先生のアノニマ

まと一石

第1話 プロローグ

 三月末。広島の山中。

 高坂真琴こうさかまことは、タクシーの中で呆然と車窓を眺めていた。夕方だと言うのに、降り続く雨のせいで辺りは既に薄暗い。二一世紀も二〇年が過ぎ、幼少期に見た図鑑の中で、その頃には日本に到来する事が予想されていた都会的に洗練された近未来社会的な情景には、

 程遠い——

 蛮地の如き山奥の只中だ。その緑色濃い山々を間近で見るのはいつ以来だろうか。春が来たばかりだと言うのに林立する木々は、どれもこれも旺盛な緑であり、間違いなく杉だろう。真琴は花粉症持ちではないが、その症状は耳目に触れて理解はしている。見るだけでくしゃみが出る、とまで言われるその花粉が無数に飛び交いそうな、そんな山奥だった。

 そこを東西に貫く国道が大渋滞している。道路上に設置されたオーバーハング式標示によると、後退方向が東の岡山方面、進行方向が西の下関方面らしい。真琴が乗るタクシーは、西へ頭を向けた下り車線の大渋滞のその只中にあり、尺取り虫の如くノロノロと、少し進んでは止まる事を繰り返す事約一時間。タクシーはついにピクリとも動かなくなり、早三〇分が過ぎようとしていた。

 ——幸先悪いわ。

 すっかり呆れ果てて言葉も出ない。運転手の耳に入らないよう、口を開けては声を出さないようにして、何度も何度も大きな溜息を吐き続けたものだった。昼過ぎの飛行機で羽田を発った時には晴れていたと言うのに、広島空港に着くと雨である。改めて、遠くへ来たものだと痛感させられた。

 国内線到着口から車寄せまで足を運ぶと、まず目に入って来たのは、

 随分と——

 山だった。

 広島空港の事をよく知らないままここまでやって来た真琴は、一瞬別の空港に間違えて来てしまったのではないか、と錯覚したものだ。広島に足を踏み入れたのは初めてで、第一印象として、いくらなんでももう少し街だと思っていたのだか、空港周辺はそうではなかったらしい。随分と山の中にある空港だと思いながらも早速タクシーを探したのだが、一台も見当たらなかった。どうやら雨のせいで出払っているようだ。それを裏づけるように、近くのタクシー乗り場には、数人レベルだが待ち列が出来ていた。

 ——並ぶしかないか。

 と思ったが、先程からやたら不躾な目に晒され続けている真琴は、その待ち列へ足を向けかけて止める。タクシー乗り場の先にあるバス乗り場を見ると、分かりやすく止まっている一台のバスが、おあつらえ向きに出発待ちをしていた。遠目から見ても、広島市内中心部方面行きのバスである事が分かる。が、

 バス——?

 そう言えば、これまでの人生において、真琴は一度たりともそれに乗った事がなかった事を思い出す。そもそも、庶民的な公共交通機関の代表格であるそれが、電子マネーやクレジットカードで、

 乗れる物か?

 懐疑的だ。現金を持ち歩く習慣がなくなって幾久しい真琴である。エアポートリムジンと呼ばれているらしい広島市内行きの高速バスの乗降口まで足を運び、運転手にクレジットカード決済の可否を尋ねたところ、やはりダメだった。結局、またタクシー乗り場へ足を向ける。

 これじゃ——

 ウロついて余計に目立っただけだ。オフホワイトのトレンチコートの両ポケットに両手を突っ込んだ真琴は、嘆息しながらも結局、タクシー乗り場の待ち列最後尾に並んだ。ライドグレーのパンツスタイルは、すっきりと堂々たるものだ。只でもそれなりに高身長であるにも関わらず、ピンヒールのパンプスを履いた真琴は、その前に居並ぶ一見して出張中らしきスーツ姿の男達と比べても、目線の高さは高い部類だった。それに加えてスタイルも姿勢も熟れた女は、明らかに異彩を放っている。真琴にとって、飛行機を降りた瞬間から否応なしに降り注がれるのは、雨だけではなかった。

 毎度毎度飽きもせず——

 何処へ行っても何なのだ。周囲からの好奇の視線には、それなりに慣れているものの、だからと言って気持ちの良いものではない。別に芸能人でも何でもないため、愛想を振り撒かなくても良い事がせめてもの救いだった。そうであるならば、出て来る時に被り物で少し悩んだ真琴は、今更ながらに小さく後悔したものである。女優帽と呼ばれる唾の大きいガルボハットか、ニットのベレー帽のどちらで出掛けるか迷った挙句、東京のような不躾な目も

 ——少ないか。

 と、勝手な憶測で後者を選択したその判断は、結局誤りであった事を周囲の目が証明していた。一応「あれでも」と思い、色の濃いウェリントン型のサングラスをかけて出て来たのだったが、これがなかった事を思うとゾッとする。

 結局、待つ事三〇分。ようやく乗り込んだタクシーの車内で、新たに後ろに出来ていた待ち列の視線を感じながらも、真琴は鮮やかな赤が映える口紅を塗りたくっているその口で、運転手にとりあえず、広島市内中心部方面へ向かうよう告げた。するとすぐに、五〇過ぎの男性運転手から、

「高速経由でよろしいですか?」

 と確認があり、そのように返事をしたのだったが、結局途中から一般国道を走らされ、おまけに大渋滞で動けない、と言う有様である。空港を出た後、四、五分の所にあるICから高速に入ったのだが、間もなくすると事故による通行止めで、強制的に遥か手前のICで降ろされてしまったのだ。

 別に急ぐ旅でもなかったのだが「西条」と言うICから高速を降りた時、運転手に残り行程の所要時間を尋ねてみた。すると運転手が唸りながらも、高速が通行止めである事に加えて、

「雨で夕方前ともなると渋滞するので——」

 どんなに早くても二時間、と答えたものだから、思わずひっくり返りそうになった。何でも広島県は平野部が少なく、幹線道路はそれなりに起伏のある山間を抜けているためなのだ、とか何とか。更に都市部は都市部で、少ない平野部に人口が密集しがちで、道路が煩雑らしい。交通事情は余り良くないらしかった。

「私は東京で走った事はないのですが——」

 と前置きした、一件穏やかそうなベテラン風の運転手は、

「渋滞だけは東京並みです」

 と言って真琴を呆れさせたものだ。

 この山中で、

 東京並みの渋滞?

 密かに「そんな訳が」と侮ったものだったが、現実として結局、高速から一般道に流れた多くの車が、瞬く間に交通を麻痺させてしまったようで、果たして運転手の言う通りになった。こう言う時は、あちこちで事故が起きて、更に渋滞が酷くなるのだそうだ。スマートフォンの位置情報で現在地を確かめて見ると、広島市東部に差し掛かった辺りであり、他に迂回路はなさそうだった。渋滞情報を確かめても、驚くべき事に延々真っ赤な線が続いている。

 結局、広島城傍にある広島市内中心部のホテルに着いたのは、午後九時だった。チェックインしてやや遅めの夕食と入浴を済ませると、一〇時を回ってしまっている。

「有り得ない」

 白いバスローブ姿の真琴は、高層階のスイートルームで、一人である事を良い事に躊躇せず独り言を吐いた。寝室の窓際にある椅子に、ずり落ちる勢いで寄りかかり、呆然と窓の外に視線を投げる。南側に面した眺望は、瀬戸内の夜景が堪能出来る、などとスタッフから紹介されたものだったが、夜景も何もあったものではなかった。昼間からシトシト降り続く春雨のせいで、自慢の眺望も水滴まみれだ。

「新幹線にしておけば——」

 こんな事にはならなかった、とは結果論だが、空港からのリスクを認識していたならば空路は選択しなかったかも知れなかった。いや、愚痴りたいのはそんな事ではない。

「何で——」

 自分が広島に来なければならなかったのか。気鬱の根源はその一事に尽きた。自分で言うのも何だが、世界を相手取り、それなりに活躍していたのだ。それが有無を言わさず実家に呼び戻され、家業を手伝うよう下知され四年。あからさまな反抗を示し続けはしていたものの、それでも仕事はきっちり務めていたのだ。実績がそれを証明していた筈だったのだが。

「それが——」

 何故、この下向に繋がるのか。

「クソ——」

 と言いながらも、それに従ってしまう自分自身が余りにも情けなかった。その止めが今日の有様である。

 ダメだ——。

 お陰様で、街の第一印象は最悪だった。とても馴染めそうな気がして来ない。足を踏み入れるのは初めてでも、広島の一部の事は良く知っている。先の大戦来、劇的な戦後復興を遂げ、今や水の都として知られる国際平和都市広島。首都圏暮らしでは、その認識に薄い人々ばかりで、その中においてその事をそれなりに他の日本人よりも感じて生きて来た真琴ではある。

 ——そうだ、

 まずは平和公園に行こう、と思っていたではないか。ホテルからだと歩いて一〇分程の所にある「原爆ドーム」は、後世に「ヒロシマ」を伝える貴重な世界遺産である。それが、思いがけない渋滞のせいで、予定が後ろ倒しになってしまったのだ。

 広島での住まいは目下引越し作業中で、移り住むのは一週間後の予定だ。それまでの間はホテル暮らしである。それでもわざわざ早く来たのは、希望に叶わない人事だったとは言え、せせこましい東京を離れたくなった事でもあるし、赴任するからには少しでも広島の事を知って好きになりたい、と思っていたからではないか。とは言え、明日からは早速、業務引継ぎに合わせて、先行して挨拶回りなども始まる。その合間を縫って、県内のもう一つの世界遺産である「厳島神社」を始めとした何箇所かの観光スポットをピックアップしていたのだ。それが、何もしないうちから嫌いになっては

 いけない——。

 それでは散々に、周囲に当たり散らして来た今までと変わらない。

「我慢我慢!」

 拗ねたような目をくれてやっていた窓に向かって目を見開き、声に出して言い聞かせた真琴は、目の前のテーブルに置かれている開栓済みのワインボトルを手に取り、一緒に置かれているグラスになみなみと注いだ。寝酒になってはいけない事は理解しているのだが、一人の時はつい手を伸ばしてしまう。

 ——ちょっとだけだ。

 こんな言い訳で、酒も仕事も何度失敗した事か。それでも酒は、自分で取り戻せるレベルではあったが、仕事は過去にそれなりの黒歴史を有する身だった。

「仕事こそ我慢だ!」

 言いながら真琴が勢い良く飲んだそれは、ほぼ全ての主要なワイン産出国で生産されている「カベルネ・ソーヴィニヨン」と呼ばれる赤ワイン用のブドウを、米オーク樽で熟成させた米国カリフォルニアの高級ワインだ。ワインと言えば仏国のボルドーやブルゴーニュが有名だが、散々に飲みつけた挙句、ここ数年では新興産地の物を飲みつけるようになった。その出来上がりは、仏オーク樽で熟成させた物に比べて複雑性に劣ると言われ、ワイン通に言わせれば物足りなさを口にする者もいる。が、真琴は

「誰が何と言おうと——」

 何故かこれから離れられなかった。

 米オーク樽の代表的特徴である強烈な樽香によって加えられたバニラの如き甘やかな香りと、カリフォルニア産カベルネ・ソーヴィニヨンがもたらす爽やかな酸味は、ここ数年来、真琴のエナジードリンクだ。実はこれに加えて、更に禁じ手があった。ボトルとグラスに合わせて、もう一つ卓上を飾るのは、ミントが載った小皿である。赤ワインにこのミントを始めとするハーブを加えて寝かした物が、より真琴に活力を与えたものだった。それは真琴の中では、フレイバードワインの一種であり、スペインの国民酒として親しまれている「サングリア」として勝手に位置つけて嗜んでいる物だ。見た目の鮮やかさもそうだが、何よりも「血」と言う、中々生臭い語源が気に入っていた。それだけでも意味深なそれの曰くつきは別にあり、実は日本で酒類製造免許を持たない者がそれを作ると酒税法に抵触する、と言う禁断の力水であった。それを分かっていて真琴は、自宅でこっそりそれを作ったりしたものだったが、ホテルでそれをやると、清掃などで入室したスタッフなどに見咎められる可能性があり、用心するべきだろう。出先である以上それは遠慮し「飲む前に都度加えれば法に抵触しない」と言う、所謂カクテル方式でグラスにミントを落とし、ルビーレッドのそれを呷った。これだと、サングリアとは呼ぶには少し無理があるのだが、それでも雰囲気は感じられる。

 それにしても——

 何故この「血」を好むのか。ここ何年、それが分からなかった。それはスイートルームに一週間も連泊出来る身にしては明らかに大衆的であり、世界の名だたる高級ワインを飲みつけて来た真琴らしからぬ嗜好なのだったが、

 何でかしら——

 自分でも理由がよく分からなかったものだ。が、思い当たる節は、無理をすればない事はない。その気性の激しさが悪影響を及ぼし、女狼だの女狐だのと蔑称に事欠かなかった真琴の半生である。その禍々しさ故に、

 ——血を求めたもんかな。

 自嘲した真琴はそれでいて涼しげな目が印象的で、静謐な中に火炎がちらつくような凜然烈女たる麗人だった。その容姿の良さは、今日の広島空港における周囲の反応が示したもので、正直なところ、その過ぎたるものを持て余している。真琴は今の今まで、この外面で得をした事など一度としてなく、逆にろくな事がなかったものだった。今日は今日で、加えてこの雨がもたらした渋滞も相まって、結局苛立ちは収まらない。それは全て、この地が自分に向けた敵意のように思えてならなかった。偶然が重なった事だと理解しようとするが、では「不躾な視線はどう説明するのだ」などと、早くも先が思いやられる展開である。

 ホントのところ——

 この地での生活はどうなるのだろう。何が待ち構えているのだろう。自分はどうするつもりなのだろう。どうしたいのだろう。懊悩が止まらなくなるのは真琴の悪い癖だ。眼下の絶景はそれを象徴するかの如く、相変わらずの雨模様でぼやけてしまっている。瞬く間に気鬱を纏い始めた真琴は、サングリアもどきを呷りながら、静かに一つ溜息を吐いた。

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