第306話 お兄ちゃん、城を脱出する
「ママ、もう大丈夫だよ」
戦闘が始まってから、再び苦痛に顔を歪めていたアシュレイだったが、その痛みにも慣れてしまったのか、わずかに笑みを見せる。
メランが出て行ったから2時間ほど。
状況はわからないが、アシュレイの苦痛が一向に収まらないところを見ると、戦いはまだ続いているらしい。
視線を向けると、コリックは部屋の扉の前で瞳を閉じていた。
昨日の疲れから寝てしまったのだろうか。
いや、彼の事だ。単純に目を閉じてるだけかもしれないし……。
何にせよ。女神に言われた5日目の朝がついにやってきたのだ。
もう僕も行動に移っても良い頃合だろう。
そして、メランがいない今こそ、脱出のチャンスでもある。
「ママ?」
突然立ち上がった自分に疑問の声を上げるアシュレイ。
僕は彼の唇を指でふさぐと、ゆっくりとその手を取って立たせた。
(この城から逃げましょう。アシュレイ)
耳もとでそう伝えると、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたアシュレイは、コクリと頷いた。
簡単に逃げられるとは思わないが、今はメランも戦いに気を取られているはずだ。
その上、魔物も森の中にはいなくなっているだろうし、このタイミングであれば、あるいは……。
抜き足差し足で、扉とは逆の窓側へと歩いていく僕とアシュレイ。
窓から見下ろせば、直下には森の木々が生えている。
木の高さを考慮すると、窓から地面までは20メートルほどはあるだろう。
紅の魔力での強化無しで、無事に着地できるか……?
「止めておけ」
「あっ……」
背後から声をかけられ、慌てて振り向くと、見慣れた鉄仮面が僕を見下ろしていた。
「コリック……」
「魔力を使えないお前では、この高さからの落下には耐えられない。怪我をしても、白の魔力で治すこともできんぞ」
「べ、別に逃げようと思ったわけでは……」
なんとか誤魔化そうとする僕の腕をコリックが掴んだ。
何かされる!? と思った、次の瞬間には、すでにカチリという音と共に、鍵の外れた腕輪が床へと転がっていた。
「え、な、何を……」
「セレーネ・ファンネル様」
改まった態度で、僕の名を呼ぶコリック。
片膝をついた彼は、首を垂れる。
「これまで数々のご無礼、たいへん申し訳ありませんでした」
「えっ、えっ……!?」
突然のコリックの変わりように、理解が追い付かない。
なんだ。彼は僕をからかっているのか……?
「メランの目を誤魔化すため、これまであなたには酷い態度を取ってしまいました」
「コリック、あなたはまさか……」
「今の私は、黒の使者コリック。ですが、それ以前の名を私はもう思い出しています」
やはり、だ。
彼はすでに、メランによって黒に染められる前の自分の事をはっきりと思い出している。
「あなたのおかげで、私は本来の自分自身の記憶を取り戻すことができました」
「私の?」
「はい、あなたの魔力で白への耐性をつけようとした時から、少しずつ」
となると、かなり前から、すでに彼は本来の自分を取り戻していた、ということになる。
それでも、ずっと操られている振りを続けてきたのは、ひとえにメランを油断させるため。
今、その事を明かすということは、すなわち……。
「おそらくですが、レオンハルト殿下達が、この城に向かってきています」
「えっ?」
「彼らと共に、この黒の領域からお逃げ下さい。アシュレイ様を連れて」
視線をアシュレイへと向けたコリックはわずかに目を細めた。
「メランは、アシュレイ様をかつての黒の王の依り代にするつもりです」
「依り代?」
「黒の大樹に遺された、かつての黒の王の悪意をアシュレイ様へと宿すつもりなのです」
「それは……」
つまるところ、アシュレイの人格に、かつての黒の王を上書きするということ。
そうなれば、今のアシュレイの人格がどうなってしまうかは、想像するまでもない。
「そうか。ですから、メランは……」
「アシュレイ様が真っ当に育とうが、育つまいが、メランにとっては関係が無かったということです。彼が欲していたのは、アシュレイ様の肉体だけ」
その時だった。
──ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ。
唸るような声が聞こえた。
「この音は、あの晩の……」
「どうやら、アシュレイ様が十分に成長したことで、黒の大樹がその肉体を求めているようです」
コリックがそう言い切るか言い切らないかのタイミングで、バタンと部屋の扉が開いた。
そこから現れたのは、まるで触手のように蠢く、黒の大樹の枝だ。
幾重に重なるようになったそれらが、成熟したアシュレイを肉体を求めて迫って来る。
「手を!!」
鋭い一声に応じて、コリックの手を取る。
すると、一瞬の浮遊感と共に、目の前には暗い森が広がっていた。
背後を振り返れば、2カ月を過ごした黒の王城が目に入る。
ほんの短い期間だが、アシュレイとの思い出の詰まったその城は今、低い唸り声を上げながら、至るところに伸びた枝や根が蠢いていた。
「このまま真っすぐに森を進んで下さい。私は、ここで少しでも大樹の暴走を食い止めます」
「貴方も一緒にはいけないのですか?」
「私にはまだここでやるべきことがあります」
背中を向け、蠢く大樹を真っすぐと見つめるコリック。
それを見た僕は、わずかな逡巡を振り払いつつも頷いた。
「……わかりましたわ」
コリックが何者なのか。
それを聞く時間さえ無いのが悔やまれるが、ここに留まっていても、アシュレイが危険に晒されるだけだ。
とにかく今は、アシュレイと共に、なんとしても黒の領域を脱出する。
「アシュレイ、行きましょう」
「はい、ママ」
手を取ると、一緒に駆け出す姿勢を取るアシュレイ。
だが、すぐにその足が止まった。
「アシュレイ?」
「コリックさん……いえ、パパ」
より親しみを込めた呼び方へと改めた彼は、礼儀正しく腰を90度に折った。
「これまで、僕の父親代わりを務めてくれて、ありがとうございました」
「……ああ、アシュレイ」
様付けをせずに、背中越しに、一度だけその名を呼んだコリック。
それだけで、アシュレイはなんだか満足したように頭を上げた。
「また、必ず」
それだけ告げると、アシュレイは僕の方へと力強い視線を向けた。
そんな彼の視線を受けて、僕もコクリと頷く。
恐ろしい場所ではあったけど、2カ月もの間、アシュレイと過ごした黒の王城。
たくさんの思い出の詰まったその場所に背を向けると、振り返ることもせず、僕は必死にレオンハルト達の元へと駆け出したのだった。
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