入道雲
ばごん! 大きなにぶい音がして、夜墨は飛び上がった。木の板の上を数歩後ろ歩きする。じいじい、セミが鳴き始めた。日も登りきっている。まだ真上にないものの、雲ひとつない青空だった。
夜墨が数歩前進した。鉄製のドアの間近に尻をつけ腹をつけ、肘をつけ座る。尻尾が地面を叩いた。
飯はまだか、となく。ドアの向こうから返事はない。ごそごそ、ひとりぶんのひとの動く気配と、声がする。
夜墨は物音に耳をすませるようにしばらくじっと座っていた。黒い毛並みの背中がしろく光ってきたころ、夜墨はすっと立ち上がった。とんとんとん、水を避け跳ねながら日陰に入る。しばし毛づくろい、水を探してうろつく。
水を飲んだら、夜墨は風の当たる日陰に落ち着いた。両手を投げ出して寝息をたてる。
ごごごごん、ぼたっ。ぼ、ぼぼぼぼぼごっ。
夜墨はばっと立ち上がったものの、ヒゲをひくつかせ目を見開いてきょろきょろするだけだった。そうっとのろのろ、頭を低くして、金属の小屋へ近づく。
小屋の角から水がちょろちょろ流れ出ていた。水たまりにつながっている。
ちょん、ちょん、夜墨がつつく。つつくと手が小屋の隙間に入りそうで、入った。ぺしぺし、何度か中を叩く。
夜墨の尻尾がゆらゆらする。
ぼこんぼこん、音を立てて、小屋の角が揺れる。ちょろろ、水が出て、止まる。
中からひとの声がする。外へ向けた声だが、声であることしかわからない。
夜墨の飼い主の声だ。
先輩ご自慢の排水口は、氷が詰まってがちがちになっていた。排水しきれない氷が溶けては固まりを繰り返して、小屋の角を埋めている。
私ががんがん蹴ったら、大きな音がして一番外側は崩れたらしい。若干。じょろろ、と水音がしてすぐ止まった。
バイザーの向こうの先輩はうんともすんとも言わない。仮眠してくるとか言っていたかもしれない。
起きてくるまでに排水口を掃除しておくよーに。
こんなことも言っていた気もする。
「私も! 寝たいっての! お腹空いた!」
悲しいことに水はある。氷の塊を舐めればなんとか。座ることもできない狭い空間をひとまず早く出たかった。
ドアはなんと遠隔ロックされている。ここの問題を解決しないと出さないのだとか。あんまりだ。
がんがんやっていると、にゅっ、黒い毛むくじゃらの棒が排水口から見え隠れした。
「やっちゃん!」
夜墨の手はしばらく排水口で遊んだあと、ぱったり引っ込んだ。
「やっちゃーん……」
猫に助けてもらおうなんて思うのが甘い。わかってるけど、今は猫の手にもすがりつきたい。なんだってこんなところに閉じ込められてまでして点検しなくちゃならないものがあるんだろう。不眠不休で働かせたいならヒトじゃなくて機械を使えばいいんだ。
「まあでもそもそも、ここの調子が悪いって言うなら、絶対原因この結露だと思うけど。実際見に来たらいいのに」
……機械でわからないから生身の手先として私が来ているんだ。
私のここでの今の仕事は、ここの調子を正常にすることだ。そのための具体的な技術的手順を請ってその通りに実行することも、正確な報告をきちんとすることも、仕事を遂げるための立派な手段に違わない。
それでまだこんなことさせ続けられるなら、ドアを壊しちゃえばいいんだし。
でもそんなことをしたらクビになるだろう。
「うう、勇気をちょうだいやっちゃーん」
床に這いつくばって、ガチガチに凍った排水口に人差し指を入れくねらせてみる。あったかいものには触らなかったが、外の生ぬるい空気は感じられた。
なんて伝えたら、バイザーの向こうの先輩技術者に取り合ってもらえたんだろう。感想過ぎたのかな。そこを汲み取ってほしい、のは子ども過ぎるか。根拠に乏しかった? 根拠……結露が凍るほどの温度……室温、湿度、排水口の詰まりを、客観的に伝えられたらどうだろう。
排水口の詰まりは、今空いている大きさをメジャーで測ったらいい。
「温度と湿度は、この中に温湿度計があるはずだよね……。データがオンライン監視されてるようなやつ」
こうして夜墨の残り香を嗅いでいると、冷静になって頭にどんどん考えがうまれて育つ。手の先だけじゃ気のせいレベルの残り香だけど、元気が出た。
気を取り直して温湿度計を探すと、この異常な環境で完全にいかれていた。持ち込んだ工具箱の中から温湿度計を発掘して設置する。
設置してから、設置するだけじゃだめだったなと気がついた。長時間の数字を出せなきゃわからないじゃないか。こんなところにあと何時間もいるなんて嫌だ。
ダメもとで工具箱に入っていた温湿度計のデータを見てみると、ずいぶん前からのデータが続きで残っていた。
「でもこれ日付が未来じゃん。そんなピンポイントなバグり方ある?」
変な故障のし方をしてるけど仕方ない。時間は合っているみたいだし、このデータを添付してメール送信!
おうかがいの電話をかけるより前に、がちゃん、ドアの遠隔ロックが外れた。
至急改善されたし。
簡素な指示が眼前に表示されていた。
死ぬ気で全体重をかけてドアを押す。引き開けられたんだから楽勝だ。
ず、ず、とずれ開いていって、通れそうな幅を這いずり出た。外はさんさんとしろく明るく、空はあおくて、もうもうと入道雲がそそり立っている。
ぬ、猫の顔が視界に見下ろし顔で割り込んできた。
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