第4話「い、イカれてやがる……!」

 汗でびしょびしょになったティーシャツ。吐きそうなほどに乱れた呼吸。

 走はビルが立ち並ぶところまで来て、建物の影に隠れて休んでいた。内部に入れれば多少は見つかりにくくなるのだろうが、なぜかどこもかしこも閉まっていた。

 いくつかの建物を覗いたが、シャッターや鉄格子が降ろされていたり、そうでなければ紫色の気体が充満していた。

 つまるところ、主催者は建物の中に誰かを入れるつもりは毛頭ないようだった。


 あれからさらに一二人ほど元カノに出会ったものの、金庫の中にカードキーは入っていなかった。

 主催者――あの謎の声の主が企んだのか、包丁に折りたたみノコギリ、手錠にスタンガンと凶器でしかないものが入っていた。

 正確にはペンチやなど、本来ならば凶器とは言い難いものも入っていたが、それらを手にした女性たちも含め、金庫の中身を手に取った者はみな似たような行動に出る。


 すなわち、それらを走に使おうとするのだ。


 走との無理心中を図る者。

 愛を誓わせた上で、殺すことで心変わりを防ごうとする者。

 下半身からことで物理的に浮気をできなくしようとする者。

 子供を成し、自分が愛されていた証を世に残してから走を始末しようとする者。


 誰もが迷うことなく走に切っ先を向けていた。

 今も遠くで走を呼ぶ声が聞こえている。スタンガンを持っているであろう奈津美の声に、乱れた呼気を無理やり鎮めて気配を消す。

 しばらく気配を窺い、どうやら遠ざかっていくらしいことを察したところで再び大きく息を吐く。


「い、イカれてやがる……!」


 自らの下半身が生み出した惨状を前に、走は吐き捨てるように呟いた。走自身、自分の行いが間違っていることは分かっていた。

 だからと言って殺されるほどのことかと言えば、走の感覚では否である。


「……結婚までいかなきゃ皆別れるだろうが」


 小中学生ならいざ知らず、ある程度大人になればそういうことをするのは別に不自然なことではない。その上で別れる者だって星の数ほどいるのだから、自分の行いも別にありふれたものだと考えているのだ。


 開き直っている分タチは悪いが、それでも大人しく命や下半身を差し出すつもりはない。

 走が今までに再会した女性は合計で一四名。つまり一四の金庫を開けたことになる。

 主催者の説明したルールを信じるのであれば、残り八六名と、同数の金庫がある。


「……はやいところカードキーを当てないと」


 これまでの一四名全員が凶器を片手に走を追ってきているのだ。これから出会う女性はそんなことしない、と思えるほど楽観的ではなかった。

 これ以上、走を付け狙う追手が増えれば、やがては逃げ切れなくなるだろう。

 大きく溜息を吐くと気持ちを切り替え、こそこそと動き始める。

 金庫を持った女性を見つけたい。しかし凶器を持った女性には見つかりたくない。

 肉体的な疲労だけではなく、走は精神的にも追い詰められていた。


 は、は、と短く息を弾ませながら小走りに移動する。ちんたらしていればそれだけ見つかる可能性はあがってしまう。


「……霞! 俺だ、走だ!」

「晴香。久しぶりだな。元気にしてたか?」

「志桜里さん。覚えてますか? 走です」


 出会った元カノ達に積極的に声を掛け。


「クソ! 金槌はやべぇ!」

「食パン!? 食パンって何だよ!」

「何で俺の苗字こまいの印鑑が入ってんだよッ!」


 出会った分だけ金庫を開け。


「一緒に死のうよぉぉぉぉ!!」

「そんな下半身はいらないよね?」

「精子を寄越せッ!!!」


 走を追う者が増えていた。

 現在、合計で二九人。未だにカードキーは見つからず、それどころか振り上げられた凶器を避けきれずに頬や腕に傷が出来ていた。

 掠った程度の小さな傷だが、明確な殺意と狂気をもって振り下ろされたそれらは、走の身体のみならず心にも傷をつけていた。

 走り回って追手を巻こうにも、他の追跡者とバッタリ出会う確率も上がっていく。

 確実に追い詰められていく走に、怒声が浴びせられる。


「赤ちゃぁぁぁぁぁんッ!」

「私と死んでェェェェェ!」

「逃げるなァァァァァッ!」


 複数の女性に出くわしてしまった走はすぐさま逃げ始める。

 しかし、大声をあげる女性に釣られて、別の女性までが寄ってきてしまう。


「一緒に死にましょぉ!!」

「気持ちいいことしようよぉぉぉ!」

「毟り取って部屋に飾ってあげるッ!」


 鼠算式に増えていく追跡者に、走の足が鈍る。


 ――もう、諦めてしまおうか。


 傷つけてきた人の数に。

 走に向けられた負のエネルギーの大きさに。

 自らの犯した過ちに。

 思わず足を止めた直後。


「馬鹿ッ! こっち来なさい! 早く!」


 すぐ近くのビルから怒声が響いた。

 路地裏に当たる裏口の二階から非常用の梯子が降ろされる。窓を開けて梯子を降ろしたのは、当然元カノ。

 直近まで付き合っていた者の姿だ。


「さやか!?」

「驚いてないでさっさと来なさいッ! 死にたいの!?」


 剣幕に圧されてたじろぐが、すぐそばまで迫っている追手の呼び声に耐えかねて弾かれるように梯子を上り始める。

 果たして、走は誰にも見咎められることなく梯子を上り切った。

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