千穂が

「欲張りな俺は、お前も欲しいのさ」

 欲しがるその真琴の家とは、旧財閥高坂家の宗家である。

 高坂宗家は、江戸時代に武家から商家に転身し富を築いた一族であり、系図を辿れば戦国時代までは確実に辿れると言う、数百年の歴史と伝統を誇る武門である。商家に転身したとは言え、金で武士の身分や特権を維持していた誇り高きその一族は、明治維新を経て瞬く間に政商に成り上がり栄華を極めた。が、先の大戦後財閥解体の憂き目に合い一度は没落。それでも当時の当主の先見性と商才で不死鳥の如く復活し、一から作り直した別会社で一財産を築くと、瞬く間に旧財閥系グループをまとめ上げ、新生高坂グループとして復活させた。今や高坂宗家は「日本一の金持ち」とも称される国内有数の大富豪である。

 高坂グループのその創業宗家は、先細りの傾向ながら今も尚健在だ。近年に至っては積極的なグループ経営から身を引いているが、優れた人材を輩出したり、グループが宗家との結びつきを気にした折などには、グループ側からの要請により未だ経営に参画している。真琴はその手腕を見込まれ抜擢された手合いの、高坂宗家の一員にして長女だった。しかし如何に有能と言えども、今のご時世下において血筋による企業統治と言う時代錯誤を、その血筋故に疑われる御令嬢に経営を采配される事への反感は強い。複雑かつ肥大化した現代の巨大企業の経営に、その血は馴染まないとする向きの声は、表現を変えて真琴の耳まで届く。

 招聘されたのは、決してその才を頼ったのではなくむしろ媚び、と言う理由の一つに、宗家はグループ企業の膨大な株を握っていた。将来の有事に備え、グループが宗家にそっぽを向かれたくない、と言う当然の予防線だ。真琴はサカマテ専務の他にも「株式会社高坂総合研究所取締役」「高坂財団理事」などの肩書きを合わせ持っているが、高千穂の狙いは真琴が持っているものではなく、真琴の実家の財産と存在感に他ならなかった。高千穂が先程真琴に囁いた「お母様」とは、他ならぬ真琴の実母であり、高千穂でさえ簡単に手も足も出せないような存在として、政財界では知らない者はいない。

 真琴の母は、高坂美也子こうさかみやこと言い、今や高坂宗家の影の当主と称される辣腕である。才智に溢れ、努めて体裁は影ながら夫を支え続けている、と言うが、その実体は政財界の大物フィクサーだった。その出自は、知る人ぞ知る武家故実の大家にして、やはり数百年の系譜を誇るも、今や没落寸前と言う旧家三谷みたに家に辿る事が出来る。が、美也子はその家を継ぐ必要がなかったため、その有り余る気概故に早くから国防を志した。その意気たるや、当時女性に門戸を開いていない防衛大学を始めとする世界各国の士官学校入りを画策した、と言う女傑である。が、残念ながら当時は軒並み門前払いだったため、やむなく東大に入学。卒業後は、安全保障学者として世界的なシンクタンクの渡り歩くが、しばらく後その才を、後の首相である高千穂の父が求めたため帰国し政策秘書となった。この頃、真琴の父と結婚し出産も経験するなど公私共に多忙を極めたが、大変な知恵袋として重宝され、国政の舞台裏で数々の難局を支援。高千穂の父をして「望めば国が取れる」と言わしめられたが、公私両立のためあくまでも秘書に徹したと言う。子離れして家が落ち着くと、首相となった高千穂からその鬼謀を危険視され、後に俗世で無名のまま暗躍される可能性を潰すために、殆ど無理矢理矢継ぎ早に駐仏大使、国連軍縮大使を命ぜられ、還暦を過ぎた身で約一〇年間、時の人となった。世間に身を晒したのはこれが最初で最後であり、以後は政治的関与が疑われないよう、グループ内で事実上の閑職に身を置いている。が、その実今でも、未だ国際的な影響力を持つ高千穂元首相や、仏が誇る世界的コングロマリットの現会長にして元仏大統領のフェレール氏とは、元「仕事仲間」として密接なつき合いが続いていると言う、大物中の大物である。

 真琴を取り巻く周囲とは、こんな実家でこんな母なのだった。余談だが、この超大物の整った容姿と洗練された立居振舞は有名で、真琴のルーツは間違いなくここだ。が、その娘たる真琴は、そんな母とは幼少期から衝突の連続で、ここ何年と言うものは実家に近寄りもしない、と言う徹底振りにして反目の関係だったりする。

「あんまり欲を張ると、ろくな事にならないわよ」

「心配してくれるのか」

「誰が! 寄生虫も程々にしとけって事よ!」

「言ってくれるな」

 バッジをつける者に違わず大概にプライドが高く、その名の通りの如き見栄っ張りのろくでもない男は、それでも余裕振りを見せては、

「いずれは日本一の財力と権力を、俺の物にしてやるさ」

 悪者らしく不敵に笑った。

 殺せるもんなら——

 殺してやりたい。

 そんな男は目下バツ三で、女癖の悪さも然る事ながら、あちこちに子種を振りまくろくでもない「ひも」男でもある。


 自共党の車で運ばれた「先生」の町の有力者が住む大豪邸は、国道沿いに位置する役所の出張所前から伸びる一直線の道路の突き当たりにあった。農村には似つかわしくない白色実線で整えられた幅広の対面通行路は、周囲の道路に比べて明らかにアスファルトが上質で経年劣化を感じさせない。田園風景を貫くその一本道が既に有力者の力の大きさを物語っているにも関わらず、加えてその終点に聳える屋敷は周囲よりやや小高い丘陵上に構えており、まるで辺りを見下ろしては従えるちょっとした城のようだった。

 外観は周囲を白い土塀が囲っており、土台は石垣である。敷地の広さはちょっとした学校の敷地のそれと遜色なく、遺漏なく囲われた土塀の端から端までは、軽く二〇〇mはあろうかと言う呆れた広さだった。と言っても正面から見ただけであり、側面や裏手はまだ目が届かないため、詳細な広さは分からないのだが。正面がこれだけ広いのだから奥行きもそれ相当のもの、と考える向きは自然だろう。ひょっとすると盆踊り会場よりも、

 ——広いんじゃないかしら?

 真琴はまた、先生と出掛けた時の事を思い出し、今度は一々うるさい高千穂に気づかれないよう顔を背けたものだった。ちょうどその時車に乗ったまま潜った正門が、まさに城門のあつらえだ。普通の一戸建て住宅より遥かに大きいと言う出鱈目なその様子に、然しもの真琴も少し呆れる。

 うちの実家より——

 広いのではないか。

 真琴の実家も相当に広いが、何せ郊外とは言え東京の事である。ここまで野放図な広さではなかった。

 安芸武智たけち氏。広島の郷土史に明確にその名を残す、由緒正しき有力豪族の末裔である。江戸時代は庄屋で、その邸宅は本陣にもなった。更に辿れば、戦国期は安芸国人衆の一角。中世においては、荘園領主から名田を預かる名主だったとか何とか。とは、忌々しいすけこましが、車中で予備知識として開示した情報だ。それにしても荘園の時代とは、真琴の実家と、

 ——似たり寄ったりか。

 としたものらしい。こんな地方の片隅にも凝り固まったどうしようにもないのがいるもんね、などと閉口したのは頭の中でのみ。

「高坂です」

 初見で、すけこましに紹介されて名刺を差し出した際に応じたのは、中肉中背の一見平凡な好々爺然とした、物腰の柔らかげな老紳士だった。

 ——あ。

 真琴はその姿を認めるなり、思わず出そうになった声を密かに慌てて飲み込んだものだ。他ならぬ盆踊り大会の時、実行委員会の本部内で無役ながらも何処か大物然として、要所要所で采配を諮問されていたその人だったのだ。実質的に真琴と、先生の施設に入所している「ショウタ」被害にかかる事件の采配を擦り合わせたのは、他ならぬ目の前の老紳士だったのである。あの時の真琴は、半狐面を被って身分を偽っていた手前、自己紹介もあったものではなかったのだが、ここでそれをして初対面ではない事を明かされても、すけこまし他の手前、面倒極まりない。とりあえず、しらを切る事にした。

 武智は高千穂の先代、つまり元首相の代では後援会長だったそうだが、子の代になるや否やその座を降りたらしい。今では平の会員、と言う事になっていた。

「武智です。御高名は承っております」

 立ち話も何ですので、と早速案内された室内は、これまた呆れた長さの縁側と広大な石庭に面した三〇畳前後の座敷である。

「いやぁ、いつ見ても立派ですなぁ」

 高千穂が手放しで褒めちぎるのは、頗る正しい。まるで、古都の寺院のような景観だった。武智に案内された三人が座敷に座るなり、早速昼食が運び込まれて来る。

「出張所前での演説会は、一時からでしたな。ささ、箸を進めましょう」

 サカマテでの二大臣による視察名目での遊説に力が入り過ぎたため、予定より時間が少し押している。運ばれて来た膳は、意外に普通と言っては語弊があるが、豪勢な邸宅の構えに比べれば明らかに見劣りする昼食懐石めいた松花堂弁当だった。

「いやぁ、これはまた美味そうですなぁ。皆さん頂きましょうか」

 何かにつけて仕切りたがる高千穂は、真琴が見たところがっかりの様相である。派手好きのこのろくでなしは、すぐ顔に出る。特に目は覿面で、その冷え冷えした目つきは、殆ど不満を口にしているようなものだった。

「武智さんには、父の代から大変お世話になりまして——」

 などと、わざとらしい口上を述べる高千穂をよそに、真琴は何となく箸を進めながら、ぼんやり縁側を眺めていた。そこから望む石庭は、松、紅葉、銀杏、桜などが植えられており、季節毎の景観に飽きが来そうもない見事なものだった。今は常緑の松のみ色がはっきりしたものだが、間もなく到来する紅葉時分ともなれば、燃えるような色で石庭を彩る事だろう。

 山小屋も良いけど——

 ここも中々だ。

 真琴が上の空で、ぼんやりしていると、

「高坂さんは、庭に関心をお持ちのようですね」

 武智がそれとなく声をかけて来た。政治家共のがなり声を掻き分けて真琴の様子を伺うその声は、片田舎の老人には不釣り合いな程丁寧で品があり、かつ力強く、不思議な魅力を帯びている。第一印象から、意外な紳士振りに意表を突かれた真琴だったが、何処となく整った立居振舞は中々のもので、この場にいる二大臣のそれより余程大物然としていた。

「え? ええ。余りに素敵なお庭で、つい見惚れておりました」

「では、少し眺めて行かれては如何ですか? 大臣方は、そろそろお時間でしょう」

 武智が何かを促すように言うと、

「あ、これは思わず長居してしまいましたな!」

 それに呼応したような高千穂が白々しく発し、半分も箸をつけていない弁当に蓋をしては早々に立ち上がる。

「下手先生と俺は先に行く! お前は後から警護の車で連れて来て貰え」

 SP以下警護員は、隣室で控えている。警護の車は中に二台、外に二台止められ、それぞれが邸内外で目を配っていた。

「私は護衛の対象者じゃないわ。歩いて行くから全部引き連れて行ってよ」

 真琴が然も嫌そうに言い放つが、

「いずれはお前もそうなろう。そろそろ慣らしておけ」

 高千穂は構わず、思わせ振りな事を吐く。

「おい! 武智さんのお宅に一台残れ! 二人で良い」

 慣れた口調で警護を私物化するその高千穂に、真琴が反射で噛みついた。

「勝手な事言わないで! 警護には公金が動いてるのよ!」

「聞き分けが悪いな——」

「この際だから、私が大嫌いなものを二つ教えてやるわ!」

 高千穂が被せようとするのを、真琴は更に凄んで被せる。

「政治家と、国家権力よ」

 一歩も後に退かないどころか、

「分かったら、さっさと行きなさい!」

 ぐいぐい詰め寄る真琴を前に、明らかに劣勢な高千穂だ。その屈辱で一気に顔を赤らめたその時、絶妙なタイミングで剣呑を切り裂いた拍手が五回、座敷の中で静かに響き渡った。

「これは一本取られましたな」

 はっはっは、と合わせて笑った武智は、まるで一昔前にお茶の間を席巻した勧善懲悪ドラマの御隠居様のようだ。

「高千穂先生、高坂専務は私が後で責任を持ってお連れしますから。ここはどうぞ、皆様お連れくださいませ」

 そんな好々爺は飄々と場を上手く取り纏め、畳んでみせた。

「——では、宜しくお願いします」

 その助け舟を出された高千穂が無遠慮にそれに飛び乗ると、

「次いくぞ! ぼやぼやするな!」

 当てつけのように罵り、罵られた警護員共々邸宅を後にする。その無遠慮な向きの船頭以下は、他人の家を他人の物とも思わないかのようであり、盗人猛々しいとはよく言ったものだ。その不調法が取り除かれてようやく、邸内は本来の美しい静謐を取り戻した。

 それにしても——

 意外な所に人物はいるものだ。

 盆踊りの時もそれを感じたものだったが、改めて真琴が感心していると、

「さて、邪魔がいなくなったところで。——縁側でしたな」

 武智が、少し意地悪げに笑んで見せる。何処からともなく、それに合わせて仲居が出て来ると、膳を引き払って行った。

「不調法をお見せ致しまして——」

 真琴が、早速縁側に置かれた座布団に座る前に、その横で正座をして謝意を示すと

「いえ。ま、どうぞ」

 武智が柔らかく座布団を勧める。その傍に出された湯飲みを一服すると、

「流石に高坂宗家の御息女でいらっしゃいますな」

 のんびりと言って目を細め、真っ直ぐ石庭を見据えた。

「出来損ない、とよく叱られたものでして」

 真琴は僅かに武智を伺う。

「お恥ずかしい限りです」

「いえいえ。拙めが言える事ではございませんが、あの高千穂の倅なんぞより、何倍も大きくていらっしゃる」

 武智がその心中に寄り添う様子を示すと、

「あ、元の御亭主でしたな。申し訳ありません」

 などと笑みながら謝するのを、真琴が「いいえ、あんなヤツ」と言い捨て、お互い軽く失笑した。

 これはやはり——

 その為人に感心しながらも、湯飲みに呼ばれる。

「あっ!」

 それを啜った瞬間、真琴は不躾なのを承知で思わず叫んでしまった。

「どうかなさいましたか?」

「なんちゃって陳皮茶——」

 驚きついでに、不用意にも間抜けで安直な名称を口にしてしまう。山小屋で先生がたまに出す、蜜柑の皮のお茶そっくりのそれは、山小屋のそれよりも深い味わいなのだが明らかに似ていた。

「こちらが本家本元です」

 ややあって武智は、思わせ振りに真琴を見て笑った。


「山小屋の主から、特に何事か聞いた訳ではないのですが——」

 湯飲みの茶が二服三服と進んでも、武智の語り口は相変わらず柔らかいものだったが、語られた内容は赤面ものだった。盆踊りでの采配や、おたふく風邪の罹患に対する謝辞謝罪はおろか、真琴が山小屋に立ち寄っている事が筒抜けだったのだ。

 それにしても何故、

 おたふく風邪の事を——

 知っているのか。

 武智は、真琴が疑問を飲み込むその前で、

「何分、刺激の少ない山間地域の事ですので」

 淡々と続ける。確かに言われてみればそうだ。いくら森林迷彩を施したような場所とは言え、真琴が乗り回す車が出入りすれば、周辺の田畑で農作業に従事する農家に見咎められない訳がない。

「面子やベーゴマがお強いようで」

 盆踊りなどは、当然詳細に行状が把握されており、

「お、お恥ずかしい限りです」

 真琴は顔を真っ赤にして俯く他に術を知らなかった。仕事では完璧を求められる辛い立場故、常にそれを期し実際そうして来たが、プライベートはそのしわ寄せを補うが如くの

 何と言う些末振り——

 である。今回の事も、客観性の欠如がもたらした恥晒しであった。

「いえいえ。こう申しましては何でございますが——」

 全てにおいて完璧な人間など存在する訳もなく、またそうした人間は面白味もクソもあったものではない、と前置きのフォローを入れつつ武智は、

「私は楽しませて頂いた身ですから」

 何も何もあったものでは、などと悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「お家柄、何かと息苦しさはお察しします。——まあ、ご愛嬌でございますよ」

 そうしてカラカラ笑って見せた。

「素性に気づいている者は、数える程しかおりませんし」

 それは、

 ——どの程度?

 なのか。

 では、

 ——その他多数は?

 どう認識しているのか。

 真琴は尚も俯いたまま耳が赤い。喉元に競り上がって来る疑問を必死に飲み込み続けていると、

「サカマテの専務さんと気づいているのは、私の他は数人しかおりません」

 その他は、何処かのお金持ち程度の認識です、と武智がにっこり答えた。

「——そう、ですか」

「数人に対しては、口止めをしておりますので、ご安心ください」

 大した情報屋である。

 そ、そりゃそうよね——。

 やはり有力者、と言うのは伊達ではないらしい。ただの好々爺では、そもそもこれ程の財を守れよう筈もなく、それは真琴自身が骨身に染みて良く理解している事ではある。

「当然、山小屋の主にも、何も話してはおりません」

 これ程の財と、整えられた石庭に植えられた木々。何処かで見たそれと似ている事に今更ながらに気づくと、何かを察したらしい武智が、

「私が大家です」

 ぼそりと呟いた。

 立板に水が自慢の真琴のその口が、

「やっぱり」

 一言漏らすのがやっとである。

 そう言う——

 顛末だったとは。

 石庭の木々の配置は、山小屋の庭や、その目の前にある神社の境内のそれに近い。山小屋の大家は先生の勤務先施設の理事長であり、山小屋の目の前にある神社の神主である事を、今更ながらに思い出した真琴だった。


 午後一時。

 昼間は気温が上がり、先生の町でも秋物のパンツスーツで汗が滲む程だった。遅ればせながら武智邸をその主と、主よりやや若い初老の従者の男と、そして真琴の三人が演説会場へゆったりと歩いて向かう。

「収穫期の忙しい時に来おって」

 周囲に広がる田は、まだ半分程度稲穂が残っていた。党員によって町の人達が聴衆役として動員され、今日は収穫作業を中断したらしい。

「自共党は、農家に寄り添っているイメージでしたが」

「それは遥か昔の話ですな」

 今は高齢化と跡継ぎ不足の足元不安に加え、輸出入農産物の関税撤廃進行に伴う農産物の競争激化もあり、零細農家は衰退の一途である。

「昔は日本の農業を支えている、と言う実感が得られたものでしたが——」

 特にこの町のような戸別単位で営んでいる農業は、時代遅れの遺物のレッテルを貼られ、改革の最先鋒とされている、との事だった。

「口車で票を集め、当選してしまえば後は公約どころか陳情に至るまで放ったらかし。詐欺師と何ら変わりません」

 武智は言い切る。

「これで詐欺罪で捕まらず、逆に権力を傘に傍若無人の有様と言うから、国民が政治に失望するのも無理からぬ事です」

 そして相変わらず、淡々と語ったものだった。

「あなたが高千穂に言い放った事は、頗る正しい」

「つい、感情的になる悪い癖がありまして」

 真琴は、また少し俯き加減になった。

「まあ、折角の道中です。もっと有意義な事をお話しすると致しましょう」

 出張所前まで伸びる一本道は、一見して一km前後だが、

「老骨ながら、本当はまだまだ歩けるのですが、余り早くに着いても退屈です」

 武智は、演説会には興味がないようだ。言動の節々に、政治を風刺して憚らない様子も然る事ながら、そもそも高千穂自体を好かないようだった。

 この人も多分——

 体よくたかられているのだろう。

 派手好きの高千穂は金に汚い。過去の被害者たる真琴も、その辺りの痛みは良く分かった。然も惜しむように、ゆっくりとした足運びで歩を進める武智のその形が、その無念さを思わせる。演説会場に着くのは、随時かかりそうだ。

「因みにこれなるは、あなたの素性を知る者の一人です。顧問弁護士なのですが、執事めいた事までやる物好きでして」

「顧問弁護士さん——」

 真琴はまた、何かに思い当たる。

「山下と申します」

「ひょっとして——」

「宿直さんには、毎度実家の農作業を手伝って貰ってまして。助かっています」

 山下は主人に似て穏やかで、如何にも信の厚そうな人物だった。が、真琴のその反応で、自身の素性が先生により開示されている事を敏感に察し挨拶をするなど、これまた中々の聡い。

 ——類は何とかね。

 真琴は、先生のスマートフォンの電話帳登録が、真琴も含めて三件、と話していた事を思い出した。奇しくもその三人が勢揃いした格好である。

「農村の収穫期に演説会などとたわけた事を抜かす愚か者の事など、興味はありませんので——」

 本題に入りましょうか、と武智はやはり静かに言った。

 何かしら——。

 高千穂を先に行かせたのには、何か伏線めいたものを感じ取っていた真琴だったが、この二人は実質的に初見であり、私的な話は全く覚えが見当たらない。

 ——となると、ビジネスか。

 この町に住むサカマテ従業員も、それなりに存在する事だろう。真琴の立場を考慮しての内緒話となれば、少しは覚悟を要する内容かも知れなかった。

「あなたと山小屋の主は、どうやらお互いの素性を隠して交流しておられるご様子なので」

 が、武智が話し始めたのは、意外にも真琴と先生の事である。

「私共も少しマスキングします」

 真琴としてはその話は、座敷の縁側で終わったものと勝手に思い込んでいたため、先生の電話帳トリオの本題とは、

 ——先生の話?

 正直、意表を突かれた格好となった。

「実は、私とこちらに控える顧問弁護士は、不肖ながらも山小屋の主の親代わりのような者でして」

「そう、だったんですか」

 真琴は更に、意表を抉られる。

 先生は当然そんな話などした事はなく、その事実は初耳だった。

 天涯孤独って言ってたくせに。

 この何処となく熟れた主従を見ていると、この世に所在なく揺蕩っているような先生のその身と、この世との接点を見出したような気がして、不意に安堵させられる。

「とは申しましても、あやつも良い年ですし、今更子供扱いする訳ではないのですが——その、不憫でしてな」

「不憫?」

 思わず疑問を呈す真琴に、

「彼はこれまでの人生が、全体的にやや特殊でして」

 山下が補足した。

「特殊、ですか」

 特殊な人生が不憫とは、苦難の道のりだった、と考えるのが自然だろう。

「あなたにも、消したい過去の一つや二つお有りでしょう。あやつも同じです」

「悲壮感が目に余る、と申しますか——」

「——と言うか、潔過ぎるのだよ、あれは」

「いつか殉難し兼ねません」

「——あれで、中々頑固でしてな」

 武智と山下が交互に紐解く先生は、要するに何かの

 過去を引きずって——

 いるらしかった。

 確かに真琴にも、高千穂の事を含め消し去りたい過去が何個かあるのだが、もうどうしようにもない。何せ真琴の家柄は、ネット辞典で経歴が掲載されているような家系だ。真琴自身の事もフルネームで検索すれば、何処で調べたのか知った事ではないが、詳細な経歴が長々と掲載されているページに行き着く事が出来る程である。しかも中々正確と来ているから質が悪い。が、ネット辞典は今や世に受け入れられており、最早欠かす事の出来ない情報源の一つなのだ。つまりはもう、どうしようにもなかった。

 だからその辺りの事は、

 本当に——

 良く分かる。

 それにしても殉難とは穏やかではないが、それを口にした山下が話を盛るようには見えなかった。

「良くも悪くも、その人間の現在は、その過去の積み重ねが築き上げた末のもの」

 でも今のあやつを見たところで、との前振りに

「一見して甲斐性なしの芋侍ですね」

 真琴は容赦なく吐いた。堪り兼ねた主従が失笑を漏らす。

「でも芋でも、侍なんです。何処か——」

 が、それを口にするために真琴が一度突き落とした事を理解した主従は、すぐに真顔になった。

「あの人の本来の姿を私は存じません。ですが——」

 そこまで言って、何を言い出したものか、慌てる。振りで突き落としておいて持ち上げるなど、これではまるで、何かの利益を引き出そうとしているようだ。それが何なのか。不意に、二回唇を重ねた仲だと言う事に思考が辿り着くと、

「あの意外性は、興味深いです」

 とりあえずやっつけ気味に、慌てて畳んだ。仮にも親代わりを口にする人達に、いきなり自分は何を言い出そうとしたのか。まるでそれは、相手の親に交際のお許しを得ようとする何かのドラマのそれのようではないか。そんな思考に、また勝手に慌てる。そもそもが「あの人」呼ばわりなど初めてで、そんな自分の言葉に瞬間で動揺してしまったのだ。

「実は、あやつが未だに独り身なのも、酒を断っているのも、冴えない生活をしているのも、全部同じ理由でしてな」

 が、そんな真琴に構わず、武智はやはり勝手に続けていた。そのまま突っ込まれていたら、追い込まれた心境で一体何を吐いていた事か。自分でも分かったものではなく、考えるだに恐ろしい。ここはとりあえず、

 ——喋ってもらおう。

 真琴は密かに、唇を軽く真一文字に結んだ。

「せめて、嫁を娶るよう勧めておるのですが、中々どうして」

 見合い、か——。

 まああるだろう、と真琴は納得した。

 確かに一見して冴えない貧乏人だが、為人は悪くない。素気ないながらも身形はこざっぱり整ったものだ。普段は朧気な見た目も手伝ってか、何処となく飄々して掴みどころがないが、総じて鷹揚としたもので草食系好みなら放っておかないだろう。それでいて、時として覗かせる知性と意外なまでの胆力は、いざと言う時想像以上の頼り甲斐を、その超然とした殻の内に秘めている。頭の中で先生を思い浮かべると、その為人が思いがけず溢れ出し、年甲斐もなく心臓の辺りが苦しくなるのを感じ始めた。

 くぅ——。

 素直に認めたくないフレーズが頭の中を巡り、何かが喉を競り上がって来るが、今この場で漏らす事など出来よう筈もない。それは暴走した挙句、自宅で本人を目の前に言ったフレーズとはまた少し違った意味合いのようでもあり、とにかく

 胸焼けが——

 するのだった。

 この主従がいなければ、真琴は胸の辺りを掻きむしっていただろう。

「実は、何人か名乗りを上げておるのですが」

「肝心の宿直さんが乗り気でない」

 主従はそこで話を切る。

 私の出方を——

 探っているのは分かったが、いくら親代わりとは言え、それをこのような

 行き摺りで口にしろと——

 言われるのには、まだまだ抵抗感が強い。そもそもが、確固たる何かを口に出来るような間柄ではない。それは真琴と先生もそうだし、真琴とこの主従もそうだ。真琴は、それを黙して答えた。

「いや、このような所でする話では、ございませんでしたな」

 そうとみるや、武智が気さくを装い途端に話を畳んだ。聡い主従にそうした機微を

 ——見透かされた。

 とは分かったが、やはり何も言い出せない真琴である。

 はっきり言って、先生に好感を持っているのは事実ではある。が、それだけだ。お互いの素性を隠したままのつき合いなど、遊びの延長だと思われても仕方がなく、そう指摘されても弁明のしようがない。現に、遊びの延長上で好感を持ってしまったのだから、その事実は変えようがないのだ。そして、その延長上に何があるのか。そんな事は現時点では、当事者の片割れたる自分ですら全く分からない。現時点ではっきり分かるのは、自分の素性を明かせば間違いなく先生は離れて行く、と言う事だ。何せ社会的地位が違い過ぎる。まさに天地の開きがある階層差なのだ。百歩譲って、仮にそれをクリア出来ても家柄的に難がある。更に突っ込んだ言い方をすれば、要するに天敵たる母が何をするか分かったものではない。

 ホント——

 自分でも呆れ返る程、何と面倒な家柄に生を受けたことか。実は真琴の懸念は、その一点だけであった。なりふり構わず全てを投げ打ったとしても、政財界の大物たる母の魔の手から逃れ切れるか、その一点だけなのだ。その野望、自己の信念のためなら何者ぞ、と言うのが真琴の母である。真琴なんぞは、その母にとってみれば野望の道具に過ぎない。実家は未だに、幼児教育から朱子学を学ばせるような苔むした家なのだ。その古臭い一方的な押しつけが嫌で嫌で、それに抗うために独学でその元となったものを始め、あらゆる哲学めいた文献を読み漁った。真琴の口達者の根幹はここであり、それは理論武装の源流にもなった。

 私って——

 そんな面倒臭い女にして、ややこしい出自の人間だ。こんな有様なものだから、いずれは先生も離れて行くだろうし真琴も離れざるを得ないのだ。先生の身の大事を思えば、こんな遊びの延長のような関係は、さっさと解消すべきなのは分かり切っていた。それは、早い段階で芽生えていた懸念だった。だが、その懸念が大きくなって行くのと同様に、その関係を否定出来ない思いもまた、大きくなって行くのを感じていた。そうしてついに暴走し、人生で初めて、男に「好き」などと世迷言を吐いてしまったのだ。

 まだ間に合う。まだ——。

 何も言えない事はない。確かに前向きな事は、何も言えるような事はないのだが、後ろ向きな事は言うに事欠かないのだ。

 一言、遊びだと——

 吐いてしまえば。この主従に金持ちの男遊びだと軽蔑されれば、全てが丸く収まるではないか。

 しかし、

「——んぐっ」

 喉から競り上がる言葉を吐こうとしても、上手く吐き出せなかった。喉の辺りが硬直し、僅かに震えている。

「どうかなさいましたか?」

 異変に気づいた山下が、気遣わしげな表情を見せた。

「い、いえ」

 吐こうとした言葉を変えると、何とか返答は出来たが、

 ダメだ——

 とても、言い出せない。

 先生との曖昧な関係をリセットする一言を口にする事は、いつの間にか心身がそれを明確に拒否するレベルになってしまっていた。もうそれ程に、先生の存在は大きい。ここ最近に至っては、日を追う毎にじわじわとそれが増している有様で、時として胸が詰まり、息苦しさを伴う事すらある程なのだ。そして今、この瞬間も、胸焼けがしている。

 ——子供染みた色事だわ。

 一人の時なら自らを嘲笑して、もやもやしたものを吐き出すのだが、それが人前で出来る訳もない。密かに深呼吸して、急いで息を整える。

「しかしあやつめ、この先どうするつもりなのやら」

 呆れたように武智が漏らした否定的な一言に、

「——世に、少し背を向けておられるようで」

 真琴は、取り戻したついでについ乗せられ、日頃から気になっていた事を口にしてしまった。

「冷めているようにも、諦めているようにも——」

 年齢不相応に、良くも悪くも何処か観念的なのだ。それが、あの妙に力感のない、何処かしら独特の浮遊感をもたらす雰囲気を生み出しているのではないか。つまりそれは、現世に対する執着の薄さなのではないか。

「正直、気になります」

 何が先生をそうさせるのか。

 今この二人にそれを聞けば、答えは得られるだろう。だが、自分の都合をゴリ押しする格好で始めた仮面交流だ。その相手方の素性を、本人を飛び越して、その親代わりの人々から聞き出すのは明らかにフェアではない。

「本当に——」

 今の真琴には、これが口にする事が出来る精一杯の答えだった。しかし、それは事実だ。

 本当に——

 気になっていた。

 遊びの延長の間柄だとしても。

 未だに仮面の知己だとしても。

 本当に、一人の女として気になっている。

 でも今はまだ、それを聞き出す訳には行かなかった。それをしてしまうと、先生に自分の素性を明かさなくては釣り合わない。が、それをしてしまうと、この関係をリセットしなくてはならない。今はひたすらこの堂々巡りだ。本当に、その体たらくがいつになく自分らしくなく、まさに子供染みている。自分の素性を知るこの親代わりの二人を前に、自分の中では

 もう——

 遊びで連んでいる感覚はない、と明確に認識してはいる。が、それを堂々と他人に対して言い切れる程、真琴の腹はまだ据わってはいない。

 要するに、もう少し、

 時間が——欲しい。

 今はまだ、何かが熟れていない感覚が、もやもやとその心中を覆っていた。

「そうですか」

 武智は、そう答えただけだった。


「どうして、ああも厚顔なのだろう」

 三人は、ついに演説会場に辿り着いてしまった。近づくにつれ、マイクでがなり立てるのが特徴的な高千穂の演説が大きくなると、三人は一様に顔を顰め、聴衆の端っこに立つのがやっとだった。出張所前に準備された急拵えの演台の真ん中で、高千穂はマイクを片手に派手なジェスチャーで悦に入っている。

 それにしても——

 この片田舎にしては、よく集まっている。その聴衆は、ざっと四、五〇〇人はいるだろう。出張所の駐車場に押し寄せた体で所狭しと演台の前に集まり、大人しく高千穂の詐欺師めいた演説に耳を傾けている。派手好きの高千穂は田舎嫌いでもある。人の集まらない田舎の演説会など、絶対に受け入れられるような人間ではない。きっと党員や後援会が奔走させられたのだろう。

「人は所詮、人でしかない」

 武智が憐れむように演台を望み

「いくら見た目を取り繕っても、もっともらしい言で理論武装をしても」

 人は人なのですよ、と何処か寂しげでもある武智のその言葉が、真琴の何処かに刺さった。それから逃げるように、演台でがなる高千穂に目をやる。理論武装で生きて来た真琴は、悔しいが高千穂側の人間だ。

 あんなヤツと——

 同類か。

 忌々しくもぼんやり演台を眺めていると、聴衆の端っこに立っている三人の姿を、高千穂がさり気なく捉えた素振りを見せた。どうしようにもない男だが、この辺りの目の良さは流石としか言いようがない。その余裕振りと注意深さは相反しようものだが、それを同居させるなど、繊細さと図太さを兼ね備える何かの職人めいている。仮にも政治の世界で渡り歩いて来た、と言う事なのだろうが、武智は表情を暗くした。

「社会的なステータスは、確かにその人間を知る手がかりには成り得るでしょう」

 が、それはあくまでもきっかけに過ぎず、その段階で既に目が曇っている、と言い切る。

「この男の話を聞かされている、この聴衆のように」

 初対面でその人を推し量る時、情報は多い方が良いに決まっている。が、その肩書きを知ってしまうと、分かりやすい根拠に判断を委ねてしまいがちである。それが、政治家のような日頃遠い存在であれば尚更だ。

「肩書きは、確かに評価の対象とは成り得るものです。曲がりなりにも、それを得るために、何らかの力を注いだ証故に。しかし——」

 それに抗えない無念さややり切れなさが、武智の口から回りくどく発せられて行く。

「驕慢になるのでしょうね」

 その悔しさを察した真琴は、つい横から口を挟んだ。

「年を取ると愚痴っぽくなるものでして。申し訳ありません」

 後援会員として、日頃迂闊に口に出来ないような事が、当の本人の傍若無人を目の当たりにして我慢出来ないらしい。

 要するに、

「歯痒いのです」

 片棒を担がされて、なす術がないもどかしさの表れ、と言う事のようだった。

「いえ」

 少なからず真琴にも覚えがある事だ。

 確固たる地位の人間に阿る者達は、その人間に阿っているのではない。その地位だ。が、その地位にいる者は人間だ。かしづかれて驕慢になり、それを手放せなくなる。その結果、

「出来上がったのが、あのたわけです」

 様々な思惑で担がれた、人の形をした化け物に成り下がる訳である。

 自分一人では出来そうにない事を実行力のある者に託す事で、その者の成果によって利権を得ようとするとは、すなわち政党政治の在り方ではある。だが、

「すがり過ぎると、暴走するもの」

 権力が集まると腐敗する。

 国家や政治、役人などに対する所謂お上依存体質は、二一世紀を迎えた現代において尚続いている

「日本の悪弊でごさいますよ」

 自立出来ない日本人の象徴的思想である。それが結果的に権力を集中させ、増長させ、結果として腐敗する事を日本人は皆知っている筈なのだ。が、古来の慣習として、知らず知らずのうちに刷り込まれたその体質は、つい自然にして正しいものと錯覚しがちであり、それが正せないうちは真の民主国家など程遠い。

「国民が自立してこそ、国家や政治は目を覚ますのです」

 そうしてようやく、あるべき姿を模索し始めるのだ。

 政治家に自浄作用などない。政治家も人間なのだ。大多数のそれなりに善なる弱者が、自立出来ないからこそ都合の良く高みの地位に阿る。地位にその意を託したつもりが、只の欲深い強者によってそれを蹂躙される、と言う負の連鎖は果たして、

「いつまで続くのでしょうな」

 武智の持論は、自分の中で遥か昔から理解し、ある程度観念していたにも関わらず、痛烈に真琴のど真ん中に突き刺さった。高千穂に言える事は、立場は違えど真琴にも言える事だ。実家は、武智の言う多数の弱者から搾取し続けて来た、権利権力、利益財産の上に成り立つ一族である。自分自身では律する事が出来ているとしても、世間は決してそうは見ない。事実として、その一族の成り立ちにおいて、全く後ろめたい事がないなどと、到底口が避けても言えたものではなく、むしろその逆なのだ。そこに出自を頼む身のどの口が、自分だけ例外などと言えたものか。

「あなたを責めているのではないのです」

 そしてそれは、痛烈に、

「この老いぼれ自身の事でもあります」

 この辺境において、幾年月に渡り繁栄を築き上げて来た、その末裔たる武智自身をも突き刺す事でもあった。

「いやいや、失礼致しました」

 何やら三人の間で重苦しい雰囲気が漂う中、武智は急に言葉だけ相好を崩した。演台からの目を気にしたのだろう。

「何分、この爺めがお話をさせて頂きますのは初めてでしたから。ご容赦くださいませ」

「え?」

 これまでの声色とがらりと変わったその何処かしら憎めない武智の軽妙な口振りに、

 ——何かの伏線?

 真琴は顔を演台に向けたまま、目だけで武智を伺った。

「本当に、御高名通りの御仁にて。安心致しました」

 と、

 ——言われても。

 そもそもその御高名の出所は何処のもので、どんな真琴の事を差したものか。他人から見定められる視線には慣れている真琴だが、先生の親代わりのような人物にそれをされる事は、やはり何処かしら動揺が大きかった。盆踊りの時もそうだったが、今日これまでのやり取りにしても、何処かしら好意的な受け止められ方をされているような気がする事が、せめてもの救いだ。

「あなた方の間柄には、実は興味があるのです」

「あなた、方?」

「山小屋です」

 真琴は、再三に渡るそのまさかの本題に、感電したかのように一瞬激しく身体を身震いさせた。

 ——ま、

 またそれか。

 それは、ここへ来る道中で終わった筈ではなかったか。思いがけずまた蒸し返され、真琴はつい

「先生、の事ですか?」

 その名称を出してしまった。

 ここまでバレているのだから、別に隠すつもりはないのだが、やはりどのような仲なのか探られるのは、思いがけなく恥ずかしいものだ。お互いアラフォーの、いい加減それなりの年の男女である。それを相手の保護者に気にされるなど、まるで

 それこそ——

 お見合いのようではないか。

 不意に、以前山小屋の縁側でその相手を盆踊りに誘った時「お見合いみたいだ」と言われてしまい、迂闊にもお互いギクシャクした事を思い出すと、また身体が妙に固くなるような気がして来る。

「先生?」

「勤め先の施設で、そう呼ばれていると。それで私もそのように——」

 恥ずかしさを紛らわすように、早口で真琴が捲し立てると、

「ああ、そうでしたな」

 武智は軽く鼻で笑って、何処か嬉しそうに答えた。が、すぐにその声が少し冷える。

「だがそれは、あやつ本来の姿とは程遠い——」

 動揺の只中で、それには真琴も納得した。やはり不自然なのだ。

 先生は明らかに、山奥に染まっていない。何せ三月までは、東京にいた人間である。雰囲気が何処となく人擦れしているのだ。飄々とした鷹揚さで、当たり障りのない振舞を心がける様子などはまさにそれである。その柔い印象そのままに、人の心の隙間をつくような詐欺師然とした意外性は、一方で強い虚無感を滲ませている。だからこその山小屋生活なのだ。それがつまりは隠居、またはそれに近い生活を意味する事は、今のそれこそが如実に物語る。やはり何かあった、それをする理由がそれまでの生活にあった、と言う事なのだろう。

「知りたくはないですか?」

「え?」

「あやつめの正体を」

 今度は武智が、少し悪戯っぽい顔をしながら真琴の方を向いた。

「そう、ですね」 

 ——知りたい。

 が、知ってしまうと、自分の素性も明かさなくてはバランスがとれない。

 そうなると——

 終わってしまう。

 真琴にとってこの曖昧な関係解消は、同時にその縁の終焉となる可能性が極めて高い。

「——いつかは」

 その一言は、殆ど祈りだった。

「いつか?」

「お互いに素性を明かせる時が来れば良い、と」

 お互い素性を隠したつき合い故、知り合ってからと言うもの、お互いの事をろくに話していない事に真琴は今更気づいた。為人はよく分かって来たものだったが、そう言えば趣味や嗜好めいた事物はよく知らない。それこそ、盆踊りに誘った時の「お見合い」で、本の嗜好を聞いた程度だ。

 もっと——

 知りたい。

 でも先生は、果たしてこんな自分を理解してくれるだろうか。こんな面倒臭い出自の女に怖がる事なく、傍にいてくれるだろうか。密かに懊悩する真琴の横で、

「だから興味をそそられるのです。あなた方は」

 武智は優しげなその眼差しを細めて見せた。

「はぁ」

 真琴は思わず、普段の先生が出すような間の抜けた声を出し、思わず片手で口を塞ぐ。いつもは、先生のそれを見ては嘲笑する立場の真琴だが、無意識にその癖が移って出てしまった。それを見た武智が、かすかに失笑を漏らしたようで、どうやら悟られたらしい。

 真琴が何やら繕っていると、

「容姿は生き様、仕種・声色は思想、言動は哲学、と申しましてな」

 武智が、助け舟めいたつけ加えをし始めた。

「は?」

「順を追って、目で見て、耳で聞いて、心で感じてこそ、為人は分かるもの」

「誰の言葉でしたでしょうか」

 格言や思想めいたものが混ざっているようだが、具体的に誰の口がそれを吐いたのか、真琴でも瞬時に思いつかない。

「私です」

 真琴は思わず、小さく鼻で自嘲を漏らした。理論武装の悪癖が、つい本能的にそのソースを探ろうとする。

 生きた言葉と言うのは、本来それだけで説得力を有するものだ。が、無意識のうちに、人はその説得力を、人の形に求めてしまいがちである。それは今日これまでにも、武智が延々語っていた筈ではないか。

「素性を伏せると言う事は、その為人を直接見つめる事なのですから」

 自分の浅はかさに悄然めいている真琴に構わず、武智は続ける。

「そこまで深く、考えた訳では」

 真琴は慌てて、やはり前を向いたまま、言葉だけでそれを憚った。当初は殆ど火遊び感覚だったのだ。とても褒められたものではない。

「全ては、私の身勝手が招いた事ですから」

 だが今は、決してそうではない。しかしそれを言い切る確証は何一つない。二回キスをした仲だとて、それが何になる訳でもなく、よもやそれを口にする事など到底出来る筈もない。

「肩書きなど、つまらぬ欲を満たすがための口実である事が多いものです」

 それをも武智は意に介さない様子で、

「虚は実を引く、と申します」

 声に茶目っ気を乗せ、大仰に嘯いたものだった。

「申し訳ございません」

 真琴は己の鈍さを恥じ、即座に今更ながら素直に頭を垂れ、目を伏せた。

「最初に謝罪するべきでした」

 事情を知ろうが知るまいが、そもそも世間の見方は、何を捉えてもそうだった筈ではないか。更に言うなればそもそもが、この如何にも如才なさそうな主従が、それに気づいていない訳がないではないか。

 確かに当初は火遊びだった。でも今となっては明らかにそうではない。その延長線上の何かになりかけているのは確かだ。が、それは二人の中だけの話であり、外見的に何かが結実した訳ではない。精々どさくさ紛れに膝枕をして口を塞ぐ程度の色情でしかなく、要するところの惚気だ。

 結局のところ、今は何を言っても世間知らずの御令嬢の

 ——火遊びのままだ。

 親代わりの二人を前に真琴が思い知らされたのは、自らの不明だった。

 何と言う——

 不甲斐なさだ。

 実家に怯え、母に怯え、先生の身の安否といずれ訪れる拒絶、離別に怯え、そうして今、その親代わりの人達の反応に怯えている。

「臆病者の不明です。今この期に及びましては、最早弁明の仕様がありません」

 と言うそれは、許しを乞わないと言う真琴の常なる潔さであり、諦念でもあった。

「これは、随分とせっかちな事を申されますな」

 しかし武智は、それすらも取り合おうとしない。

「昔の事ならさて置き、今は自由なご時世下の筈。必要以上に御身を追い詰められますのは、感心致し兼ねます」

 真琴はその静かなる追い討ちに、また身体のど真ん中を射抜かれた。

 ——まるで、

 見透かされている。

 真琴の深層心理に触れるその声は、出自故の拭い去れない世間に対する怯えを、容赦なく指摘するものだった。世間が勝手に勝ち組と定義づけている者達に投げつける邪な視線。決して相容れる事のない、それに対する諦観が誘う絶望感。そのどちらに対しても、強がっては抗い続けている真琴のそのスタンスは「実は据わっていない」とその優しい声が言っているかのようで、真琴は言葉を失った。

「世の大抵の理など、突き詰めればもっともらしい嘘なのです」

 その含みのない屈託のなさが、淡々と真琴の中に染み入る。その声はまるで、真琴の武装の虚実はおろか「仮名」としての懊悩までも、見透かしているかのようだった。

「そこからまことを掴めば良いではありませんか」

 不幸にも人物に縁が薄い真琴は、急速にその声にその雰囲気を感じ始めた。周囲が恐れて触れて来ない真琴の懊悩を、こうもあっさりと触れられてしまい、それに免疫がまるでない真琴は、なす術もなく固まる。

「では、私共はこれで」

 そんな真琴にそれ以上何も言わせないかのように、武智は渋々山下を連れ立って、演台の傍へ足を向けた。後援会の面々は演台直下を固めている。後援会員なら、足を向けざるを得ないようだった。

 最後は何だが、自分の名前にかけて、何となく冗談を利かせながらも説諭されたかのようだ。

 そう、

 ——冗談のうちに。

 真実の言葉は語られる事が中々多いものだ、とは、観念論の大家フィヒテの名言である。真琴は脳裏でそんな事をぼんやり思い浮かべながらも、一人残された会場の端っこでぼんやりと演台を眺め続けた。

 

 高千穂の演説が終わり、下手の番になった。

 どんだけ怒鳴ってたのよ、あいつは。

 てっきり高千穂が二人目かと思っていただけに、真琴は一人であからさまにげんなりした。只でさえ今日は、この後も二大臣にくっついて回らされるのだ。最終目的地は市内中心部であり、地元政財界関係者を集めて行われる政治資金パーティーに社を代表して出席させられるのだから、本当に堪ったものではない。

 クソ忙しいってのに——。

 高千穂ががなり声なら下手はダミ声だ。どちらにせよ品のない騒音に、いい加減辟易し始めた時、

「仮名さん?」

 最近聴き慣れた声が、背後から文字通りの仮の名を呼ぶ。そのストレスを感じさせない相変わらずの飄々振りに、一瞬心臓が激しく脈打ったが、すぐに気を落ち着かせて振り返ってみせた。

「あらセンセ」

 冷静さをどうにか装い「どうしたの?」と言おうとするが、先生は本を入れた袋をぶら下げている。図書館に行く途中のようだった。

「現役大臣が二人来るとは聞いてましたが」

 多いなぁ、と言う割にはのんきげな声と共に、真琴の横に立って聴衆を見渡す先生だ。その相変わらずの様子に安心した真琴は、つい小さく噴き出した。

「図書館に行く途中?」

 先程まで、武智に思わぬメインの話で取り上げられていた先生その人である。内心、不意打ちで出没された真琴は、冷静さを保つ言の裏で、顔が火照った。

「ええ、そうだったんですが」

 先生は、そんな真琴には気づかないようで、

「入れそうにないですね」

 演台の後ろにある出張所の出入口を見る。警護の警察官が演説会場でも警備しており、演台周辺のそれは特に厚く、出入りは難しそうだった。移動の時にはいなかった制服の警察官まで姿が見える。警察官もそうだが何より人が多く、出入口はまさに人の出入りでごった返していた。

「こりゃ、今日は無理かぁ」

 それもその筈、殆ど無理矢理塞いでいるのだ。演台のちょうど裏手になる出入口は、素人目にも急所めいて見え、守る側からすればその気持ちは分からないでもなかったが。

「図書館って、ひょっとしてここなの?」

「ええ。出張所の二階なんですよ」

 出入口を勝手に塞いでひどいとか、午前中に来とくんだったなどと、先生はやはりのんきそうに恨み節を吐く。

「しかし、珍しい所で会いましたね」

 真琴は、はっとした。

 そう言えば——

 先生と外で偶然出会すのは、これが初めてだった。そして、出会した時の口実を考えていない。

 ——よりによって。

 こんな所であのすけこましとの腐れ縁を知られては。今までの苦労が水の泡ではないか。

 真琴が答えに窮していると、

「街は、少しは涼しくなりましたか?」

 先生が更に一言先手を取った。

「え?——うん」

 また、配慮された、と密かに安堵すると同時に、深く踏み込んで来ない先生を、もどかしくも思う。

 我ながら——

 我儘だ。

 生来、積極的な質の真琴である。いじいじ我慢するのは性に合わず、先生の言動に焦らされていると思ってしまう。配慮するくらいなら、珍しい所で会ったなんて

 ——言わなきゃいいのに。

 ——会わなきゃいいのに。

 などと、勝手な事を思ったりもする。

 が、それをしないのも

 ——不自然か。

 とも思う。

 こう言う事もある、と言う事を

 教えてくれたのかしら——。

 と考えるのは、ちょっと考え過ぎか、とも思うが、先生の事を考えると、一々自然に擁護しようとする自分が、これまでの自分からすると本当にらしくない。

 ——病気ね、殆ど。

「もう、この辺じゃ朝霜が降ります」

 先生は、そんな真琴の思考を、然も気にしない体で勝手に話を続ける。

 最初のうちは、火遊びの面白半分だった。日頃から晒され続けた人生である。他人に秘密を抱える事は快感だった。しかしそれは、少しずつ苦痛を伴い始めた。自分の素性が口に出来ない事が、これ程もどかしいとは。それを全く予想していなかった真琴にとって、それは次第に我慢を伴い始めた。秘密は蜜の味、と、世間様では言っていたような気がしたものだったが。

 ——話が違う。

 気がつくと、そのありふれた格言に、あからさまな不満を感じるようになっていた。

 素性を隠す事で続いている曖昧な関係。明かせば瓦解する事は目に見えている脆いつき合い。何とかそうならないように、少しずつ自分の何かを匂わす事は出来ないか。そうすれば、いきなり破局を迎える事はないのではないか。などと考えるようになって来ているのだが、先生は中々、そのきっかけを作らせてはくれない。

 この前も、聞く事は出来るなどと、

 言ったくせに——。

 蕎麦屋の帰りに、また暴走したあの日。その言葉に、随分救われたものだった。でも先生は、相変わらず当たり障りのない曖昧な態度のままであるし、実を言うとそんな先生のせいにして、素性を明かす事に腹が据わり切っていない自分もいたりする。

「霜降には、少し早いんじゃないかしら?」

「山の秋は足早ですから」

 仮名の周辺の季節は、自宅と会社でまるで違うし、会社は会社で一日の中に四季がある。山小屋もそうなのだろうが、季節に順応し切っていない身体にそれは、

 堪えるのよ——。

 どちらつかずに翻弄されて、身も心も、何処かしら疲れていた。

「あの目も」

「え?」

「せっかちそうだな」

 言われてその視線を追うと、演台の真ん中でダミ声を上げている下手の、その斜め後ろに控えている高千穂が、険しい目つきでこちらを睨んでいるではないか。

 あいつ——。

 並んで立っていた真琴と先生ではあるが、その陰険な視線は、遠く離れていても明らかに先生に向けられている事が分かる。高千穂が、また護衛を動かして何かしでかすのではないかと思った瞬間、

「今日は諦めて帰ります」

 先生はまるで、その間合いを測ったように身を引いた。

「うん、またね」

 しかしそれを確かめた高千穂は、容赦しない体で、既に演台の上にいるSPに何やら耳打ちをしている。SPが背広の袖を軽く口に近づけると、聴衆の周囲に散っていた護衛が俄かに動き始めた。SPは大抵、袖に携帯無線機のマイクを隠している。

 ——まずい!

 一見して先生に不審点などあろう筈がない。要するに、先生の身柄確保と素性確認をしたいがための、高千穂の明らかな国家権力の私的濫用である。高千穂が唾をつけた真琴に不用意に近づいた、と言う、その程度の理由だろう。だが、それを判断するのは権力を行使する側であり、存在自体が国の行く末を左右するとされる大臣であれば、こじつけなどいくらでも出来る。

「何かされましたか!」

 先生が立ち去った後、入れ替わりで護衛が一人、足早に真琴に擦り寄って来た。

「は?」

 わざと呆けて、盛大に睨みつける。

「不用意に寄って来ないで頂けないかしら? あいつと同類なんて、あなた達にも周囲の人達にも思われたくもないわ」

 それは高千穂に向けた、間接的で盛大な皮肉である。自分の傍に置く者を決めるのは、自分自身だ。決して、

 エゴイストのお前なんかに——

 自由にさせない、と言う、対決姿勢の表れでもあった。が、それをしたところで、今の真琴には何も出来ない。他数人の護衛は、既に先生に肉薄している事だろう。あるいは、既に捕らえられたか。

 ——クソ!

 真琴は、得意気な顔でこちらを見ている高千穂を、瞬きを忘れて睨みつけた。

 あの人に何かしたら——

 許さない。

 そう、目に含ませ目を怒らせていると、

「バスに乗った!」

「一車追え!」

 などと、小声ながらも忙しげな護衛の声が耳に入って来た。

 真琴が振り返ると、出張所前のバス停を再出発する路線バスが、黒煙を吐きながら出張所前を後にするところだった。

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