逆光の樹影、ガラスのリノウ

kinomi

01_M532

 梅雨が明けた。気のせいか僅かにくすんだ気がするレースカーテンを開けて、拙者は小さな四角い窓の外の晴れやかな空を眺めた。雲一つない青空と眩い日差し。例年より三日早く開けたのは拙者に促すためであろう。外へ出ろと。みしりとフローリング材が音を立てる。レースカーテンの防壁を元に戻して青空に背を向けて、小ぶりな丸ちゃぶ台の前で偉そうに胡坐をかく。

 拙者は今、何者でもなかった。社会の歯車になることを認めて早二年と数ヶ月、「ヲタク」であることをやめた拙者が代わりに手にできたものは半人前の歯車の称号と、少しの忍耐と、通勤の利便性と家賃のみを加味して決めたこの“ボロ城”生活への僅かな慣れくらいのもだった。

 何かを生み出さねば。

 拙者はずっと享受する側だった。どの作品だとか誰を推すだとか無粋なことは言わずとも、拙者がやったことといえば金銭を払って享受することで感謝を示すことだった。今振り返るとそう思う。そして、その役目は次の世代の“拙者たち”に託した。

 拙者には絵も描けなければ電子の歌姫の力を借りて音楽を生み出す技術もない。積み重ねが無いのだ。才能云々の言い訳はしない。口下手で、培ってきたものも特異な価値観も愛嬌もなく、例のVなんたらにはとてもなれそうもなかった。頭の中でこうして書き連ねてきた思考を130字区切りで書き起こせば、まあ世界中の誰かのうち数人は気に留めてくれるかもしれない。だがそれでは……拙者は……。

 姿勢を正した。


「聞け、深淵の声」


 丸ちゃぶ台の前に正座したまま目を閉じ、小声でそう呟いた。昔から時々やっていた。某作品で大好きなキャラが考えに詰まった時にそれをやるのだ。なんだ、拙者にはまだ片鱗が残っているではないか。……卒業できないということだ。……こんな邪念を……目を閉じて……消していく。


――聖地に再び赴け。ただし過去は見るな。


 我が深淵はそう告げた。目を開ける。アナログ針の壁掛け丸時計は午前8時半を指している。社会の歯車はたとえ土曜日でも規則正しく起きてしまう。……だが、深淵は何故そう言ったのだ。拙者が今更聖地に行っても見るものなど、買う……享受するものなど、はたしてあるのだろうか。昨今の聖地はどうにもかつての良さを失ってしまっているし……。


「えぇい考えるな!」


 まあ、このまま無為に城の中で昼時を迎えるよりはずっと良い。はるかに脂肪が燃えるのだから。


 通い慣れた道を往く。電車に乗り、一度乗り換えて、また揺られる。これまでと何も変わらないはずの行程を彩るのは選びに選んだ珠玉の曲たちだ。拙者は物にはそれなりの拘りがあって、調べて調べてやっと買うことが多い。故にほとんど失敗したことがない。このオーディオテクニカ製のそこそこのイヤホンも、ソニー製のそこそこのプレイヤーも、ミドルレンジながら抑えるべきところは抑えてある。それ故にか装いは相変わらずのジーンズに半袖チェックシャツに黒いリュックだが……と考えている間に次の駅だ。

 過去の拙者らしき人たちも見かけたが、やはり聖地は少し人の層が変わったように思う。外国の民か、よもや新世代がお洒落などと言う何かを身に付けたのか、それはともかくとして。拙者も拙者で他人を気にする余裕ができたのだろう。恐らく。電車の冷房が早くも恋しい。七月の熱気はこれほどのものか。緑の混じった改札を抜けて四角い光を抜け出た。



* * * *



 拙者は『3,980』と書かれた小さな四角い値札を睨んでいた。失敬、ここで少し行が飛んでいる。何せ取り立てて感情の起伏がなかったから振り返っても面白みに欠けるが、なるべく補足しよう。拙者は歩き慣れた聖地をなるべく普段のルートを通らないようにして歩いた。己に課したルールは一つ、わが深淵の告げる通り、いわゆる「オタク」に囁く煌びやかで華やかな全てのものを避けること。得体の知れない電子部品やらパソコンやらはこれに当てはまらないが、敷居が高いか興味を惹かれないかで何もかも素通りしてしまった。客引きもファッショナブルな何かも然りだ。それはもう空気のように歩いた。スタスタひらひらと、しかし時折滞留する煙のように。拙者の得意技だ。……で、何が3980円なのかというと。拙者は古い“カメラ”を扱う店の入り口にいた。拙者にカメラの知識があるかと言えばNO。ふと目に入った褪せた看板に古そうな佇まいの店には棘が無さそうで、ふらりと。こういう店の入り口は大抵ドアが開放されている。入口正面に店主の視線は無し。よし。一歩入れば冷やりと涼しい。さらによし。入ってすぐ、左右には腰の高さくらいの陳列棚(台?)があった。緑の布に平置きで、銀やら黒の小さなデバイスがたくさん、上からガラスを被せるようにしてガラスケースの体を成している。並んでいるデバイス――機械たちは恐らく『コンデジ』、コンパクトデジタルカメラというジャンルのカメラだろうか。レンズの部分が収納できるのかカードのように薄い機種もある。キヤノン・パワーショット『14,800』、ニコン・クール……ピ、ピクス『19,800』。メーカーと製品名と値段が書かれた小さなプレートと、工夫を凝らしたのであろうフォルムを交互に眺める。ここでもソニーか、サイバーショット『39,800』。リコ……リコーはプリンターの会社だと思っていた。ジーアール。それから……コダック? 知らないメーカーだ。


「ん?」


 やけに安い。『3,980』円? 桁を一つ間違えたのかと思ったが、どうやらこの後ろの方の商品はかなり古いというか、いわゆる型落ちらしい。手書きで訳アリの記載が添えてあるものも含めて5千円を切るカメラがいくつも並べてあった。


「何かお探しですか」


「あ、いえ、えっと」


 迂闊、否イヤホンガードは解いていない。あろうことか黒髪黒縁眼鏡の若い……多分大学生くらいの女性店員が拙者に話しかけてきた。慌ててイヤホンを外し彼女の誠意にきちんと応じる。


「その、ちょっと古いコンデジを探していて」


 探していない。


「これってどんな感じですかね」


 拙者の指は3980円のプレートを指していた。もちろん興味があったわけではない。これでも一瞬よぎった万が一に備えて高額商品を上手く回避した。よくやった拙者。


「あー……ちょっと古いですけど、いい写真が撮れますよ。フィルムカメラモードみたいなのがあって。カメラアプリのフィルターみたいなものです」


「なるほど」


 何に納得した。いやおっしゃることは分かる。


「えっと、お恥ずかしながらコダックってメーカーを知らなくて、」


 拙者の頭は随分と回転していたがここから先は記憶が少々朧気だ。口が乾いたし涼しいはずなのに背中にも顔にも多分汗をかいた。マイクロUSBケーブルの話だけは理解した。解像度なる数字は指標が分からなかった。一つ断っておくと、この艶やかな髪を一つにまとめたやはり大学生らしき多分頭のいい店員さんに“押して押して売ってやろう”という圧力は全くなかった。彼女はただこのカメラの長所と短所と、『イーストマン・コダック社』なるメーカーのざっくりとした歴史を話してくれて、恐らく拙者がてんやわんやしていることも分かっていた。なぜなら途中で「手放しでオススメできるカメラじゃないです」とか「でももし買っていただけるなら1000円引きです」とか「一晩考えてからでも大丈夫ですよ」とかとか言ってくれたからだ。

 彼女のどこかおっとりとした「ありがとうございましたー」の声と、話している時に見せてくれた自然な笑顔が心地良かった。いつもの拙者は振り返らないが、今日ばかりは振り返って軽く頭を下げた。


 拙者は帰路に就いた。緊張が解けて再び暑さが気になりだし、同時に今頃空腹を思い出す。そういえば昼ご飯を食べていないではないか。聖地にはいくつか星を付けた店があって、大半はまだ残っているはずだが……地元のチェーン店で済ませようか。ペットボトルの水を取り出そうとして肩紐に手をかける前に、つい口元が緩む。何を隠そう背中のリュックには新しい相棒『Kodak EasyShare M532』が入っている。銀色で薄くてフィルムモードが付いた機種で、かのイーストマン・コダック者が世に送り出した名機だ。知っているか諸君。イーストマン・コダック社のM532だ!

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