第4話 結花

 七月下旬、夜。

 真琴は帰宅するなり、自宅の居間のソファーに深々と腰を下ろした。一見でも、軽く三〇畳はあろうかと思われるフローリングのLDKの一角で、

「うー」

 などと、うなだれている。

 専ら四月から、ほぼ自宅と会社の往復だけと言う生活で、連日帰宅は

 今日も九時か。

 これより早まる事はない。

 日勤シフトの勤め人には、夜の九時など「まだまだ宵の口」と言う企業人が圧倒的に多いと思われる日本であるが、真琴の働き振りも実のところそうである。

 デスクワーク系統の職域に限り、フレックスタイム制が導入されている真琴の会社の勤務時間は、必ず就労しなくてはならないコアタイムを除くと、ある程度の融通が利く。よって真琴は、いつも定時より少し早めに出社しては、定時より少し早めに終業を迎えている。のであるが、これが全然意味がない。

 通勤は交通量も気持ち少なく、早朝の社内は何処か静かで集中しやすいなど全く意味がない事はなく、むしろ良い事の方が多いのだが、意味がないと感じる最たる理由は、

 ——とても片づかない。

 終業時刻が守れない、のだった。

 端末電源の入切で就業がチェックされるなど、就業管理が厳しくなった昨今ではあるが、真琴の会社も同様である。働き方改革はまだまだ途上で、会社自体の施策が揺れている事もあるが、肝心の働き手も中々それに染まらない、と言う現実があった。もっとも真琴の場合は、理解した上で守る事が出来ない事情がある。

 基本的に残業は認められず、残業するにも許可制だ。日本のタイムマネジメントは、開始に厳しく終了に甘い現実が常であった事を思うと随分と変わって来たものだが、実情は連日残業は当然の事、昼食はおろか休憩もろくに取れず、同職域である筈の総務に睨まれる有様である。

 忙しい——

 と言う言い訳は通用せず、それがなぜか、

 要領が悪い。

 仕事が出来ない。

 と言う下馬評に繋がって行く事は、どう考えても

 納得が行かないんだけど——

 と思う事は、真琴と同じ状況に置かれた者なら当然の正当な思考だろう。

 前任者を始め「お日さん西々」で働いて来たお歴々の後任として赴任した真琴の激務振りは、社内では有名だった。それまで放置されて手つかずだった面倒事の一切に手をつけている真琴のスタンスは、少なからず社内を刮目させ影響を与えつつある。 

 が、その一方で、忌まわしい

 イエローカードが——

 後を絶なかった。

 所謂労働基準法における時間外労働の年間上限になぞらえた「三六協定」に引っかかる、または引っかかりそうな社員に下される文字通り黄色の紙切れのそれは、そのままサッカーのそれである。累積すると会社管理による就業調整、または就業停止措置が下されるのであるが、

 もう何枚目なんだか。

 真琴は四月からこちら、警告や一発退場を貰わなかった月が一度もなかった。

 やってられないわ。

 フレックスタイムなど他の先進国ではとっくの昔に始まっており、最早ちやほやされるようなフレーズではない。しばらく欧州を主戦場として働いて来た真琴が、それに慣れてない訳がない。自己分析ながら業務量や負担率は、単純に一般的な人間がこなす事が可能とされている仕事量の二倍を軽く超えている。兼務辞令でいくつか役をかけ持ちしている事も相まって、要領も効率も最短距離を突き進まなければ時間の浪費が甚だしい。就業中の頭は常にフル回転だ。だからこそ、会社の様々な出入口に設置された防犯カメラや入退室管理システムに基づく出退勤管理をちょろまかさなくても、

 このぐらいの時間で帰れるのよ!

 と言う事だった。

 他の人間が同じ事をやったら、連日午前様では済まない。一月もあれば、大抵の人間は潰れるような量の仕事をこなしている。つまらない論い方をするくらいなら業務量を調べて欲しいものだ。

 そもそもが、真琴は管理される側の人間ではない。そもそもが大抵の労働に関する各種法律の枠組み外の人種であり、

 小言を言われる筋合いはない!

 のであるが、それでは就業規則に縛られている多くの社員と公平感が損なわれると言う事で、とりあえず甘んじて貰い続けているのが赤や黄色の紙と言う訳だった。

 その現状を踏まえた上で、社内の水面下で囁かれる

 女帝だの——

 御局様だの——

 傍若無人だの——

 と言う数々の中傷。

 ——権を振り翳して?

 ——思うがままに?

 ——やりたい放題やっている?

 と言う言われなき批判。

 それをやって来たのは、面子に固執し、底なしの欲に塗れ、建前一辺倒の無責任な寄生虫と化した醜悪なサラリーマン上級職に他ならず、すがりつく木が危なくなるや

 今更どの面下げて——

 あえて遠ざけて来た妙齢の腫物に、その汚い尻を拭わせようと言うのか。それをさせておいて、言いたい放題やりたい放題やっているのは

 どっちだってぇのよ!

 全ては、

 仕事投げっぱなしで高禄を食んで来た狒々爺共に言え——!


 ソファーの背に首をもたげ、袖に片肘をつき、その手で目を覆っては、

「あー、やっとられん」

 などと呻いている真琴は、あられもない格好ですっかりふてていた。

 その傍に、

「今日はまた随分お疲れで」

 エプロンをつけた五〇前後の女性が擦り寄り、ソファーの前にあるテーブルの上に、黒無地漆塗りの証書盆を静かに置く。

「お風呂とお食事、どちらを先になさいますか?」

 ソファーの角で埋もれている真琴の傍に静かに片膝立ちした女は、まるで娘をあやすかのように語りかけた。

「どっちもしんどい」

 常にないか弱さを見せる真琴のそれは、稀にこの女にしか見せる事がない二親すら知らない一面である。

「それは困りましたねぇ」

 この四月から一緒に住んでいる家政士の佐川由美子さがわゆみこは、真琴が東京の実家でも世話になった腹心だった。

「だって——」

 悔しい——。

 調整される言われもないにも関わらず、これ見よがしに通知され、問答無用で手が加えられる就業時間は屈辱に他ならない。自己管理が出来ない象徴として論われ、わざわざ傷口に塩を塗り込むようなやり口に内心

「腹が立って腹が立って——」

 仕方がなかった。

 就業調整が、

「何の解決になるって言うのよ」

 そんな事をしても、問題を置き去りにして投げっ放しにするだけで、先の将来の社員や会社が困るのだ。今やっておかねば、先の世でそのツケを払わされる構図が

「目の前にあるって言うのに」

 その辣腕を乞われて赴任した身である。自分の采配や裁量が、文字通りこれからの会社を左右しかねない、と言い切って何ら差し障りがない役どころである。が、しゃかりきになったところで、旧態の弊害はそう甘くはなく、社内刷新など程遠い。

 結局——

 やっぱり——

 お前でも変わらない——

 変えられない——

 と言われているようで、

 ——負けたみたいだ。

 悔しさが滲んだ。

「まだ、三、四か月じゃございませんか」

「そうだけど——」

 由美子は片膝立ちから跪座になり、真琴の頭に手を置いて、ゆっくり、優しく、繰り返し撫で始める。

「私にお仕事の事は分かりませんが」

 その手が、実の母とは比べ物にならない程心地良い。

 事ある毎にこの手に慰められて来た真琴が、偶然広島出身と言うこの家政士を拝み倒してまで連れて来た最大の理由は、この優しい手だった。

「止まらなければ良いじゃございませんか」

 拠り所を持たない、あえて持とうとして来なかった真琴が、自ら求めた極々僅かな味方であり、友であり、母とも言えた由美子が真琴の専属家政士となるのは、実に久し振りなのであるが、

「辛くても、歩みを止めなければ、その分進む事が出来ます」

 期待を裏切らず、この手は優しかった。四月以降、何度かこの手にはすっかり世話になってしまっている真琴である。

「その格言が原因で、沼地にはまっちゃったんだけどね」

 会社での殺気めいた仕事で擦り減らし、荒みそうになる私生活を何不自由なく維持する事が出来るのは、他ならぬこの腹心のお陰であった。

「まあ。慰めて差し上げましたのに、随分ですこと」

 そんな四月以来の猛烈振りに変化が生じたのは、先月の事故以後の事だ。

 どうせ就業調整されるんなら——

 週一、比較的社内が落ち着く週の中日辺りは残業を止めた。元々社内でも週の中日は、定時退社推奨日が設定されている事ではある。無視し続けて来たものだったが、あの事故で、

「余り無茶をなさらないでくださいまし」

 殊の外由美子を心配させてしまったため、ほんの少し仕事振りを改める事にした。

 週末の休みは社内で絶対消化が厳命されているため、猛烈勤務は週五日から週四日半程度になったのだが、それでも心が折れそうになる。

 何か、足りない——。

 それで、あの「山小屋」に顔を出して景色を愛でる事にしたのだ。自分の周囲にない、あの牧歌的な情景を。随分と打たれ弱くなったものだ、と気を取り直して居住まいを正すと、

「今日は、このぐらいでよろしゅうございましたか?」

 由美子がわざとらしく満面の笑みを浮かべたものだ。

「じゃあ、これを見てお風呂」

 真琴はそれまで甘えていた身にも関わらず、少し捻くれ気味に言うと、

「はい。ではそのように」

 由美子は、柔らかく丁寧な返事をしてキッチンへ去った。

 後に残されたのは

「——て、多いわね」

 A三版大の盆の中に盛られた三〇通前後の封書の山である。傍にペーパーナイフが一本添えられ、几帳面に三列に並べられたそれらは、うっかり触ると盆から落ちそうだ。

「開けておいて欲しいんだけどなぁ——」

 真琴が猫撫で声を出したものだが、

「もう、お慰めタイムは終わりましたよ」

 由美子はすっかり、スイッチを切り替えたものである。良くも悪くも折目正しいこの家政士は、いくら言っても封書を開いておいてはくれなかった。

「あ、そ」

 それを見るや、真琴もあっさりその立場を投げ捨て、態度を一変させ、いつもの高飛車な真琴に戻る。切り替えの早さは真琴の特質の一つだ。

 今日も多い——。

 仕事帰りのこの一手間がまた、真琴を擦り減らすのだった。大体が一見してダイレクトメールなのだが。

「今更見られて困るような手紙なんか送られて来ないんだけどな」

 ぼそぼそ呟くと

「私に、開封して良い物とそうでない物の分別はつきません」

 しっかりと聞き取られており、折目正しく返答されたものだ。

「いやだから、全部開けていいんだってば!」

「私は家政士です。執事じゃありません」

 毎度の事だ。最後の決め台詞である。真琴の実家では、封書開封の判断は執事に一任されており、家政士の任ではなかった。

 この頑固者め——。

 への字に口を歪めながら、真琴はペーパーナイフを手に取る。

 まあ確かに——

 宛名以外の者が勝手に封書を開封する事は、基本的に直ちに信書開封罪と言う犯罪に

 ——なっちゃったりは、

 するのだ。

 これは閲覧閲読の意思の有無に関わらず、開封した時点で成立するのであるが、宛名の人間である

 主の私が開封を指示してるんだから!

 話は別である。のだが、その罪の存在を杓子定規に夫から聞かされているらしい由美子は、頑として開封を拒んだ。最もこのケースでも、由美子の言は分からなくもない。開けて良いものと好ましくないものと言うのは、他人では判断がつきにくいものである。

「今更隠すような事もなくってよ」

 と言うのも事実だ。自分の事で由美子が知らない事など、仕事の詳細ぐらいのもので、プライベートは預けてしまっている。

 それでも、

「私の分を超えますので」

 由美子も中々の筋金入りだった。

 ホント頑固なんだから。

 とは言え、信のおけるこの家政士を真琴は尊敬しているのではあるが。

「この時期になると、ホント多くて困るわ」

 ふてながら真琴は、一通一通開封しては中身を確かめ始めた。一応全てに目を通すのは、仕事上のつき合いによる物が大半であるからだ。ダイレクトメールでも、稀にこれが話の種になる事もある。個人的には、目を通す価値のある物など全くなく、今更心を動かす物もないのであるが、僅かでも仕事に関わる可能性があると来れば話は別だ。

 興味を持つようにしないと。

 仕事と思って目を通す。多くの責任を背負う者に課せられた使命は、こんな日常においても中々容赦ない。目を通しては、次々と盆の外に積み上げて行くそれらは、仕事上の縁続きでしがらみが出来てしまった取引先企業が送りつけて来る上得意様仕様の販売促進物である事が殆どだった。お中元の季節柄故か割引券や優待券が多く、務めて事務的に一定のリズムで開封しては、ぽんぽん紙の山を築いていく。

 真琴の存在意義など、

 所詮はこの程度ね。

 世に金を落として、世を潤す事でしか、世に認められない。このあからさまな数のダイレクトメールは、真琴に対する世の意思表示とも言えた。

 ホント何なのかしら。

 嫌気が差す。自分に向けられた世間の下心が、思いがけず心を抉る。不意に、何を楽しみに、何を支えに、何のために、

 生きているんだろう——。

 焦点がぼやけ、何やら怪しげに倒錯的な思考を巡らせ始める。疲労と荒んだ心がもたらす、闇。

「花火、でございますか?」

 気がつくと、また由美子が傍で跪座していた。

「え? 花火?」

 目を瞬き、我に返った真琴が由美子を見ると、

「はい」

 微笑を浮かべた由美子が、優しげに答えた。

「これですよ」

 言うなり由美子は、真琴が手にしているカラフルな案内文を手に取る。

「広島みなと花火大会ですね。小さい頃は家族とよく行きました」

 真琴に似て知的な印象の腹心は、微笑むとややふくよかな体型を裏切らず、豊かな母性を醸し出したものだ。

「広島では、宇品の花火大会とも呼ばれたものでして——」

 戦前後、広島市宇品地区(現広島市南区宇品)の祭りの一環として行われていたらしく、近年では毎年七月第四土曜日に開催されている。広島港沖の海上から打ち上げられる一万発を超える花火に、毎年約四〇万人前後の人出が見込まれる

「県内有数の大きな花火大会です」

 広島湾の島々を背景に、黎明期は中々風情があったものらしかったが、

「昔から、それはもう人混みが凄くて」

 高度経済成長で生活が豊かになると規模も人出も増大し、由美子が子供の頃ともなると既に

「会場周辺は、夕方前ともなると大変な混雑で」

 ごった返していたらしい。

「ふーん」

「こちらは、その花火鑑賞の優待プランのようです」

 真琴が手にしていたそれは、全国に系列を持つ某ホテルのそれだったらしい。もっとも倒錯しつつあった真琴は、内容など全く飲み込まず手にしていたのだが。

「間もなく開催予定の花火大会に合わせた企画物ですね」

 由美子が案内文が入っていた封筒からその優待券を取り出して見せた。

「そうなんだ」

「ご覧になってみては如何ですか?」

「花火を?」

「はい」

 また、気を遣われてしまったらしい。つくづくこの家政士には世話をかけ通しだ。

「じゃ、一緒に行く?」

 花火など、真琴にとっては小さい頃の記憶でしかない。東京にいた頃は会場に近寄りもせず、それどころか人混みの温床として忌み嫌っていた。

 あの人ごみで見て——

 何が楽しいのか。捻くれたものだったが、ようするに一人で見ても侘しいだけで、一緒に見るような心を許す事が出来る人間もいない。

「いえ。私と行きましたところで、何のお慰めにもならないでしょう」

 由美子は、手にした優待券を真琴の前に置いた。二枚ある。

「私などより、日頃お世話になってらっしゃる方をお連れしては如何ですか?」

「お世話になっている人って言われても、あなた以外には——」

「先月来、お世話になってらっしゃる山小屋の御仁がよろしいのでは?」

 由美子には、事故の一件と山小屋の住人に助けられた事は、その日のうちに話をしていた。日常的に多忙を極める真琴に変わり、返礼品を用意したのも由美子なら、バーベキュー用品を準備したのも由美子である。頼れば必ず期待通り、またはそれ以上に答えてくれるのであるが、ただ一点、

「女二人で見に行くのなら、あなたと行くわよ」

 性別を隠した。

 この度「先生」と命名した山小屋のあの男の事を、事故を起こした当日由美子に話をする段で、真琴は思わずあの男の事を女性と言ってしまっていた。瞬間で浮かんだ悍ましい懸念が、思わず真琴に嘘を吐かせてしまったのだ。その理由とは、如何に腹心の由美子と言えども実家の家政士である事に変わりはない、と言う事である。

 真琴とその実家の関係性は悪く、真琴の中での位置づけとして、実家は敵認定された何事にも躊躇を要しない相手であった。腹心の由美子が、その実家にわざわざ真琴の落度を報告するような愚は犯さないだろうが、何かの拍子に漏れる事を恐れた。実家を敵認定する主因は、ずばり真琴の母である。真琴の母は極めて束縛癖の強い体質だった。何でも思い通りに事が進まないと気が済まない質で、逆上したら何を仕出かすか分からない。真琴の最も古い記憶を漁ってみても、一度として母と良好な関係性を築けた記憶がない、と言う因縁の間柄である。特に真琴が年頃を迎えて後は、何度となく不毛な見合いを仕組まれ、何度大喧嘩をしたか分からない。まさに思い出すだに忌々しい、そんな母である。その母に、文字通り何処の馬の骨やら分からぬ、素性怪しき先生の事など抜けようものなら、お互いに何をされるか分かったものではない。

「お嬢様」

 由美子は言うなり、跪座のまま居住まいを正した。その優れた印象が、自分でも認める事を憚からせるもう一つの密かな懸念を彷彿させる。由美子はややふくよかだが、形は決して悪くはない。それどころか落ち着いた面立ちは知的な印象を強く与え、実際に知的なのに加え、外観的にも豊かな母性を帯びている。ふくよかと言っても、標準的な体型より少し上回る程度であり、無駄に痩せているより余程健康的である。その見るからに聡明で柔和な雰囲気では、余りある美貌を持つ真琴でも太刀打ち出来ない、と密かに舌を巻く程の淑女だった。

 邪魔を、されたくない——。

 真琴は、それがどの程度の意味の深さを持つものか、自分でも理解出来なかったのだが、そう思った自分が心奥に存在する事だけは認めざるを得なかった。

「お嬢様に限って間違いはないと思いますが、お隠し事と言うのは余計目につくと申します」

「何が?」

「広島まで連れて来られたにも関わらず、信用されていないと申しますのは、正直残念でなりません」

 その由美子の言い分は、実はもっともである。由美子はこの年齢にして、この四月から単身赴任中だった。夫はやはり、真琴の実家で勤める執事であり、その仲の良さは中々類を見ず家中でも有名と来ている。

「私はお嬢様の味方ですし、自分で言うのも何ですが、そんなに迂闊じゃございません」

「あー、分かった分かった!」

 真琴は堪らず白状した。

「こう言う事は、信用出来る家政士一人ぐらいには打ち明けておいて損になる事はございません」

 由美子が畳みかけると

「だから分かったってば!」

 真琴は観念の体で、先生の事を詳らかに説明した。確かにその為人は掴みかけているが、まだ完全とは言い難い。面白そうな男ではあるが、何がどう転ぶが分からない部分が拭えない以上、自身に何かが起きた場合の痕跡は残しておくとしたものだ。更に、真琴はこの家政士に、多少なりとも刺激を与えたい思惑もあった。無理矢理広島に連れて来てしまい、何かと寂しい思いを強いている。罪滅ぼし、と言った側面もあった。

「んまぁ——面白そうな御仁じゃございませんか!?」

 由美子はメロドラマやワイドショーに目のない人間で、そのあたりの事では一昔前の主婦の具現である。いい年の淑女が、両手を掴んではしゃぐ構図に

「ホント、こう言うの、好きよねぇ」

 真琴は三段論法で引いたものだ。

「隠すような事なんてない、とおっしゃいましたのに。一人でずるいんじゃございません?」

 ぐいぐい迫る由美子に、真琴はすっかりじり貧である。

「ずるいも何も、あなたにはあんなにも良く出来た旦那さんがいるでしょうが!?」

 由美子の夫は、家中でも有能で通る大変な切れ者にして、燻し銀のナイスミドルである。男を見る目に厳しい真琴が見ても、中々非の打ち所が見当たらないと言う男振りなのだが、

「暑苦しくって敵わないってのに」

 この夫婦は双方とも一途であり、いつまで経っても仲が良い。由美子が由美子ならその夫も夫なのだが、

「あんまりお痛が過ぎたら、流石に怒られるわよ」

 由美子の方は実は、

「素敵なものは素敵と言うものです。我慢したら、それこそ気の毒と言うものです」

 メロドラマの影響が多少はあった。

「じゃあ、この際だから三人で行く?」

「はい」

 真琴の提案に、由美子は一も二もなく、嬉しそうに即答した。

「あ、申し上げておきますが、私はそこまで野暮じゃございませんからご安心くださいませ」

「何よそれ」

 真琴は呆れ気味に軽く溜息を吐く。

「それにしても、どうして分かったの?」

 気づかれるような下手を打ったつもりのない真琴が訝しむ横で、

「家政士の観察力は、伊達じゃございませんよ」

 由美子は早くも興味が抑えられないようである。

「プランの手配は、私がやっておきます」

「それは家政士の仕事の範疇を超えるんじゃないの?」

 大抵、折衝を伴う表向きの事は、執事の領分としたものであるが、

「ですから随時、ご相談させて頂きます」

「あ、そ」

 興味を覚えた事なら、仕事の範疇を軽々と超えられるらしかった。

「お風呂、入ってくるわ」

 毒づく事で、すっかり毒気が抜かれた真琴は、ホテル優待券と案内文だけ盆に戻すと、立ち上がって広い居間を後にした。


 翌日。

 非番日の夕方、相変わらず本を読んでいる具衛が、座卓の上で素気なく鳴ったスマートフォンに慌てた。メル友を持たない具衛に届くメールと言えば、従前は通販サイトのダイレクトメールぐらいだった。それが先日来、それに紛れ込んで「カナ」から届くようになったため、

 確かめとかないと——

 後がうるさい。

 元々具衛は、普段から着信の確認癖がついている方だが、カナはそれを上回るせっかちさだった。

 カナが送りつけて来るメールは明らかに短文で、殆ど内容的にショートメールと変わらない。どうやら多忙の中、短時間を捻出してメールを打っているらしく、うっかり放置していると、返信を急かすメールが何通も滞留する事があった。

 スマートフォンの画面を確かめると、そのカナからである。

「おっとっと」

 慌ててメールを開封し、内容を確かめる。

"一七時過ぎに伺います"

 相変わらずの決めつけ短文だ。具衛は早速返信を打つ。

"お待ちしています"

 以上、終了するまでの所要時間、僅かに約一分。早さも殆どショートメール並みである。

 住居侵入の意を含めた七夕の言及が余程堪えたのか。来訪前日には、事前に必ず来訪予約のようなメールがあるため、予約通りならこの程度の内容ですむ。何れにせよ前日当日問わず、メールの内容は殆ど固定文のようなものだった。

「それにしても——」

 具衛は、やり取りを終えた受信メールを眺めて思わず独り言を漏らす。

「この登録表記は、痒い」

 女気のない生活が板についている具衛にとって「カナ」と言うその女子振り満載の音と表記は、むず痒くて仕方がなかった。メールはまだ表示が小さいから良いのだが、画面にメール着信を知らせる際の表示は、比較的大き目な表記であり、とにかく痒い。

 大体あれが——

 カナ、と言う名前に相応しい人間なのか。常日頃を想像するに、その形は「カナ」と言う名前のイメージとは離れているように思えてならない。カナと言うからには、

 もう少し可愛げがあっても良くないか?

 と勝手なイメージを膨らませている。少なくとも、男以上に男振りを見せつけるようなあの女が、断じて「カナ」とは、

 どう考えても——

 結びつきにくかった。

 百歩譲って音は我慢するとして、

 ——表記は何とかならんか。

 と、電話帳を開く。その電話帳は、恐ろしい事に登録データがたったの三件しかなかった。壮年を迎えている働き盛りの男の物とは思えない侘しさである。その内の一件が「カナ」なのであるから、少な過ぎて表記が目立つのも無理からぬ事だった。

 とりあえず、カナの登録データを編集モードにする。電話帳データのくせに電話番号欄が空欄で、登録データはメールアドレスだけだった。そのメールアドレスは、ニックネームをアルファベットにして、その後ろに数字を六桁並べただけだ。数字の意味は事故日である。七夕の日に設定したのだから七夕の日を表す数列にする手もあったのだが、それは如何にも多そうであったし、何処となく野暮ったいイメージが拭えなかったため事故日にした、と言う訳だ。二人の腐れ縁は、この日をもって始まったのだからそれで良いだろう、と言う事になった。

 で、西暦の下二桁以下を日付表記すると、同一のアドレス登録はなかったようで、登録する事が出来た訳だったのだが。アルファベットはまだ良いとして、

「登録名は、とにかく痒い」

 堪らず盛大に溜息をついた。

「カタカナがいけない」

 カタカナが、などと、具衛の勝手なイメージが、日本固有の片仮名を戦犯にする。平仮名でもそうだが、その表記は日本人にとっては趣きがあり、柔らかい優しい印象が、どうしても具衛の中で何故か拭えない。音にしても同じである。だからこそ、カナと言う名前は一般的で、現代日本人に受け入れられているのだろう、と具衛は更に勝手な解釈をした。

「せめて漢字にならんもんか」

 と口にした時、思い至った。

 そう言えば——

 音は決めたが表記は決めていない。「仮の名」と言う意味で「カナ」と言う呼び方を命名したに過ぎない。

 ——そうだった。

 具衛は、そのまま命名の意味通り漢字表記で「仮名」と登録し直した。

 やっぱり!

 これなら少しは落ち着いて見えたものだ。具衛はその独善に手応えを覚えた。漢字なら、例え他人に見られても「かりな」と言う苗字の人だと言い逃れる事も出来る。

「おぉ——!」

 我ながら妙案、などと、具衛が一人歓声を上げていると、その渦中の人の車がバックして来た。本を読みながらとは言え、それに気づかない程度に頭を悩ませていたらしい。すっかり慣れた様子で、車が山小屋の目の前に止まるや、

「何の雄叫び?」

 すっかり慣れた振舞で、仮名が縁側に腰を下ろした。

「え?」

「さっき。何か『おぉ——!』って」

 どうやらバックの時に、車のドアか窓を開けていたようだ。今春からの周辺に誰もいない生活に馴染みつつある具衛は、独り言を躊躇しなくなって来ている。それも四か月が過ぎようとしていれば、一人で存分にはしゃぐ事が多くなったものだった。聞かれてしまった事に、今更ながら恥じ入る。

「いや、こっちの話でして」

 中々間抜けな事で、口に出せよう筈もない。かと言って上手く取り繕う事も出来ず、まごつきながらも具衛は、給仕を理由に台所へ逃げた。


 夕方といえどもまだ日は高く、暑気が強い。周囲でニイニイゼミやアブラゼミが賑やかしく鳴き続ける中、具衛が呈茶に参じると、仮名は早々に恍惚めいて、盛夏の夕暮れを愛でているようだった。邪魔をすまいとして、静かに座卓に引こうとしたところで

「煩わしくない?」

 唐突に仮名が呟いた。

「え?」

 跪座したまま僅かに固まる具衛に、仮名が

「メール」

 と、申し訳なさそうな顔を向けてつけ加える。

「SNSなら、もっと早いから」

 相変わらず寂然たる面持ちを見せる仮名は、相変わらず問答無用で美しい。不意打ちのようにその御尊顔を見せられると、驚きの余りつい動きが止まってしまう。思わず息を止めて目を瞬かせた具衛は、思い出したように小さく息を吐くと、

「私は、時間に追われるような暮らしはしていませんから」

 胡座をかいてその場に座り、柔らかく答えた。事ある毎に、隠棲した世捨て人を自称する具衛に、世間の急かしさは存在しない。そもそもが、フリーメールを選択した理由はそこではない。出来る限り個人特定に結びつくような情報を遠ざけるためにそれを選択した訳だが、つまりは仮名の素性を慮っての事だ。

 具衛には、素性を隠す理由は殆どない。何せ天涯孤独の身である。プライベートは自由自在だ。一方で仮名は、社会的地位が如何にも高そうな身であり、一見して何かと制約も多そうだった。自由な具衛に選択の余地がなく、制約を伴う仮名にその権がある、とは、少し考えれば仮名に配慮した事は明らかである。

「それもそうね」

 具衛ののんきな生活振りを知っていながら、時間的な煩わしさを尋ねるのも中々に的が外れたものだ。

「全ては私の都合だったわ」

 察した仮名は、小さく自嘲した。

「それに元々、SNSは使ってないんで」

 言いながら具衛は、グラスに入れた冷茶を口につけた。来訪予定が分かれば、この暑い時期の事である。冷蔵庫は使わなくとも、井戸水である程度は冷やす事が出来る。毎週一回、週半ば辺りに来訪がある事が分かってからは、それに合わせて作るようになったのは、事故の日にも話題に上がった笹の葉を煮出した「笹茶」である。山にいくらでも自生している笹の葉は、軽く炒って弱火で煮出すと、ほんのり芳ってほんのり甘い。素朴な味わいがする山の味だが、市販品となるとわざわざ求めなくては中々口には出来ない物だったりする。仮名も「飲んだ事がない」と喜んだものだったが、 

「嘘!? 今時!? 使ってないの!?」

 呈茶の謝辞も忘れる程に、仮名は三段論法で驚いて見せた。

「使うような相手がいないんで」

「ホントに?」

「メールにしても、通販のダイレクトメールばかりですよ」

 具衛は、やはり呆気らかんとしたものだ。

「そうは言っても、友達の一人や二人」

「スマホの電話帳登録は、あなたを含めて三件だけです」

 取りつく島がない、とはこの事だ。言葉を失う仮名の横で、具衛は具衛で

「電話なんかも、しばらくかかった覚えがなくて」

 とつけ加える。言いながら着信履歴を確かめると、

「最新の着歴は、今年のエイプリルフールですよ」

 今度は具衛が「何の電話だったか」などと無邪気に自嘲した。

「電話帳データ上の知人なんて、大家さんと、その顧問弁護士さんと、あなただけです」

「本当に三件だけなの?」

 驚く一方で「弁護士」と言う、具衛のような世捨て人から出そうにないフレーズに、仮名は違和感を覚えたらしい。

 確かに弁護士は、一昔前に比べれば増えてはいるが、庶民にはまだまだ縁遠い。法の専門家として、相談料や依頼料は事実上言い値であり、文字通り未だにお高い存在

「——としたものだけど。まさか、あなたの副業のご関係?」

 仮名の思わぬ先読みに、

「まさか」

 具衛は失笑で答えた。

「弁護士さんの本家が、この町の農家で。手伝いと称して押しかけては、いろいろお恵みを頂く訳でして」

 また自嘲を重ねる具衛を

「まあ、副業と言えば副業ですけど」

「まあ、そう言う言い方も出来るか」

 仮名は無遠慮気味に、あっさり受け止めた。

「弁護士なんて、日本じゃまだまだ遠い存在だわ」

 日本と他の先進諸国における弁護士数の比較は見るも無惨で、弁護士一人当たりの国民数は、

「桁が違うもの」

 圧倒的に日本は多い。つまり弁護士が少ない。

「詳しいですね」

「ちょっとね」

 言う事を言うと、また物憂気な眼差しを夕暮れ時の盆地内に移す。

「あ。あなたの事をバカにしてる訳じゃないわよ」

「そうなんですか?」

「当たり前でしょ! そこまで図々しくないわ」

 思い出したように怒りながら否定する仮名は、遅ればせながら

「お茶、ありがとう。頂くわ」

 やはりぶつ切りで、ぶっきらぼうに謝意を表した。

「相変わらず、高飛車な女ぐらいにしか見てないようね、全く」

 などと、然も心外そうに独り言ちる仮名を、具衛はこっそり笑う。当初は、ぼんやり座って景色を眺めては、ぽつりぽつり山小屋の所帯染みた話ばかりしたものだったが、七夕以降は世間話も増えて来た。それが先程のように妙に専門めいて

 いたりもするんだよなぁ。

 てっきり田舎の物珍しさで来訪しているものと思っていた具衛は、

 飽きて来たか——

 仮名が退屈になり顔色も冴えないのだ、などと勝手に解釈したものだった。

「IT難民とまでは言わないけど、寂しくないの?」

 と漏らした仮名に、やはり勝手に退屈を察した具衛は、

「むしろ気楽で良いですね」

 当然至極に明言したものだ。

 飽きたのであれば、そのうち足も遠退く事だろう。この稀有の美女が見られなくなるのは残念な向きもあるが、やはり面倒毎に巻き込まれる懸念の向きの方が未だに強い具衛としては、

「だからさっきみたいに、叫ぶも騒ぐも自由自在で、リアル傍若無人をやったもんですよ」

 奇人を装ってみたりする。

 田舎がつまらなくなり、人も奇妙ならば、早々に寄りつかなくなるだろう。まさかとは思うが、まかり間違って、お互いに妙な情が湧いてしまっても困る。

 それなら早いところ——

 飽きて、呆れて、寄りつかなくなって欲しいものだった。

「傍若無人って」

 しかし仮名は、

「使い方が違うでしょ」

 先程までの憂鬱そうな表情を一変させ、軽く噴き出す。世間話を織り交ぜるようになった仮名は、一方で、相好を崩す姿も散見されるようになった。

「原文のままの意味としては正しいですよ」

「本当に人がいないんなら、正しくは蕭条無人でしょ」

 が、口に上る内容は、固く、難しい内容が多い。

 話し相手がいないのか。

 具衛はとりあえず、そう思う事にした。人嫌いで、友達がいないようでもある仮名は、確かに精神の抑揚が激しく、一見して接しにくいタイプである。思った事をさばさばと言ったものだから、誤解も受けやすいのだろう。と言う、これぞまさに、

 リアル傍若無人なんだろうけど。

 目の前で聞き慣れない四字熟語の解説をつらつらと語る仮名を前に、具衛は思わず自らの口を押さえたものだ。傍若無人の女が、蕭条無人な所でひっそり暮らす男を前に説法を繰り広げる構図は、どこか高踏的な三文文士めいていて、皮肉が良く利いており中々滑稽と言わざるを得ない。

 傍若無人は現代でも良く使われる余り好ましくない意味の熟語であるが、

「蕭条無人って、口にする人見た事ないですよ」

「人がいなくて寂しい。そう言う意味よ」

 だから原文の意味としては、具衛が口にした「リアル傍若無人」の方が、意味も通りやすい。

「と、言えなくもないけど。ご理解出来て?」

 仮名が確認すると

「屈原の詩、ですかね?」

「一々意外ねあなたは」

「高校で習った覚えがあるような」

 またその解説に火がついた。

 屈原は古代中国、春秋戦国時代を生きた詩人としては余りにも有名だが、出自は戦国七雄の大国「楚」の王族に繋がる名門であり、博聞強記の政治家である。孤高にして剛毅剛直の辣腕家は、当時の王の信を得て活躍したが、それ故同僚から妬まれ権力闘争の末失脚。失意のまま入水自殺を試み、そのまま非業の死を遂げた。と、仮名の口振りは相変わらず立板に水だ。

「横山大観の絵と一緒に載ってたような。絵本じゃないですけど、挿絵みたいなのがあると、記憶に残りやすいですよね」

「それは『漁夫辞ぎょほのじ』ね」

 失脚後の屈原の思想を色濃く写したその詩は、その代表作とも言われ、近代日本画壇の巨匠横山大観作「屈原」の歴史画と共に、高校の漢文の教科書に掲載されていたりする。傍若無人のエピソードが掲載される、やはり古代中国の歴史書「史記」にも、屈原の孤高を表した傑作として引用されるが、実はそれは屈原の作風とは異なり、後世の詩人が屈原に

「仮託した物らしいわ」

 とする説もある。更に言うと、

「蕭条無人は『遠遊えんゆう』」

 と言う詩の中の記述であり、漁夫辞とは関係がない。

「そうでしたか」

「そうよ」

「詳しいですね」

「まぁね」

 仮名はまた寂然とし始め

「歴史って、人類の教科書だから」

 口が重くなっていく。つまりは、有史に記録が残る新世代人などは、大差なく同じ失敗を繰り返すもの

 ——と言う事が、

 言いたいらしい。

「それにしても、ここで漁夫辞を聞かされるとはね——」

 仮名は大きな溜息を吐いた。

 一見してまた何やら悩ましそうであり、浮き沈みが忙しい。

 ——屈子だな。

 屈原を連想せずにおれず、また具衛は思わず口を押さえたものだったが、それ以上に

「私は『漁夫』みたいな高踏の賢人じゃありませんから、難しい事は言えませんよ」

 一応、釘を刺さずにはいられなかった。

「は?」

 仮名が、更に意表を突かれたような顔を返すが、

「入水されても寝覚めが悪いだけです」

 具衛は、とりあえず畳みかける。

 その仮名の物憂気な表情は、何処か危うい頼りなさを、また具衛の中で強く思わせた。先月の事故の初見のような、衝動的にあっさり身を投げ出しかねない、そんなか弱さが仮名は突然表面化する。それを単に脆さと片づけて良いものか、具衛には判断がつかない。そこまでの深い間柄ではないのだから、それは当然と言えば当然なのだが、自分の迂闊な言で思わぬ選択をし兼ねないと言う、その少なからずの焦りが、具衛にお節介な言葉を吐かせた。

「何言ってんの?」

 が、一瞬驚いた顔をした仮名は、途端に悪びれて見せ鼻息荒くあしらったものだ。

「今度は屈原扱い? 私はあんな負け犬じゃなくってよ」

「負け犬!?」

 気鬱に陥ったかと思うと、途端に砕ける仮名に具衛は顔を顰めた。危うさがちらつくからこその楔だったのだ。それを見事に論われたとあっては、流石に不快さ故に息を潜める。高飛車ではあっても不遜ではない、と思っていた仮名の為人を

 どうやら——

 勘違いしていたのか。少し頑なになった具衛は、そのままとりあえず茶を濁した。

「はいはい、ご忠告なのよね。分かってるわよ。ちゃんと聞いておくから」

 そう引きなさんな、と言う仮名は、その少しの変化をお見通しらしい。忙しくも表情を崩してみせる仮名は、何処となくそんな押し引きまで楽しんでいるかのようだった。


「のんびり蝉の鳴き声を聞くなんて、いつ以来かしら」

 仮名がぽつりと漏らした。 

 先程までの寂然さは形を潜め、穏やかな顔つきをしてはいる。が、この分だと

 仕事中は相当——

 険しい顔をしているのではないか。具衛は密かに、そんな想像を巡らせたものだった。いつ以来などと、その何気ない飾り気のない一言は、つまりは本音と言う事だろう。それこそ仕事中は、

 世迷言を口にする間も——

 ないのではないか。その想像に違和感はなかった。片や、せせこましさとはほぼ無縁の、のほほんとした具衛の生活など精々

「ヒグラシは涼しげで良いんですけど」

 蝉の鳴き声を気にするぐらいの事だ。

 先週、梅雨明けが宣言されるや、山小屋周辺も随分と賑やかである。昼間はクマ、ミンミン、ニイニイ、ツクツクなどの各蝉の賑やかな鳴き声で占拠されているが、夕方になるとそれが収まり、代わってヒグラシが鳴き始める。具衛が言った端から、夕方の納涼感を誘うその鳴き声が聞こえたかと思うと、

「昼間はうるさいんですよ」

 それに呼応するように、ミンミン、ツクツクなどと、お馴染みの鳴き声が被さったものだから、仮名が小さく噴いた。時刻的には夕方とは言え、夏の明るく長い夕方の事である。昼間に鳴く蝉が収まるには、もう少し時を要するようだった。

「そのようね」

 具衛としては、夏本番が始まったばかりだと言うのに、既にいい加減聞き飽きている。耳につんざく系統の蝉の鳴き声は、早くも悩ましい騒音の感覚であり、軽くへの字口を作ったものだが、仮名は何処となく嬉しそうだった。具衛にとっての日常は、如何にも多忙そうな仮名にとっては非日常、と言う事なのだろう。

 これが非日常と言う事は——

 その日常を想像するだけでも、具衛は頭が痛くなりそうだった。時間に追われ、人に振り回され、物を使い回して何もかも擦り減らす毎日。それは具衛がこの春に捨てた生活だ。仮名のこれまでを思い返すに、それは何もメールのやり取りに限らず

 段取り良し!

 歯切れ良し!

 ぐずは嫌い!

 と来ており、総じて隙がなく、てきぱきとしたものである。抑揚の激しさは切り替えの早さでもあり、それ程忙しいと捉える事も出来る。それは何も仮名に限った事ではないが、そうした日常を強いられる人々は今の具衛にしてみれば、気の毒と言う他なかった。好き好んでそれに埋もれているのであれば、好きにすれば良い。逆の現実で、具衛が好き好んで隠棲している状況と同じ事だ。だが、我慢を強いられているのであれば、それは余りに痛々しい。具衛から見た仮名は、後者のように見えてならなかった。だからこそ、週一でわざわざこんな所に息抜きに来るのだ。でなくては、好き好んでこんな山奥を訪ねる筈がない。

 そうか——

 七夕に天の川を見ながら「何故こんな所に来るのか」尋ねた事があったのを今更ながらに思い出す。仮名は「興味を覚えた」と語ったものだったが、

 ——息抜きか。

 何となく、そう思えた。

 すると、不意に見せる寂然たる雰囲気の説明もつく。それまで何となく抱えていた憐憫の情が、はっきりと認識された瞬間だった。

 疲れているのか——

 つまりは癒しを求めている。

 今まで具衛に擦り寄って来た女達は、その感情を猛アピールしては、自己都合をゴリ押しして来たものだったからすぐに気づいたものだったか、仮名は辛さや弱味を思わせるような事は皆無だった。プライドが、そうした立ち位置により得られる配慮を嫌うのだろう。

 ——難しいな。

 人をもてなす事の難しさを、今更ながらに痛感させられる具衛だった。

 その渦中の仮名は、

「でも、ここはホント涼しいわ」

 けたたましく耳をつく鳴き声系の蝉が鳴き続ける中において、今度は涼に愛で始める。山小屋の周辺は、南側を除く他三方は高い針葉樹で囲われている。更にその内側には、梅や桜、楓に銀杏などの落葉樹が連なり、その二、三本はおあつらえ向きに山小屋を覆っていると来ている。山小屋は、夏の厳しい直射日光とは無縁だった。

 木の配置が神社のそれと似ているのは、どちらともオーナーが大家だからだろう。加えて具衛は、山小屋の南面にターフをかけている。山林を抜ける風や川から上がってくる風が比較的涼しいのは、盆地内の人工物の少なさと自然の多さに尽きるだろう。それらを経由して山小屋に入ってくる風は涼しかった。

「周りの高い木は杉?」

「樅の木です。花粉はないですよ」

 周りの中木も、著しい花粉を撒き散らす物はなく、それどころか具衛が春に越して来た時には、

「桜が咲いてて、一人花見状態で」

 目を和ませたものだ。

「まるで桃源郷ね」

 仮名は恍惚めいた様子で呟いた。

「仙人ですからね」

 具衛がすかさず突っ込むと、仮名はまた軽く噴き出す。その伝承の出元は、やはり古代中国だ。

「そうとも言うかも」

 仮名はあっさり追認したものだった。山奥の奇特な暇人とくれば、変人も仙人も大差はないとしたものなのだろう。具衛は満更でもなかった。人嫌いの具衛の事である。人でない者、それも人より上の存在ならどんなにか嬉しい。霞を食って宙を揺蕩う。たまに下界に姿を現しては、悪事を働く人間を懲らしめる。そんな仙人になれたら、

 ——楽しいだろうな。

 具衛は思ったものだ。正直なところ現世は煩わしい。人間の浅ましさに振り回され、それなりに苦難の中を生きて来た具衛にとって、それは理想の存在と言えた。厭世的になるのは、そんな具衛の悪い癖だ。不意に目を瞑り、片手で目頭をマッサージする振りをしながら倒錯し始めると、

「——何の話をしてたんだっけ?」

 仮名が唐突に話を巻き戻した。

「え?」

 手を止めて、不意に開いた具衛のその目が、仮名のそれと一瞬絡む。思わず動揺して、つい視線が泳いだ。

「何と言われても、」

 その煽りを受け、声まで揺れる。思い出す必要がある話など、

 なかったような——

 気がするが。

「どうかした?」

 立て続けに、今度は何やら気遣わしげなその目に、また俄かに動揺する。

「いえ。——確か、メールが煩わしいって事でしたよね」

「そうね」

 どうにか思い出した具衛から答えを得た仮名は、また林間に目を移した。話を急に戻しはしたが、それを引きずる様子はない。

 何なんだ?

 引きずりに引きずっているのは、その滞在時間だった。いつになく長いそれは、もう確実に、

 三〇分は——

 過ぎている。あからさまに壁掛け時計を確認しても、追い出すようで悪い。何かと察しの良い仮名の事だ。少し首を動かしただけで、それを勘づかれそうな勢いなのだから迂闊に目を向けられなかった。その代わりに、目を動かすだけで確かめる事が出来る別の時計を見る。仮名の左手首についている腕時計がそれだった。

 クールビズでも背広かジャケットを欠かさない仮名だが、山小屋に来ると流石にそれは脱いでいる。半袖シャツで手首が露わになるためよく見えたそれは、日々つけ替えている事が伺える他のアクセサリー類と違って、いつも同じ物だった。デジタルアナログ仕様の機能美追求型で、一見して武骨なデザインは具衛が持っている男物に近い。一応それでも、具衛の物より全体的な印象として一歩引いた柔らかさがあり、やはりそこは女物のようだった。それでも仮名がつけるには、やはり随分と力強い向きがある一方で、そうは言っても、その細い手首についていて不思議と違和感がない。その力強さを平然と従えるのは、やはり仮名の内面が醸し出す女傑然とした振舞が影響を及ぼしての事だろう。チタン製と思しき質感の、清潔感を帯びた白色が映える明るいそれは、ケースを象るベゼルの鮮やかな赤色がアクセントとして目を引いていた。

 その鋭さと力強さを見せつけるそれは、言われてみれば、仮名のイメージに良く合っている。他の飾りは、その価値が分からない具衛が見ても、それなりの物のように見える煌びやかな物だが、時計のそれだけは明らかにファッション性からは一歩引いた厳つさがあった。その形が何処かしらチグハグで、少し不思議だ。

 ——それにしても

 今日は随分と居座っている。何か伏線があるのだろうか。

「あ、そうそう」

 それを疑い出した具衛を、仮名は見透かしたかのように、また唐突に本線を被せた。結局、時刻を見そびれてしまった具衛である。

「今度、さ」

「え?」

「花火見に行かない?」

「は?」

「は? じゃなくて、花火よ」

 訝しげな声を出した具衛に、仮名が素直に突っ込んだ。

「やるんじゃなくて見るんですか?」

「広島みなと花火大会だもの」

「あー、宇品の」

 具衛はとりあえず、額面通りに話を受け止めたものだ。

 また急に——

 何を言い出したものか。

 七夕のバーベキューも一方的に決められて、寸前まで一人でぐちぐち悩まされた経緯もある。とりあえず即答を避け、今回はしっかり伏線を探る事にした。

「広島の人は、みんなそう言うわね」

「広島近辺だけでも、以前はいくつか大きな花火大会があったんですよ。それぞれを地名で呼んでた名残りですね」

 時の流れの宿命だろうか。花火文化の先細りは、広島でも始まっている。

「子供の頃、見に行った?」

「いえ、一回も。人が多いので寄りつきもしませんでした」

「そう」

 そこまで訊いた仮名は力なさげに何かを漏らし、また少し寂然として見せた。これは何か、

 がっかり? したのか?

 ようにも見えたものだったが、具衛は密かに、また何処かの地雷の向きを心配し身構える。ヘソを曲げられるとまた後が面倒であるし、論破されて頭を下げなくてはならなくなるのもやはり面白くない。それを嫌って山に籠った向きもあるのだから、それを山小屋でやったのでは本末転倒としたものだ。

 少し間を置いた仮名は、

「花火は嫌い?」

 また直球をぶつけて来た。

「嫌いと言う訳では。人混みは嫌いですが」

「良かった」

「え?」

 その人混み嫌いを肯定した様子に具衛が驚くと、

「嫌いじゃないんでしょ? 花火」

 仮名が後追いで捕捉した。

 ——前者の肯定か。

 プライドが高く癇癪持ちで歯切れ良い事この上ないが、基本的な品性は高い女なのだ。否定的な言動では峻烈この上ないが、肯定的な物言いをされると、つい見惚れざるを得ない。

「どうかした?」

「は? え?」

 自分が何か返答する場面だったか、などと内心慌てる具衛を横目に、仮名は少し呆れながらも

「人混みを避けて見られる所があるの」

 と、つけ加えた。

「どう? 非番でしょ?」

「相変わらず、人の都合をよく調べてますね」

「二日に一回の勤務なんだから、別にどうって事ないでしょ」

 直球で攻められ上手くはぐらかせない。この程度のやり取りで妙な仕掛けを見抜ける程具衛は聡くはないし、とにかく肩が凝って仕方がなかった。いい加減慣れて来て欲しいものなのだが、この美女だけはいつまで経っても外見と言い中身と言い、とにかく気を許せない。それは良い緊張感、と言う意味での事なのだが、週一のほんの一時の来訪でさえ、お帰りになられた後は身体の節々の凝りをほぐす程に疲労している具衛にとって、花火に付き合わされるなど

 何の修行か?

 の一言に尽きた。

 返事を保留するその具衛に、

「まだ仙人になるには、修行が足りないんじゃなくて?」

 思わぬ時間差で仮名に図星される。

「は?」

「人の事を屈原みたいに言っておきながら、そう言うあなたこそどうなのよ?」

「いや、そんな事は」

 迂闊な事を口に出来ないどころか、思った事を見透かされるその察しの良さに、また参る。

「仙界に逃げようとする修行不足の不届きな人間を、仙界の御歴々がお許しになるかしらね?」

 仮名は言い出すと、その歯切れ良さで相変わらず容赦ない。抗弁に事欠き、

「花火ですかぁ——」

 などと唸っている具衛を小さく鼻で笑った仮名は、

「また連絡するわ」

 と言い捨てると、そのまま立ち去った。


 花火大会当日。

 快晴の夕方前、具衛は中山神社の丘の南側にある国道上のバス停にいた。当然、盆地内の唯一のバス停であり、名称はそのまま「中山」である。山小屋を出る前にバスダイヤを確かめて出て来たが、一応バス停に貼付されているダイヤも確かめる。平日でも一時間に一本。休日なら昼間は二時間に一本と言うのどかさのそれは、具衛がネットで調べたそれと合致していた。

「間違いない」

 待っているバスは、広島市内中心部方面行きとしては、最終便の三本前のバスだ。これを逃せば次は午後五時台、その次の最終便は午後六時台。利用者はそれ程に少ない路線である。

 左手首の腕時計を見ると、目当てのバスの定刻にはまだ一〇分以上あった。利用者が少なく、殆ど回送状態で走る片田舎の路線バスは、主要バス停以外では大抵早く通過するものだ。そのため、定刻前にバスが通過する事を恐れて、少し待つつもりでバス停に来たのだった。ベンチもないため、立ったままスマートフォンを突いていると、数分後山間部方面から、やはり少し早めにバスのエンジン音が聞こえて来た。利用者である事をアピールするため、具衛は慌ててスマートフォンをいつもの綿パンのサイドポケットに入れ、やって来るバスを見る。日頃から中山バス停で乗降する者などいないため、そうでもしないととても止まってくれそうになかった。それもその筈、バス停がある中山集落の住人は具衛一人だけなのだ。それもこの四月からであって、それ以前は当分人が住んでいなかった、とは大家の話である。

 やって来たバスの運転手の目を具衛が捉えると、バスがバス停に入って止まった。具衛が乗る間に、バスの後ろを走っていた一般車が一気に数台抜いて行く。乗客は当然誰もいない。具衛が最後尾の左窓側席に乗ると、バスは一般車が全てバスを抜き切った事を確かめて再出発した。

 バスも久し振りだな。

 最後に乗ったのは、この町に来たこの春だった。それ以後、町に籠ったままだった事に今更気づく。職場、図書館、近隣農家の間を歩いて行き来するのみの生活。そうしてあっという間に四か月が過ぎようとしている事に、最後尾の席上でのんびりバスに揺られながらも内心驚いた。

 すっかり落武者だわ。

 あんな辺鄙な所に住む物好きと言われてもう四か月。具衛はまさに、すっかり落武者だった。そんな事を回想していると、バスは中山集落の南にある町の役所出張所前に着いた。この中に町の図書館がある。

 バスは早いな。

 のらりくらり歩くと山小屋から三、四〇分はかかる。バスだと信号もないため、ゆっくり走っても五、六分だ。そのバスは、定刻より数分早く出張所前バス停に着いてしまったため、運転手が「時刻調整で定刻まで停車する」旨のアナウンスをした。一人、貸切状態でつつがなく乗っている具衛に対して、随分律儀な事である。

 中山集落で南北に分断されている町だが、北側の町も南側の町も、同じ行政区内の一個の町だ。一応所属は「国際平和都市広島」内の町である。広島の一部と言えども、沿岸部から程遠い町の人口は二千そこそこであり、高齢化率も高く、電車も高速道路も通っていない。産業も観光要素も乏しく、はっきり言って何もない。それ故、広島最果ての陸の孤島と言われており、それを裏づけるように、市内中心部からだと車で早くても一時間程度はかかった。町の行政的な中心は南側の町、町の人間は便宜上「南町」と呼んでいるが、その南町にある。よって、役所の出張所の周辺に大抵のものがあるのであるが、バスを利用して町から脱出しようとすると、その中心地からでさえ終点となる最寄りのJR駅まで一時間と言う長旅となった。

 定刻となったようで、バスはまた再出発する。

 やっぱりバスはかかるな。

 密かに前言を撤回した具衛は、揺れる車内でぼんやりする。

 仮名は花火当日、山小屋まで

「迎えに行くわ」

 と言ってくれたのだが、具衛が頑として断った。何せ市内中心部から車で一時間の辺境である。仮名の住居は知らなかったが、常に良い身形にしてあの車だ。市内中心部の流行りの高層マンションか、その近辺の高級住宅街である事は聞かずとも分かろうものだった。甘え過ぎと仮名の負担を考えて断った、

 のだけど——

 それにしても遠い。

 待ち合わせ場所は終点の駅前なのだが、待ち合わせ時刻は午後五時である。バスは四時過ぎには着いてしまうため、着いても小一時間は待たなくてはならなかった。そうは言っても、花火を見る段取りを全て仮名に任せっ切りなのだ。バス旅ぐらいで、

 ぐずぐず言っちゃ——

 いけない。

 具衛は揺れに任せて目を閉じた。


 次に具衛が目を開いたのは、終点直前だった。運転手のアナウンスで起こされたようで、気がつくとバスは、いつの間にやらJR駅前の住宅街の中を抜けている。非番とは言え、勤務中にたっぷり仮眠が取れる仕事である。ここまで寝入るとは思わなかった。適度な揺れと良く効いた空調が睡眠を誘ったようだ。因みにこの男は、何処でも寝られると言う特技を持っていた。

 数分後、駅前のロータリーに入るとすっかり見慣れた赤いクーペのスポーツカーが、バス停の先にある送迎スペースに止まっているのが見えた。

「ん?」

 思わず唸り声を出した具衛は、思わずまた腕時計で時刻を確かめる。やはり午後四時過ぎだ。バスはほぼ定刻通りに終点に着いた。つまり、待ち合わせ時刻にはまだ小一時間ある。バスが到着後、降車してその背後から近寄ってみると、やはり仮名のアルベールだった。やや斜め後方から左ハンドル車の運転席側を確かめると、サングラスをかけ赤いシャインリップをつけた仮名が物憂気に座っている。休日の夕方、花火大会へ向かう通行人も多い中、視線を集めている事この上ない。その出来過ぎたシルエットに通行人の多くは、有名人か何かと勘違いしているようだった。

 あれに、乗らされるのかよ——。

 待ち合わせ時間ギリギリに来れば良いものを、と近寄る事をためらい、メールで別の場所へ移動させて合流する考えが頭を掠める。が、それは、待ち合わせ時刻を前倒して待っている仮名の何らかの思いを踏みにじる、として即却下した。何の意図で早く来ているのか、具衛には分かり兼ねたが、先に来ている人間を自分の都合で動かすなど、礼を失すると言うものだ。車に近づきながら意を決した具衛は、運転席傍に立ち軽く頭を下げると、相変わらず形の良い唇の口角が少し上がり、その左手が隣に乗る事を指示した。

 それにしても、

 何と自分と——

 釣り合わない構図か。思いながらも、具衛は車の後から右側に回り込み助手席に乗り込む。高級スポーツクーペに相応しからぬ見窄らしい形で、具衛がそそくさと乗り込むや、アルベールは控え目に重低音を轟かせながらロータリーの通行帯に滑り出た。

「お待たせしたようですみません」

「いいのよ」

 乗車時に、仮名の右側面から前面のシルエットが思い切り目に入り、具衛は思わず助手席で小さくなる。白のキャップスリーブのストレートワンピースが異常に似合っており、その着こなし振りは毎度見事と言う他に言葉が見つからない。シートに体を預けているためか、その着衣もそうだが前面のボディーラインが強調され気味であり、思わず目が釘づけになりそうになるのを、瞬間でどうにかひっぺがして前を向く。

「バスの時間が合わない事を、お伝えしておくべきでした」

 具衛は仮名の返答振りで、ようやくバスの時刻表を見た仮名が気を回した事を悟った。その身形から、派手な生活を疑いたくなる仮名だが、普段の言動は中々どうして思慮深い面もある、と思わざるを得ない。

「私も着いたばかりだったから」

 だからいいの、と仮名は落ち着いた様子で、駅前ロータリーの赤信号で車を停車させた。

「いつもお邪魔してばかりだから、こう言う時ぐらいはね」

 具衛の追随を許さない口振りが、また具衛を揺さぶる。

「良い天気で良かったわ」

 見た目の派手さと思慮深さのギャップが染みる。両方の姿とも仮名の為人なのだが、派手な生活を送っている類いの人間が思慮深い、と言う構図を余り見た事がない具衛としては、脳裏に拭い難い偏見が存在していた。それはつまり、社会の底辺に近いところを生きる者の僻みである。その偏見を仮名にぶつけるのは明らかに筋違いであり、八つ当たりに他ならない。そう言った、人と関わる事で生まれる様々な葛藤から逃れたいが故の仙人暮らしでもあるのだが。

 この人は——

 中々それを許してはくれない。

 人嫌いと言っておきながらも、何故か絡んで来るこの目のやり場に困る程の美女は、自身の浅ましい人間臭さを改めて痛感させる頭痛の種であると同時に、隠棲して極力人を絶とうとする頑なさの中で、やはり人恋しい自分の存在を、圧倒的な魅力で再認識させる悩ましい美女でもあった。

「まあ、人の好意は素直に受け取っておきなさいって事よ」

「すみません」

「違う」

 仮名は静かながらも、揺るぎない確かな口調で否定する。

「え?」

「お礼を言わないと気が済まない時は、ストレートな感謝を伝えておくものよ」

 仮名は柔らかく諭した。

「謝罪されると、相手の気持ちが台無しになるでしょう」

「そう言うものですか」

「あら、だって」

 少し顔を向けた仮名は、

「自分の好意的な行動が、否定的に取られたって事になるじゃない」

 いつになく少し言葉が多い。あからさまに顔を見ると動揺するため、少し顔を向けて聞いた具衛だったが、お互い目の端が絡むと妙に痒くなった。何も言わず、そそくさと顔を背ける。

 俺はこんな時——

 上っ面で謝罪してばかりだった。

 人に施しを受ける事を嫌い、特に貸し借りを憎んでいた彼は、感謝を表する機会などろくになかった。それだけ人を信用せず、人と関わらないように生きて来た。が、この四月から山小屋で暮らすようになって、農家の人々の見事なまでに手慣れた押しつけにより、様々な物を貰うようになってしまっている。気がつくと、それが当たり前の日常だ。その対価として、細やかながら農作業の手伝いをしているのだが、それすら運動不足解消の一助であり、どちらかと言うと自分のための向きが強い。頑なさを帯びる具衛に、農村の周囲は寛容だった事を、不意に思い知らされたようだった。

 言われてみると、仮名は仮名で、その言はいつも謝意が明確だ。上から目線であるため

 謝る事は殆どないけど——

 謝る時ははっきり謝る。逆に好意的な行為には、謝罪ではなく必ず感謝を述べていた。仮名の謝意が全て謝罪だったとしたら、お互い申し訳なさが鬱積して、確かに聞くに耐えなくなっていただろう。図々しい分を、明確な感謝で

 上手く中和して——

 いたようだ。

 その分かりやすい歯切れ良さは、確かに少なからず、気の持ちようを軽くしているように思えた。

 ——そう言う事か。

 今でこそ山に籠ってはいるが、卑屈に成り下がった覚えはない。肯定的な言葉が口に上らなくなると、後に残るのは排他的で否定的な言動である。己の殻に籠り人生を狭めるそれは、世の中では偏屈と呼ばれがちだ。口角が左右非対称に下がり、文字通りのへの字口を晒す、偏屈の代表的な面妖を連想して、背筋に寒い物を感じた。もっとも口角が下がるのは、大抵老化に伴う顔筋の衰えによるものなのだが、幼少期以来、同世代の誰よりもそうした形をした捻くれ者に多く接して来た具衛にとって、それは習慣化された意思が人の形をも変えてしまう事のように思えてならなかった。それは、具衛が最も到達したくない、得体の知れない怨嗟めいたものに取り憑かれた凝り固まった存在だ。つまりは素直になる、それだけの事なのだが、意外にそれは凝り固まってしまうと難しかったりする。

「ありがとう、ございます」

 相当に遅ればせながらにぎこちなく答えたそれは、

「え? 今頃?」

 仮名を失笑させるのに十分だった。

「——どういたしまして」

 が、仮名は事もなげに軽々と返礼する。それが実にスマートで、格好が良い。

 一昔前ではこういう時、

「男がぐずぐず悩むなって言われたもんよね」

 また思った事を読まれ、密かに轟沈する。その歯切れ良さが、またさばさばしていて、それでいて何処かしら言葉の額面通りに軽く聞こえない重厚さを帯びるものだから、

 この女は本当に——

 この若さと美貌にしてこの箔である。恐れ入る他なかった。


 気がつくと助手席に乗せられた具衛の右車窓は、周辺の交通に塗れて緩やかに後へ流れていた。具衛が乗ったバスの終点だった駅は広島市内西部に位置し、ここから市内南部に位置する宇品方面へ向かうには二通りある。単純に一般道か高速か、と言う事なのだが、一般道ルートとなると、南北に抜ける六本の川と、その中州で構成される広島デルタを抜ける必要があるため、総じて橋と信号の連続で中々に進み辛い。各都市に見られるバイパスも建設が進められているが、元々土地に乏しい上に用地買収や環境アセスメント上の問題を中々クリア出来ず、建設は遅滞している。つまり一般道は、渋滞しやすかった。片や高速は、広島高速道路と呼ばれる広島市内中心部の周辺に路線網を有する自動車専用道路である。国内各地にもある所謂都市高速なのだが、広島のそれは各都市高速に先駆け、距離に比例して利用料金を積み上げる「対距離料金制」が導入されていた。これが中国道や山陽道などの周辺の主要高速と比較すると割高感が強い。つまり高速は、普段使いには敷居が高いと言えた。のだが、

 ——高速使うんだろうな。

 具衛は、押し黙っていた。

 山小屋と違い、車内では座席でしっかり仕切られているとは言え距離感が近い。外車とは言えコンパクトクーペ故、車幅は国産の普通車程度であり、その密接感は山小屋の比にならない。静かな閉塞感は、お互いの息遣いすら耳につきそうで、先程からやたら出て来る唾を飲み込む音すら憚られる。車内は仮名の為人を当然の如く反映しており、整然として隙が見当たらなかった。車内特有の内装に使われる接着剤臭や素材由来の臭いなども一切なく、それどころか匂いの出所はよく分からないが、仄かにハーブのような良い匂いが漂っている。何となく下腹部の前で組んでいる両手が、いつになく汗ばんでいるように感じた。

「なんか固いわね」

 仮名が前を向いたまま言った。普段と違う妙な緊張感を察知されたようだ。

「え?」

 具衛は、急に声をかけられて痰が絡む始末だった。その嗄声に自分自身驚いて、座席に座り直しながら喉を何度か鳴らして慌てて整える。合わせて仮名の失笑が小さく漏れた。

「なんか、緊張しちゃって」

「一度乗ってるでしょ」

「あれは特別な状況下ですから、乗ったうちに入りませんよ」

 事故の時とは打って変わって、整った状況下に動揺が隠せない。

「普通の方が緊張するなんて」

 などと追い討ちでなぶられたものだが、

「しかも一度運転したでしょ」

 事実であり言い返せなかった。

 艶かしさが違うだろ。

 とてもそんな事は口に出来ず、甘んじて言い負かされ、またしばらくだんまりになる。

 広島湾岸を走るアルベールは、広島南道路と呼ばれる広島湾沿いの湾岸道路を東進していた。少しすると車載ナビに従い、そのままの走行車線の延長上にある広島高速三号線の入口へ直進する。この路線を使うと、花火大会が開催される宇品地区までは、もう目と鼻の先だった。だったのだが、

"パァ———ン!"

 そこへ、無遠慮で如何にも品のないクラクションの連続音が、直近で鳴り響いた。具衛と仮名が揃って左を見ると、隣の一般道車線から国産の高級ミニバンが、無理矢理頭を捩じ込んで来て割り込もうとしている。

「危ないわね」

 それまでは、見た目に反してと言っては本人は心外に思うだろうが、堅実なハンドル捌きだった仮名も、流石に顔を顰めたものだ。ボディーも窓も真っ黒で、一見して威圧的なその車は、誰が見ても即座に筋者を疑いたくなる。捩じ込み気味のフロントには、この暑いのにダークスーツを着込んだ角刈りの厳つい男が二人、おあつらえ向きに乗っており、雁首揃えてこちらを見ていた。お互いの車が俄かにスピードを落とすが仮名は動じず、毅然と優先帯を譲らない。一瞬後、接触寸前で相手が怯み更に減速した隙を見て、仮名は相手方を見据えながら堂々と走行車線をそのまま進行し切った。

「どう言うつもりかしら?」

「どうもこうも」

 平然と落ち着き払って人ごとのように漏らした仮名に、具衛は苦笑しつつ頭を掻く。

「車の運転は、人が出ますから」

 ハンドルを持つと人が変わる、と言われる現象は、心理学の世界では「ドレス効果」と呼ばれる。強い物や優位な立場を得る事で、無意識のうちにそれを自分と重ね合わせ、闘争心や競争心が高じて起こる心理状態を指す。分かりやすく言えば、

「優位な立場を得た人間の本性が出るんです」

 と言う事だ。人間とは至極単純であり、大抵のケースでは凶暴になり

「歯止めが利かない愚か者が多いですから」

 最早、社会問題化している昨今の世相を見れば、あえて詳述するまでもないだろう。もっとも今の相手方は、車によるドレス効果と言うよりは、

「所属組織の効果でしょうけど」

 体裁命で面子に関わる事にかけては、良くも悪くも未だに体を張っている時代遅れの輩共である。大抵の人間はそれを面倒臭がり、怯み、関わろうとしないものであり、またそれが世渡りにおける道の一つと言うものであるが、稀にそうした乱暴な圧力が全く応えない人々も存在したりする。そう言った人々は、大抵何か別のところに何らかの確かな強さを持っており、それを根拠として揺るがない自信がなせる立居振舞で対抗するのだが。

 つまり、どう言うつもりは、

 あんたの方だろうに。

 仮名が何を根拠に、堂々とした立居振舞が出来るのか、具衛は当然知らない。それどころかその為人を知る程、なぜ梅雨の折に川土手のぬかるみにはまったのか、それのみが信じられなかった。

 高速入口では一車線だった道路も、すぐに見えて来た川に架かる橋に差しかかると二車線になった。広島デルタ最西部にして最大河川の「太田川放水路」に架かる「太田川大橋」と言うこの橋は、実は渡り切るまでは高速と一般道の共用区間であり料金は無料だ。

「何か気に食わなかったみたいね」

 橋を渡り始めても、ミニバンはつき纏って来た。前に横に後に、様々な方向から執拗なそれは、

「ロックオンされちゃいましたよ」

 と言う事だ。高速入口でのやり取りが

「お気に召さなかったってこと?」

「そのようです」

 具衛は嘆息した。急展開がもたらした車内の緊張に反して、具衛の緊張感は抜け始めている。二人切りの静けさよりは

 ——よっぽどまし。

 と言うのんきさだ。対して仮名は、相変わらず冷静なハンドリングだが、どうしても速度は落とし気味で、車の挙動は雑にならざるを得ない。

「いっその事、ぶつけられた方が良いのかしら?」

 相手の車を見ながらも巧みなハンドル捌きで

「ドライブレコーダーもあるし」

 まだ考える余裕があるようだ。

「事故になっても、まともに修理代なんか払ってくれませんよ」

 急に通常を取り戻して来た具衛は、流石に助手席側のアシストグリップを握りつつ、

「それに、事故扱いすれば最終的に相手方に住所や名前が抜けますし——」

 何やら説明臭い説明を加えた。

「警察が来るまでの間は、自己防衛しないといけません」

 ミニバンに乗っている二人組は、窓ガラスを全開にして盛大な下品面で何やら叫んでいる。内容は聞き取れないが野卑である事に疑いの余地はなく、最早猛獣の類と大差がない。具衛はげんなりして、つい

「あちゃぁ——」

 小さくも嘆息した。

「まともな話は無理のようね」

「それが手なんですよ」

 一つ、盛大に脅して自己に有利な土俵を築く。

 一つ、人の揚げ足を拡大解釈して理詰めで追い込む。

 一つ、憎まれっ子世に憚る。

 人ごとのように呆れる具衛が淡々と口にする。

「まさに、リアル傍若無人って訳ね」

「高速、降りましょうか」

「え?」

 話が噛み合わず仮名が聞き返すが、具衛は構わず

「何処まで執念深いか、一般道で推し量りましょう。花火の会場周辺の交通規制には、まだ時間的に余裕があります」

 落ち着き払って提案した。

 花火大会会場周辺の道路は、例年大抵夕方五時から交通規制が敷かれ、一般車両は通行止めになる。

「高速じゃ撒けませんし、ETCを通過すると通行データが抜けます」

「誰に?」

「誰かにです」

「はぁ?」

「ほら、降りますよ」

 太田川大橋をランデブーで渡河した二台は、具衛の指示によって分岐点で縺れ合いながらも一般道へ降りて行った。

「ナビを呼び出して貰えますか。あと速度を落としてゆっくり目で」

 矢継ぎ早に指示を出し始める具衛に、いつもなら既に噛みついていてもおかしくない仮名が、少し驚く向きを見せるも大人しく従う。

「さっきまでの緊張は何処へ行ったのかしら」

 それでも口の端で皮肉を乗せる事は忘れないようで、その口が「ねえアル」と音を発すると、

「お呼びでしょうカ」

 中性的な電子音声が突然、車内のスピーカーから聞こえて来た。高規格車に見られる自然対話型のナビだ。

「目的地はそのまま。有料道路を使わず、出来る限り信号にかからない一般道ルートを検索して」

 それに向けて具衛が間髪入れずはきはきした口調でオーダーを伝えると、一秒かからず、

"ピコン"

 また電子音が車内に響いた。

 立て続けに、

「目的地へのルートを変更しまシタ。五〇m先を左デス。尚、目的地までの所要時間ハ——」

 淡々とルート説明を始める。

「うわ、早いし賢い」

「まぁ。それなりに値がする車のようだし」

 人ごとのように語る仮名によると、それはラーニングAIを搭載した最新型のカーナビらしい。走行経路周辺のGPS管制は当然の事、検索キーワードに基づく走行アシストまで行うとか何とか。

 仮名はナビの指示に従い、すぐ先に見えて来た側道へ左折した。

「賢いんですねぇ」

 具衛が思わず素直な感想を漏らすと、AIは律儀に、

「お褒めに預かり光栄デス」

 返事をしながらも「次を右デス」と矢継ぎ早にルート説明を続ける。

「これを使えば、渋滞回避なんて訳ないじゃないですか」

「まあそうなんだけど、遠回りだし右左折増えて疲れるでしょ」

 高速に乗る予定だった区間は、元々僅か数kmの行程だ。確かに高速の方が近道とは言え、高速を使う最大の理由は一般道の煩わしい信号待ちと渋滞回避のためである。一般道と比べて圧倒的に利用率が低いこの閑散とした高速は、利用料金に割高感が拭えないと来ているため、普通なら優秀なナビがあるのであれば一般道を選択するものだが、

 ——流石は富裕層。

 具衛はそんな雑念を脳裏に浮かべながらも周囲の状況に目を配った。殆ど住宅街の狭路を駆け抜ける状況となり、仮名の運転負担は本人が口にしたとおり確かに格段に上がる。優秀なカーナビがGPS管制しており、子供の飛び出しなどにも対応出来る反応速度を誇るそうだが、

「それでも一応、気をつけないと」

 技術任せにしないところは意外だった。

 お嬢様のくせして——

 ハンドルを持つ事の意味を、それなりに理解しているらしい。その精神的負担を思うと少し気の毒にも思ったが、それでも具衛は、押しつけがましいデュエットのまま高速を走り続ける事を良しとしなかった。

 住宅街を抜けながらも、ミニバンは撒かれる事なく執拗に追って来る。宇品地区に向かうには川に架かる橋を何本か越えなくてはならず、橋を渡る際には流石に抜け道から大路に出なくてはならない。

「青になるタイミングまで、ゆっくり行きましょう」

 如何に優秀なAIでも、信号パターンまではそう読み切れるものではない。予め先の信号が赤なのを周囲の交通の様子で先取りした具衛が、ナビをサポートするかのようにアドバイスをすると、仮名が応じて速度を落とす。そのタイミングでミニバンが前に被せて来ては何やら罵る、と言った事を何度か繰り返しながらも、二台は道中で止まる事なく順調に宇品地区へ迫る。

「ホテルまでついて来そうな勢いね」

 花火は、会場傍にある広島湾岸のホテルの一室から見物する予定だった。

「口の端に唾を一杯溜め込んでましたよ」

 具衛はこの期に及んでも、尚事もなげに誦じる。

「あれは様子が——気に障った障らないの問題じゃないです」

 ミニバンは、形振り構わず尚も追いすがる。

「ホテルに警察呼ぶか、このまま警察に行く?」

「いや、それじゃあ車のナンバーも押さえられて、後で何されるか分かったもんじゃありませんよ」

「ナンバーなら、もう押さえられてるじゃない」

 一昔前までは、誰でも運輸支局で車のナンバーから所有者を調べる事が出来た。が、今では所有者情報の不正取得を防ぐ観点から

「法改正されて、所有者照会は車台番号も必要ですから」

 のだが、

「何事にも例外はあるものよ」

 私有地内放置駐車被害や債権回収などの理由で、その理由さえ証明すればナンバーだけでも照会が可能である。更に言えば、そんな面倒な理由がなくとも、

「弁護士なら、職権で調べられるわ」

 輩共の組織にも顧問弁護士は存在する。その手を使えば、明かしたくない相手にいとも簡単に身元は調査されてしまう現実が存在するのである。

「詳しいですね」

「そう言うあなたこそ」

 普段ならここで引き下がるのは具衛としたものなのだろうが、

「今なら、多分ドラレコだけですよ。あの様子なら頭に血を上らせてるから、ナンバーなんて見ちゃいません」

 この期に及んでは、何処かすっかり腹が据わっているようで、やんわりながらも我を通す。

「そこ右に行ってください」

 更に立て続けに、ナビの目的地とは違う道を指示した。

「どうするの?」

「宇品に入る前に方をつけときます」

 言いながらも仮名は具衛の指示通り、ナビから外れた道を選択した。ナビが道が逸れただの、新しいルートを調べるだのと、急にやかましくなる。

「このまま川に突き当たるまで道なりに行ってください」

 河口沿いの商工業地域で、人家に乏しいエリアに入った。

「突き当たりを左へ」

 少し走るだけで、通行車両はあっと言う間になくなり、途端にミニバンとマッチレースに突入する。

「どんどん寂しい所に追い込まれてるんだけど」

「追い込んでるんですよ。周囲の目が邪魔なんで」

 と言った具衛は、

「この辺で止めてください」

 普段は拙い口を少し強く、忙しく動かした。

「私と相手が車から降りたのを見計らって、先にホテルへ向かってください」

「何言ってるの!?」

 これには流石に、大人しかった仮名も慌てた様子で反駁する。

「とどのつまりでそんな事出来る訳ないでしょ!?」

 周辺は河口沿いの堤防がある他は空き地や工場や倉庫が点在しており、一見して人も車も少ない。何台か車が路上駐車しているのは、恐らく堤防の向こう側で魚釣りをしている釣客の車だろう。白昼ながら閑散と言う言葉がぴたりと当てはまる、そんな所だった。

「こんな所で何かあったら助からないわよ」

「何かするから好都合なんじゃないですか」

「誰が?」

「私がです」

「相手じゃなくて?」

「ええ。ここでけりをつけときます」

 具衛が言うと、仮名はゆるゆると車を堤防に添わして、ついに止めてしまった。

「作戦通りにお願いしますよ」

「随分な自信ね」

「この際詳細は省きますが、私は大丈夫ですから」

 具衛はわざとらしくも拳を振り上げながら、右ドアを開けて車外に出たものだ。

「もし相手が車で追って来たらすぐに戻って来てください。ホテルまでつき纏われるとまずいので」

「無事だったら後で必ずメール頂戴。五分以内に連絡がなかったら一一〇番するから」

 追いすがる仮名に、

「ホテルの駐車場とコインパーキングは、防犯カメラがあるんで止めないでください」

 返事をするどころか、最後の最後まで策を言い残した具衛は、落ち着き払ってドアを閉めた。


 先生と別れた真琴は、後ろ髪を引かれる思いで指示通りホテルに向かった。ミニバンは追って来なかった。安否を知らせるメールは、殊の外早かった。「片づいた」旨のメールは三分も経たず届いた。ナビに時間を計測させて確かめていたので間違いない。余りに早いので戻って確かめようとも思ったが、それを予想していたかの如く「迎えに来るな」旨の追伸が来たものだ。

「何なの一体?」

 思わず車中で一人、驚きの声を漏らした。

 全て、何か考えあっての事なのは理解出来たが、それにしてもこの大胆さと冷静さは

「どうなのよ一体?」

 普段の先生とは、雰囲気そのままに行動だけが全く噛み合わない。

 何を念頭に——

 この男は行動していたのか。その答えをよもや、翌日の朝刊で拝む事になろうとは、然しもの真琴もこの時は考えもしなかった。

 結局先生が、浴衣姿でベルマンに案内されて、真琴と由美子が入室済みのホテルの一室にやって来たのは午後七時半だった。

「随分遅かったわね」

 墨色のシンプルな浴衣で、痩せ気味なのが少し残念だが、そこそこに上背があり見れない事はない。

「浴衣なんて、聞いてなかったんですけど」

 先生はメインルームの入口で固まり、やや肝を抜かれている様子だ。

「しかもこんな上等な部屋で」

 広島港の傍にある二〇階超の高層ホテルは、奥行きのある瀬戸内海を臨む眺望で名が通っている、らしかった。その一七階の端部屋が、真琴が陣取る部屋だ。少し野暮ったい冠称に続いてスイートの文言がついており、メインルームは三〇畳超えのそこそこの広さではある。それもこれも真琴に言わせれば、極ありふれたあつらえで何て事はない。が、小市民の代表格たる山小屋の主からすれば、一生涯で入る機会が一度あるかないか、と言うレベルかも知れない。そう思うと、先生が固まるのも無理からぬものかも知れなかった。

「いいからそんな所に立ってないで、こっちにいらっしゃいよ」

 やはり浴衣姿の真琴は窓際に設置されたテーブルに座ったまま、軽く手招きをして見せた。花火大会会場に面した継ぎ目が見当たらない大きなガラス窓に対面する席に、真琴は足元確かからぬ先生を着席させる。その右手に真琴、左手にやはり浴衣姿の由美子が位置取るテーブルはスクエア型で、和室であれば広縁の小机的位置づけなのだろうが、それにしては一辺が二メートルは優にある大きさで、深緑色のテーブルクロスがかけられていた。真琴に言わせれば何処かチグハグなあつらえだが、今夜は部屋のあつらえよりもまずは花火だ。黙って飲み込む。

「これは落ち着きませんね、なんか」

 先生は見るからにギクシャクしており、失笑を誘ったものだ。しばらくは目を白黒させる様子が見ていて微笑ましかったのだが、真琴としては在り来りでときめきも何もあったものではない。

「腰が落ち着きそうにないなぁ」

 それを傍まで来ても尚ぐずぐず言っている先生に、ついいつものぐず嫌いが迫り上がると、

「いーから座れ!」

 悪いくせで痺れを切らし、

「大の男がこれぐらいの事でつべこべ言ってんじゃないの!」

 物の見事に二段構えでばっさり切り捨ててしまった。堪らず由美子が小さく噴き出す。

「ほらぁ。笑われちゃったじゃないの」

 忌々しそうに顔を顰めながらも、真琴は

「こちら、お伝えしていたユミさん」

 由美子を紹介した。由美子は、真琴の叔母で「ユミおばさん」と言う設定である。真琴の紹介で、二人の挨拶が終わるや、

「で、結局、どう方をつけたのかしら?」

 お祭り気分そっちのけで、とりあえず事の顛末を確かめ始めた。

「で、何処をほっつき歩いていたの?」

 あれから三時間弱も経過している。

 良くも悪くも自分の事であり、先生を危険に晒した手前もある。いくらその指示とは言え、真琴が先生を置き去りにして立ち去っている事に変わりはない。

 矢庭に質問を浴びせられた先生は、

「目眩しでほっつき歩いてました」

 答えを渋る様子を見せた。

 真琴は先程切り捨てた勢いそのままに、呆れて溜息を吐き、

「あの連中はどうしたの?——まさか、始末したんじゃないでしょうね?」

 いきなり核心に掴みにかかる。

 最終的に先生に采配を任せたとは言え、結局は自分の事だ。結果に責任を持つためにも正確な答えは聞いておきたかった。

「そんな物騒な真似はしませんよ」

「どうかしら? 私を押し倒すような男だし」

 うやむやにしようとする先生を、真琴は逃がさない構えで詰め寄ったものだったが、

「ええっ!?」

 これに思わぬ反応を示したのは由美子だ。

「お二人は、もうそんな抜き差しならぬ——」

「違う!」

 真琴が即座に断固、激しく首を振って否定した。

「断じてそんな話じゃない!」

 その横で先生は、左右の淑女の顔を困ったように見比べている。

「ちょっと、あなたも黙ってないで答えなさい!」

「ドラレコのデータは譲ってくれましたよ」

 先生はあっさり答えた。

「またそんな見え透いた嘘を」

「火の粉は振り払ったつもりです」

 あくまでも、詳細を話すつもりはないらしい。つまりは、

「聞いて困るのは私って事かしら?」

 早々にそう解釈をした真琴は、それ以上の言及をさっさと諦め、また大きく溜息を吐いた。後は、

「連中の脳内記憶だけは、決定的に消し去れませんでしたから」

 それだけが気がかりで、などと見た目の穏やかさに反し生々しい事を口にする先生に

「見た目によらず、中々生臭い方ですこと」

 由美子は納得の意を示した。只の優男ではない事を察したらしい。

「生物は、余り食べる習慣がないんですが」

 話が生臭くなって来た事を避けるかのように、先生が見え透いた間抜けな冗談を口にすると、

「まあ、燻製や干物ばかりだものね」

 真琴もそれに乗じた。由美子の目が怪しい。

「それにしては、随分と瑞々しい事じゃございません?」

 俄かにその先生を見る目を察した真琴は、

「ちょっと叔母さん。端ないですよ」

 などと、わざわざおばさん呼ばわりで皮肉めいた牽制を入れる。

「取って食やしませんよ。仮名さんの大切な方でございましょ?」

「な、何言ってんのよ!」

 思わぬ逆襲に迂闊にも素で反応してしまった真琴は、即座に後悔したものだったが、

「ねぇ」

「はぁ」

 由美子は構わず、先生に意味深な愛想を振り撒いている。

「とにかく連中は、もうそれどころじゃないと思います」

 先生は少したじろぎながらも、また分かり切ったように言った。

 それにしても、

 今日は随分と——

 先行した言動が目立つ先生である。

 真琴は、その理由が知りたくなったものだったが、その翌朝、少し遅めに起床してぼんやり眺めていた朝刊の紙面上で

「花火大会開催間際の近辺で、実弾入りの銃器数丁を所持した暴力団員を逮捕」

 旨の記事を一面の端に見つけ、件のミニバンが仰々しい警察関係者と共に撮影された写真つきで詳述されているのを目の当たりにし、由美子と二人で驚いたのは、また別の話である。大抵こう言う事件の認否は、捜査上の影響を考慮して明かされないものだが、新聞によると逮捕された二人は、

「記憶がない、らしいですよ」

 翌週中日、いつも通り立ち寄った山小屋で、先生は呆気らかんと言ったものだった。更に薬物所持・同使用容疑についても捜査中らしい。先生が唯一「気になる」と語っていた「記憶」と言うフレーズが紙面に掲載されている事で、それが月並みの否認のための供述ではなく、

「あなた、あの二人に何やったの?」

 先生の何らか手が、何らかの意図で加えられたのではないか。真琴は何となく、そう思わざるを得なかった。

「特に」

 それに対して素気なく答えたこの男の意外さは、知れば知る程記憶をも何とかしそうな怪しさすら思わせる何かがあるような気がしてならない。

 銃器薬物容疑は逮捕された者達のみに関わる事であり、真琴には関係がない。関係があるとすれば危険運転でつき纏われた、それだけである。それを事件の真相解明と言う大義名分の下、多少の行き過ぎも何のそのと言う無遠慮な向きの警察と、検挙された原因として逆恨みしようとする反社会勢力の思惑の両方を、先生は

「火の粉は払った」

 と称したようだった。

 事故扱いを良しとせず、高速のETCを嫌い、ナビに抜け道を走らせ防犯カメラを可能な限り避けたのは、最終的な実力行使の可能性を予め想定しての出来る限りの保秘行動であり、

「警察から無駄に勘繰られたくないですからね」

 その布石だったのだ。

 警察は法治主義における秩序維持を目的とした国家作用の代務機関であり、事件の真相解明と犯罪の検挙が最大の任務である。それ故か現代の日本警察は、

「検挙至上主義に偏重してますから」

 その実、被害者救済は二の次だ。

 事実上犯人を有罪に持ち込めさえすれば、基本的にはそれで任務を完遂する組織であり、後に残された被害者と加害者の間の事、つまり賠償事については当然責任を有しない。

「被害者と加害者の交渉が拗れようと、加害者に逆恨みされようと、関係ないんです」

 所謂、

「民事不介入の原則ね」

 である。それによってまた犯罪が発生すれば、またそれを事件化するだけの事だ。

 だが大抵の被害者とは、犯罪被害に縁遠い良識のある普通の人々なのだ。悪事に手を染め裏の汚さを知り抜いているような海千山千の犯罪者と対峙させられる事は、

「それだけで擦り減ると言うものでしょう」

 それが面子命でそれを保つためなら何でもやる、と言う極めて異常異質な狂信的集団であれば、最早言うに及ばない。逆恨みされても国家は大抵の場合後手を踏む他に術はなく、被害を受ける前に守ってはくれない。

 つまり国家の被害者救済とは、実害レベルに応じたものであり、受難前の予防を強く求める大多数の国民の意に添わないものとなっている。国家と国民の考え方の根本が違うのだ。国民は誰だって受難は避けたい。が、

「現行法では到底無理ですね」

 満足に執り行われているとは到底言い難い。

「国家と国民の、考え方のすれ違いが起こす悲劇ね」

 と言う事だった。

 国家は法治主義実現のため、法に則った取り組みで治安の維持に務める。片や国民は安全安心な生活を送る事が出来るのならば、極端な言い方をすれば法治主義などどうでも良い。

「守ってくれれば、何だって良いんですけどね」

 その温度差はつまり、頑として無機質で盲目的に法を重んじる国家と、法に熱量と情を求める国民と言う

「永遠の軋轢よ」

 の構図である。

 そもそも日本の場合、近い過去に先の大戦を引き起こし、多数の国民を死に追いやり死線を彷徨わせたと言う

「根強い国家不信が存在しますから」

 それは最早慢性的で、諦めの境地とも言える。

「国家と国民の温度差は開く一方ね」

 警察事で言えば、年々悪くなる体感治安はその典型であり、次々に噴き出す次世代型の新しい犯罪手口を前に、後手を踏み続ける構図で改善の糸口は中々見出せない。受難を回避出来ないのであれば、せめて受難後ぐらいは法の確かな庇護を受けたいと思うのは自然の流れと言うものだが、日本の場合やはり、受難後の被害者救済法も進んだ法を持つ他国と比べると到底

「整っているとは言い難いですよね」

 と言う現状である。例えば米国などでは、被害者は一定要件を充足すれば法の下に

「全くの別人に生まれ変わる事が出来るのに」

 と言う徹底振りだ。片や日本は、民主主義の法治国家を謳いながらも

「戸籍法の弊害ですね」

 世界的にも縁故に拘る頑固な慣習法に縛られ、そうした法整備が圧倒的に遅れている。故に、

「被害者人権は停滞気味よね」

 人権が極端に被疑者側に偏った制度になっている。繰り返し発生するつき纏い事件や凄惨なストーカー事件、親族間でのあらゆる虐待事件などは、この頑固さ由来の最たる被害者と言うべきものだ。法の不行き届きも然る事ながら、行政機関や警察の事勿れ主義に見られる

「国家の怠慢は明白です」

 これでは全幅の信頼を持って国家を頼ろうなどと、文字通りの絵空事と言う他に言葉が見つからない。

「要するに、自立するしかないのね」

 無闇に国家を頼らず、自らの責任で考え行動するしかない、と言う事だ。先生はそれを、明らかに知り得ていた。結果が想像出来てなくては、火の粉を完全に近い形で振り払う事など出来まい。その成果は、偶然にしては明らかに出来過ぎている。その結果こそが、単なる想像力か、それとも何かの経験値か、その存在を否応なしに真琴に知らしめた。何にせよ、何かの機微を働かせて危うい橋を極あっさりと回避した、と言う事らしい。

 この——

 普段の何処となく腰が定まらない、と言うか、ふわふわと気楽にその辺に浮いているかのような、世の喧騒を嫌い、それこそ事勿れ主義を地で行っているような

 ——男が?

 それは、あの時の先生とは似ても似つかない。これまで感じて来た如才なさとはまた違った強い意外性と言うか、正確には見た目も声色も雰囲気そのままに、中身だけ妙な腹の据わり方をした、と言うか。

 何だって言うのかしら——。

 その先生は最後に、

「一応、ナンバーと車体色は変えた方が良いですよ」

 これまたあっさり言ったものである。

 次から次へと——

 何かと釣り合わない男だ。

 真琴はこれ以後、先生の正体を強く意識し始める。結局そのアドバイスに従い、一応ナンバーと車体色を白に変えたのは、また後日の別の話だ。


 さて、午後八時。

 ようやく夜陰が濃くなり海上から花火が上がり始めた。ホテルの高層階から見るのは初めて、と言う由美子と先生は、固唾を飲んでひっきりなしに上がる花火に釘づけとなっていた。打ち上げ場所から直線距離で一kmないと言う絶好のロケーションながら、窓の向こうの事であるため音はやや遠く、衝撃と耳に優しい。その分若干臨場感は損なわれるが、落ち着いて見ようとする向きには最適だった。窓ガラスを介した景色は、ドットが極めて精緻で立体的なスクリーンと言うか、原寸大の立体模型の世界を鑑賞しているかのような、不思議な趣がある。

「うわぁ。綺麗ですねぇ——」

 地味ではあるが何処か年甲斐もなく嬉しそうにはしゃぐ先生は、花火を見ながら食べ物を口に運び、五感を堪能しているように見えた。車の中の一面とはかけ離れた子供っぽい陽気さを振り撒き、感嘆している。

 ——おかしな男。

 真琴はぼんやり花火を見る振りをしながら、窓ガラスに映った先生をちらほら眺めていた。ホテル側の話では、室内光が反射しにくい偏光ガラス仕様の窓らしかったが、完全に反射しない事はなく、かすかにその姿が映る。

 ひ弱に見えるのに——。

 一見して分かりやすい乱暴なステータスに、全く動じなかった。真琴は単純に、有事に強い男と言うものを不幸にも周囲で見た事がない。周りの男達は骨抜きばかりで、強いのは女ばかりだった。有事に強い男など、真琴に言わせれば

 普通じゃない。

 今はまだ素直に言い出す事が出来ない最大級の賛辞を、一人飲み込む。どんな表情も絵になる容貌で、への字口を作って密かに溜息を吐いた。

 その顔に向かって

 ホント、私——

 どうするつもりなのか。自問する。オープニングからひっきりなしの調子で上がり続けている花火の時間軸が既に呆けてしまっている。

 ——酔ってるのかしら。

 それ程酔った覚えはない。そもそも帰りに車の運転を控える身であるため、口にしているのは、やはりホテルに用意させた件のノンアルコールサングリアである。にも関わらず、頭の中に酔いを感じる。何に酔っているというのか。

 今更、男か——。

 その美貌に反し男運がなく、近寄ってくる男と言う男は、どいつもこいつも下心を持ったろくでなしばかりだった。これまでに異性と良い思い出を築けた試しなど一度もない、と言う不幸な美女である。が、世間は決してそうは見ない。異性運もなければ、同性からもやたらやっかみを受け続け、要するに誰からも受け入れられない。

 孤立を選ぶようになるまでに、然程の時を要しなかった真琴の人生の大半は、一人だった。真琴の今までは、常人が通常得られないものを得る代わりに、常人が当たり前に得られるものを捨てて来た、そんな人生だった。つまりは有りがちな孤独な富豪と言うヤツだ。結論として早々に、普通の幸せを諦めた。その諦めたものの中には、常人なら通常望んでも罰は当たらないであろう自由も入っている。それも人生の重要事になればなる程自由がない。そんな窮屈で退屈な人生。

 それが何故か、男を連れ出しホテルで夕食などと、プライベートではいつ以来だ。

 どうしたって——

 言うのか。

「どうか、しました?」

「えっ!?」

 脳裏の言葉と先生の言葉が重なり、一瞬で鼓動が高鳴った。普段の自分とは考えられないぐらいのみっともない反応で背筋を伸ばし、先生を見る。

「何でもないわよ」

「そうですか」

「どうしたの?」

「いや」

「はっきり言いなさいよ。煮え切らないわね」

 つい苛立つ真琴に

「春巻きが生殺しになってお可哀想ですこと」

 由美子が静かに目を動かした先を確かめると、真琴の手に握られたフォークの先端で、生春巻きがすっかり自重に萎えて両端がぐったりしているではないか。

「元々生よ」

 真琴は忌々しげに軽く咳払いをして体裁を取り繕うと、口元に運ぶと落ちそうな生春巻きを途中まで迎えに行き、一口で口内に収めた。

 気を——

 遣われるなど。

 同族嫌悪に勝るとも劣らずの男嫌いでもある真琴である。天涯孤独の山小屋暮らし、と言うその一点に興味を覚えただけだ。どう足掻いても、自己の境遇からは有り得ないその生活。そこに興味を覚えた。只、それだけだ。

 心持ちでは天涯孤独めいていても、実生活では人に埋もれて生きている真琴にとって、その響きは大変な魅力だった。身分を明かさないのは、明かした瞬間に引かれてしまうためだ。先生が同じ階層の人間であればそんな心配は無用だが、そんな連中こそまさに真琴を悩ます諸悪の根源だ。自分が言うのも何だが、上の人間は思い上がりの勘違いが多く、欲に塗れてろくな人間がいない。そうした連中は招きもしないのに、無遠慮極まりなくも追いすがって来ては何かと困らせるのだ。だから問答無用で寄りつく気にならない。かと言って階層が異なると、そのギャップに相手が慄きあっと言う前に立ち去ってしまう。そんな経験を多少はして来た。もうそうした駆逐亡羊はうんざりだ。

 だから額面通りの天涯孤独の気楽さを、何も背負うものがない人生を擬似体験するべく、それを提供してくれるあの山小屋に身分を隠して通っていた、

 それだけ——

 だ。

 それなのに、気がつくと、そこに住む人間を花火に誘ったりしている。

 本当に何を——

 しているのか。また窓ガラスに問う。例え何処まで行こうとも、どの道逃げられて終わる関係だと一人で勝手にやさぐれる。

 所詮は

 止まり木——

 だと言うのに。

 これまでの人生は、孤独な渡り鳥みたいなものだった。構って来る人間は欲に塗れた野心家ばかり。逆に逃げ回る人間の階層の一定数は、目の届かない所で資産家を一律に誹謗中傷するサディストだ。結局総じて、ろくなヤツがいない。諦め故の不覊独立だった。

 それをある日、今隣にいる一見ぼんやりした男に「屈原」を引き合いに出されて、実は動揺した。人生を諦めかけている向きは、実は全くない訳ではない。夢も希望も見出せない、只生き長らえるだけの人生。後何年続くか分からない余命が尽きるまでのその人生に、いつまでつき合わなくてはならないのか。恐らく二親も知らない、由美子しか知らない真琴の暗い一面を、予想外にもこの一見して貧相な男に

 ——覗かれた?

 とは。

 山奥の楽天家程度の認識だっただけに、その意外な聡さに驚いた。これまでの頑なな自分に違わず、それを恥辱と認識し激昂しようとする一方で、それ以上に何かを期待しようとする自分の存在に、二度動揺させられて絶句したものだ。

 ——何なのよ。

 顔がぼやけ、自分の顔が見えなくなる。まずい。こんな所で急に。訳もなく目頭が熱くなる。

「今ので終わりだったみたいですね」

 先生の一言で、はっとした真琴が現実に引き戻されると、窓ガラスに写っている美貌を誇る顔をようやく捉えた。慌てて焦点を引き戻すと、花火が終わっている。窓ガラスの向こう側の眼下で、無数の人混みが音もなく緩やかに移動を始めていた。

「え? もう?」

 終わった?

 何処か目の前に有りながら、遠い記憶の映像のようだったそれは、どれもこれもピントがずれていて、

「あの特大の花火が凄かったですね」

「私は柳の花火が良かったわ」

 何一つとして見覚えがない。そう認識するや、今度は不意に何を考えていたのか、記憶が蘇り動揺したものだ。

「どうしました?」

 その記憶を占めていた男が、また気遣わしげに声をかけて来ると

「いや、どうも——」

 こうもあったものではなく、思いの外返事が揺れてしまう。

「あら、はっきりしませんこと」

 由美子に突っ込まれると妙に動悸が高鳴り、言葉に詰まって何も言い出せなくなってしまった。

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