桜切る馬鹿
携帯のタイマーが鳴り、ゆらりと優夜が起きた。
「行くの、面倒になってきた……」
「ここまで来て何言ってるの」
車のロックが解除され、優夜はパンプスを先に車から下ろした。それに足を入れる。立って扉を閉めた。
「朝臣、代わりに行ってきてよ。賞状と賞金貰ってきて」
「俺が貰って良いんですか。賞金持って帰るかもしれませんよ」
「あんたが埋める場所なんてあの花壇くらいだろ」
「今、花壇無いんで」
あ、と優夜が朝臣を車越しに見る。
もう改修工事が行われている。
「なんか今、漸く寂しい」
ぽつりと呟かれた言葉。朝臣はきょとんとその顔を見た。
「修繕されて、殆ど変わらず戻りますよ」
「そうだな、確かに」
「二人とも、行くわよ」
「うん」
エレベーターを待つ時間、朝臣はひとつ疑問に思っていたことを尋ねる。
「どうしてこのネクタイ、持ってたんですか?」
後ろで腕を組んでいた優夜が視線を向けた。
「……買ったから?」
「流石に盗んできたとは思ってません。俺が来るの知らなかったのに、どうして持って来てたんですか」
「ああ、式終わったら行こうと思ってたから」
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる。
「賞状、見せてあげようと思って」
得意げに笑う優夜。朝臣は口を半開きにして見惚れていた。鎌崎もそれを聞きながら、まるで褒めて欲しがる子供のようだと思った。
約束は必ず果たしてくれる。
鎌崎の言葉を思い出す。
「まあ退屈だろうけど、見ていけよ」
扉が開いた。
火霜の展覧会の比ではない人の混み具合。それを見て、分かるくらいに優夜が嫌そうな顔をした。苦笑いしながら鎌崎が先に出た。
確かに、この中を普通のスーツで過ごしていたら目立つだろうという程には、個性的な服装、髪型、化粧をしている人が多い。優夜は変わっている人間だと思っていたが、鎌崎から言えばこんな普通で拘りのない画家は寧ろ珍しい。
受付が設置されており、入口近くで屯しているのは記者や画家たちだ。優夜の顔を凝視する者も少なくない。
二人の後ろを歩き、朝臣はそれを直に感じた。敬遠と嫉妬。物の怪を見るような、焦げるようなその視線の中で。
「じゃ、また」
「寝ちゃ駄目だからね」
「分かってるよ。立って賞状貰って礼するだけ」
あと賞金貰う、と付け加える。鎌崎は優夜のネックレスの位置を直し、ぽんぽんと肩を叩く。
当人は飄々としている。
「あ、朝臣は寝ても大丈夫だから」
「寝ません……見てます」
朝臣の言葉にやはり得意げに笑った。
鎌崎と朝臣と分かれ、優夜は受賞者の方の受付へと歩く。そこに行くまでに記者が数人横に並んだ。
「桜水さん、受賞おめでとうございます。今のお気持ちを」
「描かれていなかった間は何をされてたんですか」
「ご遺族には挨拶に行かれましたか」
優夜は全てを華麗に無視をして会場に入った。優夜の姿を見た開催関係者がすっと近付き、椅子まで案内した。ざっと今日の流れの説明をされ、優夜は椅子に残される。
関係者にも知った顔はいない。というより、優夜が覚えている顔がいない。
携帯を見る習慣もないので、ぼーっと前に飾られた生花を見ていた。どうせならスケッチブックでも持ってくるべきだったな、と考えながら。
――ご遺族には挨拶に行かれましたか。
先程の記者からの質問が頭を過る。引っ越して記者が付きまとわなくなった頃に、一人で一度だけ行った。アポも取らず訪問した優夜を、女子高生の母親は歓迎してくれた。彼女の写真の前には沢山のお菓子や花が置いてあった。線香をあげて、それから部屋を見せてくれた。
知らない家の匂い。その机の前にはいくつかの友人たちとの写真と、優夜の絵のポストカードが飾られていた。
机を撫でる。埃が積もっていた。その時点で既に事件から一年は経っていた。
『態々来ていただき、ありがとうございます。良かったらまた来てください。あの子も喜ぶと思います』
母親はそう言って優夜を帰してくれた。腹の中では恨み辛みが爆発しそうだったかもしれないが、何も言わずに。優夜は帰り道、頬が痙攣するのを必死に堪えた。
絵が描けなくなって一年経つ。もう描けないと鎌崎に泣きついた。それなのに、どうして誰も何も言ってくれないのか。
お前なんか描くのを辞めろと、木っ端微塵に、ぐちゃぐちゃに、砕いてくれれば。
立ち止まる。優夜の視界は白と黒で構成され、時計を見なければ今が夕方なのか朝なのか分からない。空の色、木々の色、花の色でさえ。
ふわりと風が吹いた。空を仰ぐ。
生きるのは、辛かっただろうか。
死ぬのは、怖かっただろうか。
あんなに惜しまれるのを知ったら、後悔するだろうか。
あなたの世界を、自分の絵は救えなかった。
砕かれなかった心とその事実だけが優夜の中に残る。壊れていないのだから、仕方ない。きっとまた描く日が来るだろう。誰かを、救えなくても。
「隣、失礼します」
「はい」
「桜水さんですよね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
横に座った年配の女性がお辞儀をした。優夜もつられるように頭を下げたが、知人かどうかも判断がつかない。
そもそも優夜はこういう場を二年も離れていたのだ。そして一方的に知られている自覚はある。優夜は静かに前に向き直った。心の中で鎌崎に助けを求めるが、鎌は後方の席に座り、朝臣へ誰がどんな人物か細かく説明していた。
横に座るということは彼女も賞を受けたのだろう。結婚式の披露宴のように席順があるわけでもなく、名前が全く分からない。
「あ、
差し出された名刺。宵風は朗らかに笑って自己紹介をした。優夜は名刺を持っていないことを思い出す。笑って誤魔化したが、それを訊いて少し胸を撫でおろす。
「いえ、わたしも久々で」
「大賞が桜水さんだと知って、お会いできて光栄です」
「こちらこそ」
アナウンスが入り、式がそろそろ始まる時間になった。周りの席が気付けば埋まっていた。全て受賞者又は入選者だ。
大きい企業が開催しているこのコンクールは、規模もまた大きく、テレビ局も数社入っている。後ろにはカメラが並び、授賞式というより会見のようだ。
ここで名前を上げて有名になる者も多くいる。そして、大賞の賞金額が日本一である。鎌崎調べだ。
久遠の名で賞金稼ぎをしていたと噂された優夜がここにいることを、式前にもっと誰かに言及されるとは考えていたが、現実は流れていく。そこまで皆、昔には関心が無いらしい。
式は静かに始まった。会長や来賓の紹介、このコンクールのコンセプトの説明。そこまで厳かな雰囲気ではなく、眠らず優夜はきちんと座っていた。
そして、賞状授与が始まる。
最初に大賞である優夜が呼ばれた。立ち上がると、視線が一気に集まったのが分かる。緊張はしないが、短い髪の毛が心許ない。
可愛いですね、と朝臣の声を思い出す。
髪の毛なら何でも可愛いに違いない。少し笑えて、勇気を貰った。
壇上へ行き、会長の前まで近づく。賞状を受け取り、礼をする。これで今日の仕事は終了だ。
終了のはずだった。
「桜水さん、おめでとうございます。今のお気持ちをどうぞ」
司会進行の女性から話を振られるまでは。
え、と優夜は一瞬止まり、すぐに愛想笑いを浮かべる。すぐ傍にあったマイクスタンドへと向かった。
横からさっと人が駆けつけ、スタンドの高さを調整した。まさかこんなことになろうとは。ちら、と優夜は鎌崎の方を見た。自分のことのように顔を青くしている。
「大賞を頂けて、大変嬉しく思います。ありがとうございます」
少し頭を下げれば、控えめな拍手が起こった。優夜もこれでお終いと司会を見たが、にこにこと微笑まれて何も言われない。
放送事故のような静けさに、優夜が折れた。
「これは偏に関係者皆様……」
渋々続きを話し始める。礼儀作法は嫌というほど叩き込まれているのだ。上っ面を舐めるような例文を口にすることはできる。
しかし、そこで優夜は止まった。
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