第2話 改〈falsifacation〉竄

 鼻の奥をなにかのにおいが擦る。化学製品特有の好き嫌いが分かれるあのにおいだ。身体のあちこちが痛むが、柔らかい布が包んでくれているおかげかそこまで辛くない。

 左手にはじんわりとした温もりが触れている。俺と同じくらいの大きさのそれは、覚えのある感触だった。

 ゆるゆると瞼を開いてみる。睫毛が光を反射させ、霧のような細かい光がカーテンのように俺の上にかかっていた。だけど左目は上手く開くことができない。痛みのせいもあるが、包帯かなにかで覆われているようで、物理的に開けづらいのだ。片目だけの視界には、なんだか小難しそうな機械が俺を取り囲んでいるのが映った。

 なんだか身体の感覚がおかしい。いつもよりも重くなったようにも、軽くなったようにも感じられる。

 見える方の目を動かし、温もりの持ち主を探る。俺の手に触れていたのは母さんだった。やつれた様子で項垂れており、精神的に参っているのが目に見えてわかる。握られている手を軽く握り返してみると、電源を入れたかのようにハッと頭を上げて俺のほうを見た。

「お……起きたの? ……わかる?」

 洟をすする音を混じらせながらも俺に話しかけた母さんは、空いた手でおそるおそる俺の頬を撫でる。水仕事のせいで昔よりも荒れて皺の寄ったその手は、なんだかやけに大きく感じられた。

 普段から気丈な母さんは、俺に心配させまいといつものように胸を張って口角を上げているが、目は充血して潤んでいる。母さんが泣いているところなんて初めて見た。早く安心させてやりたいが、唇が渇いているせいかうまく動かない。

「か、あ……母さん……」

 ようやく発した声は掠れている上に裏返ってしまったのか変に甲高い。俺の声じゃないみたいだったが、「よかった」と泣き崩れる母さんのほうが気がかりでそんなことは気にしてられなかった。

 母さんが嗚咽を漏らしながら俺の右手に顔を埋める。手に握られていた俺のその右手は、少しふやけているようだった。温い水滴が俺の手に注がれ、少しくすぐったい。

 目元を拭って顔を上げた母さんは、鼻声のまま口を開いた。

「ここは病院よ。 あなたは雷に打たれて、救急車で搬送されたの」

 あぁ、そういえばそんな事を充が言っていた気がする。そうだ……雷に打たれて、それで確か充が……

 ページをめくるようにあの時のことを思い起こす。すると「あること」を思い出し、寝起きでぼんやりとした頭が一瞬で覚醒した。

 俺によく似た奴が、同じように雷に打たれてたはずだ。一瞬のことだったのと目の激しい痛みのせいでよく覚えていないが、腕を掴まれて倒れこんだ時、最後に視界いっぱいに映った顔は、確かに俺と同じ顔をしていた。

 あの男は一体、何者だったのだろうか。

「……ねえ、大丈夫?」

 母さんがなにか話していたみたいだったが、俺はそっちのけで考え事をしてしまっていた。「え……なに?」と聞き返すと、母さんは安心したようにふっと笑って「無理しないで」と俺の頭を撫でた。いつもと同じように笑う母さんを見て、何故だか少しばかり涙腺が緩んでしまいそうになる。

「充くんが救急車を呼んでくれたのよ。 一時はどうなるかと思ったわ……雷に打たれて死なない、その上傷がその程度で済むなんて奇跡よ……」

 そこまで言ってまた溢れてきた涙を拭った母さんは、「本当に良かった……」と声を震わせながら噛み締めるように呟いた。

「……でも、目の傷は消えないらしいわ。 皮膚が傷ついただけで、眼球に傷はないらしいけど」

 目の傷、というのは包帯が巻かれている方の傷のことだろう。気絶するほどの痛みだったし、痕が残るほど大きい傷、というのは頷ける。

 雷が直撃して軽い火傷で済むなんて、確かに考えてみればかなりの奇跡だ。命あっての物種とか言うし、そう思うと残るのが目の傷だけで済んだのはかなりラッキーかもしれない。宝くじとか買ってみようかな。

「それにしても、きょうだい揃って雷に撃たれるなんて、災難だったわね」

 ……きょうだい?

 きょうだいって、兄貴とか姉貴とか、弟とか妹とか、そういうアレだよな。俺は一人っ子のはずなのに、なんできょうだいなんて……母さんだってボケるにはまだ早い年齢のはずなのに、一体なにを言ってるんだろう。

「母さん、きょうだいって……」

「え? ……あなた、雷に打たれたから混乱してるの?」

 もう寝た方がいいわ、あとでお医者さん呼ぶ? と心配そうに宥められるが、寝ていられるわけがない。「なあ、なんだよ」と食い下がると、その顔も知らないきょうだいの心配をしていると思われたのか、「あの子も大丈夫よ」と微笑んだ。

「いや、だからさ……ん、あれ……」

 やっぱり、なんか声が変だ。先ほどのように掠れているわけではないが、声変わり前の中坊くらいに戻ったような、いや、それよりも高い音が俺の喉から出ている。

「『睡蓮』の方はお父さんがついてるから大丈夫よ。 あの子もさっき目が覚めたらしいわ」

 母さんの呼んだその名前に、一瞬、心臓を鷲掴みにされたような気がした。ドクン、という音とともに、全身が一気に冷えていく。

 ……睡蓮?

 いや待て、おかしい。睡蓮は俺のはずだ。杢葉睡蓮。一人っ子で両親と三人暮らし。遍羅暴高校の二年二組で、親友の名前は日野充。

「それにしても、なんで睡蓮の学ラン着てたのよ」

 睡蓮の学ラン? いや、アレは確かに俺の学ランだが、どうして俺のものを俺が着ちゃいけないんだ。わけのわからない発言をする母に違和感を抱いた。

「何言ってんだよ、俺は……」

 無理矢理上体を起こす。ピリッと裂けるような痛みが目に走り、反射的に俯いた。その時視界に飛び込んできたそれに、俺は言葉を失った。

 胸だ。

 それも俺が喧嘩と筋トレで鍛えに鍛え上げたあの逞しい自慢の胸筋ではなく、女の胸、俗に言う「おっぱい」だった。それもグラビアとかそういう本でしかお目にかかれない大きさの代物だ。確かに胸に自信はあったが、それはあくまでも『男の筋肉』であるからであって、まさかそれが女の、それもかなりの大物になるなんて思わないだろう。

 夢だろうか、と思いながらもよくよく自分の身体を見てみる。手足は小さくて腕も細いし、丹精込めて育てた他の筋肉もすっかり消え失せ、ぷにぷにと柔らかいだけの感触になってしまっている。寝ていたから気付かなかったが、髪もかなり伸びてうなじがくすぐったい。

 問題の胸も、前とは違うベクトルで柔らかい。良質な筋肉特有の柔らかさじゃない、触っているこちらの手をむしろ包み込んでくれるような柔らかさ。だが、初めて女の胸を揉めた嬉しさよりも、なんで初めてが自分のなんだという虚無感や胸筋を返してくれという悲しさの方がよっぽど強い。

 ……待てよ、まさかだとは思うが……

 俺は真実を知ることに怯えながらも、すっかり形の変わってしまった手を自分の下半身に持っていった。ばくばくと心臓の音が頭の中で響き、冷や汗が全身を伝って体温を下げていく。

 ────無い。

 哀れなことに盟友でありライバルでもあった俺のエクスカリバーは、最初から存在していなかったかのようにそこから姿を消してしまっていた。

 俺は強く目を瞑りギリギリと歯を食いしばって、飛び出しそうになった叫び声を寸前でどうにか押し殺すが、「うぐぅ……」という情けない声が漏れてしまった。

 天地がひっくり返るほどの衝撃だった。どうしていなくなってしまったんだ、とないものにひたすら問いかけても答えは返ってこない。ここで俺の頭にある確信にも近い可能性が湧いた。

「ね、ねえ母さん……鏡ある?」

「え……目の怪我でも見たいの? やめておいたほうが……」

「いや、違くて……その、とにかくあるなら貸して欲しいんだけど」

 本当にどうしたの? と困惑しながらも、母はカバンから取り出した鏡を俺に渡してくれた。

 受け取った鏡にすぐ向き合うことはできない。すぅー、ふぅー……と何度か深呼吸を繰り返し、衝撃で荒れた呼吸を整える。

 こんなに緊張したのは、ひとりで羞不知はじしらず高校に乗り込んだ時以来だ。むしろ、その時よりも今のほうが緊張している。心臓がはち切れるんじゃないかと不安になる、もはや太鼓のような自分の心音を聞きながら、おそるおそる鏡を見た。

 そこに映っていたのは、俺じゃなかった。

 面長だったはずの輪郭は丸みを帯び、吊り上がった目尻も幾分か柔らかくなってまつ毛も伸びている。首も細いし唇も小さいし、自分の顔だ、と言い切るには痛々しく目に巻かれた包帯くらいしか心当たりがない。浮かんだ可能性が揺るぎない確信に変わってしまった。

 どうやら俺は、女になってしまったようだった。

 文字通り絶句した俺に呼びかける母の口から、さらに追い討ちがかけられる。

「ちょっとネムリちゃん? 大丈夫?」

 ……ネムリ?

 ネムリってなんだよ、俺は睡蓮だ。睡蓮だし、男だし、女じゃないし、なによりネムリなんて名前じゃない。そう抗議しようとすると、また目に痛みが走った。いっそ掻きむしってやりたくほどに痛む目を包帯越しに押さえ、ベッドの上に倒れ込むようにうずくまった。

「ネムリちゃん? ネムリちゃん⁉︎」

 俺のじゃないはずの名前を呼ぶ母の声が遠のいていく。眠気とも違うなにかが、強制的に俺の意識をシャットダウンさせた。



 目を覚まして最初に目に入ったのは、規則的に板張りされた天井だった。端の方では点滴がゆっくりと俺に栄養を流し込んでいる。少しでも動けば傷が痛むので、安易に起き上がれない。それ以前に、いつもの寝起きよりもずっと身体が重くてうまく動かない。

 首を上げて時計を確認すると、落雷の日から二日ほど経った日付が表示されていた。それと同じ無機質な文字で『AM.6:31』と表示されている。

 時計の横になにか紙が置いてあるのがわかった。痛む腕を伸ばして手にしたそれには、母の字で俺へのメッセージが書かれていた。

「傷を痛むみたいだったので、お医者さんに痛み止めを打ってもらいました。 お昼ごろにまた来るね」と見覚えのある丸文字が連なったそれを手にしたまま、またベッドに横たわる。

 わずかに開いたカーテンの隙間から差し込んできた陽が眩しくて、点滴の刺さっていない方の手で光を覆う。その手首につけられた識別用のリストバンドに、手書きの文字で『杢葉 ねむり』と記されていた。

 睡蓮のスイをとって睡か。なるほど、『兄妹』らしいネーミングだ。そう思ったのと同時に、自分の身体が女になってしまったのは夢じゃない、という現実を認識して再度絶望した。

 腕を下ろし、長く重い溜息を吐いた。窓のほうから顔を背けて目を閉じる。

 一体どういうことなんだろう。雷に打たれて、病院に運ばれた。目が覚めたら女になってて、『睡蓮』は別にいる。しかもそいつが俺の兄貴になってるときた。

 冷静に事柄を整理してみても、わけが分からない。事実としてはこれだけなのだが、情報に脈絡がなさ過ぎて信じがたい。考えていると頭がこんがらがってくる。あぁもう、なんだか最近はよく脳みそを使わせられてる気がする。

 そういえば、充が救急車を呼んでくれたと聞いた。充だったらなにか知っているのだろうか。分裂の理由は知らなかったとしても、その場にいたということはなにか見ていたはずだ。

 ……充、どうしてるかな。女になっちまったけど、あいつは俺のことをまた親友として見てくれるんだろうか……──いや、そもそもあいつは、とっくに俺に親友以上の感情を抱いていたのだ。俺が男だろうが女だろうが、それは揺るぎない事実なんだ。

 そもそもなんで女になってしまったんだろう、と考えたところで、俺は前にふっとこぼした自分の言葉を思い出した。

 ──いっそ女だったら、こんな事で悩まなかったのかな──

 あの時は単純にそう考えたが、もしかしたら心のどこか、俺でも知らなかった場所にそんな思いがあったのかもしれない。落雷による性転換なんて非論理的な出来事だが、ロジカルをすっ飛ばしてみればそれが引き金になった可能性が高い。

 でも俺は……俺は、充が親友で……充以上の友達なんて、きっとこの先現れないと思ってる。頭が良くて、優しくて、安心して背中を預けられる無二の相棒。でも、それ以上の感情を抱けるかはわからない。

 でも、俺が女になった今なら……充との関係も、何か変わるのだろうか。

 ぐしゃ、と手にしていたメモを握り潰した。考えることを放棄した俺の脳内には、ただ漠然と『充に会いたい』という思いだけが渦巻いていた。


 *


 あの落雷の日から一週間近く経ち、数日前に病室を大部屋の方に移された。

 傷は多少残っているが、それでも包帯や手当てはほとんどとれた。まだ目の包帯はとれないが、それでも痛みはかなり引いた方だ。昔から身体は丈夫だったが、我ながら凄まじい回復力に感心してしまう。ちょっと前まで病衣に擦れて痛かった傷も、今はほとんど痛くない。親父も母さんも安心しながら「睡蓮もだいぶ良くなってきたのよ」と教えてくれた。

 傷が治ってきたのはいいのだが、今度は身体の問題に直面する羽目になった。

 それというのも、先日ようやく風呂に入れたのだが、視界が悪くてよかったと心の底から思った。自分の身体を洗っているだけなのになんだか妙な気持ちになってしまいそうで、いつもカラスの行水だ。

 同じ理由でトイレでも苦悩している。男の時もまぁいろいろと大変なことはあったのだが、単純に女は行程が多いのだ。あえて説明は省くが、世の女性陣はいつもこんなことをしているのかと考えると、一刻も早く男に戻りたいという気持ちが強まった。

 女になってからというものの、溜息が増えたと思う。今もまたひとつ吐いた。

「睡ちゃん、大丈夫?」剥いたりんごを俺に渡さず自分で食べる母にツッコミを入れたいが、そんな気力も沸かない。

「ねえ、充に会いたいんだけど、お……睡蓮の方には行ってないの?」

「充くん?」

「いや、救急車呼んでもらったし、お礼したいなって」

「そうねえ……会ってやってとは言ってるんだけど、充くんも大変みたいでねぇ」

 でもそのうち来るわよ、と笑って最後の一切れを口に頬張った。あ……結局俺にはくれないんですね……

 動けるようにはなったものの、『睡蓮』とはまだ会っていない。どんな顔して会えばいいのかわからないし、そもそも向こうは俺をよく思っていないかもしれない。第一、もしかしたら俺だけがこのことを知っていて、『睡蓮』に『兄』としての記憶があったら、と思うと、どうしても気が向かなかった。

 だから充にも会いにくいのは事実だが、『睡蓮』と違って会いたくない気持ちよりも、会って話したい気持ちの方がずっと強いのだ。

 だけど充は、今日まで俺に会いに来てくれていない。もしかして、充も俺たちが双子だというふうに記憶が改竄されてしまっているのだろうか。会いに来ないのには何かわけがあるのだろうが、それでも会いたい気持ちは増す一方だ。

「あぁ、でも確か、今日睡蓮の方に来るんじゃないかしら。 そう聞いたわよ」

 帰宅しようと荷物をまとめた母が、思い出したように教えてくれた。学校帰りに見舞いに寄ると伝えたらしく、時間的にもそろそろ来ているだろうと。

「母さん、睡蓮の部屋ってどこだっけ」

「え? 会いに行くの?」

 頷くと、「病室は男女別なんだし、人様に迷惑かけないところで会いなさいよ」と言いながらも教えてくれた。母が病室から出て行ったのを確認し、すぐに俺も部屋を出る。

『睡蓮』の病室は隣の棟の外科病棟だと聞いた。ナースステーションのそばに設置された地図を確認しながら中庭突っ切りゃ早いな、とその足で中庭に向かう。

 すぐ近くにある中庭に通じる扉を開いた。重い扉の先は病棟内と違い薬品臭さのない清涼な空気で、久々に吸えた新鮮な空気で肺を満たす。天気が良く暖かい気候に加え緑がいっぱいの穏やかな中庭の雰囲気に、一瞬だけ目的を忘れそうになってしまった。

 みんなベンチに座って家族らしき人たちと歓談していたり、のんびり日光浴をしていたりする。正直俺もそうしたい気持ちが沸いてくるが、目的を思い出して頭を振る。

 その時、対角線上の扉から誰かが出てきたのが見えた。二人組の男で、片方は寒色の病衣を着ている。そいつは俺と同じような茶髪の髪に、俺とは逆の目に包帯を巻いていた。

 目が合った瞬間、また目の傷がじくじくと疼いた。鋭い痛みではないが、反射的に目をかばった。それと同時に、心臓が止まりそうなほど大きく鳴る。

 そんな俺と同じように包帯を巻いた方の目を押さえたその男は、見間違うはずもなく、紛れもない俺自身──『杢葉睡蓮』だったのだ。

 その隣に立っている男は、俺がずっと会いたかった奴だった。充だ。『睡蓮』の横に立っているアイツは、『睡蓮』の肩に手をかけて気にかけている様子だった。

 だけど俺に──『睡』に向ける目は、いつものような友愛のこもった目ではない。不信感と混乱が混在した視線だった。そんな充を見ていると喪失感が腹の奥底からこみあげてきて、途方もなく悲しくなってしまった。

 涙が出そうになるのを必死に堪えていると、『睡蓮』が俺の方に近付いてきた。その意志の強い足取りのせいでこっちの足がすくんでしまう。和やかな中庭の雰囲気と違い、俺の胸の奥はざわざわと落ち着かなかった。

『睡蓮』が目の前に立つ。そこで初めて気付いたが、今の俺と比べて頭ひとつ分は身長差がある。厚くて筋肉質な身体と、メンチ切りで負けなしの目力が自慢だったが、女の目から見る『杢葉睡蓮』は、息が止まりそうなほど怖かった。自分の目のはずなのに、そこから下ろされた視線が恐ろしくて俯く。

 だが、単なる目つきの悪さだけが恐怖の原因ではない。なにを言われるのかがわからなくて気が気じゃないのだ。普通に兄として接されるのか、それとも誰だお前と拒絶されるのか。俺からなにかを口にすることはできず、ただ言葉を待つばかりだった。

「──お前」

 俺が睡蓮だった頃に思っていた自分の声よりも低い。自分の声って他人の耳から聞くと変な風に聞こえるんだな、と妙に冷静な考えが頭をよぎるが、顔は下に向かせたまま上げることができない。

「Fカップくらいありそうだな」

 その言葉から間髪入れず、睡蓮の後頭部に充の鉄拳が落ちた。



「確かに俺が悪いけどよ、これでもケガ人なんだぜ?」

「黙れ。 この超絶バカタレが」

 殴られたところをさすりながら、充を挟んでベンチに並んで座る睡蓮が俺を見た。

 挙動も発言も俺と全く同じなのが気味悪く、俺は睡蓮の方ではなく充の方にちらちらと視線を泳がせていた。逆に充は不自然なくらいこちらを見ようとしない。

 なぁ、と話しかけようとしたとき、睡蓮が俺を遮った。

「なぁ、お前はなんなわけ? 俺に妹なんていねえはずなんだけど」警戒しているのか、妙に苛立ったような声色だ。

 無理もないだろう、急に覚えのない双子の妹なんて。逆の立場だったとしても俺も同じように接してしまうと思う。でもとりあえず、本当に妹だと思われていることはなさそうで安心した。

 威圧的な態度に怯みそうになるが、負けじと目を張って言った。

「俺は……睡蓮だよ。 睡なんて名前じゃねえし、男だったはずなのに、なんでか女になっちまったんだ」

 事実を述べたまでだが、改めて口にしてみると本当にぶっ飛んだ話だ。睡蓮も充も何を言ってるんだと言いたげにポカンと口を開けている。当たり前だが、すぐには理解してもらえないのだろう。そんなことを考えると急に孤独感に襲われ、悲しくなってきた。

「待てよ、本当に言ってんのか?」

 ようやくまともに俺を見た充は、声色は優しいが、目は猜疑心で満ちていた。そんな目を充に向けられる日が来るとは思わなかった俺の頬に、何か生温かいものが伝った。それは冷たくなって手の甲に俯き、そこで自分が泣いていることに気付いてしまった。

 反射的に隠そうと俯くが、おそらく見られてしまった。俺の涙に動揺する二人に聞こえているかもわからない声で「こんな嘘吐くかよ」と零した。

 慌てた様子で充が「いや、悪い。 泣かせるつもりは……」と弁解し始めた。

 わかってる、充は別に俺を泣かせたくて言ったんじゃねえ。だけど、ずっと親友で、相棒で……会いたかったはずの充に信用してもらえなかったことが、辛くて悔しくて仕方ないのだ。

 泣き止め俺、と心の中で念じながらも、溢れた涙と共に「すげー痛かったんだ」という言葉もぼろりと零れた。包帯が巻かれた手で目元を拭い、吐き出すようにさらに言葉を連ねる。

「雷落ちたとき……痛えし熱いし、本当に死んじまうかと思った。 目覚ましたら全身包帯まみれで痛くて動けなかったし、なんでか女になって、睡なんて呼ばれて……」

 拭っても追いつかない涙を流しながら、ひたすら弱音を吐き続けた。

「なによりっ……充が……充が来てくれなかったのが、すげー嫌だったッ……」

 もう憚ることもなく肩を揺らしてしゃくりあげながら泣いてしまう。

 本当に怖くて仕方なかった。急に一人だけ別の世界に放り出されたような孤独感と不安に覆われて、ずっと気を張っていた。充に会えたら、と夢想することだけが俺の慰めだったのに、充のよそよそしい反応が今の俺には『拒絶』に感じられた。

 今まで喧嘩に負けても泣くなんてなかったから、涙の止め方がわからない。

「ね……じゃなくて、すい……いや、悪い」充は俺をどう呼べばいいのかわからないらしく、口を動かした後に諦めたように俯いた。

「でも、俺も混乱してたんだ……目の前で睡蓮が雷に打たれたってだけで生きた心地しなかったのに、まさか分裂するなんて……夢かと思ったよ、正直」

 俺がみっともなく泣いている間、充は落ち着かない声でそう言った。大事なことを話してくれているはずなのに、言葉が耳を通り抜けて頭には入ってこない。睡蓮は眉間にしわを寄せ、真面目な顔で俺と充のやりとりを眺めている。

 いつまでも泣き止まない俺に、充がハンカチを差し出してくれた。受け取った深い青色のハンカチに顔を埋めると、充のにおいがした。そこまで昔のことではないのに、そのにおいが懐かしくて、ひどく安心して、さらに涙が溢れた。



 ずず、と洟をすすりながら引いてきた涙を拭う。まだ目頭が熱いが、まともに話をできるはずだ。そうなると冷静になってしまって、泣いたことがじわじわと恥ずかしくなってくる。

「確認しようぜ」俺が落ち着いたのを確認した睡蓮が、前のめりになって口を開いた。

「充は、俺が雷に打たれた後、分裂したって言ったよな?」

 確かに、さっきそんなことを言っていた気がする。泣いてるときに充が話していた言葉を手繰り寄せ、今度はちゃんと脳に染み込ませる。

「あぁ……確かに雷に撃たれたのは睡蓮だけのはずなのに、倒れるときに影がふたつになっててよ、近付いたらお前らふたりが倒れてて……」

 充は顎に手を当て、「ふたりの人間が倒れたってより、睡蓮の影がふたつになった感じだったんだ」と付け足した。

 涙の影響が出ている声のまま、俺も何とか口を開いた。

「……起きたら、母さんに『睡』って呼ばれたんだ。 意味わかんねえって思ってたら、女になってるし、『睡蓮と一緒に雷に打たれたのよ』なんて言われて……」

「んー……俺が親父から聞いたのもそんな感じだな」

 充からの情報を聞いた睡蓮は、真っ先に俺のところに来たようだ。さすが同一人物というべきか、考えることは同じみたいだ。

「つまり、俺もお前も、自分を『睡蓮』だって認識してるわけだよな」

 真剣な睡蓮の眼差しと声色に頷く。俺の中で何か吹っ切れたのか、先ほどまでの恐怖心はもう影を潜めていた。

 雷に打たれて、分裂して、挙げ句片方が女で……って、漫画みてえな事がまさか現実に、しかも自分に起こるなんて思わなかった。なんで充は本当のことを知ってて両親は知らないのか。その基準はいまいちわからないが、とにかく俺たちの他にも真実を知っている奴がいるのは安心する。

「面倒な事になりそうだぜ……」

 大きな溜め息を吐いた睡蓮はもう一度背もたれに身を預け、ぐり、と眉間に寄った皺を指の腹で伸ばした。


 *


「よし、じゃあ次の質問な。 腕のほくろの位置は?」

「両二の腕の内側。 左が二つに右が三つで、右の方は配置が三角形っぽい形になってる」

 おぉ、と唸るような感心の声を上げる。睡も睡で、ふんと鼻を鳴らして「当たり前だろ」と口角を上げた。

 退院してから一週間が経った。今は自宅での経過観察期間中で、週明けには学校にまた通えるだろうということらしい。その間俺たちはこうして『杢葉睡蓮』に関してのクイズを出し合い、本当に同一人物なのかと記憶のすり合わせをしていた。

「にしてもよく覚えてんなあ」

「つーか、オ……アタシにも同じのあんだよ」

 ほら、とシャツを捲って見せた睡の腕には、確かに俺と同じほくろが点在していた。だけど腕は俺に比べて細く、握れば折れそうな危うさがある。

 睡はいつの間にか、自分のことを『アタシ』と言うようになった。そういえば、母さんに「女子校に通うんだから」とか怒られてた気がする。

 どうやら睡は転校する直前だったらしい。理由は「学校である不良グループを全員まとめてブッ飛ばしたから」らしいが……なんとも俺らしい理由だ。聞かされたとき、睡も「あぁ……」と納得したような諦観の表情を浮かべていた。過剰防衛とはいえ女子相手、しかも情けないことに多勢がひとりにシメられたんだから向こうのが転校やらしそうなもんだが、睡の転校はウチの両親が決めたことらしい。

 転校先はあの芍薬牡丹女学園だそうだ。「女子校だし、暴力沙汰なんて滅多に起きないだろう」という理由らしいが、あの日向けられた好奇の目を思い出して気分が悪くなった。睡も睡で「よりにもよってかよ……」と溜め息を吐いていた。

「お前らいつまでそれやんの?」呆れた声で充がツッコミを入れる。

 会議と称して呼び出した充は、外の暑さのせいか額に汗を滲ませていた。掻き上げた髪の隙間からは、俺が前に無理矢理開けたピアスがこちらを覗いている。

「悪い悪い、次で最後だからさ」改めて睡に向き合い、「よし、最後だぜ」と俺じゃなきゃ絶対に知らない質問を投げかけた。

「俺が一番世話になってるエロ本は⁉」

 渾身の質問である。後ろから「は?」という充の低い声が聞こえた気がするが、それも意に介さず睡は澄んだ目をして即座に答えた。

「図部さんから貰った年上のお姉さんが筆おろししてくれるエロ漫画」

「正解!」

 親指を立て、続けて「じゃあどこに隠してある?」と訊ねる。睡はまた間髪入れずに「タンスの下に入れた隠し板のトコ」と回答する。

「正解ッ‼」

「お前らさぁ‼」

 顔を真っ赤にした充が俺たちの間に割り入ってくる。膝をつき、「いや……俺知りたくねえよ……お前らのエロ本の趣味とかさ……」とぼそぼそ呟いた。顔を手で覆っているせいで、声が籠って聞こえる。

「なんだよ、健全な男子高校生だぜ?」

「じゃなくて趣味を知りたくねえっつってんだこのノータリン!」

「ぎゃんッ!」

 充は俺の脳天に鋭い肘打ちをキメる。脳が揺れるような衝撃と頭が割れるような鋭い痛みのせいで涙が目尻から漏れる。

「女の子が筆おろしとか言っちゃいけません!」今度は睡を叱り飛ばす。睡も睡で、そんな充に圧倒されて「は、はい!」と威勢よく返事した。

 睡の元が俺ってことを忘れてそうだな、こいつ。

「ッたく……とにかく話し合いだ」

 どかっと元の位置に座り直した充は、「元に戻るまでは双子のまま振る舞った方がいいかもな」と続けた。その言葉に、俺と睡が同時に頷く。

 家の中の家族写真やアルバムには、やはり俺たちが双子のように写っていた。元々俺だけだったはずなのに、今は並んで睡も映っているのだ。

 少なくとも今の顔はかなり違うが、ガキの頃はわりと似ている気がする。丸い目にぷっくり赤い頬、髪型まで同じだったら普通にどっちがどっちだかわからなくなりそうだ。まあ、あくまでも気がするだけで、もしかしたら似ていないのかもしれないが……

 そういえば、充が写真と俺の顔を交互に見て、「どこでそうなったんだ?」と訊いてきた。普通に失礼だろ、この野郎。今更ムカついてきたな。

 母子手帳も二人分、食器や日用品も増え、物置部屋だったはずの俺の隣の部屋も、睡の部屋になっていた。分裂したときに睡が着ていた学ランも、本来一着だったのが二着になっていて、両親も「なんで睡はこんなの着てたの?」と不思議がっていた。

 周囲の俺たちに対する認識を確認したところ、みんな俺たちが最初から双子だったと記憶していた。友人や中学校の時の先生に尋ねると、「手の付けられない不良の双子」で通っていたらしい。

 そう考えると、やっぱり充だけがこのことを知っていることになる。理由はなんだろうか。唯一の目撃者だから、というのが俺たちの中で一番納得できるのだが、それじゃなんだか都合が良すぎる気がしないでもない。

「元に戻るったって、どう戻りゃいいわけ?」

 充が持ってきた炭酸飲料を開けて飲む。痺れるような刺激が喉を刺して流れ込んでいく。入院していた時は飲めなかったその感覚が何故だか懐かしく思えてしまった。

「まあありきたりだけど、漫画とかだと同じことをすりゃ戻るって感じだよな」

「同じって?」

 睡が充の顔を覗き込む。母さんの選んだファンシーで可愛らしい服に全力で抵抗した睡は、俺のジャージを勝手に着ていた。だけどサイズが合わないせいでシャツの襟から胸の谷間が覗いている。

 正直言って、こういうのは思春期男子には辛い。俺でさえ自分相手とはいえ見ちゃいけない気がするし、充はあからさまに視線を逸らしている。

 気まずそうに口元を押さえながら、充はもごもごと話し始めた。

「例えば……ふたりの人間が頭ぶつけて人格が入れ替わったとしたら、もう一度ぶつけて戻る……みたいなさ。 お前らの場合なら、一緒に雷に撃たれればもしかしたら元に戻れるかもしれねえぞ?」

 その提案を聞いて、ゾッと背筋が冷たくなった。あの日の落雷の痛みや衝撃を思い出し、あんな死にかける思いはもうしたくない、とまた睡と同時に首を振った。わざわざまたあの痛みを味わいにいくなんてごめんだ。

「嫌なのはわかるけどよ、それでもそれくらいしか思いつかねえよ」

「いっそ医者とかに相談するか?」

「どうせ頭のおかしい患者だと思われて終わりだぜ」

 面倒くせえ、と溜め息を吐く。睡も同じように首を傾げていた。

 睡は挙動はまるっきり男……というか俺だが、こうして見るとやっぱり髪色以外はそんなに俺に似ているようには見えない。さっきの写真じゃそっくりだったが、やっぱり成長すると男女の違いは出るのだろう。

 睡のほうは睫毛は長いし、目もぱっちりとして大きい。俺は三白眼気味だから目つきが悪いとよく言われるが、睡はむしろ愛らしい顔立ちをしている方だと思う。鼻も口も控えめだがどこをとっても形が良く、簡単に言い表すならば『美少女』の部類に入るだろう。これだと顔に傷がついてしまったのはかなりもったいない気がする。

「似てねえし、やっぱ俺らってニランセーってやつなのかねえ」

「睡蓮……そもそも男女の双子はどんなに似てても普通に二卵性だぞ……」

「え、そうなの?」

 まあ、そもそも俺たちは双子じゃないけど。

『分裂』しただけで『同一人物』ではあるから、俺は性別でかなり顔の出来が左右されるらしい。俺は親父に似ているとよく言われるが、睡は母さんに似ている。

 そもそも、どうして分裂なんかしたんだろう。充と睡の会話を流し聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

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