乙子のちび姫さん

FZ100

サヒメ

 とんとん昔、まだ神様が地上を治めていた頃。西の大陸の奥に神々の住まう里がありました。そこは豊かな緑と清らかな水で満たされた里です。


 空を一羽の雁が飛んでいます。その雁は羽根の具合か、赤っぽく見えるので赤雁と呼ばれています。みると、雁の背にしがみついている小さな女の子がいるではありませんか。それは乙子狭姫おとごさひめという姫神さまです。おかっぱの髪で白い長着姿の狭姫は心地よさそうにそのまま空を舞い漂います。


 その姿を認めた姉神たちはくすくす笑います。


「ちび姫ったら、また飛んでる」

「飛ぶのが好きなのね」


 狭姫はぷうっと頬をふくらませます。


「僕はちびではありませぬ」


 一柱の女神が田んぼで雑草をとっていました。狭姫の母神でオオゲツヒメ(大宜都比売)という名の女神です。大いなるケ(食物)の神という意味で、あらゆる食物を司る神様です。


「降りてらっしゃい、ヒメ」


 オオゲツヒメは狭姫に呼びかけました。


「はい、母神様」


 狭姫に命じられ、雁は田んぼのあぜに降りたちました。


 稲は黄金色に実り穂を垂れています。かすかに甘い匂いもします。もうすぐ刈り取りです。


「今年も豊作ですね」


 狭姫は田んぼを見渡しました。


「ええ。高天原におわす神々もお喜びでしょう」

新嘗にいなめのお祭り、僕も楽しみです。今年はソシモリだそうですね」

 オオゲツヒメの顔がふと曇りました。


「ヒメ、ヒメに一仕事頼んでいいかしら?」

「どういう仕事でしょう?」

「今年も豊作ですが、来年はもっと獲れる様にしたいのです。東の島によい土があったと憶えてます。それを採りに行っておくれでないかい?」


 母神が欲しいのは空気をよく含んだふっくらとした土、養分が豊富な土だそうです。


「分かりました。でも、勝手に持ち帰ってよいものなのでしょうか?」

「少しずつ分けてもらいなさい。ここに五穀の種が入ってます。お礼として分け与えなさい」


 オオゲツヒメは種の入った巾着を狭姫に渡しました。


 狭姫はそれを腰の帯にしっかりと結びつけると、雁の背中にまたがりました。


「東の海に一筋、煙が天まで昇っています。その煙を目印に飛びなさい」


 母神の言葉に狭姫がうなずくと、雁は大きく羽ばたきました。


「それでは。すぐに戻ってまいります」


 しばしの別れを告げると、狭姫は東の海に向けて旅立ちました。


         ※


 海は荒れていました。嵐の中をひたすら東に向け、狭姫と雁は飛び続けました。激しい風の中を波乗りのごとくに飛んでいきます。ずぶ濡れで衣が肌に張りつきますが、構わず飛び続けます。


 嵐がおさまり、ようやく晴れてきました。雲間から日の光が差しています。


「あ、あれだ」


 海の彼方に一筋、煙が天まで立ち昇っています。


「あれが目印だよ」


 雁はひたすら飛び続けます。


 しばらくして、ふと下をみると、海に何か黒い大きなものが浮かんでいます。


「母神さまのおっしゃった東の島とはここかしら?」

 そう思った狭姫は降りたとうとしました。

 と、黒いものは突如潮を吹きました。

「きゃっ!」


 黒いものは、しぶきをはねあげて浮かび上がりました。それは巨大なクジラでした。


「ははは、おちびさん、何かご用かね」

 狭姫は腰の巾着を掲げました。

「良い土を探しています。お礼に五穀の種を差し上げます」

「おちびさん、私は海をお治めになるワダツミ(海神)の神の遣いでの。せっかくだが、海の底では五穀は育たぬ」


 狭姫は内心、がっかりしました。


「そうですか。では、東の島はいずこでしょう?」

「このまま煙を目印に飛び続けなされ」


 そう言い残すと、クジラは海に沈んでいきました。


 狭姫も気を取り直し、再び空に舞い上がると東に向かいました。


 狭姫は飛び続けました。すると小さな島が見えてきました。わずかに緑はあります。


「ここかしら」


 狭姫が近づくと、一羽の鷹が近寄ってきて雁を脅かしました。雁は慌てて大きく羽ばたくと空で静止しました。


「我はヤマツミの遣い。何のご用かな?」


 鷹はただの鳥ではなく、山を司るヤマツミの神(大山祇神)の遣いでした。


「良い土を探しております。お礼はこの種で」


 狭姫は種の入った巾着を掲げました。


「ははは、あいにくこの島は小さ過ぎての。それに我は肉を喰らうゆえ、五穀なぞ必要ない」

「そうですか」


 狭姫はがっかりしました。


 狭姫と雁は飛び続け、ようやく東の島が見えてきました。


「やっと着いた」


 狭姫はほっと胸をなでおろしました。その島は瑞々しい緑で覆われています。


「神様が木を植えなすったばかりなのかしら。とても若々しい緑だわ」


 目印の煙は巨大な火山から立ち昇っているようです。狭姫はその火山を目指しました。


 頂の火口で美しい女神が狭姫を待っていました。狭姫は女神に呼びかけました。


「私はオオゲツヒメの娘、狭姫と申します。東の島とはこちらでしょうか?」

「そうです。私は山を司るヤマツミの娘コノハナサクヤ(木花咲耶姫)。あなたをお待ちしていました」

「良い土を探しております。お礼に五穀の種をお譲りいたします」


 狭姫が巾着を掲げるとサクヤヒメは微笑みました。


「ではこの火の山を選びなさい。この山はまもなく眠りにつきます」


 その山は後に佐比売山さひめやまと呼ばれ、更に三瓶さんべと呼ばれることになりました。


         ※


 下をみると、森の一角が切り払われて、そこには人影があります。狭姫と雁はそこに降りたちました。


 出てきたのは粗末な貫頭衣に身を包んだ人々です。人々は手のひらに乗るほど小さな狭姫をぽかん、と見つめました。


 狭姫は巾着を掲げました。


「ここは良い土がありますね。ひとすくい分けてください。お礼にこの種を分けて差し上げましょう」


 人々はありがたく種もみを受け取りました。きっと、その種は豊かな実りをもたらすでしょう。


 土を受けとった狭姫は次の目的地に向けて飛び立ちました。


「次はどこでしょう」


 そう言って空を飛んでいると、一羽の雁が追ってきました。みると、脚に手紙が結ばれています。


「何かしら?」


 地上に降りた狭姫はその手紙を読みはじめました。と、姫の表情が固くなりました。手紙は姉神からのものでした。


「母神が!」


         ※


 ソシモリは西の大陸から突き出した半島にあった古い地名です。そこに神々が豊作を祝い集っています。


 上座にスサノオ命や月読命も招かれています。高天原におわす天照大神と並び称される貴い神様です。


 宴の席には海のもの、山のもの――米や魚介類、野菜、肉、果物が食べきれないくらいに並べられており、オオゲツヒメは神々をもてなす役で、お酒をついで回ります。


 杯を手にしているのは月をお治めになる月読命です。


「お酒はいかがでしょう?」


 オオゲツヒメがお酒を勧めました。月読命はちらりとオオゲツヒメを見やりました。

「オオゲツヒメ、ヒメの体をなでると自在に食べ物が出てくるというの」

「は、はい……」


 オオゲツヒメの表情がかすかに曇りました。月読命の隣に座ったスサノオ命も身を乗り出します。


「それはまことか」

「左様にございます」


 オオゲツヒメは答えました。確かにヒメの体をなでると、どこからでもあらゆる食べものが取り出せるのです。


「何とも不思議なものよ」


 スサノオ命はにやりとしました。命は荒ぶる魂をもった神として怖れられています。


「そちの体の仕組み、一体全体、どうなっておるのじゃ?」

「何もありませぬ」


 オオゲツヒメは答えましたが、神々は言い争いをはじめました。


「体がどこかとつながってでもおるのか」

「いや、子を産みなすがごとくに相違ない」


 けんけんがくがくの議論がはじまり、神々は口角泡を飛ばします。さしものオオゲツヒメもおろおろするばかりです。


 何かを思いつきになったのか、月読命がおっしゃりました。


「スサノオ、賭けをせぬか。オオゲツヒメに秘密、ありやなしや」

「ではありとせん」

「ふむ、では我はなしとせん」


 月読命は剣を抜くと、オオゲツヒメの衣を切り裂きました。切られた衣が体からすべり落ちて裸体が露わになりました。オオゲツヒメはじっとはずかしめに耐えています。


「ふむ、何もないの」


 月読命がおっしゃると、


「ならば、こうしてくれる」


 スサノオ命は剣を抜くとオオゲツヒメを斬りました。神々はあっと息を呑みました。


 倒れたオオゲツヒメは既に絶命しています。スサノオ命はそのヒメの体を無残にも切り刻みましたが何もありません。


「何もないではないか。つまらぬ」


         ※


 ソシモリでの事件の後、天熊人アメノクマヒトという名の神様が、五穀の種や蚕を高天原の天照大神に献上されました。


「これは素晴らしい。どうやって手に入れたのです?」


 天照大神はたいそうお喜びです。


「実は――」


 天熊人はソモリの事件の一部始終を報告しました。


 その報告を受けた天照大神はわなわなと怒りを露わになされました。


「何たること! 月読とスサノオに告げよ! お前たちは心の悪い神である。月読に命じる! 月を太陽から遠ざけよ。会うことは二度と叶わぬ。スサノオに命ず、お前は日の当たらぬ地の底、根の国に行け!」


 天照大神のお怒りはたいそう深いもので、これより後、月と太陽は別々に分かれて天に昇ることになったのです――


         ※


 狭姫は手紙を読み終えました。涙の雫が手紙に落ちます。狭姫は涙をぬぐいました。


「最初から分かってらしたのだ、母神は。そうなる前に五穀の種を東の島に伝えよという意味だったのですね」


 ぬぐってもぬぐっても涙がこぼれ落ちました――


     ※    ※    ※


 狭姫が日本にやって来てから、大分時間が流れました。石見の国にも住む人が増えてきました。狭姫はそんな人々に五穀の種を授けるため忙しく飛び回っていました。


 そんなある日、今の江津の波子はしの海岸に一艘の箱船が漂着しました。狭姫が中を覗くと、五歳くらいの女の子が乗っていました。


「着ているものからするに、良家の子女でしょうか」


 きっと箱船に乗って遊んでいる内に流されてしまったのだろう、そう思った狭姫は女の子を引き取ることにしました。女の子の世話は土師はじのお爺さん・お婆さん夫婦がすることになりました。


 それから女の子との生活が始まったのですが、女の子はしゃべろうとしません。狭姫が、


「あなたはどこから来たのですか?」


と問うと、東の空を指すのみです。

「東というと出雲でしょうか、こしでしょうか」


でも、女の子は答えません。それに女の子はいつも狭姫を差し置いて上座に座るのです。箸も食事の度に取り替えます。


「どこかの姫なのかもしれませんね」


 狭姫はそう自分を納得させました。


 さて、その女の子ですが、狭姫たちの手伝いはせずに、いつも野山を駆け巡っていました。やがて弓矢をとるようになり稽古に励むようになりました。


「なぜ弓矢の稽古をするのでしょう」


 狭姫はいぶかしく思いましたが、敢えて訊かないことにしました。


 そんなある日の深夜、狭姫が目を覚ますと、女の子は家の外に出て東の空をじっと見つめていました。


「どうしたのですか?」


 狭姫が問いかけましたが、女の子は答えませんでした。


 月日は流れ、女の子は十三歳になりました。相変わらず狭姫の手伝いはしませんでしたが、弓矢の腕では並ぶ者がない程までになりました。


 ある日のことです。突如、東の山に狼煙のろしが立ちました。狼煙の炎は東の空を赤く染めました。それを見た女の子はついに口を開いたのです。


「私はスサノオの娘で胸鉏比売むなすきひめと申します。幼い頃の私が心が荒々しく、それで父の怒りに触れて流されてしまったのです」


 狭姫は複雑な心境でした。これまで育ててきた子は母神を殺したスサノオの娘だったのです。モズの托卵ではないか、そんな思いが浮かびました。


「今、出雲の国は十羅という国に攻められて苦戦しています。私が帰れば、必ずや出雲に勝利をもたらすでしょう。どうか出雲に帰ることをお許しください」


 狭姫は悲しみつつもうなずきました。


「出雲の国を護るために行きなさい」

「はい、この御恩は忘れません」


 そう言って胸鉏比売は波子から去って行きました。跡を追ったお爺さんとお婆さんですが、浅利の海岸で力尽きてしまいました。


 出雲に戻った胸鉏比売はたちまちの内に十羅の賊徒を滅ぼして、出雲の国に平和をもたらしました。


 狭姫はそうして石見の国を開拓していったのです。昔かっぷり。


(おしまい)

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