第7話 ゆがんだ報復

 ガスマスクの男は、ぐっしょり汗をかいて目を覚ますと、身じろぎもせず、何やらむさぼるように、宙を見上げていた。


 自らの完全な犯罪に絶対の自信をもっていた男は、どういうわけで、自分の部屋に警察が来たのか、何よりかにより、どこで証拠を残してしまったのか、くり返し考えても、これっぱかりも思い当たる節は見当たらなかった。


《さしあたって、防犯カメラ対策に抜かりはなかったし、現場には髪の毛一本落としてはいない。子供の前で、顔を出したことや、子供を病院に運んだことは、のちの話だ。犯行には、盗んだ車を使っているし、場所の選定など周到な準備をして臨んでいるのだから、俺を特定できるはずはないのだ。それなのになぜ、おれのマンションが分かったのか?》


 とりわけ、プライドを傷つけられた男の心は、とたんに警察への疑念を通り越して、毒々しい憎悪へと移り変わり、身を焼くほどの報復感情を燃え上がらせた。


 こうした感情が生じる一線が、常人と犯罪者の境界線に違いないのだ。


 常人は、もっぱら、この一線以上には出ないように感情に理性の歯止めがかかるが、犯罪者となる者は、感情の荒波が怒涛のように理性の防波堤を突き破って、犯罪へと突き進むのだろう。


《ちくしょう!俺に堪えがたい屈辱を与えたのは誰だ?マンションを見張っていた二人の刑事たちか?あいつらに俺を見抜けるはずはない。どこかに優秀な奴がいるのか?きっと、俺は下っぱを相手にして満足して油断したんだ。俺の本当の力を見せてやる!》


 男はせせら笑うと、一計をめぐらせた。


 ほどなく横州警察署に、妙なメモを、首から下げた一匹の犬が迷い込んできた。


 警官が、犬に気がついてメモを読むと、たちまち青くなった。


『青竹紫蘭という刑事の命を預かっている。助けたければ、今日の夕方、六時に煙町のマンションへ来い。面白いものを見せてやる』

 

 届いたメモを読んだ鼻田は、とたんに眉をくもらし、険しい顔つきになると、ふと腕時計を見た。


「もう、五時五十分だ!どうやら紫蘭が犯人に捕まったようだ!ぼやぼやしてる時間はないな!現場は煙町のマンションだ!」


「えっ!遠山がいっしょのはずです!いったい、何があったんだ?」


 俊介は、あたかも、紫蘭だけ捕まったということが、からきし腑に落ちなかった。


 そんなとき、抜き差しならぬ様子の遠山が、足元をふらつかせながら、署の玄関に倒れ込んだ。


「都真子先輩!やつに……やつにやられました!」


「遠山くん!いったい、何があったの?紫蘭はどうしたの?」


 マンションの捜索を遠山に頼んだこともあって、自責にかられた都真子は、面食らって、問いただした。


 遠山は、しどろもどろに口走った。


「いやもう、やつの部屋に入ったとたん、いきなり、天井と両方の壁からスプレーガスを大量に浴びたんです。せいぜい、数秒のうちに、目を開けていられなくなって、真っ先に紫蘭さんが倒れ、続けて、僕も意識を失ったんです。やっと目を覚ましたら、紫蘭さんがいなくなっていて、おまけに僕の顔に、六時にもう一度、他の刑事と来いってメモを貼られていたんです。まさか、そんな仕掛けがあるとは思わず、本当に申し訳ありません!」


「いいんだ、誰が行っても、同じ目に遭っていたに違いない。むしろ、おそらくは我々、警察への挑戦状だ!だが、やつの思うままにはさせん!さあ!紫蘭を助けに行くぞ!」


 鼻田は、いかめしい口調で言い放つと、スパッと先頭を切って署を飛び出し、そのあとを、けたたましくサイレンを鳴らしたパトカーが、ぞくぞくと追いかけた。


 夏の夕方はまだ明るい。


 俊介たちの乗った車も、マンションを目指した。


「やつは、俺たちに居場所を見つかったことが、ことのほか、悔しいらしいな。言うなれば、それに対しての報復に違いない」


「ふん!なんて、プライドの高いやつなの!」


 マンションの一帯は、何やら騒がしく、野次馬で人だかりができ、どういうわけか、皆マンションの上方に、視線が釘付けになっていた。


「大変!紫蘭よ!屋上からロープで吊り下げられてるわ!ロープが切れたらどうしよう!早く助けないと!」


 都真子は度を失って、叫んだ。


「やつは、やることが常軌を逸してるぞ!一刻の猶予もない!先に降りて助けに行こう!」


 鼻田と俊介、そして都真子は、道路が狭く、ごたごたしているところに差しかかったパトカーから、だしぬけに外へ出ると、走ってマンションに向かった。


「ロープは、まさしく、屋上から垂れていたな!屋上へ上がるぞ!」


 鼻田は、マンションに入って、脇にあるエレベーターの前に立つと、上がったままのエレベーターにしびれを切らした。


「こんなときに、じれったいわね!」


 のろのろ、降りて来たエレベーターに飛び乗ると、屋上へ急ごうとしたが、半分ほど上昇したところで、やにわに、エレベーターが急停止してしまった。


「どうしたんだ!古めかしいエレベーターだからな。まさか、停電か?故障か?」


 鼻田がわめくと、都真子は、いくぶん正気を回復していた遠山に、あわてて連絡した。


「遠山くん、動ける?おかしなことに、ふいにマンションのエレベーターに閉じ込められたわ!何とかできない?」


「了解です!だとすると、エレベーターの操作盤ですね!行ってみます!」


 混雑に巻き込まれ、パトカーがもたついていたが、紫蘭の吊るされた姿を見た遠山は、矢も楯もたまらず車から降り、走ってマンションの手前まで来ていた。


《こうなったら、さしずめ協力的でない、愛想の悪い管理人でも、急き立てて頼むしかないな!》


 あせった遠山は、音のかすれた管理人室の呼び鈴を、しつこく鳴らしたが、折あしく鍵がかかっていて入れない。


《おかしいな!外出の表示が出てないから、おそらく、中に居るはずなんだが……》


 小窓の隙間から、辛うじて、中をのぞき込むと、管理人の老人が長々と、倒れているのが目に入ったため、力まかせにドアを蹴破って中に入った。


「おいっ!管理人さん!起きてください!」


 大声で呼びかけても、まるっきり死んだように、身じろぎもせず、ぐっすり眠っている。


《こりゃ、眠らされてるみたいだな!仕方がない!機械室の鍵をもらって行こう!》


 だが、鍵を管理した頑丈なケースも鍵がかかっており、もってのほか、先を読まれ先手を打たれて、どれもこれも用意周到に封ぜられていたのである。


「係長!どうにもこうにも、何もかも先手を打たれています」


「だったら、署員を何人かここへ派遣してくれ!どっちみち、老朽化したエレベーターだから、力づくでこじ開けて、自力で脱出する!お前は、片っ端から署員を引き連れて、まっしぐらに紫蘭を助けに行って来い!」


 鼻田は、さしあたって、何より肝心な紫蘭の救出を優先させた。


「はい!分かりました!そうします!」


 遠山たちは、息が切れるほど、ずんずんと非常階段を屋上まで上がって、食い入るように辺りを見渡すと、柱に縛りつけられて、ぴんと張ったロープを発見した。


「ロープの先には、紫蘭先輩がいるぞ!こいつを引っ張り上げろ!」


 遠山は、何人かの署員といっしょに、ありったけの力で、ロープを引っ張ると、こともあろうに、屋上の縁にひっかかるところから、ぷつんとロープが切れて、たちまち、遠山たちは後ろにひっくり返った。


 思いもよらぬ事態に、とたんに遠山の顔から血の気が引いた。


《何ということだ!助けるつもりが、あべこべに、紫蘭先輩を地上に落としてしまった!》


 あっけにとられ、肝をつぶした遠山には、いくら何でも、いっこうに地上を見る勇気は出なかった。


「遠山!紫蘭はどうした?」


 エレベーターから脱出してきた鼻田たちが、屋上に足を踏み入れた。


 遠山は、ぶるぶると震える手で、むざんに千切れたロープを、鼻田たちに見せると、おいおい泣き始めた。


「うわっー!先輩を死なせてしまった……」


「何!本当か?」


 俊介がびっくりして、あわてて屋上から顔を出して、真っ逆さまに地上を眺めると、紫蘭は、これっぱかりも落ちてはいなかった。


 いまいましいことに、屋上のロープはダミーで、紫蘭は、あらかじめ途中の階から吊り下げられていたのだ。


 遠山は、息がつまるような思いから、がらりと一変、躍り上がって喜んだ。


「三階下の部屋だ!降りましょう!」


 その部屋の前に行って、呼び鈴を鳴らしたが、誰も出てくる気配はないし、鍵もかかっていて中には入れない。


「隣の部屋は表札があるわ!ベランダから回れるかもしれないわ!」


 都真子が、たてつづけに隣室の呼び鈴を鳴らすと、老女っぽい掠れた声で、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。


「誰?何の用?」


「警察です!協力願います!」


 都真子は、くまなく事情を話すと、老女はしぶしぶ部屋に通し、俊介がベランダ伝いに隣の部屋に入った。


 俊介は、玄関扉を内側から開けて鼻田たちを部屋に誘導すると、外にぶら下がっている紫蘭をするするとベランダに降ろして、縛ってあるロープを解いた。。


 紫蘭も管理人同様、薬でぐっすり眠っている。


「何も気付かない方が幸せだな……」


 俊介は、いくぶん、ほっとしてため息をついた。


「あれ?」


「あの煙は何でしょうか?」


 遠山が、はるか前方を指差した。


「署の方向だ!まさか奴は、署も狙って……」


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