第7話「サーディスの亡霊」
アリーナの女王として君臨し、名を馳せたフレデリカもこの地で六年が過ぎ三十歳を迎えた。
彼女はチャンプ決定戦を自ら放棄し、出稼ぎに出ることにした。紅い残光とも呼ばれていた彼女だが、自分を越える者が現れず、この地を去ろうと決意したのだ。
可愛らしい馴染みとなった受付嬢に言うと、彼女は泣き出した。
フレデリカ、チャンピオン戦を放棄。そのニュースが口伝いに広まる前に彼女はこの大きく堅固で平和な町を後にした。今、彼女の手にある物は、腰の鞘に収まった両手持ちの剣と、大して物の入っていない背嚢に、アリーナで稼いだ路銀が溢れる程。
「残念だったな、お前の御眼がねに適う奴はいなかったか」
隣を暗闇に溶け込んだ漆黒の鎧を身に纏った男が言った。兜は目と口元以外を隠している。生きていれば彼はどんな道を歩んだだろうか。そして私をどう導いてくれたのだろうか。
サーディス。彼は死んだ。だが、未練があるのかこうして亡霊となって時折姿を見せる。
好きだった。彼が。そんな彼は病の末期の自分自身を殺せる戦士としてフレデリカを育て上げた。彼から教わったサーディス流の伝承者としてフレデリカは弟子を探している。
亡霊を無視し歩みを進めた。
一度振り返る。
そこにサーディスの姿は無かった。
自分でも分かるのだ。サーディスを殺した時から自分は精神のタガが外れてしまったことを。浴びるほどの酒を飲んでもアリーナでどんなに人殺しをしても治らない。唯一の希望は弟子だ。弟子さえ見つかれば、心に平穏が戻るかもしれない。
夜通し歩き続け、一つの村に着いた。
丘の上から赤瓦の屋根が点在しているのが見えた。
「おい、アンタ、傭兵か?」
坂を下り、村の入り口に来ると、門扉の上の覗き窓が開き、人の目が現れ、中年の男の声でそう尋ねた。
「そうだ。邪魔しない限り、お前達に危害を加える気はない」
「傭兵ほど信じられない相手はいないが、まぁ、良い。アンタは正直そうだ」
片側の鉄の扉が開いた。
「入りな」
男は何ら見るところの無い武装した門番だった。
無言でフレデリカが入ると、朝の光景が出迎えた。
煙突からは煙が上がり、まばらに人々が行き交っている。
背後で門が閉じられたの音で分かった。
「誓って騒ぎを起こすなよ」
「ああ」
門番に念を押されフレデリカはそう答えると、日持ちする乾燥肉を背負い袋から取り出し、嚙みながら歩み始めた。
この村に寄ったのはただの旅の通過点だ。フレデリカはそう決めていたし、思っていた。まさか、運命が変わるとも知らずに。
道行く人が足を止め、フレデリカを見詰めて畏怖するような顔を浮かべた。男も女も老人も、子供もはしゃいでいた声を飲み込んでこちらを仰ぎ見ていた。
そんな視線を向けられるのは久々だ。どこかの戦場帰りで血みどろになって以来だろう。アリーナのあるあの町ではチャンプとして尊敬と畏敬の眼差しを感じたものだ。だが、決して居心地が悪いわけでは無い。
不意にフレデリカは殺気を感じ、剣に手を掛けた。
相手は前方で武器を手にし、大き過ぎる剣を両手で握り締めて立っていた。子供だった。
「坊、何の用だ?」
フレデリカは尋ねた。彼女は子供が苦手だった。ただ小うるさい蝿や蚊のように見える。
だが、先ほどの殺気は何なんだろうか。本物だった。
「カイ、おやめ!」
フレデリカより年増の女が慌てて駆け寄って来て、平身低頭し、子供の腕を掴んだ。
だが、カイと呼ばれた少年は振り払い、一気に距離を詰めた。
これは!?
大剣の間合いに入った瞬間、フレデリカは慌てて剣を引き抜いて相手の刃と打ち合った。
剣は振り抜かれ、未熟な少年の手から得物を飛ばしていた。
「くそおおっ!」
少年はそう言うと短剣を抜いてフレデリカに襲い掛かって来た。
フレデリカはその手首を余裕を残して掴んで捻り上げた。
少年の罵詈雑言が木霊する。
短剣術はまだまだだ。だが、あれだけの剣を持って、あれほどの動きが出来るとは。
青い髪をし、エメラルドのような緑色の瞳をしていた。
「おい、アンタ! 騒ぎは起こさないと約束したよな!?」
門番が駆け付けて来て曲刀を抜いた。腰は引けていない。フレデリカが強者だと感じられないほどの一般的な鈍い勘の持ち主の様だ。
フレデリカは少年の手を放した。
「くそっ! 傭兵め! 薄汚い残酷な奴! この村に居る間に安心して眠れると思うなよ!」
カイは短剣と大剣を手に取ると駆け去って行った。
「騒ぎを起こしてすまなかった。あの坊は?」
フレデリカが尋ねると中年の門番が表情を暗くして答えた。
「悪く思わんでくれ。あいつはカイ。隣村の出身だ。だが、隣村は放浪の傭兵集団に根城にされて全員が惨い殺され方をして死んだ。カイの家族も。姉と逃れてきたが、姉の方は傷が深くて死んでしまったよ。カイはそれ以来、アンタみたいな傭兵を憎むようになった」
「隣村にまだその傭兵どもはいるのか?」
フレデリカが問う。彼女自身、門番からカイのことを聴き、忘れ去れらたはずの騎士の心が蘇ったのだった。
「いる」
「規模は?」
「何でそんなこと訊くんだ?」
その問いにフレデリカは答えられなかった。元騎士としての義侠の心が逸っているのだが、そんな傭兵らしくないも無い心に動かされている自分が愚かに思えた。
「三十人。流れ者で混成されてるようだが、邪竜の団と名乗っている」
「邪竜か。良い名前だ。生かして置けんな」
視界の端で亡霊のサーディスがニヤニヤしながらこちらを見ているのを感じながらフレデリカは言った。
フレデリカの言葉に、居合わせた人々は戸惑いの声を上げた。
その多くが、下手に刺激して奴らの矛先をこの村へ向けさせるのだけはやめて欲しい。というものだった。
「宿はどこだ?」
フレデリカはそれらの声を無視して誰ともなく尋ねた。
「案内してやる」
誰も答えない中、門番の男が申し出た。
そうしてフレデリカは集まった人々を後にした。
2
フレデリカは簡素な食事を取り、部屋で眠ろうとした。
「そうか、久々に戦争だな。お前ならやれる」
サーディスがベッドに腰かけて言った。目が爛々と輝き、口元は心底嬉しそうに笑みを讃えていた。
フレデリカはサーディスを無視した。考えていたのは、カイのことだった。今までの自分は未完成な大人を相手に伝承を見出そうとしていた。だが、そもそもそれが間違いだったのかもしれない。柔軟な子供なら速やかに自分の教えを、サーディスの教えを受け入れ、物とするだろう。
あの少年には、カイには素質がある。
フレデリカは目を閉じた。扉の向こうに控える小さな殺気を無視して。
昼に目覚め、紅い甲冑に身を包み、腰に両手剣を収め、扉を開いた。
カイがそこに立っていた。
「傭兵!」
カイは大き過ぎる両手剣をしっかり握り締めて振るった。
フレデリカは避けず胸甲で受け止めた。鉄の鳴る音が響いた。
少年は目を見開いていた。
「これで気は済んだか? 私は行かねばならない。ではな」
フレデリカは少年の頭をポンと撫でるとまずは部屋を後にした。
奇異と畏怖の目で見て来る村人達の間を抜けて買ったパンを齧り、水袋を呷ると、彼女は門の前に来ていた。
「何処へ行く?」
門番が尋ねて来た。
「邪竜退治に」
フレデリカは応じた。
「アンタがどれほどの腕前なのかは知らない。アンタは年増だが奇麗だ。酷い目に遭って、殺されるのが落ちだろう。それでも行くのかい?」
「ああ。この村のことは何も言うつもりはない。元々、私も流れの傭兵だ。ただ、門は固く閉ざしておけ。奴らが逃げて来ても入れないようにな」
「アンタは……アンタは、自信過剰だ。しかし見たところ、歴戦の強者にも見えないこともない。一体何者だ?」
「ただのフレデリカだ。門は固く閉ざしておくように」
フレデリカはそう言うと歩み出し、村を後にした。
3
小さな足音が後を付けて来るのは分かっていたが無視した。
隣村は荒れ果てていた。
草が伸び放題で手入れが行き届いていない。ここに住んでいるのは亡霊ぐらいだろう。
門番が気付いた。
「ここが邪竜の団のアジトだと知って来たのかい? 嬉しいね、さらった女はお楽しみの後、殺すのがうちの流儀でね。俺はそんな勿体無いことをするなと思うんだが、何が言いたいかと言うと……」
門番は不敵な目を輝かせ鞘から剣を抜いた。
「歓迎するってことだよ。少し年増でもな」
突き出された剣をフレデリカは小脇に抱えた。
「なっ!?」
「何だ、その遅い突きは。それに非力だ」
フレデリカは相手から剣を奪い取り、逆手に持ってその顔面を貫いた。
男の悲鳴が木霊し、遠くでカラスが飛び去った。相手は己の流す血溜まりの中で死を迎え、ただ痙攣しているだけであった。
フレデリカは両手持ちの剣を抜いて、荒れ放題の村の中を進んだ。
「まず一人」
傍らにサーディスの亡霊が現れてそう囁いた。
「かつて、お前と肩を並べた戦場を思い出せればな」
フレデリカは亡霊の師にそう言った。
傭兵どもは次々駆け付けて来た。
女だと喜び、斬られ、相手もフレデリカが油断できない相手だと悟ったらしい。
「仲間を殺されたとあっちゃあ、女でも容赦はしねぇ」
頭目と思われる男が言った。傭兵どもは体格は良い。その点でも頭目も代り映えはしなかった。ただ一人だけ兜をかぶっているぐらいしか手下との違いは無い。
「殺しちまえ!」
頭目が声を上げる。
「おおおおおっ!」
傭兵達が斬りかかって来る。
フレデリカは腰を落とし、一気に剣を薙いだ。
得物は圧し折れ、鎧は役に立たず、胴を寸断された死体が五つできた。
敵の傭兵達が瞠目する。
フレデリカは手近の一人へ歩んで行く。
「こ、この野郎!」
その正直過ぎる斬撃を避け、背後を見せた相手をそのまま剣で貫く。悲鳴が一つ上がった。
「徒党を組まねば何も出来ぬ臆病者ども。年貢の納め時だ。地獄がお前達を待っている」
フレデリカが言うと、敵の傭兵らは恐れ慄き、下がった。だが、そんな臆病者にも勇気はあったらしい。無謀とも言うが、一斉にかかって来たところを、フレデリカの剣が舐めるように喉を裂き、腹を割った。
首から吹き出る血を押さえて藻掻く者、鎧ごと腹を割られ、流れ出た自分の臓物を抱えて痛さと驚きに泣きながら身体の中に再び戻そうと躍起になっている者。ここはもうすぐ地獄へ行く者達が悶える阿鼻叫喚の地だった。
サーディスが微笑んだ。
フレデリカは笑わなかった。
残された頭目は槍を手にして突き掛かって来た。
フレデリカは剣で受け止め、力任せに押さえつける。
頭目の顔が歪む。フレデリカは剣を素早く振り上げた。
頭目の兜が吹き飛び、二つに割れた。
「あ、あああ……」
頭目が亡者のような声を出し槍を落とす。その顔もまた奇麗に縦に割れて脳漿と血を巻き散らして崩れ落ちた。
「何だ、手応えの無い連中だったな」
サーディスが腕組みし呆れたように言った。
4
フレデリカが持ち帰ったものを見て、門番は度肝を抜かれたような声を上げた。
「そ、それはまさか」
「頭目の首だ。邪竜は一匹残らず排除した。明日、私がこの村を去ったら人々にそう伝えて欲しい」
門が開き、フレデリカは布で来るんだ血の滴るそれを門番に押し付けた。
相変わらずの視線を受けつつ宿に戻ると、扉を叩く者がいた。
「開いているぞ」
フレデリカはベッドに座りつつ扉を叩いた主が現れるのを待っていた。
遠慮がちに開かれた扉の前には、カイが立っていた。両手持ちの剣の切っ先を下げて。
「お、俺、見た。おばさんは、正義の傭兵だ」
「正義か」
フレデリカは応じた。昔を思い出す。騎士時代は、「正義」のために戦った。だが、故郷を出れば分かる。正義は一つで無いことを、正義などは数多にそこいら中に落ちていて、様々な人々がそれを拾い上げ、正義のために! と、のたまい戦う。正義程、安くて便利なものは無い。
「俺を弟子にしてくれ!」
カイが部屋に飛び込むとフレデリカの前で声を上げて懇願した。
「どうするんだ?」
反対側の壁に背を預けたサーディスが興味深げに尋ねてくる。
「カイだったな。私の全てを教える。その上で、正義を探すのだな」
「は、はい! おばさ……いえ、師匠!」
こうして新たに旅立ったフレデリカの隣には一つの小さな影があった。
フレデリカが少年を鍛えるためにいざなう旅は続く。
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